その手にあったのは、銀色のボディのコンパクトカメラだった。
「加古がね、誕生日にって、くれたんだ」
きらきらと光るカメラをなでながら、うれしそうに話す古鷹の横顔を、青葉はまぶしげに見た。じっさい青葉はまぶしかった。日没がまぢかで、日射しもつよかった。窓の外はすっかり秋の暮色に染まっていた。
古鷹の言う誕生日とは、かつての起工日のことだろう。新型のカメラであるし、加古からそれを贈られたのはごく最近だろう。古鷹にかかわりのある日で、誕生日に仕立てあげるとすれば、もっとも近いのは起工日である。今の自分たちがどこでどう生まれたのかわからない以上、出生日は古昔にもとめるしかない。
それにしても、なぜカメラなのだろうか。青葉の知るかぎり、古鷹が写真を趣味にしたことはない。古鷹が熱中しているのは観賞魚の世話であり、青葉が撮ったその魚の写真を喜んでくれたことはあったが、写真自体に興味をもったようすはなかった。加古はああみえて、ぞんがいこまかな気遣いをする。古鷹の欲しがっていないものをあえておしつけるような性格ではない。
青葉は内心首をかしげながら、――へえ、それはよかったですね、それならどうでしょう、今度一緒にどこかへ撮りにいきませんか、とさっそく古鷹をさそった。
古鷹がうなずくのを見て、青葉はやたらにうれしくなった。釈然としない気持ちはどこかに消えていった。どうでもよくなったと言ってよい。青葉は写真が好きである。同好の友人が増えるなら、それに越したことはないのだ。
「なにから撮ればいいかな。初心者向けの、撮りやすい題材があればいいんだけれど」
「撮りたいものを撮るのが、いいと思います」
と青葉はきっぱり言った。まずは好きなものを好きに撮って写真のたのしさを知ることだ、技術はあとで考えればいい、と青葉は思っている。
そのあとも、二、三、写真について質問され、それに助言し、青葉は古鷹と別れ、部屋にもどった。
衣笠がベッドの上に寝転がって雑誌を読んでいた。
青葉はさっきのことを衣笠に話してみた。へえ、とか、ふうん、とか、てきとうなあいづちを打たれた。雑誌を読んでいるのかいないのか、まったくこちらに顔をむけてこない。
――おや。
衣笠らしくないと青葉は思った。よく見るとしきりにまばたきをし、目をこすっている。眠いのだろうか。だとしたらこれ以上つきあわせるのはもうしわけない。青葉が会話をきりあげようとした時、
「写真っておもしろいの?」
と訊かれた。
「おもしろいですよ。衣笠もどうですか、たまには撮るほうになってみては」
青葉はよく衣笠に写真のモデルをやってもらっている。
「考えとく」
衣笠は眠たげにあくびをした。
青葉は壁掛時計を見た。夕飯にはまだすこし時間がある。自分も仮眠をとろうかと思い、カーテンを閉めた。
室内がさっと暗くなった。
それに気づいた衣笠が、
「あおばー」
と、やはり眠気をおびた声で名を呼んだ。
「はい、はい、なんですか」
「ねるのー?」
「はい、寝ます。眠いので」
と言ったが、べつに眠くはなかった。ただ、なんとなく衣笠のあくびを聞いて、仮眠をとってみたくなっただけである。それで眠れるかどうかはわからなかった。
「じゃ、衣笠さんが添い寝してあげよっかなー」
衣笠の顔はもう見えない。どんな表情をつくっているのか。きっと笑っているのだろう。青葉も声をたてずに笑った。
「お言葉にあまえまして」
青葉は自分のベッドにはいかないで、衣笠のとなりに体を横たわらせた。ふたり分の体重をうけて、ベッドがしずむ。
「衣笠さん、さいっこうでしょー」
「ええ、自慢の妹です」
ふきだしそうになるをこらえて、青葉は目をつむった。
目をさますとすっかり夜だった。
体を起こした青葉は、たばねたままの後ろ髪を指でかいた。
(しまったなア。目ざましをかけておくんだった)
と悔やんだところで遅い。食堂はとうに終わっているだろう。
「衣笠、衣笠」
青葉は衣笠の体をゆすった。
身じろぎした衣笠は、青葉の手を肘でふりはらうようなしぐさをしたが、それがまったく暗闇に融けているのを感じて、目をひらき、
「あっ」
と叫んだ。起きあがって、天井をあおぎ、ああ、とちいさくうめいた。それから頭と肩をがくりと落とすと、溜息を吐いた。
「なにか、ある?」
と衣笠は青葉に訊いた。なにか、とは食べる物と飲む物である。
「なにも」
青葉は首をふった。ベッドをはなれて、部屋のあかりをつけた。
「あらら、外出時間もすぎてるし……」
衣笠は時計を見てまた溜息を吐いた。夜間外出はあらかじめ届出をしておかなくてはいけない。その受付時間もすでに終わっている。
「すきっ腹でまた寝るのもつらいですし、ちょっと食料を無心してきます」
「まって、まって、わたしもいく」
手櫛で髪をととのえながら衣笠もついてきた。
部屋を出る直前、机の上に置いていたカメラが目にはいった。つやのない黒い一眼レフ。青葉の手が伸びた。ストラップに指がひっかかったところで、思いとどまった。持っていって、なにをするというのか。
「あれ、カメラ、持っていかないんだ」
と衣笠が言った。
青葉は答えなかった。ただ笑っただけだった。
「まあ、ごはんおすそわけしてもらうのに、カメラ持ってたら失礼だよね、うん」
衣笠はかってに納得した。
廊下に出る。ひとの気配をあまり感じない。時間帯を考えると風呂だろうか。
「だれか、あてはあるの」
「あて、なら空母さん方のいる棟がてっとりばやいですかね」
青葉はとぼけた。
衣笠に頭をこづかれた。
「もうっ」
「ごめん、冗談です。とりあえず古鷹さん――いちばん怒られなさそうなところにいきましょうか」
「そうねえ」
無難な選択に衣笠もうなずいた。
「加古はおやつためこんでそうだし、期待できるかもね」
「とったら怒られますね、それは」
「どうせ寝てるでしょ、加古だもの」
「いえ、古鷹さんに怒られる……」
「……それは怖いかも」
衣笠は苦笑いをうかべたが、すぐに表情をあらため、
「ま、でも、いけるでしょ。うん、いける、いける――」
と言って、頭の上で拳をふりまわした。
「楽観的ですねえ」
青葉はなかば呆れながら、苦笑し、そして衣笠の楽観に身をひたした。
目的の部屋に到着した。
はたして加古は眠っていた。
古鷹はベッドの前に椅子を持ってきて、そこに座り、その加古の寝姿を撮っているようだった。ただし、ファインダーからずいぶんと目をはなしている。
古鷹がシャッターボタンを押すたびに、カチ、カチ、とかすかな音が鳴った。
「カメラの音ってもっとうるさくなかったっけ」
衣笠が声をひそめて言った。
「電池いれてないから」
「写真、撮ってるんじゃないの?」
衣笠はいぶかしげな視線をカメラに落とした。
古鷹はゆるゆると首をふった。
「加古が起きちゃうかもしれないから。でも、写真を撮る感覚はつかんでおきたくて、とりあえず押してる」
「あいかわらずねえ」
衣笠は呆れたのだろうか、口ぶりには多少冷えがあった。加古がその程度で起きるはずがないと衣笠は思っているのだろう。衣笠は青葉に眠っているところを何度も撮られているが、それで目をさましたことは一度もない。ましてや加古である、たとえフラッシュをつかわれても、いびきをかいて眠りつづけるに違いない。
「わたしたちも、眠っちゃって、お夕飯、食べそこなったんです。なにか分けてもらえるものは、ありませんか」
と青葉は本題をきりだした。
「あっ、それは――」
古鷹はベッドのわきにカメラを置いて、椅子から立った。
「加古が買いためていたお菓子があったと思う。どこにおいてたかな……」
そう言って古鷹は部屋を物色しはじめた。
「いいんですか」
「うん、いいよ。加古にはわたしから言っておくから」
と古鷹はあっさり言った。
衣笠が肘で青葉の二の腕をついた。そちらのほうに目をうつすと、
――ほら、ね。
と言わんばかりに、にやりと笑っていた。
「あった」
と古鷹の声があがった。
「これ、足りるかな。日付はたぶん、まだいけると思うけれど」
賞味期限が昨日の午後になっている四個入りのミニあんパンだった。
「はい、じゅうぶんです。どうも、お手数かけまして」
青葉は礼を言った。あんパンは衣笠がうやうやしくうけとった。
天気のよい日に、青葉は古鷹をさそって遠出した。
もともと軍規などあってないようなものだが、戦場記者を兼任している青葉は、なかでもとりわけ行動の自由をゆるされていた。その特権をつかったのである。
衣笠と加古もついてきた。
四人で小山に登った。地元民にはちょっと名の知れた観光スポットである。頂上に休憩所がある。東屋で弁当を食べている家族づれがいた。キャッチボールやバレーボールをしているこどもたちの姿もあった。平日だが、ほどほどににぎわっている。
「疲れたア」
そう言った加古は、古鷹がひろげたシートの上にばたりと倒れて、そのまま寝入ってしまった。
「撮りますか。ぜったいに起きませんよ」
と青葉は加古を指さして言った。
「ううん、やめておく」
古鷹はことわった。どうしても撮りたくないらしい。
「青葉、ねえ、ほら、海、見えるよ。ビーチ。今は閉鎖されてるけど、泳ぎたいよね。あそこ、砂がさらさらしてて、きれいなんだって」
衣笠は風になびく髪をおさえた。彼女たちにとって海とは港か沖の海である。遊泳のための海を知らない。砂浜は幻想と言ってよい。が、ここから見ると、その幻想は手を伸ばせばすぐに掴めるものに思えた。
「そうですねえ」
と青葉は同意したものの、泳ぎたいと思ったわけではなく、あそこまでいって、写真を撮りたいと思ったのである。
やにわに古鷹がカメラを構えた。
「海、撮るんですか」
「うん」
古鷹はファインダーに目を近づけた。一、二歩、足をすすめて、とまった。重いシャッター音がした。
古鷹は眉をひそめながらカメラをひっくりかえし、まじまじとレンズを見た。ちゃんと撮れているのか不安なのだろう。またカメラを持ち上げ、今度は連続でシャッターを切った。
青葉の視界のはしに、生白い腕が見えた。
パシャリ、とかわいた電子音がした。
はっとして青葉はそちらにふりむいた。
いつのまにか、衣笠は携帯電話をとりだし、内蔵されている写真機能で、まんまと古鷹をうつしとめた。
風景を撮っていた古鷹は、自分が撮られていることを知って、わっ、と驚き、気恥ずかしそうにカメラをおろした。衣笠はそれも写真におさめた。古鷹はますます顔を赤くした。衣笠はけらけらと気持ちよさげに笑っている。
(なかなか、すみにおけない)
青葉は衣笠に感心しつつ、なんとなく悔しくなった。
「青葉はなにか撮らないの」
と衣笠が携帯電話をしまいながら言った。
「もう撮りましたよ」
と青葉は言った。
「うそ、いつのまに」
「うそです。まだなにも撮っていません。でも、今日はもう撮らなくていいかな」
「青葉ったら!」
衣笠は口をとがらせて、青葉の背を平手でたたいた。
青葉はふっと笑った。もともと古鷹を撮るつもりでここにきたのではない。それでも衣笠が古鷹を撮った時、青葉は妹に出し抜かれた気分になった。が、今から古鷹を撮っても、衣笠よりよい写真を撮れるはとうてい思えなかった。この日における、古鷹の被写体としてもっとも輝ける瞬間は、すでに終わった。勝負しているわけではないが、そう思うととたんに撮る気が失せた。
あたりを見わたせば、被写体になりそうなものはそこらじゅうにある。しかし青葉はそれらに惹かれる心を感じなかった。
古鷹は気をもちなおしたのか、また景色を撮っている。時々こどもに話しかけて写真を撮らせてもらっていた。被写体をさがして移動する足どりが、いつになくかろやかである。
加古が古鷹にカメラを贈った理由は、青葉にはわからない。古鷹がねだったのかもしれない。古鷹はなぜ写真を撮る気になったのだろう。それも青葉にはわからない。一時はどうでもよいと切り捨て、忘れていた疑問が、またふつふつとわきあがってきた。
「青葉、なんかむずかしいこと考えてるでしょ」
と衣笠が指でほおをつついてきた。
それを手ではらいのけた青葉はあいまいにうなずいた。
「青葉が考えてるむずかしいことは、だいたいは、すごくどうでもよくって、すごくつまんないことなんだから、ちゃっちゃと忘れちゃいなよ。ほんと、どうでもいいことで頭こねくりまわすんだから。ふだんは全然そんなことないのにね。古鷹が絡むとさ、むだにシリアスはいるよね、青葉って」
衣笠はかなり失礼なことを言った。
青葉はさすがにむっとした。いくらなんでも、そこまで言われるすじあいはない。青葉は怒りをこめて、視線で衣笠を刺した。それをひらりとかわして、
「やさしい衣笠さんから、お姉ちゃんにアドバイスです」
と衣笠は人さし指をたてた。
「青葉は写真好きだよね」
「好きですよ。それが、なんです」
「カメラ持ってる時はたのしそうにしてる。仕事のやつは、まあ、おいといて」
衣笠は青葉の鼻先を指で押した。青葉は黙って聞いている。
「たのしそうだよ、じっさいたのしいんだよね。わたしがモデルのOK出すの、青葉がたのしそうだから、それを見たいっていうのがある。深い意味なんてないよ、たのしそうな顔見たら、こっちだってわるい気はしないし、そんなにたのしいなら自分もやってみようかな、ってちょっとは思う。ちょっとね。上等なカメラ買ってまでやろうとは思わないけど」
上等でないカメラとは、携帯電話の写真機能のことだろう。
「写真たのしそう。自分もやってみたい。妹に言った。誕生日プレゼントがカメラだった――以上です」
衣笠は言葉をしめくくった。
「言いたいことはわかります。わかりたくありませんが」
青葉は正直に言った。
「そこが、青葉のだめなとこだよねえ」
衣笠は笑ったが、その声に呆れや侮りの色はなかった。青葉はむしろ衣笠の愛情を感じた。
帰り際に、青葉は一度だけカメラを構えた。小山に沿って滑空する鳥を見つけ、とっさに撮ったのだった。
あとで現像してみると、それは鳶だった。大きく羽をひろげている鳶がうつしとめられていた。ただ鳶のシルエットは小さく、空間が広い。鳶は点のようなものだった。狙って撮ったわけではないから、仕方のないことだとそこは諦められた。が、青葉はべつのところで、自分の写真がわからなくなった。
ただ鳥がいると思って撮った写真だったが、もしかしたら、
――鷹だ。
と思い、反射的にシャッターボタンを押したのかもしれない。
衣笠は図書館のパソコンをつかって、小山で撮った写真をプリントアウトした。
ふたりで古鷹と加古の部屋にゆき、机の上に写真を並べて見せあった。古鷹の撮った写真はピントがずれていたり、手ぶれをおこしていたり、指がうつりこんでいたりしていたが、
「いい写真ですね」
と青葉は素直な感想を言った。
「そうかな」
お世辞を言われたと思ったのだろう。古鷹は力なく笑った。
「あれ? けっきょく撮ったんだ?」
衣笠が一枚の写真を指さした。
「げっ」
と加古が頓狂な声をあげた。
指さされた先にあった写真にうつっていたのは、加古の寝姿だった。あの小山で、シートで眠っていた加古だった。
「撮らないって言ったのにい」
加古は古鷹を睨んだ。
「約束したじゃんか」
「ごめん、撮っちゃった、つい」
古鷹は笑いながら、両手をあわせて加古に謝った。本気で謝っているふうではなかった。加古も本気で怒っているわけではなく、ふたりのあいだにはどこかなごやかな空気があった。
青葉はほっとした。古鷹はあの日、写真をたのしんでいたと、その表情から見てとれた気がしたのである。あるいはその一枚だけがたのしかったのかもしれないが、青葉はそれでも安心した。
衣笠は海の写真を気にいったようで、うっとりとした目で、とおい海の写真をながめている。いや、砂浜、と言ったほうが正しいだろうか。
青葉は一枚の写真を指で押さえ、自分のもとにひきよせた。
衣笠が撮った写真である。カメラを構える古鷹がうつっている。顔は見えない。衣笠の他の写真にも目をやった。恥ずかしさに顔を赤らめている古鷹が何人もいた。
青葉はおかしくなって肩をふるわせて笑った。
「どうしたの、青葉」
きょとんとした古鷹と加古がこちらを見ている。
青葉は笑いがとまらない。むりやり咳をして、一呼吸いれた。
「や、衣笠に写真の先生をお願いしようかな、と思って」
「わたしに? なんで? えっ、ていうか、なんでそれで笑うの」
ビーチの写真を見ていた衣笠は、目をしばたたかせた。怒っていいのかどうか、とまどっている。
「衣笠の言うことは、いちいち正しい。だから先生です」
と青葉は悪びれずに言った。そのとおりだろう。カメラは現実にあるものを、あるがままにうつす。そんなあたりまえのことを、衣笠はできて、青葉はできない。カメラの構え方以前に心構えが違うのだ。青葉はそう説明した。
「なにそれ、わっかんない」
衣笠が言うと、
「へんなやつ」
加古も言った。それも正しいだろう。
古鷹と目があった。
「写真、また、一緒にいきませんか」
と青葉はさそった。
古鷹は顔をほころばせた。
「うん、今度は、海がいいな」
ふたりは同時に視線をうごかした。
窓の外を見る。
目もさめるような青色がうつっていた。
了