――ずっと見ていたんですよ。ずーっとずーっと。だって、ほかにやることがなかったから。
古鷹の頭を腿にのせて、青葉はそう言った。なにを見ていたのか青葉は言わなかった。あおむけに体をたおしている古鷹は、目をほそめて青葉を見つめた。青葉が背をあずけている大樹の枝葉のすきまからふりそそぐ日射しがまぶしかった。
「艦に魂というのがあるのかないのか、よくわかんないですけれど、あるとしたら、青葉の場合は、だから、呉で過ごしたさいごの、ほんのすこしのあいだにうまれたものなんじゃないかと思います。記憶にあるの、そこだけだから」
「青葉の記憶に、わたしや、加古や衣笠はいないの」
古鷹は眠たげな声で言った。とろとろとまどろみがまぶたにおちてくる。
「あるような、ないような……でもそれはたぶん、記憶じゃなくて情報なんだと思います。青葉が自分でみたものじゃなくて」
いつもの闊達さからはかけはなれた抑揚のない冷えた声だった。
古鷹は青葉がする話にたまに相槌をうったり、問いを投げかけたりしたが、青葉はそれに答えるものの、なんとなくずっと、独り言のような調子で話しつづけた。なぜこんなことを話してくれるようになったのか、古鷹にはまだわからない。話しおわるころにはわかるだろうか、あるいはおしえてくれるのだろうか、いまは別人のように暗い翳をやどしている、この青葉が――
「死んだら魂ってどこに行くんでしょうか。本、たくさん読みました、こんな姿になってからですけれど。あの世ってひとくちに言ってもたくさんあるんですよね、青葉の魂がほんとうはどこに行くはずだったのか、考えちゃったんです」
青葉の魂はどこにもいかなかった。巡洋艦・青葉が接収されて解体されても、青葉の意識はそのときには艦からすっかりきりはなされて、ひとところに留まりつづけた。
「それよりまえは」
と青葉は言って、ふいに古鷹の前髪をなでた。無意識にそうしてしまっただけかもしれない。無聊をもてあました手がさまよってたどりついたのがたまたま古鷹の前髪だっただけかもしれない。
なんといっても青葉はさっきからすこしも古鷹のほうを見やしないのである。
「ここでなにしてるのかなって、ずっと考えてて」
古鷹を見ない青葉を、古鷹は見つづけている。青葉の言葉をなかばまどろみのなかで聞いている。まぶたをとじないようにそこだけはいっしょけんめいにがんばった。
「なんでここにいるのかって考えてて、戦争がおわるまえは、わかってたことが、おわった途端にわかんなくなったんです。そりゃ、そうですよね、だって艦なんてもうないのに、なんだってここにいるのか、わかるわけないじゃないですか。きっとなんの意味もないじゃないですか」
鼻をすする音がした。青葉は泣いているのだろうか。あるいは自嘲して鳴らしただけだろうか。古鷹にはやっぱりわからない。
「だから、けっきょくやることなんて、ひとつしかなくて、おんなじように、ずっと見てたんです」
青葉はそう言った。なにを見たのか、青葉はけっして言わない。ずっと見ていた、くりかえしそう言って、でもなにを見ていたのかは、どうしたって言わなかった。
「そしたら、船が」
青葉の声がほんのすこし明るくなった。それにつられて、古鷹の眠気がわずかに去った。でもまだ、全然だ。いつもの青葉の声には全然たりない。まだ暗い。まだまだ濃い陰翳からまぬかれない。
「船が走ってた」
「それって、フェリーのこと?」
「そうです」
そこでようやく青葉は首をさげて、古鷹のほうに目をやった。さっき鼻を鳴らしていたのは、どうもやはり、泣いていたせいだったようで、目尻がしめっていた。
「時系列っていうか前後がでたらめな話になっちゃいますけれど、青葉は、それで、――あっ、これのためだ、って思いました。これを見るために、ここに残ってたんだと思ったんです」
そう言って青葉は古鷹の前髪を撫でた。撫でるというより、少々長めの古鷹の前髪にかくれた両目をしっかりと視界におさめるために、かきわけるように。
「フェリー、見てたんだ、ずっと」
「はい」
でも、と、古鷹が、言って、ただ、と青葉が言った。
――そのフェリーは、いま走っていない。
それなら青葉は、なにを見るためにここにいるのだろうか。
海が人類にとってたいへんに危険な場所になって、だいぶん月日が流れた。
海は太古から危険しかないところだ、と海を知る者たちは言うかもしれない。
しかし、どれほど天候がよくて、波がおだやかでも、内海の二つの港を繋ぐ船一隻走ることもできないのは、やはり異常事態としか言いようがないし、その異常事態をなんとかするために、自分たちはこうしてまた、かつてとはちがう姿で、それでもおなじ名を背負って生まれてきたのだろう。
みながそう信じて戦って、戦いつくして、それでもまだまだ全然たりないけれど、ひとまず内海からは異常生命体による危険はなくなった。外海に出ると、まだまだ危険は多いけれど、港に近いところでなら、すくなからず漁を再開できるところまで回復できたのはすなおに喜んでいいだろう。
それでも、フェリーはまだ走っていない。フェリーにその名を与えつづけているかれら≠ヘ、運行を再開しないたしかな理由を、古鷹たちにはおしえてくれなかった。
古鷹の頭を腿にのせた青葉は言った。
ずっと見ていたんです。
そう言って乾いた笑声をはなった。
青葉はもはや古鷹を見ていない。
古鷹は青葉から視線をはずして、すこし頭をまわした。
そうやっていま青葉が見ているだろう景色をみた。
この場所から、かつて青葉が見ていたものは、けっして見えない。
よく晴れた古鷹山で、ふたりは呉の軍港を遠く見ていた。
了