名前を呼んで

 さやかに名前を呼ばれるのが、まどかは好きだった。
 優しい声が、まどかのちょうど前髪のあたりに落ち、長い指が、まどかの小さな手をつかむと、とびきり明るい笑顔がふりそそいでくるのである。
 さやかに手をひかれ、まどかは見滝原じゅうを歩きまわった。繋いだ手を介してあらゆる想い出を共有し、気持ちを通い合わせた。
 さやかに手を握られているかぎり、目をつむってでも歩けた。怖ろしいと感じることなどなにもなかった。
 しかしながら、まどかを慈しみ、守ってくれたその手は、ある日にわかにまどかの目の前から消えた。
 化物となってまどかに襲いかかったさやかが、はげしい炎と轟音の中にしずんだ時、まどかはさやかのぬくもりに再び触れる機会を、永久にうしなったのである。
 あとに遺った黒い小さな塊だけが、まどかの触れられるさやかの全てとして、今手の中にある。
 月明かりのさしこむ部屋で、ベッドに潜りこんだまどかは、固く握りしめた指を時々ひらいて、その黒い冷たい輝きをもつ塊をみつめた。
 この塊はかつてさやかだったものである。あるいはさやかそのものである。まどかの手を握りかえさず、名を呼ばないこれがさやかであることなど、まどかには到底受け入れられないことだった。
 まどかは目をつむった。
 そうやって、まださやかがいた頃の甘い記憶に浸ろうとしたのである。その記憶の世界は、目をひらいた時にいやおうなく映る世界よりも、ずっと優しいに違いなかった。
 幻の声が遠くに聞こえた。おぼろげな影があらわれ、やがて輪郭を形づくった。が、想像の世界はそこが限界だった。声は一向にこちらに近づいてこず、影は表情をともなわなかった。
 まどかは、いよいよ哀しみ、その世界に耐えきれなくなって、目をひらいた。
 手の中にさやかのグリーフシードがある。まどかはぎゅっと手を握り、いかなる声も発しない、微笑みかけもしないそれが、目に入らないようにした。
 ――まどか。
 そう、呼んでもらうのが好きだった。
 まどかの目から涙がこぼれ、枕に落ちる。
 その涙を拭う指も、慰める声も、すでにこの世にない。

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