キスは好きな男の子と「そういう関係」になってからするものだというのが、さやかの常識だった。
まどかのことは大好きだけれど、そういう好きではないし、そういう関係でもない。
この日、初めて彼女が我が家に泊まりに来た。同じご飯を食べて、一緒にお風呂も入った。明日にはもう何も話すことがないかもしれないというほど、色んなお話をした。
同じベッドに入って、一緒に眠ることで、楽しい一日は締めくくられるはずだった。
それなのに、その楽しい一日の、その興奮は、今やすっかりさやかの体から抜け落ちて、ただ目の前でうつむき泣いているまどかをどうしたものか、そればかりを困惑した頭で考えていた。
おやすみ、とまどかに言った。すぐに「おやすみ」と返ってくるものだとばかり思っていたら、実際は言葉ではなくまどかの顔がやって来て、さやかの短い前髪を指でのけると、一瞬のあいだ額に唇をつけた。
そうやってから、ようやくいつものように柔らかく笑って、まどかは言った。
「おやすみ、さやかちゃん」
さやかには全くわけのわからないまどかの動作だった。
「んんー、ねえ、これ、なに」
ちょっと驚いてさやかが、指の腹で額をさすりながらその気持ちを素直に口に出して言うと、まどかのほうが驚いたように目を見ひらいて、
「え……」
と、か細い声を漏らした。
お互いにお互いの反応が予想外である。
「えっと、や、だから、さっきのは、なんで」
「だっていつも……あっ――」
今度ははっきりと驚きの声をあげて、それきりまどかは黙ってしまった。じっとさやかを見つめ、さやかが困惑した状態からさっぱり抜け出さないとわかると、やがて目に涙を溜め、それを見られまいとしてか、顔をうつむけた。涙はまどかの頬の半ばほどまで伝うと、シーツに落ちてしまう。
堪えようのない涙がはらはらとシーツに落ちる。期待していたものは決してくることがないという失望が、それであった。
さやかにはそんなことはわからない。わからないまでも、自分の不用意な言動のせいでまどかを泣かせてしまったらしいということは、さすがに理解できた。泣いたまどかを慰めるのが本来の仕事であって、泣かせるのではまるっきりあべこべだ。
さやかは自分の困惑はひとまず脇に置いて、力なく垂れ下がっているまどかの手に自分の手を添えた。
「いつも、っていうのは、いつもおうちでしてることなの?」
さやかは、せいいっぱい優しい声で言った。
長い沈黙のあと、まどかはやはり黙ったままではあったが、かすかに首を上下させた。視線はさやかと合わせようともしない。
「おやすみの前に、ママやパパと、そのー……キス、してるの、おでこに」
いざ口に出すとどうしようもなく恥ずかしい単語であることを、さやかは痛感した。
まどかはまた頭を下げたが、上がってはこなかった。頷いたというより、さらに深くうつむいただけだった。
が、さやかはそれを肯定と捉えた。まどかの泣いている理由もわかった。
さやかはすぐに心を決め、それまで持っていた常識を棄てた。それは破棄しても少しも惜しくない常識に違いなかった。
さやかはまどかの涙を指で拭った。それから、はっとして顔を上げた彼女の前髪をその指でかきわけて、あらわになった額に口づけた。
「おやすみ、まどか」
唇を離したのはそう言ったあとのことだから、まどかはちょっとくすぐったかったかもしれないとさやかは反省した。
まどかの顔を覗きこむ。涙はとまっている。呆然としていて、笑顔には戻っていないが、嘆きとか哀しみとかいった気持ちを取り除くことには成功したようで、さやかはほっと肩を撫で下ろした。
結局まどかはその夜のあいだに再び笑顔になることはなかったが、かといって不機嫌そうでも哀しそうでもなくて、ふたりで布団の中にもぐりこんだあと、遠慮がちにさやかとの距離をつめて、ついにはぴたりと体をつけてしまった。
さやかは少しも嫌がらずに、この小さな友達をしっかりと抱きとめた。
やがてふたりは眠りに落ち、朝がやってくる。
了