梅の花

 梅の木が淡く色づいた。
 兵舎の窓からそれを見おろした大和は、衣桁に掛けてあった半纏を羽織ると、まだ眠っている武蔵を起こさぬように、静かに部屋を出た。
 外はまだ日がのぼりきっておらず、基地内はぴんとするどい空気が張っている。
 が、大和はそれほど寒さを感じなかった。半纏を持ち出しはしたが、今日はすごしやすい日に違いない。梅の花が大和に教えてくれるのはそれである。
 大和は心にほのかなぬくもりを感じた。
 梅の木の前に人影がある。大和と同じように半纏を着ている。
 ぬくもった心がはずんだ。
「おはよう、矢矧」
 ふりかえった少女の眠たげな目が大和にむけられた。
「おはよう……」
「窓から見えたわ。早いのね」
 大和がそう言って笑うと、――あなたのほうこそ、と矢矧が言った。その声も眠そうだった。
「梅を見ていたのでしょう。わたしも見に来たの」
「花を?」
 矢矧に問いを返されたので、大和はいぶかしげに首をかしげた。
「あなたは違うの?」
「わたしは――」
 矢矧は大和から目を切り、梅の木に手を添え、
「木を見ていた」
 と言った。矢矧は花のみごとさには興味がないようで、昨年に移植されたばかりの梅の木がこの土地にちゃんと根づいてくれるか、そのほうが気になるらしい。
「こんなにきれいなのに……」
 花を愛でるゆとりをもたない矢矧のありようは、大和にはもったいなく思われた。それに、矢矧の気がかりは、木よりも花を見たほうが明らかではないか。
 梅の花はこれから盛んになるだろう。ますます美しく色づくに違いない。梅の木々はこの地の土に歓迎されたということである。
 しかし、大和は同時に、矢矧のこうした性根の実直さこそ、もっとも愛でるべき美しいものだと思っている。
 植林には理由がある。それは景観のためではなく、危急の時にこれを伐り出し、使うためで、梅以外にも色々な木が移植されている。それらはすべて、いざという時は、建築材になれば、矢幹の素材にもなる。梅は薬にも使われるものである。
 そのための木が、その用を為すに、きちんと育つかどうか、矢矧が心配するのは当然のことだったし、矢矧は矢矧なりに梅の木を慈しんでいるということでもあった。
「木は、ここを気にいってくれたみたい」
 矢矧は幹から手を離し、まなじりもおだやかに笑った。
「花が散る前にお花見でもする?」
 と矢矧はほがらかに提案した。
(こういうところが、矢矧はいい)
 大和はにこりと笑った。真面目な矢矧だが、思考は凝り固まっておらず、ほどほどにつきあいやすい型の性格である。
「ええ、お花見をしましょう。お花見はいい」
 と大和も言った。それからその場に腰をおろした。顎をあげると、枝の広がりに白い花が染まっている。
 ――あっ。
 と矢矧は一瞬驚きを唇にうかべ、ついで笑った。
 矢矧はもちろん、たった今、花見をやるつもりで言ったのではない。が、大和はそんなことは承知で土の上にすわったのである。こうなっては大和は依怙地にもうごかないことは矢矧にもわかっている。仕方ないといったふうに溜息を吐いたあと、大和のとなりに腰かけた。
「花を見るだけの花見ねえ……」
「それでいいじゃない。なにもおかしくない。お花見は目と鼻で楽しめばいいのよ。あとはそう、歌でもあればさらにいい」
 と言って、大和は矢矧の鼻を指でついた。
「歌の学はないから」
 と矢矧は言った。
「わたしもない」
 大和は首をすぼめてくすくすと笑った。
 風はない。かすかなゆらめきもなく梅の花は咲いている。
 日の出のただなかの微妙な明暗が、矢矧の眉宇に艶のある陰翳を落としている。
 よい顔をしていると大和は思った。たんに顔のつくりだけでなく、表情が美しいと思ったのである。
「矢矧、矢矧」
 大和は矢矧の袖をひいた。
「なに?」
 矢矧の顔がこちらにむけられたので、大和はそのまま彼女のかわいた唇に自分の唇をかるくおしあてた。このくちづけの時間は長くない。
 大和が唇を離した時、矢矧の顔はなかなかおもしろいことになっていた。驚きが第一にあり、次に困惑があって、かすかな歓喜がまじっている。
 だれかを愛するというのはよいことだ、人格に深みが出る、といつか言ったのは武蔵であったか。大和は記憶をさぐった。
 矢矧は決して無欲のひとではない。それなりに大きな欲望をかかえて生きている。それは心の澱みと言ってよいものだが、汚れとは遠い美しい澱みであり、そこにこそ生命のきらめきがあると言える。
 だが、矢矧は自身に対して優柔を嫌い、清潔を好む。矢矧は今自分のなかにあるもっとも明るい感情を否定する気が強いだろう。その明るさとは喜びであり、大和に対して抱く恋慕がもたらした、澱んだきらめきである。
 それはとてもきれいなものだと大和は思う。だから、矢矧が否定するものを、大和は肯定してやりたくなった。けなげなこの娘に報いてやりたい気持ちが湧いてきた。きっと矢矧はうけとろうとしないだろう。しかし、大和はそうしたいと思った。
 大和は矢矧を体をひきよせ、抱きしめた。
 花とは違う別の香りがした。よい香りだった。なにかつけているのか訊こうとしてやめた。言葉を発するのはあまりに無粋な気がしたのである。
 矢矧のいじらしい手は、一度は大和の背に触れるすんでのところまであがり、そのあとは緩慢にさがってゆき、大和の腕を掴むと、やにわに体をひきはがした。
 矢矧はあわてて立ちあがって去っていった。
 大和はその背が完全に消えるまで呆然と見つめた。
 花はもはや目に入らなかった。

 特別なひとがいる。
 それは大和ではなく組織にとって、と言ったほうが正しく、彼女だけは同室者をもたず、広い部屋にひとりで起居している。
 その部屋は開け放たれた座敷であり、特別にこしらえたものだった。なにごとにおいてもひかえめな彼女が、その部屋を恭しく納めたのは、自分の役割をそれだけ理解していたということだろう。
 だれでも、好きな時に、好きなだけ、その座敷にあがれた。彼女はそんな突然の客にもいやな顔ひとつせずに、鄭重にもてなし、朝から夜までたあいない世間話に倦むことなくつきあう。
「鳳翔さん、梅の花が咲いていましたよ。一緒に見にいきませんか」
 縁側からあがりこんだ大和が膝をすすめて言うと、鳳翔がやさしげに微笑んだ。
 それを諒承であるとうけとめた大和は、さらに膝をすすめて鳳翔の肩に手をおき、ゆっくりと押し倒した。
 日はすでに中天をすぎている。
 衣裳をひらくと、白い肌膚が目前にあらわれた。薄紅色がさしている。
「花の香りがしますね」
 と鳳翔が言った。
 大和は目をしばたたかせた。
「そうですか? 自分ではよくわからないです」
「よい香り……」
 と言うと、鳳翔はここちよさそうに笑った。
 大和の首に鳳翔の両手がまわされた。鳳翔の体はふるえているようだった。
 この女性は笑うと童女のように幼くなる。大和は鳳翔を抱くたびに、ひとのふしぎさみたいなものを感じないではいられなかった。
 ――それとも、これは、彼女だけにある特別なのだろうか。
 大和は鳳翔のなかに自分の体を沈めた。
 鳳翔の艶のある長い黒髪から、ふいにあの朝の梅の花の香りがした。

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