あの年の呉はことさらに暑かった。
いつもへらへらと笑っている蒼龍と飛龍が、どこから調達してきたのか、日の丸のはちまきを締めて、らしくもなくきびしい表情をたもったまま、さっぱりしゃべらなくなったのもその頃だった。にぎやかしのふたりの口数が減ると、周りも言葉を忘れたみたいに沈黙した。
加賀には異様そのものの光景だった。
全体あの頃は重苦しい空気が張り詰めていたのである。強烈な暑気が皆からのびやかさを奪っていった。おだやかな笑声がぴたりと已んで、原始的な獣のような叫び声が目立って増えた、教練のさなかに響く大声を加賀はよく憶えている。
平生は内気な軽巡、泣き虫な重巡、陰気な駆逐、えたいのしれない揚陸艇、服の汚れを嫌う航巡、陽気すぎる戦艦――それらが同じ顔になって同じ声を発していた。平均化された不気味な集団は、まるでどこかの軍隊のようだった。
その集団の構成員に違いないはずの加賀は、仲間たちの昂奮と緊張を冷えた目で見ていた。多少の不快がある。それは自身に対するものであり、同僚へのものでもある。
ある日、その不快と不満が口をついてでた。
的にむかっていた赤城の手が停まった。弓をおろした赤城は、
「軍隊ではないの?」
と加賀のほうにふりかえって言った。
ほがらかさをうしなった声である。やわらかさをうしなった眉目である。
これまでずっと、蒼龍や飛龍と一緒に明るく笑っていた赤城が、日頃仏頂面だ鉄面皮だと言われる自分と、似たような顔つきになっているのも、加賀は気に入らない。
「軍隊ではありません。戦闘組織ですが、軍隊ではない。もっとのびのびと発達した能力を、自由気儘に発揮する集団だった。なのに、今はみんな同じになってしまっている」
と加賀が言うと、赤城は堅く笑った。
「加賀さんは軍規や風紀にうるさいひとだと思っていたわ」
「えっ、うるさいですか?」
加賀は目をみひらいた。風紀についてうるさく言った憶えは加賀にはない。それに軍規はそもそもここには存在しない。集団経営に必要な当たり前の礼と規則がなんとなくあるだけだ。ないものをどうこう言うはずがない。
「顔がね」
と赤城は言葉を補った。
加賀は自分の頬を手でたたいた。この顔がうるさいとは、意外である。
「お茶にしましょうか。疲れちゃった」
赤城は指でひたいの汗をぬぐった。
加賀は、はっとして、布巾を赤城にさしだした。
自分のいらぬ呟きのせいで、赤城は集中力を切らしてしまったのだろう。加賀は謝った。赤城はゆるゆると首をふった。――加賀さんのせいではないわ、集中力はとうに切れていたのに、停め時がわからず、散漫に撃ちつづけていた、加賀さんの声のおかげで、手を停められた、ありがとう、と言った。
ふたりは教練場からしりぞいた。
湯浴みし、服を着替え、部屋にもどった。
さっぱりとした顔で腰をおろした赤城に、加賀は熱い茶を淹れた。
湯気の立つ湯呑を見た赤城は苦笑した。
「冷たい飲み物だとおなかを壊すと思って」
「こういうところが、加賀さんよねえ……あつっ」
湯呑を持とうとした手をすぐにひっこめ、赤城は指に息をふきかけた。
「加賀さんはあまり変わらないわね」
「赤城さんはずいぶんと変わった」
「みんな変わった。加賀さんは――」
赤城は湯呑をもてあそんでいる。いっこうに飲もうとしないのは、さめるのを待っているのだろう。
「わたしは生来のひねくれ者なので」
と加賀は言った。周囲の昂奮を見ていると、かえって感情が静かになる。そういう性分なのである。
「あら、みんなが冷静な時に、ひとりだけ昂奮している加賀さんなんているの」
「周りが冷静な時はわたしも冷静です」
加賀はとりすました顔で言った。
「ひねくれすぎて、正直になっているわ」
と言った赤城は、ようやく湯呑に口をつけた。
加賀も自分で淹れた茶を飲んだ。
加賀の体内はかつてない穏やかな日々の経過を感じている。ふしぎな平穏である。この平穏のなかで作戦が展開され、完遂されるのではないかと思われた。が、なぜ、自分はこんなにも楽観しているのか。加賀にはわからない。それはどちらかというと蒼龍や飛龍の領分であって、彼女たちがその役目を放棄したために、無意識のうちにそれをやろうとしているのかもしれないが、確かなことではない。なにしろ、こんなことは初めてのことだった。
「今の状態がよくないのは、わかっているのだけれど」
と赤城は呟いた。過度の緊張のなかで過度の訓練をおこなっている。心の均衡をうしない、体に無駄な負担をかけている。この結果につながらないとわかりきっている無意味をくりかえしている。わかりきっていながら、なかなか修正できない。
「よくないと思ったところは取り除き、よいと思ったところを取り入れたらいいじゃないですか」
と加賀が言うと、赤城はむっと口をとがらせた。
「たやすくそれができたら、苦労しません」
「いつもたやすくやっているのに?」
「たやすくなくなったから、困っているの」
赤城は嘆息し、頭をかかえた。
赤城は真剣に悩んでいる。そのことは加賀にもわかる。飄然としたところがもちあじの赤城の戦いぶりが、近頃はあとかたもなく消え去っているのを、加賀はいやというほどみている。
それでも加賀は、赤城の真剣さを、真剣にうけとめることができない。――まあ、きっとなんとかなる、などと、蒼龍のような思考をする近頃の自分は、ほんとうにどうかしている、と思った。
「あなたは、なにを怖れているの」
と加賀は赤城に訊いた。赤城は首をかしげたが、なぜそんなことを訊くのか、とは問わなかった。
「推測でいい? 自分でもよくわからないから」
「ええ」
加賀がうなずくと、赤城は茶を一口飲んで、一度深呼吸してから、
「なにも怖れるものがないことを、たぶん、わたしは怖れている」
と言った。
加賀はあっけにとられた。なんて傲慢な恐怖心があったものか。ただし、その傲慢さには余裕がない。このひとは本気で怖れているのだと加賀は感じた。
「だって、わたし、征って、戦って、それだけよ」
赤城は言った。
「征って、戦って、帰って、帰れなくても。わたしが死んでも、あなたが死んでも、敵が死んでも、だれが死んでも。きっとそれだけのことで、他になにもない」
加賀の持つ湯呑のなかにちいさな波紋が立った。
――ばかばかしい。
と加賀が思ったのは、赤城の苦悩ではない。赤城の言葉にはっきりと傷ついている自分自身である。
風鈴が鳴った。
なまぬるい風が室内にはいりこんできた。
鳳翔がすいかを持って来た。間宮が切ったものを方々に運んでいるらしい。加賀に盆を渡すと、慌ただしく去っていった。
――あのひとでさえ、おちつきをなくしている。
それが今あるべき当然の姿なのかもしれない。加賀だけが、なにもかもが以前と違ってしまった異様な雰囲気に、のめりこめないでいる。できないのか、あえてしないだけなのか、自分でもわからない。
「わたしは冷淡なのかしら」
と加賀は言った。すいかを口にふくむと、しゃりしゃりとこきみよい音がする。嚥下すると、腹の底から爽やかなものが体いっぱいにひろがった。
「情熱家だと思うけれど、見た目はそうは見えないわね。冷たい感じはあるかも」
と赤城は言った。ひとが加賀と赤城を見れば実態とは逆の印象をもつだろう。赤城の薄情はおもてにはあらわれず、ひとは彼女に温情をみる。加賀の激情もおもてにでないので、その無表情さはしばしば冷淡とうけとめられていた。
今の加賀は、あいかわらず無表情だが、眉間のしわがすこしだけ減った。それだけでも与える印象は変わるものである。蒼龍や飛龍を介さず、加賀に直接話しかける者が増えた。
「このまま親しみやすい加賀さんになっちゃいます?」
「さて、それは……」
「ないですか」
「ないですね」
加賀はきっぱりと言った。
赤城がふきだしたのはすいかの種だった。
呉の名簿にいくつか名前が増えた。
そのうちのひとりに大鳳がいる。大鳳は作戦中の留守役として呼ばれたらしいが、そうした命令を受けたのは大鳳だけではないだろう。当然、作戦が終われば元の泊地に帰るひとである。
「遠路はるばる――」
と加賀はタウイタウイ泊地からやって来た大鳳をねぎらった。
「ここは暑いですね」
と言った大鳳は、南洋諸島とは質の違う暑さに、顔をゆがめた。
「じきに慣れますよ」
と加賀は微笑み、かるい調子で言った。
大鳳は目をまんまるくした。驚いているらしい。初対面の者にあいそよく接するとだいたい驚かれる。いったい「加賀」の名はどんな評判を立てているのか。加賀は首をひねりたくなった。
鎮守府を案内しながら、加賀は大鳳といろいろなことを話した。大鳳はなんとなく赤城に似ているが、赤城よりも息づかいに生々しいところがあり、それは人間というか女の吐く情念と言ってよく、赤城は今まさに大鳳のもつ生々しさをもたない自分に苦しんでいる。
赤城に会わせるまえに、加賀はひとつ、大鳳に質問した。
「人は船が沈むことをかなしみます。が、船は船が沈むことをかなしむしょうか」
大鳳は眉をひそめ、首をかたむけた。
「それは、わたしたちが、わたしたちの死を、かなしむのか、ということですか」
「どうでしょうか。ただ、かなしみのないことを、怖れるひとがいる」
大鳳は口をつぐみ、考えはじめた。歩きながら考えている。
「物体に精神が宿ることがあると言います。その精神がかなしみを知っていれば、船であっても船が沈むことをかなしむでしょう。しかし……」
「しかし?」
「いったい、わたしたちは、魂魄を宿した船なのか、船を宿した人なのか」
「船でなく、人でない。すると、わたしたちは何者なのでしょう」
「さしあたって、わたしは大鳳で、あなたは加賀である、ということしか、わかりませんね」
大鳳は苦笑した。その苦笑をおさめると、遠く空を見つめて、
「征って、戦って、帰る。それしかないと思います。わたし個人の存念としては――」
と言った。
今度は加賀が目をまるくした。
加賀は大鳳を赤城のところまで連れて行った。
赤城と大鳳のふたりはすぐにうちとけたようで、その日は深夜まで倦むことなく語りあった。
大鳳が退出すると、赤城は急に眉宇を翳らせ、
「彼女はかなしみを知っているわね」
と羨ましそうに言った。
「でも、彼女はそれに、煩わしさを覚えている」
加賀は大鳳から感じたことを言った。大鳳は大鳳で、赤城の情念の薄さを羨ましく思っているのではないか。
「じゃあ、わたしが大鳳さんになって、大鳳さんがわたしになれば、問題解決ね」
と言いながら、赤城はあくびをした。戯言を吐くのは、頭がすでに眠っているからだろう。本気で言っているわけではない。それでも加賀は不愉快になった。
「あなたは赤城です」
と加賀は語気を強めて言ったが、赤城にはもう聞こえていなかっただろう。
――あなたは赤城です。だからわたしの死をかなしみやしない。
そうあるべきだ。加賀は内心うそぶいた。
呉鎮守府にひとが増え、ひとが減った。目立つところでは北上の姿が消えた。聞けば横須賀に行ったと言う。
雰囲気がまたすこし変わった。
このところは、すっかり耳にしなくなっていた音が、ひさしぶりにうるさく聞こえるようになった。
シャッター音である。
青葉がカメラを手に、あちこちを走り回っている。
取材をしているのかと思い、加賀が声をかけてみると、
「町内写真賞の応募締切が近いんです」
と青葉は言った。趣味の写真に没頭しているらしい。
青葉の妹の衣笠が、アリューシャン方面にむかう部隊の旗艦を任されている。青葉もそれについていくことになっているはずである。まもなく大湊へ出立しなければいけないはずだが、
「遊んでいていいの」
「やることはもうやったので」
「なるほど」
加賀は納得した。詳しい説明は必要なかった。青葉の快活な声を聞けば、それですべてわかることだった。この声もひさしぶりのことで、なにやら懐かしい。
「それでは!」
と言って、青葉は走っていった。視線でそれを追っていると、青葉が被写体を見つけたのか、両手をあわせて拝むまねをした。撮影の許可を請うているのだろう。相手は蒼龍と飛龍だった。ふたりは互いの肩に腕をまわし、親指を立て、歯をみせて笑った。快く諒承したようである。
――なるほど、なるほど。
加賀は唇だけでそう言うと、その場をあとにした。
兵舎内で千歳と千代田の姉妹とばったり会った。
酒の臭いがした。昼間から飲んでいるらしい。
「あいかわらずね」
と加賀が言うと、
「おかげさまで」
と酔った声で千歳に言われた。だれのおかげなのだろうか。それはともかく、この姉妹も衣笠に率いられて出撃することになっている。
千歳の酔眼がほそめられた。
「今度は、どの船も沈みませんよ」
「どうして、そう言えるの」
「どの船も、怖れつづけ、苦みぬいたからです」
と千歳は言った。
加賀はその言葉を咀嚼するのに、ちょっと時間がかかりそうだった。
部屋にもどったが、赤城はいなかった。
無聊をもてあましていると、利根があがりこんできた。
「いよいよか」
鼻息を荒くして利根は言った。
「カタパルトの調子はどうかしら」
「万全じゃ」
二の腕を叩いて彼女は言った。
「今度はしくじらぬ」
「その自信の根拠を訊いてもいい?」
「自信があるから、しくじらぬのよ」
と利根は呵々と笑いながら言った。冗談を言っているわけではないだろう。利根の言い分には理があると加賀は思う。自信をもたない者の矢は、空ではなく海むかって飛び、むなしく沈んでゆくだろう。
利根と入れ替わりで、神通がやって来た。
「妹がお菓子を作ったんです。どうですか」
かわいらしい包装をひらくと、クッキーがはいっていた。
「あとでいただきます」
加賀は包装をとじ、部屋のすみに置いた。
「赤城さんはいらっしゃらないんですね」
「ええ、どこに行ったのやら。赤城さんになにか用でも」
「いえ、そういうわけでは」
まさかクッキーをわたすためだけに来たのではないだろう。いぶかしげに神通を見ていると、神通は空咳をして、
「水雷戦隊は強くなりました、と赤城さんに伝えてください」
と言って、さっと退室しようとした。
その背に問いを投げかけた。
「たとえば、どれほど強くなったのかしら」
「味方の障害を排除し尽くして、敵の障害となって絶えないほどに」
神通は部屋を出た。
菓子の包を片手に、加賀も部屋を出た。
赤城をさがすためである。
日は沈みつつある。
あたりは茜色がさしていた。
赤城は港の突堤にいた。
矢筒は携えず、弓だけを手に、赤城は立っていた。
「那珂さんが焼いてくれたクッキーがあります。一緒に食べませんか」
加賀は、包を持ちあげ、ゆすった。
海を見ていた赤城の目が、ゆっくりと加賀のほうへとむけられた。
赤城はすでに元の無情のひとである。苦悩は解決したのかしないのか、すでに彼女の思考には一片も存在しないだろう。復活のきっかけはどれといってなく、ただ時が経つにつれ、悩むことに飽きて棄てただけかもしれない。
赤城は菓子包には興味をしめさず、弓弦を慣らすと、柔和な笑みをうかべ、
「加賀さん、次はミッドウェーよ」
と、ふくよかな声で言った。
加賀はうなずき、暮色に染まる海に目をやった。
――征って、戦って、帰ってくる。
それだけでいい、と思った。
この年の呉はことさらに暑かった。
皆がその暑さにあてられ、鎮守府は異様な熱気につつまれていた。
赤城たち機動部隊が帰還した時、出迎えの集団の先頭に鳳翔が立っていた。
「おつかれさまです」
という鳳翔の平凡なねぎらいの言葉を聞いた赤城の目が、かすかに濡れるのを、加賀は見逃さなかった。
問い質せば、暑さにやられたのです、と赤城は答えただろう。
了