空気が動いた。
まどかはそう感じた。
となりに座っているはずのさやかが、突然まどかに顔を寄せてきた。それに押された空気がまどかの肌を撫でたのだ。
驚いたまどかがさやかに向き直ると、青く澄んだ目が、鼻先にあった。
さやかの手がゆっくりとまどかのほうに伸びてくる。視界の端にそれを捉えたまどかに、とめどない不安とかすかな期待がむくりと頭をもたげる。
「さやかちゃん、ゲーム、の、続き……」
歪な笑みを口元につくって、まどかはテレビに首を戻そうとした。が、さやかの手がそれをゆるさない。視線だけが滞りなく目的の方向に移動できたが、それはさやかから目を逸らしたことに他ならなかった。
さっきから一言も喋らないさやかのいらだちが空気を伝ってくる。そのさやかの顔を見る勇気はまどかにはなく、ゲームオーバーになったプレイ画面から目をはずし、床に落とした。
「まどか」
温度の低い声で名前を呼ばれる。
応えたくない一心で、まどかは逃げるように体を後ろに傾け、手をついた。コントローラーが床に落ちる。
これからなにをされるのか、まどかは知っている。こんなことは一度や二度ではなく、何度も繰り返されてきたことだから。
「まどか――」
また名前を呼ばれる。なにをどうしろとは、さやかは言わない。名前を言えば通じると思っているのだろう。実際、そのとおりだ。それでもまどかは、それには応えないで、唇とぎゅっと結んだ。
いらだちはまどかにもある。さやかにそれがわからないはずはないのに、彼女はそれを無視する。
こういう時だけ、この気の置けない親友は信じられないほど身勝手になった。いつものようにまどかのわがままを笑って聞いてくれる人ではなくなるのだ。
まどかはそれがたまらなく嫌だった。
さやかをそうした別人に変えてしまうキスというものが嫌いだった。
キスはさやかを豹変させる。
さやかのことはもちろん好きだけれど、キスをされるのだけはどうしても好きになれなかった。つねに嫌悪感や恐怖心が先立つのだ。そのキスはまどかがこれまで想像してきたものとは全然違って、優しく触れるようなものでもなければ、甘く舌を絡めあうようなものでもなく、あえて言えば、まどかの体内にあるなにかをはげしく吸い上げ、奪ってゆくようだった。
まどかが欲しがるようなキスを、さやかは絶対にしてくれない。乱暴なキスに拒絶を示しても、してほしいキスを求めても、一度だって聞き入れられたことはない。
それでもまどかは、懲りずにさやかの唇を拒み続ける。
まどかの額に、嘆きの混じった溜息がかかった。
まるで自分が悪いことをしたかのように思われてきて、まどかの胸がチクリと痛んだが、次の瞬間には床についていた手をやにわに引っ張られ、まどかは仰向けに倒れるはめになった。
今度の胸の痛みは本物である。息が詰まり、まどかは思わず固く閉じていた口を開いてしまった。
さやかの体が覆い被さってくる。
視線がかち合った。
――ああ、この目がいけない。
まどかはまたしても諦めた。どれほどあがいても、やはり自分はこの目からは逃げられないのだろう、と。
もうまどかは、目を逸らす気にも口を閉じる気にも、なれなかった。
唇が重なる。
全てを奪われてゆく。
口づけひとつでまどかのあらゆるものを略奪するさやかも、そこから逃げる自分も、逃げながらさやかを求める全身のうずきも、そのなにもかもが、まどかは嫌いだ。
了