――デートしよう!
と言うのが、さやかの誘い文句だった。
冬休みもはじまったばかり、ちょうどクリスマス・イヴの朝のことである。連絡もなしに突然訪ねてきたさやかは、まどかの自室にずかずかとあがりこむと、部屋着に着替えたばかりの彼女に外出のための身支度をするように急かした。
「えっ、デートって……出かけるの? これから!?」
まどかは驚き、ついで困惑した。なにせ今さっき起きたところで、朝食もとっていないのである。
「だいじょうぶ、あたしもなんにも食べてない!」
元気いっぱいに言ったさやかは、まどかの抗議には聞く耳も持たず、それどころか勝手に服を見繕い、脱がせて、戸惑うまどかを半ば強引に着替えさせた。
「うん。かわいい」
さやかは上機嫌で言った。それから腋にまどかのコートをはさんで、その手に手袋を持ち、もう片方の手でまどかの手を引っ張ると、台所でまさに朝食の用意をしていたまどかのパパに、「ちょっと借りていきますねー」などと軽口を言って、風のような速さで外に連れ出した。
暗い色の雲と寒気があたり一帯を覆っている。
ごうごうとはげしい音が耳をつんざく。
――寒い。
まどかは本物の風に体をふるわせた。
さやかはまどかの肩にコートをかけ、手袋を渡した。まどかはそのコートのポケットに、かろうじて持ち出していた携帯電話と財布をとりあえず入れると、腕を通して、手袋をはめた。ひとつ、大きな息を吐く。多少気持ちを落ち着かせることができた。
それを確認したさやかは、またまどかの手を取り、
「よし、じゃあ、出発しよう」
と、やはりやけに活発な声で言った。元気なのはいつものことだが、どこか調子はずれであるようにまどかには感じられた。
そのはずれた調子のまま、さやかはぐいぐいとまどかを引っ張ってゆく。さやかは手袋をしていない。直接肌に触れられないのがなんとなくもったいなくて、まどかは手袋をはずしたくなった。が、力強く握りしめるさやかの手はそれをゆるしてくれそうにない。
「ねえ、さやかちゃん。どこにいくの」
「映画だよ、映画。だからまずは駅! 売店で朝ご飯買っていこう!」
うるさい風を押しのけるように、さやかはだんだんと声をはりあげていった。
朝食をはじめとして、今日は全てさやかがおごってくれるという。さすがにその厚意を素直に受け取るわけにはいかないが、ちらりと財布の中身を確かめてみると心許ないことおびただしかったので、まどかはさやかに対しては、いきなり連れ出したお詫びとしておごってもらうということで了承して、そのうちなんらかの形で――金銭そのままではとても受け取ってくれそうにないので――これを返そうと内心決めた。
駅構内の店で朝食を買い、電車に乗り込んだ。暖房がよく効いている。むわっとした独特の空気は何度乗っても慣れない。
ふたりは向かいあって窓際の席に座った。乗客の数は少なくなかったが、カップルらしきの男女の姿は思ったほど見なかった。
まどかはココアを一口飲んで口周りを濡らすと、もそもそと菓子パンを囓った。まずくはないが、とりたてておいしいというわけでもない。本当なら家でパパの作った料理をゆっくり食べていたはずなのに……と、それを考えれば、口に含んだパンを咀嚼する動きも自然と鈍くなる。
一方のさやかは、噛まずに丸呑みしているのではないかと思われるほど、食べ終えるのが早かった。今日の彼女はいやにせっかちである。なにをするにもせわしなく、落ち着きに欠ける。
まどかが最後の嚥下をするのと同時に、電車が動き出した。空席は発車直前にはほぼ埋まり、カップルも増えた。彼らの座席からは一様に甘ったるい空気が流れているようだった。こちらとは違って正真正銘のデートなのだから当然だろう。
さやかは朝の開口一番に「デートしよう」と言った。ただの言葉遊びである。デートとか嫁とか結婚とか、そういう言い回しをさやかが好んで使うというだけの話で、ふたりが実際に恋仲にあるわけではない。同性間特有の他愛ない冗談だ。
その事実をもどかしく感じることが近頃多くなったのは、なぜだろう。まどかは自分の心変わりがいぶかしい。さやかは昔からなにも変わっていないのに、さやかのそうした言葉や、まどかの名前を呼ぶ声が、そう言ってまどかを抱きかかえる腕や胸が、今までとは違うなにか特殊な色彩と温度をともなっているように、まどかには思われてならなかった。
だが、そんなはずはないのだ。さやかにはちゃんと好きな男の子がいる。まどかがひとりで妙な気分になっているに過ぎない。
その相手は今まで一度も、まどかのように甘い言葉をささやかれたり優しく抱き寄せられたことはなく、デートに誘われたことだってないに違いないのに、まどかがさやかと出会う以前から、もう長いことさやかの心を独り占めにしている。
紅潮した頬・艶めいた唇・爛々とかがやく目・よく通った鼻筋、それらは全て、上条恭介を想う少女美樹さやかの彩りである。かつてまどかが見惚れ、深く愛したものである。その彩りが、それをもっとも間近で見ているはずの自分のための存在ではないことが、今になってむしょうにくやしいのかもしれない。
――くやしい? どうして? さやかちゃんは友達なのに、どうしてそんなこと。
通り抜けてゆく景色に視線を固定したまま、まどかはもう何度目かも知れない自問する。絶えず話しかけてくるさやかとは目を合せず、気のない相槌を打ち続ける。
今までと違う色と熱をともないはじめたのはまどかのほうだ。さやかのスキンシップと、それをされた時の不可解な体温の上昇や動悸になにか特別な意味をもたせたくなって、その意味をめくらな目でさがしている。さがしながら、腹の底に沈殿するぐちゃぐちゃした正体不明の感情に、恋と名付けることを、無意識のうちに拒んでいた。
さやかの目当ての映画は、彼女の好きな恋愛物語でも冒険活劇でもなくて、推理サスペンスだった。宣伝ポスターの出演者一覧の一番下には、
友情出演 氷川きよし
と、ある。テレビの番宣やプロモーション映像でも、まどかの好きなこの演歌歌手がたびたび出ていた。本人役で出演しているらしい。さやかが選んだ理由はこれだろう。
ただし、まどかはこの歌手の歌が好きなのであって、歌いもしないたまのドラマ出演にはまるで興味がない。バラエティ番組もである。この映画にしてもそれを理由に観たいと思ったことはないし、もちろんさやかに言ったこともなかった。
今日のさやかは、やはりどこかずれている。普段であればこんな見当違いな気遣いはありえないことだった。
恋愛要素の無い推理映画なんてものは若い男女がわざわざクリスマス・イヴに観るものではないようで、朝の最初の上映ということもあって、客足は少なかった。
ストーリーの冒頭で、主人公の私立探偵の事務所のテレビに、ニュース番組にとりあげられた氷川きよしのコンサート映像が流れる。何千人という女性ファンが駆けつけたとか、老女や中年の主婦から中高生くらいの若い娘がいたとか、音声は主演俳優たちの声に阻まれてほとんど聞こえなかったが、そういうテロップの表示されたテレビ画面が結構長いことスクリーンに映っていた。彼の出番はその後、ファンのひとりが殺害され、容疑者に自分の同期の青年の名があがったことを知って一言二言気むずかしげに話す場面と、最後に音楽番組に出演している場面があった。
スクリーンが真っ黒になって、スタッフロールと一緒にあまり上手とは言えない場違いに明るいJ‐POP曲が流れはじめた時、
「映画の中で歌ってたやつのほうがよかったなあ……」
と、さやかがストローをくわえたまま、ぼそりと感想をもらした。吸い上げても紙コップにはもう飲料水は入ってなくて、溶けかけの氷がごろごろと音を立てるだけだった。
映画館を出てすぐに、さやかは携帯電話を取り出して、時間を確認する。
「お昼にはちょっと早いね」
ふたりは雑貨屋や服屋で特になにを買うでもなく昼食までの時間を潰したあと、ファーストフード店に入った。
「さやかちゃんさ」
まどかは言った。
「今日、なんか変だよ」
さやかが目をしばたかせる。
「そうかな? どのへんが?」
「全部……」
まどかは朝から今に至るまでのさやかの不可解な言動を挙げていった。さやかはその都度苦笑いを深めてゆく。彼女にも身に覚えがあることはあるらしい。
「あーそれは、……だってイヴにデートなんてするんだしさ、ちょっと浮かれちゃっても、それは仕方ないでしょ?」
ははは、と笑って、さやかはとんちんかんな言い訳をした。
――わたしは上条君じゃないよ。
まどかは心の中でつぶやく。いつも一緒に遊んでいる友達とイヴに遊びに出かけるだけで、今更浮かれたり緊張する理由がどこにあるというのか。
「まどかはなんともないの?」
「えっ――」
不意を突かれたかっこうのまどかは一瞬言葉に詰まった。
「だって、こんな、どこもかしこもクリスマス一色で、カップルが仲睦まじく体寄せ合って街中練り歩いててさ、そういうの見てたら……自分もそんな気分にならない?」
さやかはあたりを見渡しながら言った。それから視線を正面に戻してまどかをじっと見つめると、にこりと笑った。
きらきらとかがやくような笑顔が今のまどかにはなんだか腹立たしい。ムスッと口をとがらせたあと、
「ならないよ」
と、にべもなく言った。まどかにしてみれば、そんなものを意識したところで苦痛が生まれるだけだ。
さやかの言うそんな気分≠ノはならないが、なるほど、なんともない≠アとはない。こちらの都合などまるでお構いなしのさやかに、朝も早くからいきなり連れ出され、連れ回され、精神的には落ち着くいとまもなく、すでにくたくたである。ぐちぐちと自分なりに嫌味をこめてまどかは言った。が、その愚痴の大半は、
「ごめん、ごめん」
という適当な謝罪とともに、適当に流されていった。
店を出ると、雪が降っていた。
「お、ホワイトクリスマス」
さやかは機嫌のよい声で言った。
雪が降っているということは、それだけ気温がさらに下がったということである。さやかは手袋を持っていない。かわいそうだと思ったまどかは、あまり意味のある行為ではないが自分も手袋をつけないことにした。
「あれ、まどか手袋しないの?」
「うん。そんなに寒くないし、いらないかなって」
見破られるのがわかりきっている嘘をつく。
「ふうん。じゃあ、あたしつける。貸して」
さやかは言うやいなや、まどかの返答を待たずに手袋を取り上げた。ところがさやかは片方を腋にはさむと、まどかの手を持ち上げ、手袋をはめてしまった。
「ちょっと、さやかちゃん――」
「いいから、いいから」
もう片方の手袋を自分の手にはめ、残った手でまどかの同じく手袋をしていない手を握り、自分のコートのポケットに押し込んだ。
「これでよし!」
自信満々にさやかは言った。
手袋につつまれた指が急速に冷えてゆく。耳や鼻も冷えて痛くなってきた。ただポケットの中の手だけが、店にいた時と変わらない温度を保ち、やがて高熱を帯びはじめ、だからまどかは、めちゃくちゃに泣きたくなった。
結局まどかは日が沈むまでさやかに付き合わされた。
自宅前に着くまで、ポケットに引き摺り込まれた手は切符を買う時などにごく短いあいだ解放されるだけで、ほとんどの時間はさやかの長く大きな指にからめとられたままだった。
さやかがポケットから手を出す。手袋もはずして、まどかに返した。そのためにまどかの手を離した。ここでようやく本当に、まどかはさやかから解放されたのだった。
足元には雪が積もりはじめている。空は雲が厚く広がり、星も月も見えない。外灯と家の中からこぼれる明かりが、寒さに赤らんだふたりの顔を照らしている。
さやかは鼻をすすって笑った。笑っているのに、なぜだか哀しげ陰翳が彼女の笑顔にかかっていた。それが気になって、まどかは中々背を向けられない。体を反転させなければ家の中には入れないのに、できなかった。
「……さやかちゃん?」
さやかちゃん、どうしたの。何度かそう声をかけてみたが、さやかはなんの反応もしなかった。微動だにせず、さっきつくった笑顔のままで、まどかを見ている。
まどかはいよいよ心配になって、一歩二歩とさやかに近づき、さやかの手を取って顔をのぞきこんだ。
その手はあっというまに剥がされ、所在を失ったまどかの手首をさやかの手がつかまえた。空いた手をまどかの腰に回し、ぐいと自分の体に引き寄せる。さやかの豊かな胸に顔を押しつけられ、まどかはにわかに息苦しくなった。首に力をこめてそこから逃れると、目前にさやかの顔があった。
夜の暗さとは無関係にさやかの額に落ちる翳の、なんといううつくしさだろうか。まどかはめまいさえ覚え、さやかに腰を支えられていなければ、雪の積もる地面にへたりこんでいたかもしれない。
ひどくいびつな笑みが、まどかに近づいてくる。
まどかの心臓が大きく音を立てる。さやかと接触している箇所にこもる熱が俄然勢いを得て体の天辺に昇ってゆく。
まどかはここで、いかにしてでもさやかを拒むべきだったのだろう。まどかの想像している間近の未来は友達同士でするものではないのだから、さやかとこれまでどおり友達でいるつもりなら、なすがままにされてはいけなかった。
しかし、まどかはなにもしなかった。目をつむり、甘い妄想に身を浸して、動こうとしなかった。この時点で、まどかはさやかの心を虜にする上条恭介の存在を全く忘却した。
「ごめんね」
乾いた冷たいものがまどかの唇をほんの少しだけ押す。短いくちづけだった。それでもまどかは、そのくちづけによって幸福につつまれてゆく自分を確かに感じた。
「まどか……、ごめん……」
震える声と吐息を置いて、さやかの唇は遠ざかっていた。
目を開いて、まどかはぎょっとした。さやかははらはらと涙をこぼしていた。まどかの手と腰から離した両腕をだらりとさげ、顔をゆがめて泣いていたのである。
その泣き顔にまどかはそっと手を伸ばした。
「さやかちゃん」
まどかは慈しむというより歓喜を抑えきれないといった感じの声で、
「さやかちゃん、わたし、だいじょうぶだよ」
いつもさやかがそうしてくれるように、目尻に指を押し当て、彼女の涙を拭った。
「謝らなくていいの。わたし、さやかちゃんにキスしてもらえて、すごく嬉しかったから。だから、さやかちゃん、泣かないで――」
まどかの声も震えている。それはさやかの震えとは全然違って、寒さのせいでもなくて、ただただ愉悦に全身を震わせているのだった。
まどかの言葉が、はたしてさやかに聞こえていたのか、どうか。
「デートしたらわかると思った。今日はクリスマス・イヴだから、なにかあっても周りの空気が助けてくれるから」
さやかは、ぽつりぽつりと語りはじめた。目の前のまどかに対して話しているようで、誰のことも目に入っていないような、そんな声だった。
「まどかの気持ちに初めて気づいた時、――まどか、ごめん。あたし、まどかのこと気持ち悪いって思った。告白されたらどうしようって考えると怖くて仕方なかった」
ガツンと後頭部を殴られたような鈍い痛みが走った。まどかにはさやかがなにを言っているのかさっぱりわからなかった。
「告白されても、あたしにはまどかの気持ちを受け入れられない。でも、否定したくなかった。まどかの気持ちを拒否したくない。友達だから。ずっと大好きな友達でいたいから。まどかがあたしのこと好きでいてくれるならそうしてほしい。まどかが、あたしから離れていくのなんて嫌だから。でも」
さやかの言葉はそこで一端途切れた。
――さやかちゃん、なんの話をしてるの。どうしてそんなこと言うの。告白? わたしの気持ちって? わたし、そんなの知らないよ。わたしの、そんな気持ちなんて、知らない。……
まどかは胸のうちから湧き上がる疑問を一つも口に出して言えなかった。ぐるぐると頭の中だけをめぐり続けた。かろうじて搾り出せたのが、
「さやかちゃん、やめて……」
という泣き言だった。
その感情に名前を付けてはいけないのである。正体不明の感情は正体不明のまま、腹の底に留めて、決して表に出してはならないのである。そんなことをすれば、さやかがまどかの傍から離れていってしまうかもしれないのだから。
「でも、やっぱり駄目だった。あたしじゃ駄目なんだ。たとえまどかでも、女の子に、恋、を、されるのは」
「やめて!」
まどかはさやかに取り縋り、泣き叫んだ。
それでもさやかはとまらない。
「いっそあたしの勘違いだったらよかったのにって思って。まどかがあたしのこと、そういうふうに好きなんだっていうの、全部あたしの思い込みだったらって。もしそうなら、まどかにキス、しようとしても、拒んでくれる・嫌がってくれるはずだって。まどかの嫌がることなんて、したくないけど、どうしても確かめたくて、あたしは……」
「やめて……やめてよ! もう言わないで!」
「ごめんね。あたし、自分のわがままで、まどかのファーストキスとっちゃった」
「いやだ。こんなこと、わたし、いやだよ。ねえ、さやかちゃん……いやだよぉ……」
まどかは泣き続けた。泣きやんださやかの代わりであるかのようにはげしく泣いた。けれども、さやかはまどかの涙を拭ってはくれなかった。なにものも映していないかのような虚ろな目をまどかに、もしかしたらただ自分の足元に、落としているだけかもしれなかった。
初めて見るさやかのそうした目が怖くなって、まどかはさやかの胸に顔を押しつけ、彼女のコートに涙をこすりつけた。
さやかはまどかを慰めてくれない。涙を拭ってくれず、かなしむまどかを抱きしめてもくれなかった。まどかはさやかと密着しているはずなのに、まどかの知っているさやかはそこには全く存在しなかった。
やがてさやかに縋っていた自分の体を支えきれなくなり、まどかは膝から崩れた。まどかのうちで、さやかに触れているものは、ついになにもなくなった。溢れ出る涙は頬をつたって、そのまま地面に落ちると、あとは消えるばかりだった。
さやかは、やはり、なにもしてくれなかった。
了