夜半、加賀は目を覚ました。
ひとつの部屋にふたつの寝床があり、その片方にだれもいなかった。
(また、か)
加賀は起きあがると、上衣を一枚羽織り、部屋を出た。
厨房にゆくと、灯がついていた。
「鳳翔さん、まだ起きていたのですか」
「この子たちが、眠れないというので、あたたかい飲み物をと思って」
鳳翔はそう言って、視線でその存在を示した。
「ホットレモンを作ってもらっているの」
と雷がはきとした声で言った。暁型の駆逐艦が四人、鳳翔のそばに立っている。彼女たちはみな背が低い。加賀は視線をさげた。
「消灯時間はとうにすぎているのに、元気ね」
「加賀さんも、なにか飲みますか」
と鳳翔が気を利かせてくれた。
「いえ、自分でやります」
加賀は断わった。
「ココア……どこでしたっけ」
鳳翔が指さした先に移動し、ココアの缶を手にした。
湯はもう沸いているが、すこし足りない。水をつぎ足して、また沸かした。
棚から持ち手のついた陶製のカップをふたつとりだした。ひとつは加賀の分である。もうひとつは、
「それは、だれの分なの」
と暁に訊かれたので、加賀は、
「眠れないひとに」
とみじかく答えた。
ホットココアをそそいだカップを盆の上に乗せ、加賀は厨房を出た。
静かな廊下を加賀はココアをこぼさないようにゆっくりと歩く。
窓から射し込む月の光があたり一帯を青白く染めていた。
冷たい色だと加賀は思った。それは眠れないあのひとに、いかにも似つかわしくなかった。青黒い海と、真っ青な空が、あのひとには似合いの色だ。
平衡をたもちつつ、階段を上がる。
二階と三階のあいだの踊り場に彼女はいた。
大きな窓を開いて、冬の冷たい風を、めいっぱい室内にいれている。寝間着の上になにも着ていない。窓の外を、口もとに微妙な笑みをうかべて、赤城はじっと見ている。
――そこから月は見えませんよ。
と加賀は言ってやりたくなった。が、言えば、赤城はまた笑うだろう。月を見ているわけじゃないからと言って、笑うに違いない。
そうとう近づいても赤城は加賀に気づかなかった。
「赤城さん――」
と加賀は声をかけた。
肩がかすかにゆれ、首がまわり、ふたつの瞳がこちらを見た。
「あら、加賀さん、こんばんは」
「寒いだろうと思って、ココア、持って来ました。どうぞ」
加賀は盆ごと赤城におしつけた。
「えっ、ちょっと、ちょっと、加賀さんたら――」
戸惑いながら赤城は盆を掴んだ。
加賀は自分の着ていた上衣を脱いで、赤城の肩にかけた。これをするために、盆を赤城にあずけたのである。
「これじゃあ、あなたが寒くなるじゃない」
「じきに寒くなくなります」
と言って、加賀はふたつのカップを手にした。ココアを飲んでいれば体はそのうちに暖まる、と加賀は言いたいのだろう。だが、その理屈なら、赤城もココアを飲んでいるうちに体は暖まるわけで、加賀の外衣を借りる理由もない。赤城はそう言ったが、
「開けっ放しの窓の前で、あなたは、ずっと、夜風をあびつづけていた。体はわたしより冷えている。つまり、服の枚数を増やすのは、あなたが適切、ということになります」
加賀はそっけなく言った。
むっと口をとがらせたまま、赤城は盆を床に置き、加賀からカップを受け取った。
「加賀さん、もうずっと眠れないのね。いつも夜遅くにうろうろしている」
と赤城はココアを口にしながら言った。加賀が自分のもとに来たのはただの偶然だと言いたいようだった。ココアのカップがふたつあったとして、それでも。
赤城の視線は窓の外に放り出されている。――遠くを見ている、青黒い海を彼方に見ている、加賀にはそう思われた。
「赤城さんこそ」
「わたしは眠れないんじゃなくて、眠る気がないだけ」
「それは、うそ」
「なぜ、うそだと思うの」
赤城は加賀を見ない。
「あなたは、悪い夢を見ているから。眠ろうとして眠りきれず、眠ることを怖れ、こんなところで、朝を待っている」
と加賀は言った。
「ふっ――」
赤城が笑った。加賀を笑ったのか、おのれを笑ったのか。
「外海の底が、深い海の底が、どんなところか、加賀さんは知っている?」
突然、赤城はそんなことを言った。
やはり、と加賀は思った。
「写真などで見たことなら……さすがに、どんなところかまでは、はっきりとは知らない。と言っても、水温はたいそうに冷たくて、視界はどこまでも暗いところなのでしょう」
と加賀はあえて情緒的な言葉を排除するような言い方をした。
「そうじゃなくって」
赤城には、やはり、それはものたりないようだった。
「加賀さん、あのね」
赤城は、ひとくちココアを飲み、喉を鳴らしてから、
「わたし、もしかして寝言を言っているのかしら」
と加賀の表情をうかがうように、視線を加賀にむけた。
「寝言というほどではないけれど、よくうなされているわ」
赤城は悪い夢を見ている。夢に落ちている赤城は、寝床でいつも、苦しげに寝息を吐いていた。胸を上下させ、ひたいに汗をうかべ、かすれた呻き声をあげた。そして、加賀は、そんな赤城の苦悶を背に感じながら、いつも寝ていた。そしてふと目が覚めると、背後に赤城の姿はなかった。
この数日は、ずっとそんな状態がつづいている。
「沈没する夢でも見ているの」
「たとえその夢を見たとして、わたしは無様にうなされはしないでしょう」
赤城はそう言いきって首を振った。じっさいそのとおりに違いなかった。
「なるほど、愚問でした。あなたはそういうひとだ」
加賀は素直に訂正した。
「でも、うなされているのよねえ」
赤城はぽつりとつぶやいて、またココアを飲んだ。そろそろ冷めてきている。
「海の底にいる夢を見るの。沈むのでなくて、最初から、ぽつんと、そこにすわっているの」
「海底にすわっている……」
「そう、浮力とか、そんなのは全然感じなくて、ふつうに、って言ったら変だけど、ふつうにすわっている。なにもないのよ。ばくぜんと海だと理解しているけれど、墨が一面にぶちまけられたみたいな光景があるだけで、なにもない。他にはなにも。微生物の濁りも気泡も深海生物も、なにもない。なぜ、あそこが海底だと思うのか、よくわからないわ。苦しいとか、寂しいとか、哀しいとか、そういう感情もなにも」
言い終えた赤城は溜息を吐いた。それから、
「なにも、ないのに……それなのに、夢のそとではうなされているなんて、ほんと、おかしな話よね」
赤城は、なにか、哀しげに、寂しげに笑った。
加賀は赤城の説明を自分なりに咀嚼しようとしたが、夢のなかの赤城を、はっきりと脳裡に思い描くことはできなかった。
加賀がしかめつらで、あれこれと考えているのを、赤城はしばらくながめていた。やがて、
「加賀さんはどんな夢を見ているのかしら」
と訊いた。
ふいに思考をとめられた加賀は、くすりと笑ってから、
「わたしは夢を見ないたちだと思うわ。見てるかもしれないけれど、憶えていないのね」
と言った。
「でも、加賀さんも、ちかごろ眠れていないのでしょう」
うなされているあなたが気になって、なかなか寝つけないのだ、と加賀は言おうとした。それより先に赤城が、
「だって、よくうなされているもの。わたしが目を覚ますと、とても苦しそうにしていて、きっと悪い夢を見ているのだと思って、何度起こそうとしたか」
と言った。
加賀は言葉をうしなった。まさか、と唇だけがうごいた。加賀にはそんな自覚はまったくなかった。自身にそのようなことがあるとは思いもよらなかった。赤城がうそをついているのではないかと疑ったが、赤城の音吐とまなざしは、いたって真剣に加賀を心配している。
「ごめんなさいね」
と赤城は加賀に謝った。
「どうして謝るの」
「わたし、起こそうとしたけれど、起こせなかったの。怖くって、逃げたのよ、加賀さんから。加賀さんの苦しみから、わたしは情けなくも逃げだしてしまったの」
赤城はカップを持っていないほうの手を口にあて、いそがしく方々に目をうごかし、歯切れの悪い言葉を散らかしはじめた。
「だって、ねえ、加賀さんを起こして、声をかけて、もし、うっかり悪夢の中身を知ってしまったら、その夢にひきずりこまれるかもしれない。それがどうしても怖くて、わたしは加賀さんを見捨てて、いつも部屋から逃げてしまうの」
赤城は言った。
「ああ、でも、今、訊いてしまったわね。どうしましょう」
心底困ったように赤城が言うので(ただ表情はおだやかで笑ってさえいた)、
「わたしが、なにも言わなければ、それですむことです。そもそも、わたしは、夢の内容を憶えていないから」
と加賀は慰めた。
赤城の表情からおだやかさが消えた。赤城はココアを飲みほし、からになったカップを持ったまま、やにわに加賀に抱きついた。
「今度からは、起こすわ。あなたが苦しんでいるのに、それを見捨てるのは、赤城の名折れよ。そんな簡単なことにやっと気づいた」
赤城の声がふるえていた。ふるえの正体がなんなのか、加賀にはわからない。赤城にもわからないことかもしれなかった。
加賀は赤城の背をさすった。
「わたしも、今度から、赤城さんを起こします。夢に苦しむあなたに背を向けつづけるのは、加賀の名を汚すことだと、知りましたから」
と言いながら、加賀は、自分を嘲った。心にもないことを言っていると思った。
ひとつの部屋にふたつの寝床があり、片方の寝床にはだれもいない。
もう片方の寝床に、加賀と赤城はもぐりこんだ。ふたりで使ってもあんがい余裕がある。この布団は思っていたより大きいらしい。
夜の暗さに落ちた天井を加賀は見あげた。目をつむれば、この暗さはいよいよ途方もなくなるだろう。そして眠りついた時、また夢を見る。起きればなにもかも忘れてしまう夢を見る。
赤城はすでに寝息をたてている。やすらかな寝息である。今のところ夢は見ていないようだ。が、このひともいずれ夢を見る、と加賀は思った。悪い夢を見るのだ。
加賀は目をつむった。
そうして眠りに落ちた時、加賀はまた瞼をあげた。
視界いっぱいの青空があった。
気がつくと加賀は、ゆらゆらとたゆたう青黒い海を寝床としていた。
轟々と耳をつんざく音がひっきりなしにする。
ああ、ここは戦場なのか、と加賀は思った。そう思った瞬間、体に艤装の重みを感じた。重みを感ずべき部分に感じない、ということも感じた。どこか破壊されて加賀の体から切り離されてしまったらしい。
「沈むまい、沈むまい、海の底に。そこに赤城はいないのだから!」
声が聞こえた。ちいさなちいさな、そして勇ましい声が聞こえた。
「進め、進め、海の底に。そこに赤城がいるのだから!」
また声が聞こえた。聞きおぼえのある声だと思った。
加賀は海の上に肘をついて、体を起こした。
轟音はあいかわらず響いているのに、周囲にはだれもいなかった。戦闘がおこなわれているようすはまったく視認できなかった。
青黒い海の上に、加賀だけがぽつんとすわっていた。
加賀は弓をつがえた。矢は一本だけ残っていた。
轟音はいつか消えていた。
弓弦の鳴る音が、おおきく、海以外になにもない空間にふしぎに反響した。
「進め、進め、水平線のむこうがわ――」
ちいさなちいさな飛行士が、たからかに叫んだ。
……加賀は目を覚ました。
赤城が心配そうにこちらを覗きこんでいる。
「うなされていたわ。悪い夢、見たの?」
「いえ」
夢の内容はやはり憶えていなかった。が、すこしだけ残っている。これは加賀にはめずらしいことだった。
「汗をかいているようね。水とタオルを持ってくるわ。寝間着も着替えましょうか?」
「そうですね、そうします」
加賀は起きあがって、箪笥から替えの寝間着をひっぱりだした。
部屋の灯はつけなかった。月光でそれはじゅうぶんだった。
「夢を見ました。が、悪夢ではなかった」
と加賀は言った。
赤城は桶にタオルを浸してかるくしぼった。
加賀の裸体に冷たい感触が当たった。汗をぬぐってもらうつもりはなかったが、拒否する理由もとくにないので、加賀はおとなしく赤城に身をまかせた。
「どんな夢だったの。あなたは、ずいぶんと、苦しんでいた。でも悪夢じゃないと言う」
「悪い部分は憶えてないのかもしれない。憶えているのは――」
加賀は思い出そうとした。
「進め、進め、海の底に」
「そこに赤城がいるのだから?」
加賀は瞠目した。その目をそのまま赤城に向けた。
「寝言でそう言っていたから」
「そうですか。……」
加賀はちいさく溜息を吐いた。
夢のなかでは、ちいさな飛行士がそれを言ったのだと加賀は説明した。
「すこし、うらやましいかも」
「なぜ?」
「わたしの夢には、だれもいないから」
赤城は寂しげにそう言った。
赤城の寂寞が加賀の心に染みてきた。
最後の矢、最後の機体、最後の飛行士、それらは加賀のもとを離れていった。夢のつづきに、ふたたび登場することがあるだろうか。
(つぎに夢を見る時は)
その時は海底に向かって前進しようと加賀は思った。
沈むまい、沈むまい、と加賀は心の中で唱えた。海底への前進は、沈没であってはならず、潜行でなくてはいけない。空母にそれは本来不可能なことである。しかし、自分には手足がある。泳ぎの技術もある。だから可能である、と加賀は自分を励ました。
――進め、進め、海の底に。
墨をぶちまけたような真っ暗なそこに、赤城がいる。
了