「今日も、よい天気ね、加賀さん」
そう言って赤城はかすかに笑った。
快晴ではない。雲がうすく太陽にかかっている。過ごしやすい気温と言える。それもふくめて、赤城はよい天気だと言ったのだろう。
加賀は黙ってうなずいた。
赤城は鎮守府にいる大半の時間を、ぼんやりと雲をながめて過ごしている。
それはほんとうにぼんやりとしか言いようのない気の抜けようで、だから加賀は、初めて赤城と会った時――いや、当世にみょうなかたちで再会した時、この人はこんなありさまでほんとうに戦えるのか、不安になった。もっと言えば、
――これがほんとうに、あの、赤城、か。
と失望したのである。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。海に出れば、あの人は、別人よ。心配ないって」
ある夜、加賀たち新入りの歓迎会と称した酒の席で、やはり赤城とおなじくらい日中ぼんやりと時間を潰している蒼龍に、加賀は自分の不安と失望を大いに笑われた。
赤城はこの酒宴に参加していないようで、加賀は彼女の姿を見つけられなかった。
「演習では、そうは見えなかったけれど、……」
と加賀は言った。さすがにそれなりに気は入っているが、ぼんやりしていることに違いはなかった。あの程度では別人とは言いがたい。
「そりゃねえ、あれはホンチャンと違うからねえ」
蒼龍は酔っぱらって赤くなった顔でにたにたと笑った。
本番と同じようにやらなければ、演習の意味がないのではないか。加賀はすこしむっとしながら反論した。
「そうねえ、そうかもねえ」
気の抜けた声とあくびで返された。
「でもさ、せっかく会えたんだから、文句はよしなよ。ああ、わたしも早く飛龍に会いたいなア」
どんな子かな、加賀さんみたいなツンツンした子でないといいな、ええっ、あなたが蒼龍なの、がっかりだわ、なんて言われたらいやだもの、そう言った蒼龍はすでに半ば眠っていて、言葉の半分も寝言だったかもしれない。
赤城はぼんやりと雲をながめていると言っても、一歩もそこから動かないわけではなく、ふらふらと歩きまわることもある。首をまわして、東の空、北の空、西の空、南の空と見わたしてゆく。
ゆったりと歩く赤城の背を、加賀は半歩ほどの距離をたもちつつ追った。
「こうしていると、加賀さんはまるで、わたしの小間使いね」
と赤城は立ちどまってふりむくと、加賀をからかった。
加賀はべつだん不快にはならなかった。が、
「わたしは、赤城さんのためにお茶を淹れたことがなければ、身辺の清掃をしたこともないのだから、それは小間使いではないでしょう」
とはっきり言い返せば、相手にはそう思われるだろう。
「ううん、そうね、ごめんなさい」
と赤城は謝った。
「いえ。……」
加賀はわずかにまなざしをさげた。
赤城は空を見あげた。
風のない空は雲のながれがおそい。
それは地上にいる者にとって不動の雲に見える。
赤城もその場から動かなくなった。
加賀は赤城の視界の外にいて、やはりそこから動かず、じっと土を見つめた。
毎日、赤城に頼まれたわけでもないのに彼女のそばにくっついて離れず、結局は加賀もぼんやりと一日を過ごしている。
弓の鍛錬なり艤装の手入れなりをしていたほうがよほど有意義だろうに、加賀は確たる理由があるわけでもなく、そうしなかった。ただ、なにか感傷的な未練が自分の胸にこびりついて、どうしてもそんな気になれなかったのだった。
加賀はすでに初陣をすませているが、その戦闘にあって赤城は留守をあずかった。海に出なかったのである。加賀の見えるところに彼女はその時いなかった。加賀はそれから何度か出撃したが、赤城はいつも留守役だった。
加賀の知る赤城は今も変わらず、ぼんやりと雲をながめている。
海に出れば別人になるという蒼龍の言葉が、加賀の頭から消えずのこっている。この赤城の豹変するさまの、はっきりとした画を、加賀はいまだに脳裡にえがくことができない。
見るがはやいが、加賀への出撃命令はこのところすっかり途絶えていた。もうながいこと演習以外で弓矢を手にしていない。
加賀はふと考えついた、――どうせ日がな一日土を見ているだけである、それを無駄にしないように、そろそろ土からなんらかを学ぶ姿勢になったほうが向後のためかもしれない、いつ弓を棄てて鋤を手にする日が来るともかぎらないからのだから、と。
それから加賀はこんなことも思った。
(この人は、空と雲から、なにかを学んでいるのかしら)
加賀はすぐに心中でかぶりをふった。
(まさか、ありえない)
空と雲から学ぶべきことはたくさんあるだろう。しかし、赤城の両目がしかとその意志をもって毎日空をあおいでいるとは、といてい思われない。自分のくだらない想像を否定した加賀は、知らず口もとをゆるめて笑っていた。
「あら、加賀さん、今笑ったのね。めずらしい――」
その声に気づいて土から目を離すと、赤城がふしぎそうにこちらを見ていた。
いくらかの日数をかさねて、また酒宴がひらかれた。
「ほんとうに、ほんとうに、今日は人生最良の日よ。ねえ、だって、こんなに嬉しいことは、今までなかったから!」
いきおいよく酒をあおった蒼龍は、飲むたびに笑い、笑うたびに飲み、そして大泣きに泣いて、最後には飛龍のひざの上でいびきをかいて眠ってしまった。
「がっかりした?」
加賀は飛龍に訊いた。
「えっ、なにに?」
加賀は蒼龍を指さした。
飛龍はゆるゆると首をふると、
「でも、人間の体ってふしぎ」
と言いながら、やわらかい手つきで蒼龍の涙の跡がのこる頬をなでた。
「昔だったらこんなの、大惨事なのに、こうやって触れることができるなんて」
そう言った飛龍のまなじりも涙をしずかにたたえていた。
ふたりのまっすぐな感動が、加賀にはすこし、うらやましかった。
加賀は飛龍に一言断わってから、席を離れ、赤城を探して、おもてに出た。
月の光で暗く蒼く染め抜かれた芝と松の木のはざまに、赤城はひとり立っていた。
「赤城さんは、お酒、苦手なの」
「にぎやかなところが苦手」
と赤城は答えた。
「それでひとりで月見を」
「いえ、雲を見ていたのよ」
ほら、と赤城は腕をあげて指さした。
「雲……ああ、叢雲ね」
加賀は赤城の指のしめす先を目で辿った。昼にもその雲はそこにあったと思う。それが月をうっすらとおおっている。
「あれが、そっくりそのまま、月にかかっていると、きっととてもきれいだと思ったのだけれど……」
「そう」
「でも、思っていたほどではなかったかな、って」
赤城はそう言って苦笑した。
「がっかりしたの」
加賀はついと赤城に視線をむけて、飛龍に訊いたのとおなじことを訊いた。
赤城は加賀の問いかけにおどろいたみたいで、まるく目をみひらいたが、やがて、
「そうね、がっかりしたかもしれない。うん、がっかりだったわ」
と、目はおだやかに、声はかろやかに笑った。
「お酒を取って来るわ。まだしばらく、ここにいるのでしょう」
と加賀が言うと、赤城はちょっと考えて、
「お言葉にあまえて、いただこうかしら。加賀さん、お願い」
と言って、松の木の下にゆったりと腰かけた。
加賀は一度飛龍のところに戻り、酒瓶と杯をかかえて、赤城のいる松の木にふたたびむかった。
赤城は眠っていたようである。加賀が呼びかけると、はっとして首をあげた。
加賀は赤城のとなりに腰をおろし、赤城に杯をさしだした。
「いけますか」
「いただきます」
と赤城は言った。
加賀は赤城の杯に酒をそそぎ、ついで自分の杯も満たした。
「赤城さんは、海に出ると別人におなりになるんですって」
と言って、加賀は唇を濡らした。
「あら、突然なんの話?」
「ぼんやりと雲をながめる目が、するどく敵を射抜く目になる、という話」
加賀は杯を持つ手の人さし指をのばして、赤城の目の前につきだした。
「蒼龍が以前、あなたのことをそう言っていた。でも、わたしはまだ、見たことがない。だから、とても信じられなくて」
赤城は首をひねって、
「彼女にはそう見えるのかしら。わたしは、そういうの、自分ではわからないわ」
と言った。眉のあたりに困惑の色がうかんでいる。
――嘘のない人だ。
あるいは飾りのない人だと加賀は思った。蒼龍や飛龍とは種類の違う心の素直さが赤城にはあるようだった。
正直だけがとりえの人物に敬意をいだく精神を加賀はもっていない。
加賀の胸の底には、相変わらず赤城へのどうしようもない失望がある。
月光に青く照らされた赤城の酔眼が加賀の横顔をじっと見ている。
視線を感じながら、しかし加賀はそれを無視して、数度酒を口に含んだ。
すんと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「冷たい人」
赤城は拗ねたように言った。
「水じゃあないわね。石とか鉄とか……そうそう、ごつごつした鉱物の冷たさ」
加賀は赤城のほうを見た。赤城は笑っているようだった。
(冷血で頑迷と言いたいのかしら)
だとしたらずいぶんと失礼な物言いだが、自分にそういう側面がまったくないとは言いきれない。加賀はなにも言い返さなかった。
赤城が加賀の肩に寄りかかってきた。
「ひんやりして、きもちいいわ」
酒でほてった体に、加賀の低体温がここちよかったらしい。
加賀は酒には酔えない。体も頭も。そういう体質なのだろうとなかば諦めている。
赤城がまた眠りそうになったので、加賀は今にも落としそうな杯を赤城からとりあげ、ついで赤城の体を抱え起こした。
「部屋に戻って休みましょう」
と加賀が言っても、赤城は生返事をするばかりだった。舌の呂律はまわっていない。足もとはふらふらとあぶなっかしい。
加賀は赤城を引き摺り、ふたりが共同でつかっている自室に向かった。
布団を敷いて、そこに赤城を寝かせて、服を寛がせた。
「加賀さん」
とかすれた声で名を呼ばれた。かすかに指をうごかして手招きしている。ぼそぼそとなにかしゃべっているようだったが、加賀にはよく聞こえない。
赤城の口もとに耳を近づけて、
「水、いりますか。それとも――」
赤城は、とん、と加賀のひたいを指で押した。
「昔は、ここを天と言ったそうよ。空ではなく、ここを……」
赤城は指をはなした。
それからほどなくして、ちいさな寝息が夜の部屋のしじまを満たした。
加賀は自分のひたいを指でさすった。
(なんの話なのやら)
酔いが言わせた与太話か、それともそういう伝説がほんとうにあるのか。……加賀は深く考えるのをやめて、寝間着に着がえ、自分も布団にもぐって眠りについた。
戦線は南下をつづけている。終わりの見えない化物退治にあって、環太平洋を結ぶといういちおうの目標を、掲げて、到達点を設定することで、艦隊は兵気の充実を図っていた。
ずいぶんと待たされた末に、加賀はようやく赤城と同じ部隊に編成され、出立することになった。
なるほど、蒼龍の言ったことは間違いではなかった。
戦場での赤城は普段とはまるで別人だった。
からくり人形のように、誰かが操作したみたいに、かちりと面が裏返った。
大声を発して部隊を鼓舞し、弓弦を鳴らして敵を沈めた。
機動部隊をリーダーとしては、まずくない指揮振りと言えた。
ただし、舌を巻くほど感心するようなものではなく、かぎりなく低かった加賀の赤城への評価が、ようやく普通になった程度だった。それから蒼龍の赤城評には、ひとつ、大きな誤りがあると加賀は思った。
赤城の目は敵をするどく射抜く目にはなっていなかった。かといって雲をぼんやりながめる目のままでいるわけでもなかった。その目は必死に、なにかを探していた。それはどう考えても敵ではなかった。敵ではないなにかを赤城は海で探していた。
帰投すると、赤城は、興奮した顔を加賀に向けて、息をととのえながら、
「加賀さん、どう、わたしは、なにか違ったかしら」
と訊いてきた。
「豹変した、としか言いようがないほど――」
赤城は目をしばたたかせ、
「そう、かなあ……、うーん、いつもあんな感じだと思うのだけれど……」
と言って、しきりに首をかしげた。
月が沈み日が昇る。
それを倦むことなく繰り返し、歳月が流れる。
加賀の視界に三つの人影がある。
飛龍が熱心に妹分の雲龍に弓を教えている。が、雲龍には雲龍のやり方があるらしく、また彼女は飛龍に似てのんびり屋なところがあって、飛龍による教育はうまくすすんでいないようだった。すこし離れたところで蒼龍がそれを見物している。時々なにか言葉をかけているようだった。
大規模な作戦を成功させた、そのあとの、特有の気の緩みと言えなくもないが、らしくもなくぴりぴりと神経をとがらせていた飛龍と蒼龍が、もとののんきなふたりに戻っただけとも言える。
ついと視線を移動させると、赤城がいつもどおり、ぼんやりと空をながめていた。
天気はというと曇りがちで、少々肌寒かった。
「ねえ、見て、加賀さん、あの雲は、まるで天守のようね」
と赤城が指さした先には、厚く積み重なった雲が、ちからづよい輪郭と存在感を放っていた。
「雲の城、ですか」
加賀はなんとはなしに言った。
赤城は嬉しげに笑うと、
「そうよ、そう。そうなの。あれは天空のお城ね」
と言って、童女のようにはしゃいだ。
その顔は笑っていながら、加賀には泣き顔に見えた。どうしようもない嘆きと失望がそこにはあるような気がしたのだ。
(この人も、なにかに失望し、なにかを諦め、なにも諦められないでいる)
と加賀は思った。それがなにによってもたらされているのか、加賀にはわからない。が、どうせ、そのうちいやでも思い知らされることになる。そういう予感だけは漠然としてあった。
加賀は赤城から視線をはずし、ふたたび飛龍たちのほうに向けた。
今は飛龍の手に守られ導かれている雲龍の若い手は、やがて別の誰かを守り導く手になるだろう。いや、そうならなくては、いけないのだ。
その、誰か、の名を、加賀はまだ知らない。
了