「加賀さん」

 さしで飲まないかと加賀は飛龍に誘われた。手には一升瓶があった。――お互い相方には内緒でね、と飛龍は人さし指を唇にあてて笑ったが、その顔は暗かった。
 空部屋のふたりの侵入者は、月光だけを灯にして、ひそやかな酒席をもうけた。
 ところが飛龍は酒を飲まない。加賀にお酌をしながら、口にしているのは水だ。彼女はこの頃すっかり酒をやめていた。断酒かと問えば、違うと言う。ただなんとなく酒の気分ではない日がつづいているだけらしい。
「お酒の飲み方しか教えられなかったなあ」
 と飛龍は言った。
「そもそも艦載機の飛ばし方がてんで違うっていう」
「飛鷹や隼鷹に似ているわね」
「いや、あれともけっこう違うかな……。わたしのとはもっと違うけど、……」
 顎に手を添え、ウウンとうなる。
「まあ、本人がやりやすい方法でやればいいんだけどさ」
 そう言いつつ、自分と似ても似つかない空母にたくましく育ち、一人前になった雲龍に、飛龍はおおきな未練がある。べつに雲龍の教育に失敗したわけではない。雲龍は最初から飛龍とは違うやり方を選び、飛龍はそこに手を加えなかった。雲龍はそのやり方で成長し、成功した。性格はのんびりしていて、これは飛龍に似ているが、飛龍のようなにぎやかさはない。
 師として、弟子に、なにかしてやれた、という実感がない。酒のたのしさ以外は。そして飛龍は酒を遠ざけはじめている。
「おもいどおりにしたかったわけじゃないのよ? ほんとよ?」
「ええ」
「飛龍二世にしたかったとかそういうんじゃなくて」
「ええ」
 そう念をおさなくても、ちゃんとわかっている、心配しないで、加賀は心のなかで言った。口にだしてやるほど親切ではない。その代わりでもないだろうが、
「痕跡を」
 と加賀は言った。
「痕跡?」
「痕跡というか、生きた足跡というか」
「武勲じゃあなくて?」
 加賀はゆるゆると首をふった。
「自分が死んだ時に、なにも残らないのは、いやかもしれない」
 こんなことを口走る自分は酔っているのだろうか、と加賀は思った。加賀は酒に弱くない。そこまで飲んでもいない。
「ああ、そっか。そうだったのかな……」
 飛龍は、ぼんやりとまなざしをさげた。飛龍が死んで雲龍が残される。ひとは雲龍の在り方に飛龍の影を見ない。和装になり、弓を持てば、話も違ってくるだろうが、雲龍の戦法とはそういうものではない。
 雲龍は薄情者ではないから、たとえ飛龍が死んでも忘れることはないだろうが、それだけでは物足りない、と感じる自分がどこかにあったのかもしれない。雲龍の主観にではなく、雲龍への客観のなかに「飛龍」という存在を遺したい、というのが、未練の正体か。
 ひとが雲龍を褒める時、
 ――さすが飛龍の妹分だ。
 という言葉であってほしい。――さすが雲龍だ、ではさびしい。が、雲龍にしてみれば自身の実力を飛龍の下に評価されるのは不本意だろう。
 とはいえ、雲龍が飛龍とは異なる戦闘技術を学んだのは反抗心からではなく、基本的にふたりの関係に歪んだものはない。雲龍は飛龍に懐いているし、尊敬もしている。飛龍も雲龍をかわいがっている。
 雲龍の初陣を見届けた赤城は、
「あの子、意外に熱いのね」
 と言い、それから、雲龍の目の良さを褒めた。視野の広さは精神の余裕のあらわれである。熱くなっている雲龍の頭は冷静そのものであり、技もなかなかのものだった。赤城はそのことを雲龍にも言ったのだが、
「戦闘が終わったら、もとのとりとめのない子にもどってしまったわ」
 赤城の褒詞は雲龍にとどいたのかどうか。雲龍はこくんと頭を上下させただけだったという。
 赤城は雲龍だけ褒めて、飛龍を褒めなかった。褒められたかったわけではないが、飛龍にはひっかかるところではある。赤城は新人を褒める場合、かならずその指導をした者も一緒に褒める。飛龍はおもに蒼龍に弓を教わった。蒼龍のほうが先輩だったからである。飛龍が初めて功を挙げた時、赤城は蒼龍と飛龍のふたりを褒めてくれた。それなのに、赤城が褒めたのは雲龍ひとりである。
 ――あなたはなにも教えていない。
 と赤城から言われたようなものだった。すくなくとも飛龍はそう感じた。じっさいそのとおりだと思う。雲龍は自己流で技術をみがいたのである。たまに飛鷹たちに助言を求めにいくことはあったが、飛龍に教えを請うたことはなかった。あ、やっぱりなにもしてないや、わたし。そう言って、飛龍はあおむけにたおれた。
 なにもしないうちに、雲龍は飛龍のもとを離れ、今は新入りの天城の教育を任されている。
「あまりいい話は聞かないわね」
 と加賀は言った。雲龍と天城は、その姿を見かければ、お茶を飲んでいるか、お菓子を食べているか、鳥を追いかけているか、花を愛でているか、雲をながめているか、といった具合で、なにかを教えたり教えられたりといった目撃情報がひとつもない。
「そうねえ……」
 飛龍は起きない。
 加賀は退屈をおぼえた。飛龍との酒がこんなにもつまらないのは、初めてかもしれない。もっとも飛龍は一滴も酒を飲んではいないが。
「良い空母を育てられることと、良い師を育てられることは、違うものかしら」
「ごめんなさいね、失敗して!」
 なかばやけになった声で飛龍は言う。あおむけにたおれたまま、天井をにらみ、飛龍は加賀と目をあわせない。
「べつに、あなたのことを言ったんじゃない」
「じゃあだれの……あ、蒼龍か」
 飛龍が指導者としてまずかったとすれば、それは蒼龍の教え方がまずかったということになる。
「蒼龍を教えたのは、鳳翔さんよ」
「あ」
 飛龍は両手で口をふさいだ。芋づる式に責任者がでてくる。
 加賀は溜息を吐いて、杯に酒をそそぎ、口をつけた。飛龍が寝たままなので、自分でやるしかない。
「失敗したかどうかは、まだわからないでしょう。雲龍も、あなたも。ふたりとも、りっぱに戦っているのだから」
 と加賀は言った。
「なにもしていない、とあなたは言うけれど、ほんとうになにもしなかったけれど」
「ほんとにそう、傷つくこと言うよね、加賀さんって」
「あなたと雲龍ときたら、日がな一日、一緒に茶を飲んでいるか、お菓子を食べているか、鳥を追いかけているか、花を愛でているか、雲をながめているか、さもなければ昼寝しているだけで、ほんとうになにもしていなかったし」
「そういえばそうでしたっけね」
 飛龍はよこむきになった。加賀に背をむけるかっこうである。拗ねた感じである。
「よくそこに蒼龍もまざっていたわ」
「たぶんね、それ、わたしと蒼龍のとこに、雲龍がまざってた、が正解」
 指で畳をたたく音が、かすかにした。照れているのか、その表現だろうか。
「それより昔は、まだ来たばかりのあなたを、蒼龍はそこらじゅうにひきずりまわして遊んでいたわ。お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、鳥を追いかけたり――」
 加賀が話をつづけると、
「はは、懐かし」
 と飛龍は言い、
「さらに昔は鳳翔さんが?」
「赤城さんとわたしもいれて四人で」
「いいなあ」
 羨ましげに飛龍は言った。彼女は鳳翔から直接指導を受けたことがない。
 飛龍は体を起こした。
「あれ、もしかして、なぐさめてくれてるの」
「さあ」
 事実をならべてゆくことが、なぐさめなのかどうか。
「教育に終わりということはないと思うわ。雲龍のやり方をまずい、と思ったなら、それを教えにゆけばいい。あなたが雲龍の師なのだから、それはあなたの仕事で、あなたにしかできないことよ」
 と言いながら、なんとなく加賀はむすっとした。口のなかに苦いものを感じる。加賀自身、弟子の教育がうまくいっているという感触がない。飛龍のことはどうこうと言えた立場ではない、と加賀は自分を笑った。
「ふうん」
 飛龍は鼻の下をこすった。
「わかった。そうする」
 と言った飛龍は、水を飲み干すと、今度は酒をいれ、豪快にあおった。

 夜が深まると、加賀は飛龍と別れ、自室にもどった。
 赤城はまだ起きていた。窓辺に寄りかかり、外をながめているようだった。兵舎の最上階にあるこの部屋からは、赤城が気にいっている松林が見える。
「あら、加賀さん、おかえり」
 赤城は窓から体を離した。薄着である。
「上着を――」
 加賀は衣桁にかけてある上着を取り、赤城にわたそうとした。
「もう寝るから、かまいません」
 と赤城は言った。
「もしかして、待っていたんですか」
「どうかしらね」
 赤城はほのかに笑った。
「それより、ねえ、加賀さん、あれを見て、月光浴をしている子たちがいるわ」
 と言って、赤城は窓の外に腕を伸ばし、指さした。
「月光浴とは……」
 加賀は呆れた。この寒いなか、おもてに出て月光浴をしている物好きがいるのか。赤城もたいがいだが、それ以上である。
 加賀は赤城のとなりに立ち、赤城の指先をたどった。人影は見えない。月明かりだけではどうにもならない。赤城はよくわかったものだ。じっと目をこらしていると、ようやくそれらしき影をふたつ見つけた。だれかはわからない。
「雲龍さんと天城さんよ」
 と、なにげなく言った赤城の顔を、加賀は見ることができなかった。
「あのふたり、あまり似ていませんよね」
 赤城は外見のことを言ったのだが、じっさいはあまりどころかまったく似てない。性格は似かようところがあるだろう。
 加賀は答えられない。視線はふたつの影をとらえたまま、固定されて動かない。
 体は動かないが、心はあきらかに動揺している。なぜ、動揺するのか。天城の名が赤城の口からでたからか。いまさらなことだろう。赤城が天城の名を言うのはこれが最初ではない。天城本人に会ったこともある。赤城とともに、着任したばかりの天城のあいさつを受けたのは、つい最近のことだ。どういうわけか、加賀はその時の自分を思い出せなかった。赤城が笑っていたのは覚えている。平生の赤城はたいてい笑顔である。いつものようにほがらかに笑い、いつものように新人を歓迎した。それだけのことだ。
 ――彼女は関係ない。彼女は、わたしたちとはなにもない。
 心のざわめきを鎮めようとする声とはそれだった。
「ほんとうに仲がいいのねえ」
 きっと赤城は笑っている。
 加賀は笑えない。
 ふと、加賀の脳裡に弟子の顔がよぎった。瑞鶴は翔鶴を「翔鶴さん」などと呼びはしない。それは普通のことだろう。翔鶴は瑞鶴の姉なのだから。そして赤城が天城を「天城さん」と呼ぶのも、やはり普通のことだった。
 ――なにも、おかしくはない。
 加賀はやっとのことで、首をふり、おかしな思考に支配されていた頭を正常にもどした。
 月の下の姉妹の影は、いつか消えていた。
 びゅうびゅうと寒風が部屋にはいりこんできた。月光浴をしていたふたりも、この風にやられて退散したのかもしれない。
「ああ、寒い、寒い。加賀さん、もう寝ましょう」
 と赤城が言った。
 加賀がおかしな思考にとらわれていたのは、ほんのちょっとのあいだのことで、そのわずかな思考のために、加賀はひどい疲労を感じた。ふらふらと赤城のうしろをついてゆき、寝床にもぐった。
(こういう時はろくな夢を見ない)
 と思いながら、加賀は目をつむった。あまり眠りたくはなかったが、睡眠を怠ればさまざまなことに支障が出る。
(ああ、でも)
 加賀は一度目をひらき、となりに眠る赤城を見た。
 他人が天城の外貌についてどんな印象をもっているのか、加賀は知らない。だれも加賀が感じているのと同じことを言わないので、加賀も天城への印象を口にするのはひかえている。
 そのおもざしが、赤城にすこし似ていると感じたのは、加賀だけかも知れず、ひとり妙に意識して、あれこれと思い悩んでいるのか。げんに飛龍は、天城のことを雲龍の妹としか思っていない。赤城も普段どおりである。加賀の煩悶には孤独の色がある。加賀だけがかかえる煩悶と言ってよい。
 ――もしも、天城が、あの天城ではなく、べつの天城だったら。
 赤城はどんな顔をするのだろうか。いつもの笑顔がくずれ、いつもとは違う笑顔になるのだろうか。その口で、愛しげに、姉さん、と呼ぶのだろうか、あるいはたんに、天城、と呼ぶのか。
 人間に喩えれば、赤城の相棒としての加賀の存在は、天城の死の上にある。いや、あった、と言うべきか。この身にそれがつづいているとしたら、加賀の生命にはすでに天城の死が宿っている。そう考えると、加賀は多分に安堵したし、雲龍の妹である天城の登場を心の深いところで喜んだ。この歓喜はしばしば浮上してきて、加賀のとりすました良識を斬りつけ、苦しめたが、加賀は可能なかぎりそれを無視した。
 赤城はどうだろうか。おそらく、彼女は、なにも考えていないだろう。あるいはすでに割り切っている。天城は雲龍の妹で、自分の姉とは関わりがなく、自分とも関わりはない。とくべつ意識することはひとつもない。それから、加賀のことを、かけがえのない相棒として信頼している。加賀にはわかるのである。
 その位置から立ち去ろうとは思わない。だれであろうと赤城のとなりをくれてやる気はない。「赤城」の傍らには「加賀」がいるべきだ、それが赤城と加賀の普通のはずである。
「赤城さん」
 加賀は小声で呼んでみた。
 赤城はまだ眠っていなかった。すぐに、
「なあに、加賀さん」
 と、かえされた。
 目があった。
(やはり、似ている)
 と思った。天城の目に似ている。姉の雲龍にさえ似ていない天城の目は、しかし赤城とは似ている、と加賀は感じないではいられない。
 暗がりのなかで、赤城がこちらを見ている。加賀の言葉を待っている。
 加賀はひとつの妄想をした。自分の妄想に恐怖した。
 このおだやかな目によく似た、今いる天城とは違う天城が、赤城に寄り添い、彼女にむかって、赤城がやわらかく笑いかけている。そういう妄想である。その笑顔を見られるところに、加賀はいない。
「赤城さん」
「はい」
「わたしは、あなたとともにある」
 と加賀は言い、赤城に背をむけて頭から布団をかむった。
「加賀さん」
 赤城が加賀を呼んだ。
「なんでしょうか」
「なんでもないですが、加賀さん」
「はい」
「ふふふ、加賀さん」
 赤城は加賀の名を呼びつづけた、歌うような調子で、なにか話をするでもなく、加賀さん、加賀さん、とくりかえした。赤城の、加賀の名を呼ぶ声は、あたたかく、ここちよかった。はじめは律儀に返事をしていた加賀の声は、そのうち寝息にかわった。
 それを確認してから、赤城は重い瞼をおとした。

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