青葉の世界

 冬のつめたい風が音を立てて港にさかまいている。
「撮りたいものを見つけたら、そこの覗き窓に目をあてて、シャッターボタンを押すだけです」
 と言った青葉の声は、海風にさらわれそうだった。
 青葉から借りたカメラのずしりとした重みが、古鷹の両手のなかにある。
 撮りたいもの、と言われて、古鷹は、すぐとなりに立っている青葉を頭に思い浮かべた。実物と違い眉に濃い陰翳を落としているのは、どうしてだろう。古鷹はすこしふしぎに感じた。じっさいに青葉に目をやれば、彼女らしい快活な笑顔がある。
 港に停泊している船は少ない。海を見る視界はそれだけ開かれている。古鷹は視線をあげた。太陽は雲に隠れている。にぶい光が港にふりそそいでいる。海鳥がまばらに飛んでいる。
 猫が足もとをよこぎった。
 はっとした古鷹はカメラを構えてシャッターボタンを押した。ファインダーにはコンクリートがうつっていた。
 一度カメラをおろしてから一呼吸して、古鷹は走り去ってゆく猫のうしろ姿を撮った。
 古鷹は溜息を吐いた。うしろ姿だけではいかにもあじけない。それよりも猫がよこぎった時の一瞬の驚きをカメラにおさめたかった。
 古鷹がそう言うと、
「いい友人がもてそうです」
 青葉はほのかに笑った。青葉は身近に写真仲間がいないことを時々嘆いていた。
 が、古鷹は困った。本格的に写真を始める気は古鷹にはない。写真を撮っている時の青葉があまりに楽しそうで、青葉が覗いているあの小さな窓に、いったいなにがうつっているのか、興味がわいた。それだけなのである。そのことも青葉に話すと、
「青葉は、すでにいい友人をもっているようです」
 と言ってまた笑った。すこし残念そうだった。
 古鷹は青葉にカメラを返した。もうしわけない気持ちでいっぱいになった。気まぐれで友人の大切なカメラを借りるものではないと思った。
「寒いですね。もどってコーヒーでも飲みましょう」
 と青葉は言った。
「お砂糖いくつでしたっけ」
 古鷹は無言で指を二本立ててから、その手に息をふきかけた。
 兵舎にもどる途中で青葉が地面を撮った。
 古鷹はいぶかしげに青葉の顔を覗きこんだ。
「なにを撮ったの」
「石です」
「えっ、石?」
 古鷹は首をまわして、今通りすぎた路に目を落とした。そこかしこに小石が転がっている。ただの石である。河原にあるような色のきれいなものでもない。
「どうして――」
 そんなものを、と言いかけて、古鷹はあわてて言葉を呑み込んだ。
「さあ、わかりません」
 青葉はあっさり言った。それだけでは足りないと思ったのか、
「現像すればわかるかもしれないし、わからないままかもしれない。撮りたくなったから、撮っただけなので、理由は自分でもちょっと」
 と付け加えた。
 古鷹はすんと鼻を鳴らした。青葉は古鷹をからかっているわけではないらしい。
「むずかしいね。むずかしく考えてはいけないのかな、写真は」
 と古鷹は言った。
 青葉は首を振った。
「なにも考えないで撮れば、路傍の石は、本当に、ただの石ころにしかならないので……」
 言ってから青葉はううんとうなった。どう説明したものですかね、と苦笑いをうかべた。
「石ころをただの石ころでなくすのが、写真なの?」
「写真だけではなくて、そうですね、絵ならどうでしょう。画家が、そのへんに転がっている石を描いて、額におさめて、飾るんです」
 古鷹の胸にすとんと落ちてくるものがあった。この喩えは古鷹にはわかりやすかった。が、ひとつ疑問がある。
「ああ、それならわかる。でも、絵と違って写真は実物をそのままうつすよね。写真でどうやって、石をただの石じゃなくすの?」
 と言ってから、
「あ、いや、やっぱりいい」
 と古鷹は問いをとりさげた。別のところにいる自分が、
 ――見たままものを描くなら、写真に撮ればいい。写真のほうが正確なのだから。
 と言っているような気がしたのである。が、写実的な絵は写真に及ばない、ということはないだろう。路傍の石の写真にも同じことが言えるのではないか。
「現像したら、わたしにも見せて」
 と古鷹は頼んだ。
「もちろんです。古鷹さんが撮った写真もフィルムにありますしね」
 ふたりは歩きながら話している。
 あいかわらず風がふいている。びょうびょうと大きな音を鳴らしている。この風は写真には撮れないだろうか。古鷹は言った。
「草や枝葉を撮れば、そこに風の跡が残ります。ほかにも色々と、方法はあります」
「そうか、たしかに、そうだね」
 古鷹は風になびく自分の髪をおさえた。写真にすれば、これも風の痕跡としてうつしとめられるはずである。
 屋内に入る直前に、青葉は兵舎に背を向け、何度かシャッターを切った。
 青葉のとなりに立って、古鷹は同じ方向を見た。青葉がなにを見て、なにを思い、なにを撮ったのか、古鷹にはわからない。古鷹は目はファインダーではない。青葉の世界は古鷹には見えない。
 ――青葉のカメラ。
 ほんのわずかな時間、古鷹はその世界を覗き見た。そこにあったものがなんであったかは、自分でもわからない。猫かもしれないし、コンクリートかもしれない。そのどちらでもないかもしれない。
 もう一度カメラを手にしたい、と古鷹は思った。青葉のカメラでなくてもいい、ファインダーを覗いてみたくなった。そこにうつる石を、あるいは風を、見たくなった。
「青葉――」
 また写真を撮りたい、と言いかけた古鷹の口のなかに、風にはこばれてきた草がはいった。
 古鷹は草を吐き出した。なんとなくやる気を削がれた感じだった。写真への熱が急速にさめてゆくようだった。したがって古鷹はもう写真のことは言わず、かわりに、
「青葉、はやくコーヒーが飲みたい」
 と言った。
「そうですね、あたたかい部屋で飲みたいです」
 青葉が古鷹の手を握ってきた。つめたい手だが、古鷹はそのつめたさを感じなかった。

 コーヒーメーカーの音が、あたたかい室内でしずかに響いている。
 ほかに音はない。あれほどうるさかった風もここではその存在感をうしなっていた。
 ここちよい空間があった。
 古鷹はうとうととしはじめた。眠くてたまらなかった。首をあげているのがつらくなって、ほおづえをついた。が、よけいに眠くなった。目をあけているのがおっくうになってきた。細くなった視界にコーヒーメーカーとむきあう青葉の背がうつった。
「あ、お、ば」
 と古鷹は言ったつもりだったが、ほとんど声には出なかった。それでも青葉はその声に気づいた。
「なんでしょう」
 ぼんやりとした青葉の背がうごいた。古鷹のほうにふりむいたらしかった。
「風は、撮れた?」
 青葉の目がまんまるくみひらかれたような気がした。その先のことを、古鷹はもう覚えていない。ほどなくして古鷹は完全に眠ってしまった。
 コーヒーメーカーの音に、重ねてシャッターの音がした。
「はい、撮れましたよ」
 青葉はおだやかに笑った。

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