五感に気づいて

嗅覚

 最初に気づいた変化は匂いだった。
 その日、さやかはまどかと一緒に映画を観にゆく約束をしていた。
 家まで迎えにゆき、インターホンを押してほどなくして、玄関の戸がひらかれ、まどかが姿をあらわす。
 そよりとながれた風をつたって、さやかの鼻をくすぐる、それで気づいた。
 まどかは、髪型も、それをつくるリボンも、外出着も、「おはよう」という明るい声も、さやかのよく知るものであったが、一点、そこだけが違った。
 さやかはまどかの首元に顔を近づけた。驚いたまどかの肩がはねたが、かまわず、すんと鼻を鳴らして、シャンプーとも石鹸とも違う香りの正体をさぐった。
「まどか、なにかつけてる?」
 傾けていた体勢を戻し、返答を待つ。
 うつむき加減のまどかは、あの、とか、その、とかを何度か繰り返したあと、
「香水、ママに借りて……、ちょっとだけつけてもらったの……ちょっとだけ」
 と、声をしぼませながら言った。最後のほうはもはや言葉としての体を成してなかった。
 香水をつかったことがそんなに恥ずかしいのかというほど、まどかの頬は赤らみ、語気も弱々しかったが、今さやかは無性に、この急に背伸びしはじめた親友をからかってみたいという気になっているわけだから、まどかはそれが嫌だったのだろう。
「色気づいちゃって」
 さやかは白い歯を見せて笑い、まどかの頭をやんわりと撫でた。ほんとうは髪をくしゃくしゃに掻き乱してやりたかったのだが、髪型がくずれるのはさすがにかわいそうだと思い、しなかった。
 とはいえ、その程度の自重で、まどかの紅潮が照れから怒りに変わることを、とめられるはずもない。まどかはムッと口をとがらせて、湧き起こる様々な不満を「さやかちゃん」とその名に乗せてあらわした。
 香水以外のなにもかもが、さやかの慣れ親しんだものだ。家から出てきて最初に見せた笑顔も、恥ずかしげにふせた赤い頬も、今また見せているご機嫌ななめな唇も、そのどれもがさやかには愛おしい。かわいくて仕方がない。
 片腕を首に回してまどかを抱き寄せる。いつもとは種類の違う甘い香りがする。心地よい甘さである。実はこれはまどかのママの所有物ではなくて、娘のために用意したものではないかとさえ思えた。そう言われたら素直に信じられるくらいには、まどかの優しさを感じる香りだった。だから、さやかはやはり素直に、
「いい匂い――。似合ってるよ」
 それから、かわいいね、とつけたし、まどかを解放した。香水への褒め言葉なんぞさやかは知らないので、それが適切かどうかはわからないが、まどかの機嫌はさやかが抱きしめてやれば、だいたいはごまかされて直ってしまう簡単なものなので、
「んじゃ、そろそろ行こうか」
「う、うん……」
 腕を離す頃には、名残惜しげな目と甘えた声を発する唇があるだけだ。ちょっと背伸びしてみたところで結局はいつもと変わらない。まどかはまどかである。自分の見慣れたそれと同じだと、さやかは満足する。
 でも、今回ばかりは、まどかの不機嫌は完全には直らなかった。背中にそそがれる険の抜けきらない視線にさやかは気づかない。
 かわいいだとか、いい匂いだとか、そんな聞き飽きた言葉を言ってもらうために、わざわざ香水などをつけたわけではないのだ。

視覚

 翌朝、まどかは髪をおろしたまま登校して来た。どういう心境の変化だろうか。
 訊ねてみても「なんとなくだよ」と、どこか怒ってるような、投げ放つような言い方で答えるだけだった。らしくもない様子に、さやかは仁美と顔をみあわせ、揃って首をかしげる。
 まどかはさやかと仁美を置き去りに、ひとり早足で学校に向かう。
 昨日と同じ香水の匂いがその場に残された。
「まどか――」
 呼びとめるさやかの声は無視され、やれやれと溜息をついて、ふたりはまどかを追いかける。
 さやかも仁美も小柄なまどかと違い、女子としてはけっこうな長身である。それなのに座高はまどかとほとんど変わらないという、まどかにとっては甚だ理不尽な体の構造をしている。
 普段は歩幅の小さいまどかに合わせているくらいなのだから、ちょっと歩を進めるだけでもあっというまに追いついた。
 へたに声をかけたら、妙なところで頑固なまどかはよけいに拗ねそうだと思ったさやかは、仁美に目配せして、ここは黙ってまどかのあとをついてゆくことにした。
 時々思い出したように、まどかはこんなふうになる。
 まるでこどもである。中学生もこどもには違いないが、このこどもっぽさは小学生か園児のそれだ。
 そんなところがかわいくて好きなのだと正直に口に出して言えば、まどかはさらに怒るだろうけれど……。
 この日以来、まどかの歩き方が少し変わった。猫背がちだったのがぴんと背筋を伸ばして歩くことが増えた。というより、意図して変えようとしてはうまくゆかず、その都度修正しているような感じだった。うまくいっている時の歩き方は仁美のそれと似ている。ただし、体格が仁美と比べてちんちくりんなので、あまり格好はつかなかった。せめてあと三、四センチは身長があれば、とさやかは勝手にまどかの努力を惜しんだ。
「あれ、仁美が教えたの?」
 まどかより数歩うしろを歩きながら、さやかは声をひそめて仁美に訊いた。仁美はゆるやかに首をふるだけだった。しかし、最近やけにまどかに見られている気がするのは確かだった。そうさやかに言った。まどかは仁美を観察対象にして、彼女の仕草を自分なりに実践しているらしい。
 それにしても、近頃のまどかはいったいどうしたことだろう。香水といい歩き方といい、突然――ほんとうにまったく突然、妙なことをやりはじめた。
 が、さやかも仁美も親友の奇行(ふたりにはそう見えた)をふしぎに思いながら、それ以上は特に深く考えることもなく、まあ、まどかもそういう年頃なんだろうという方向であっさり納得した。
 鹿目まどかというのは、このふたりの親友にとってそういう少女であったのである。

聴覚

 最近、まどかに名前をよく呼ばれる。ふたりきりの時は顕著である。別段用があって呼んでいるわけではないから、さやかが「なに?」とでも一言返せば、そこで終わってしまう。それが断続的に発生する。
 呼ぶたびに声の調子をいちいち変えてくるから、まどかにしてみればちゃんと意味はあるのだろう。どんな意味かはわからないし、さやかにはそれを含めてもあまり意味がないことのように思われたが、もとよりまどかに名前を呼ばれるのは嫌いではないし、わずらわしいと感じることもなく、呼ばれるたびに応えた。
 まどかの部屋で、たあいもない会話を楽しんでいた。ふっと会話が途切れて一瞬、部屋の中が沈黙した。
 まどかはまた、
「さやかちゃん」
 と、その名前を呼んで、さやかも、
「うん、なに?」
 と、返した。
「さやかちゃん」
 まどかを重ねて名前を呼ぶ。名前を呼ぶごとにわずかばかりのふたりの距離を縮めてゆき、ついにはさやかの懐にすっぽりおさまって、鼻先を胸におしあてた。
「さやか、ちゃん」
「どうしたの、まどか」
 さやかはまどかの背に腕を回した。
「わたし、さやかちゃんのこと好きだよ」
「うん。あたしもまどかのこと大好き」
「さやかちゃんのこと、愛してる」
「あたしも、まどかのこと愛してる」
 まどかは片手をあげて、さやかの胸に添えた。
「さやかちゃんは、ずるい」
「………」
 それきり、まどかはさやかの名前を呼ぶのをやめてしまった。
 添えていた手でそのままさやかの服を掴み、すすり泣いている。
 さやかに「好き」と言われると、まどかの頬はさっと朱色が走った。さやかに「愛している」と言われると、まどかの鼓動は高鳴った。さやかは同じことをまどかから言われても、赤面することも心臓の音が早くなることもなかった。言われて嬉しいのは当然そうであるが、まどかに比べてその感動はどこか温度の低いところにとどまっていた。
「ずるいよ……」
 かすれた声でまどかは言った。
 香水をつけはじめる以前に言われて、ついぞ改めなかったことだった。

触覚

 唇を合わせるだけのキスをしたことは何度もある。舌を絡ませたことはない。
 さして大きくない乳房を揉んだことは何度もある。その先端に触れたことはない。
 柔らかな尻や腿を撫でたことは何度もある。それより中心に指を沈めたことはない。
 それがさやかがまどかとのあいだにひいた境界線だった。
 まどかにも自分がしている以上の愛撫はゆるさなかった。まどかが舌を伸ばしてきても口内に差し込ませなかった。
 さやかは依然まどかのことを親友だと認識している。他の者が知ればそれはとうに親友としての境界を越えていたに違いなかったが、とにかくさやかは、あくまでまどかの親友としてまどかの友情に応えている、という立場に自分を置き続けた。他人の感覚はどうあれ、さやかはそのつもりだった。
 まどかに想われていることは知っている。それがどういった分類のされるものかもわかっているつもりである。
 だが、さやかの目には、まどかのそれが恋と言うにはあまりにも幼い感情としか映らなかった。思春期特有の熱病のようなものだと言いきってもよかった。女らしさに欠ける自分に生臭みを排除した男性像を投影して、擬似的な恋愛感情に陥っているだけなのだと信じた。
 まどかの気持ちを無視したくないが、求められるもの全てには応えられない。そんなことをして、いつかまどかの熱が冷めて真っ当な恋をすることになった時、まどかが後悔するようなことがあってはならないのである。
「さやかちゃん……」
 だから、そんなふうに名前を呼ばないでほしい。口の中にわずかに覗かれる舌に自分のそれを絡ませたくなるから。
 そんなふうに触れてこないでほしい。全身を愛撫してあげたくなるから。
 そんなふうに見つめないでほしい。自分が持っているものでまどかの欲しがるものは全部、一つ残らず与えたくなるから。
 さやかはまどかをしっかりと抱きしめ、小さな唇に自分の唇を重ねた。二度三度と離しては触れ、四度目の時に舌を出し、まどかの唇に当てた。まどかは驚いて、いったん唇を離してしまったが、すぐに戻して、口をひらいた。
 ――ああ、でも、まどか、それは駄目なんだよ。
 さやかはまどかの口の中に自分の舌を入れなかった。ぐるりと舌を回してまどかの唇を舐めると、すぐに引っ込めてしまった。
 さやかは唇を離す寸前まどかの頭に手を乗せると、自分の胸に掻き抱いた。今まどかに顔を上げさせたくなかった。まどかの目を見るのがむやみやたらと恐かったのだ。

味覚

 ベッドの上に押し倒された。
 さやかとまどかとでは体格差も腕力の差も歴然としているが、不意をつかれればこんなものである。なにより、さやかには抵抗する気がない。
 自分の体臭が染み込んだシーツに体が沈む。
 覆い被さっているまどかは、まるで自分が襲われたみたいに怯えた目でさやかを見下ろしている。今にも泣きそうな情けない面構えだ。さやかにはそれがちょっとおかしくて、笑いたくなった。笑えばまどかは本当に泣いてしまうだろう。それくらい精一杯泣くのを我慢しているのがはっきりと見て取れた。
 肘を立て、伸ばして、上体を起こした。
 まどかがのけぞる。
 さやかはまどかの後ろの髪を指で梳き、ついで首筋を撫で、それからまどかを抱き寄せた。
 映画を観にいったあの日からつけ続けている香水の匂いがかすかにした。
「さやか、ちゃん」
 そう呼んだまどかの声には困惑の色があった。さやかの、というより自身の行動に戸惑っているようだった。自力ではどうにも処理できない感情の色だった。
「うん」
 まどかの肩口に顔の下半分を埋めているさやかは、くぐもった声で言った。
「これから、どうしようか」
 まどかの両腕はだらりとぶら下がったままで、さやかを抱き返してこない。さやかの問いにも答えない。さやかを押し倒してするつもりだったことを口にすべきかどうか、悩みに悩んでいるようだった。
「まどか、教えて」
 我ながら意地の悪いことを言うとさやかは思った。
 キスをしたいと言われたら、いつもどおりのキスをするつもりである。いつものキスしかしないつもりである。抱いてと言われてもやはり今までと同じままごとのような愛撫をするだけだろう。まどかにも、きっとそんなことはわかりきっているのだ。
 中途半端なところで手をとめているのは、自分が友達想いだからなのだろうか、それともただ勇気がないだけなのだろうか。勇気のない人間がさやかは嫌いである。すると、今の自分とはこの世でもっとも憎み、軽蔑すべき存在かもしれない。
 まどかが泣いている。しゃくりあげている。そのたびに肩がゆれ、それを抱いているさやかの体もつられてゆれた。
 さやかは体を離した。
 まどかの目尻や頬に唇を当て、舌で涙を舐め取った。唇の端につたう涙も同じように拭ってやった。けれど、まどかの望むところにだけは、どうしたって触れることがなかった。開け放たれたまどかの口には望むものはなに一つだって入ってこず、空気と自分の嗚咽だけを食み続けた。
 まどかの涙は、もちろん甘酸っぱいレモンの味などしなかった。

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