薇屋敷の風景

 町の高台のてっぺんには大きな屋敷があって、そこは薔薇屋敷と呼ばれる、元華族だか結菱家の当主の住んでいるらしい古めかしい洋館なのであるが、小さい頃、双子の姉の翠星石が言うところの「知的探究心」とやらで一緒に訪れた時には、いったい、もうだれが住んでいるのかというほど庭は荒れ、人の気配も感じられなかった。
 が、人は住んでいる。この屋敷の住人はみんな、いくらか時代にとりのこされつつ、今でもちゃんと生活していた。
 蒼星石が二度目にこの屋敷を訪れたのは、中学二年生の時、夏が立ってからそう何日も経っていない日曜のことである。
 蒼星石は、時計屋を営む養父に言われ、修理済みの時計を届けにいくことになった。持たされたのは懐中時計だった。
 あそこの家の人はめったなことでは外に出ないと養父が言っていた。時計も郵送だったらしく、そのあたりは徹底している。
 時計屋と薔薇屋敷とは目鼻の距離だし、むこうが郵送だったからといって、こちらから届けるのにわざわざそれを頼る必要もない。
 そんな理由で、蒼星石は、再び薔薇屋敷を訪ねることになり、その時ようやく、まだあの屋敷に人の住んでいることを確認した。
 蒼星石は、時計の納められている箱を鞄にいれて玄関を出た。

 薔薇屋敷は思ったよりも近かった。
 長い坂道を上るのはたしかに苦しかったが、以前よりもはるかにすばやく到着した。
 当然だ、一度目の訪問は小学生、それも低学年の時で、二度目の今は十四歳になる年のことのである。
 薔薇屋敷の庭は数年前となんら変わらず、荒れた状態を保っていた。
 景色は蒼星石の記憶とそう差のあるように見えなかったが、しかしひょっとすると、当時よりもさらにひどくなっているかもしれないし、あるいはまた逆に、いくらかマシになっているかもしれなかった。
 物々しい扉をたたいて、開かれるのを待っているあいだ、蒼星石はまた庭園に目を向けた。枯れた薔薇たちが痛々しく感じられた。
 せっかくの薔薇園を、どうして手入れしなくなってしまったのだろう。昔はとても綺麗な庭だったらしいのに、もったいない。蒼星石はひとりでかってに残念がった。
 扉が開かれ、眼鏡をかけた初老くらいの男があらわれた。
 執事という人かな、そんなことを考えながら、蒼星石は、柴崎時計店です、と言って、恭しく頭をさげた。
 男性は少しばかり驚きの表情を眉間につくると、蒼星石に名前を問うてきた。蒼星石がそれに答えて言うと、かれは眉間に皺を増やし、さらにあれこれと問質を続けた。蒼星石が一つまた一つ答えていくと、男性はようやく眉をひらき、蒼星石を屋敷内へ招き入れた。よくわからない、男性の態度だった。
 ともかくも、蒼星石は扉を開いたこの男性に案内されて、屋敷の主人がいるらしい奥の一室に迎え入れられた。
 車椅子に白髪の多い老人男性が座っていた。
 屋敷の主人の結菱一葉である。
 かれは、ようこそ、とでも言いうように、右手を上げてひらいた。
 蒼星石は会釈して、それから鞄にしまわれている箱をとりだし、一葉にわたした。
 一葉は、ここまで蒼星石をともなってきた男性に言いつけて、箱の中を検めさせた。
 しばらくして、蒼星石の耳に、しわがれた声が聞こえた。
「ありがとう」
 と、一葉は言ったのである。

 そのあと、蒼星石は一葉のお茶につきあわされることになった。
 それはとくに珍しいことではなかったので、蒼星石は、この突然の誘いにさほど慌てず、おとなしく一葉とテーブルをはさんで椅子に腰かけた。(お客さんも、時計屋まで修理に出しにこられても、かならずしも受け取りにこられるわけではなかった。なかなかそのようなひまをつくることができない人もいる。そういう時、蒼星石や翠星石が修理された時計を届けにいくことは何度かあったし、お客さんもたいてい近所の顔見知りだったために、
 客間までおじゃまして話し相手になることも、これまた何度かあった)
 しかし落ち着かない。蒼星石は居心地の悪いものを感じていた。
 こんな大邸宅の一室でお茶をすすめられたのは、初めてのことである。そもそも会話がない。
 一葉はなにも喋らない。蒼星石も話題をふらない。正確にはふれない。彼女はそういうのは苦手だった。
 かける言葉もなく、視線の置き所にも困った蒼星石は、外の薔薇園に、ちらちらと目をやった。
 薔薇園を見ては慌てて視線を戻し、ごまかすようにカップに唇をあてた。
「この屋敷には、庭を手入れできるような人間はいない。昔はいたが、今はいない。庭師はわたしが、逐ってしまった」
 そう言われて、蒼星石はどきりと肩をふるわせた。
 焦る蒼星石を無視して一葉はまた言った。「それよりも」
「きみは、柴崎元治の娘らしいが、あそこは男の子どもがひとりだけで、その子はもう何年も前に亡くなっている。そのあと、新たに子をさずかったという話は、ついぞ聞かなかった」
 他愛ない茶飲み話に上らせるような話題ではない。
 どういう意図でそんなことを言ったのか、蒼星石は探ろうとした。
 一葉の目は手に持っているカップに注がれている。
 ふせ目がちな、皺の多い顔から、表情を読みとることはできなかった。
 とりあえず、ここ数年は双子の姉と共に居候も同然であの家に入り浸っていて、昨年の秋頃、正式に柴崎夫妻にひきとられた、ということだけ説明した。以前の癖でいまだに「おじいさん・おばあさん」と呼び続けていることは、教える必要のない部分だろう。
「そうか」
 一葉は、はなはだ短い言葉を蒼星石に寄越してきた。
「夫妻の息子さんのことは知っているかね」
 蒼星石の返答を待たずに、一葉は続けて言う。端から返答を待ってなどいないようだった。
「一樹くんだったかな、名前は。事故にあったのは、九つ十つ……、そんな年齢の時だ。わたしの双子の弟の命日だった」
 そこまで話してから、一葉はいったん言葉を切り、カップの中身がからになるまで飲んだ。
 蒼星石は当惑した。
 どうしてこんな話を、この老主人が、蒼星石に言って聞かせるのかわからない。
 双子の姉の存在を教えたからなのか。
「わたしは柴崎夫妻の顔を知らない。会ったことがない。死んだ弟の二葉に夫妻とのつきあいがあったのでもない。ただ、下の商店街に腕のよい時計職人がいるということは知っていた。その家に男子が生まれたことも」
 気づいているのか、いないのか、蒼星石の心の疑問に答えるようなかたちで、一葉は言った。
 柴崎一樹の死から一月ほど経って、柴崎夫妻の様子が薔薇屋敷まで伝わってきた。幼い息子を亡くした夫妻の憔悴ぶりは、それはもうたいへんなものであるらしく、妻のマツはついに寝込んでしまい、柴崎元治はそれでも生活のために、いつまでも店を閉じているわけにはいかず、傷心のなかで仕事をしている。そういう話である。
「きみがたぶん今思っている、そのとおりのことだよ。夫妻の息子さんの死とわたしの弟の二葉の死はなんの関係もない。命日が同じという、ただそれだけのことだ」
 一葉のカップはからのままである。
 蒼星石のカップにはまだ少しのこっているが、もう冷めきっているだろう。飲む気にはなれない。冷めているせいではなく、そんなわずかなことにも神経を回したくなかったのである。
「夫妻は息災かね」
 ふうと大きく息を吐いてから、一葉は訊いた。
 蒼星石は、はい、と答え、今の柴崎夫妻がいかに元気かということを、途切れ途切れの言葉とかすれた声で伝えた。唇も喉もすっかり渇いていた。
「それは、よかった」
 そう言った一葉の表情が、先ほどまでより明るいものになっている気がした蒼星石は、やっと緊張が解けたようで、ほっと小さな息をもらした。
「庭の手入れはできても心の手入れはいかんともしがたいものだと、逐われた庭師は言ったが、そうでもない」
 話はそこで打ち切られた。
 蒼星石は屋敷を出た。
 空の色に大した変化は見られなかった。
 時刻は夕頃になっていたが、夏のせいか、日が陰るにはまだまだ時間がかかりそうだった。

 五月も中旬にさしかかったあたりから、やけにメランコリックな蒼星石は、今日も朝から晩まで陰気で眉を顰め、まったく、どこか遠くを見るような目で、ボーっと物思いに耽っているようだった。
 もともと鬱に走りやすい性格だけれども、そのうち本格的なうつ病になりやしないかと、翠星石は時々心配になる。
 就寝時間だというのに、とっくに電源を消されている真っ黒なテレビを頬杖ついてぼんやりと見つめている(でもたぶん見ていない)蒼星石に顔を近づけ、
「恋煩いでもしているですか」
「へぁ?」
 訊いたら素っ頓狂な声をあげられた。
 同じ作りの目が翠星石に向けられたが、どう考えても翠星石を映していない。どこまでぼんやりしているのだろう。
「おじじもおばばも、もう寝たですよ。オヤスミ言われてオヤスミナサイって返事したの、覚えていますか」
 と、翠星石に言われ、蒼星石はちゃぶ台に置いていた手を離した。
 一緒にテレビを見ていたはずの父母の姿がない。
 夕食前に座った時より翠星石との距離が近い、ような気がする。
 その翠星石が、ずいと膝をすすめて、蒼星石の顔を両手でおさえ、自分のほうへ向かせた。
「薔薇屋敷に行ってから、なんか変ですよ」
「そんなことないよ」
 ボーっとしているわりに、こんなことばかりは、きっぱりと答える。いつもこうだ。ゆるやかな動作で、顔をはさんでいた手をのかされた。翠星石はとくに拒まず、おとなしく腕をおろした。
 ちゃぶ台を横に、向かいあって正座する。
「変です」
「変じゃない」
「このところずっと、様子がおかしいです」
「おかしくない」
「じゃあ、なんでそんな鬱々顔、四六時中さらしているですか」
「さらしてない」
 と言いつつ、蒼星石の首は、少しずつ垂れさがっていった。これだからおかしいのだと言っている。
 翠星石は、わかったです、とくぐもった声で言ってから、ふたたび蒼星石の顔をつかみ、
「でも、薔薇屋敷でなにがあったのかくらい、聞いても罰はあたらんですよね」
 と、真剣な表情で言った。
 わずかに愁眉をつくりながら、それでも、くぐもりからまぬかれた声で、彼女は言った。
 翠星石のそうした目を見たくない蒼星石は視線を逸らした。
 しかし、今度は手をのかせようとはしなかった。手はだらりと畳に落ちている。
「べつに、なにもなかった」
「なにもなかったってことは、ねーでしょう。なにかあったから、こんな――」
 翠星石は右手をいったん離してから、蒼星石の鼻をやんわりつまみあげた。蒼星石と目が合った。
「こーんな辛気臭い顔しているのです」
 蒼星石は少し顔を歪め、小さく口をひらいたが、何度か舌を転がすだけで、やはりなにも言わなかった。日頃は素直な性格の子でも、こうなるともう言及するだけ、さらに頑なさを強めていくだろう。素直といっても、心があけすけなわけではない蒼星石である。
 翠星石は手を離した。
「ま、いいです、今日は。とりあえずとっとと風呂に入ってくるがいいです。それでサッパリして寝るですよ」
 と言った彼女は、すでに夜着になっている。
「うん。ごめん」
 謝って、蒼星石は立ち上がった。
 翠星石はちゃぶ台の上のリモコンを手に取り、テレビをつけた。チャンネルはいじらず、消音にして、なにかのバラエティ番組を観はじめた。蒼星石が風呂から上がってくるまで、待っているつもりなのだろうか。
「やたら謝る癖、どうにかしたほうがいいですよ」
 テレビから視線をはずさないまま、翠星石が言った。
 どうやら機嫌をそこねてしまったようである。指で頬を掻きながら、蒼星石は居間から出た。

 わざわざ隠すことではないのかもしれない。
 けれども、わざわざ話さなければならないことでもない。
 そう思ったので、蒼星石は翠星石に、薔薇屋敷で結菱一葉から聞かされた話をひとつもしなかった。柴崎一樹の死やその時の夫妻の様子については、蒼星石も翠星石も以前から知っていることである。そこに加えて言うとことがあるとすれば、結菱一葉の双子の弟・二葉の話しかなく、その話は多分に人の死に関わる内容を含んでいるのに、二葉は柴崎家になんの縁もない。
 ――やっぱり、話さないほうが、いい。
 洗いざらい話して胸のもやもやを取っ払いたい気持ちはあるが、自分の一存で軽々しく口に上らせないほうがいい。きっと自分のためにもそうだ。湯船に浸かりながら、蒼星石はそんなふうに考えた。
 それにしても、風呂に入っている時は静かさのせいなのか、頭のなかが煩くてかなわない。こういう陰鬱な状態の時にはよくあることで、このまま考えごとを続けていると知らず長時間が過ぎてしまい、風呂で眠ってしまったのではないかと心配した翠星石が、いつも慌てて浴室の戸を――
「蒼星石!」
 ――開いた。
「あ」
 蒼星石はすっかりのぼせていた。

「風呂に入ってサッパリしてこいって言ったのに、なんで湯疲れしてやがるですか」
「あー、……ごめん」
 居間の座椅子にもたれかかって体をくつろがせている蒼星石を、翠星石がタンスからひっぱり出したうちわで扇いでいる。
「謝るの禁止。だれになにしたわけで謝っているです」
 翠星石に怒られて、謝罪以外の言葉をもっていない蒼星石は、黙るしかなかった。翠星石も黙って扇ぎ続けた。十数分ほど、ふたりはそうしていた。
 そのあと、蒼星石は翠星石に助けられつつ、ふらふらとした足どりで階段を上り、自室に入った。
 姉妹共同の畳部屋には、すでに布団が二組きちんと敷かれていた。
 敷いたのは翠星石である。湯疲れからまだ抜けきっていない蒼星石の思考でも、わかることである。
 謝るのは禁止されたのでお礼を言う。どういたしまして、と返された。
「じゃあ夜の睡眠を貪りますか」
 と、わざとらしく言って、翠星石が電気を消した。
 それから真っ暗闇のなかで、おやすみ、とお互いに言い、布団のなかに入った。
 こんな調子じゃなかなか寝つけそうにないと思っていた蒼星石は案外快眠、朝までぐっすり睡眠を貪ったが、逆に翠星石はよく眠れなかった。何度も寝返りをうって、そのたびにつむっていた目をひらき、いい加減暗がりに慣れてしまった頃、ふいに妹の寝顔が視界に入った。
 じつにおだやかな寝顔である。
 起きている時は翳りに顰めていた眉も、今は鬱気からまぬかれている。
 いい気なものだ、翠星石は溜め息を吐いた。
 けっきょく翠星石がろくに眠れないまま朝になった。
 歯みがき中、自分よりも遅くに起きてきた寝ぼけまなこの蒼星石から、話をもちかけられる。
「この週末にさ、図書館へ行きたいんだけど、つきあってくれないかな。探すの手伝ってほしいんだ」と。
 夢のなかでなにをひらめいたのか、この妹は。漱いだ口を拭うためにタオルをとり、
「いいですけど、どんな本を探すのです」
 と、訊くと、蒼星石は、
「えーっと」
 まだ覚醒しきってない頭で考えこむような顔をしてしばらく、
「園芸の本……、なの、かな」
 と言った。本人もあまりわかっていないらしい。
「園芸って、ガーデニングでも始める気ですか。だったら、おじじの盆栽……って、あ――」
 言っていて、はたと思いあたることがあって、翠星石は言葉をとめる。そして、
「薔薇屋敷の庭園の話ですか」
 と、蒼星石の顔を覗きこんで言った。
 はたして蒼星石の目が泳いだ。
 ただし、翠星石の問いに蒼星石は、なんとなくと答えた。
 お節介にもあのひどい薔薇園をどうにかしてあげようとか考えたわけではなく、ただなんとなく、その手合いの本を読んでみたくなっただけだという。そのきっかけに結菱の薔薇屋敷があることまでは否定しなかった。
 起きぬけの思いつきのようだし、たぶん嘘ではなくほんとうに、なんとなくなのだろう。翠星石もそれ以上の詮索はやめた。
 とにかく週末、図書館へ行けばよいのである。

 土曜日になってふたりは図書館へ行った。
 蒼星石も翠星石も園芸なんぞはまるっきり分野外のことなので、着くなり、それらしい棚にあるそれらしい本を切りよく十冊、あまり内容を確かめずに直感で借りた。表紙に薔薇の写真があるものなら、それほど間違いはないと思われた。
 帰ってからさっそく、蒼星石は十冊のうちの一冊を適当に選んでページをひらいた。文章はなにが書かれているよくわからないが、写真はどれも綺麗である。
 タンスに背をあずけたまま見とれていると、寝転がって大判本を読んでいる翠星石もそうだったらしく、
「ちゃんと世話されている庭って、綺麗なもんですねえ」
 などと、小さく息をもらしていた。
 それを聞いて蒼星石は、荒れ果てた薔薇屋敷の庭園を思い浮かべた。
 少しも世話のされていないあの薔薇園である。
 ふと、蒼星石は本から目を離し、翠星石を見た。横顔が両目に映る。視線に気づき、翠星石が顔をあげて蒼星石へ向きなおった。
「なんですか」
「いや、なにも」
 蒼星石は本を引き寄せて顔を半分隠す。
 ふうんと呟いた翠星石は、とくに気にするふうでもなく、また床の本に目を落とした。
 翠星石はどういう意味で言ったのか。
 蒼星石は翠星石をちらと見た。
 そんなに深い意味で――少なくとも薔薇屋敷を対比として――言ったのではないのかもしれないが、蒼星石はむしょうに引っかかりを感じてしまった。その引っかかりはおさまることなく、蒼星石の気分の落ち着かないまま、
 日が沈み・夜が明け・それがもう一度あって、休日は終わった。

 落ち着かない気分は月曜日になっても続いた。
 この頃になると蒼星石の変調はだれの目にもわかるものになっていた。
 そして、翠星石は蒼星石のそうした有り様に気を揉みつつ、
 同じように蒼星石を心配するクラスメイトの問いにどう答えたものか、それにも気を回さなければならなかった。
 五月中、ふたりはそんな感じだった。

 六月になった。

 六月の初めの日は、その月の到来を感じさせるに顕著な天候だった。
 朝から雨が降っていた。激しい雨で、風も強かった。それが三日四日と続いた。
 初夏にはまだ咲いていた花は、この雨風ですべて散ってしまうに違いなかった。
「こんな時季に結婚したがる人間の気がしれないわ」
 昨日か一昨日くらいに、翠星石のすぐうしろの席の水銀燈が、そんなことを呟いていた。
 たしかにそうかもしれない。翠星石は今さら同意した。
 その水銀燈は、昼休憩に入ると購買へ行くために教室を出、代わってその席に蒼星石が座った。
 昼食中は翠星石が一方的に喋っていた。
 蒼星石はろくに相鎚も打たず、翠星石の話を聞いているのか、いないのか、それすらわからない表情で、あいかわらず憂鬱に眉を翳らせていた。
 そんな蒼星石に、翠星石は内心苛々していた。どうしたのと訊いても、なにもないよとしか、蒼星石は答えない。だったら、もう少し元気そうに振る舞ってほしいものだが、そんな器用な真似などできない蒼星石は、それだから扱いづらい性格をしている。
 蒼星石の弁当をつつく箸の動きは終始重かった。先月からそうである。そして蒼星石の目は、休憩中も授業中も昼も夜も、一日中どこか遠くを見ている。
 それはどう考えても校内のどこにもないものであり、彼女がなにを見ているのか、把握しているのは本人を除けば翠星石だけだろう。
 言うまでもなく、薔薇屋敷しかない。
 薔薇屋敷を、蒼星石は彼方に見ているのである。
 なにがあったのか、そんなにあの高台の屋敷に未練があるのなら、いっそ腕を曳いて薔薇屋敷まで連れていってやろうか、と翠星石は思った。下校中、唐突にそう思った。
 思うや翠星石は蒼星石の手をひっつかんだ。
 蒼星石と違い、翠星石はこういう時に迷う性質を持っていない。
 肩からずり落ちる鞄を提げなおすひまも、傾く傘を持ちなおすひまも、もちろん抗議を言うひまも、翠星石は蒼星石に与えなかった。
 妹の腕を曳いて一路薔薇屋敷へ――
 翠星石にとっては数年ぶりの、蒼星石にとっては五月以来の薔薇屋敷訪問である。

 傘など差していないも同然だった。
 泥が撥ねて、白い靴下を汚した。

 薔薇屋敷に着くと、結菱一葉が直接ふたりを応接した。
 こんな雨の日にわざわざご足労のこと、とにかく体を拭きなさい、呆れ顔でそう言って、一葉はこのずぶ濡れの訪問者たちへ、タオルを出させた。
 すぐに二組のスリッパが蒼星石と翠星石の足もとに置かれた。泥だらけの靴で屋敷内をうろつかれては困るのから、履き替えなさいということだろう。
 靴下も濡れて汚れていたが、そこまで気にしている余裕もなかった。
「今、湯を焚かせているから、入って、着替えなさい。制服はこちらで乾かしておく」
 と、一葉は言った。「なんの用があって来たのかは、あとで聞こう。長くなるようなら、車で送らせる」とも。
 ふたりはおとなしく、一葉の厚意に甘えた。
 一葉は、機嫌が悪そうだった。当然のことだった。
 ふたりは約束を取り付けてもいないのに、いきなり屋敷に上がりこんだのである。それでもここまで親切にしてくれるのだから、客室に傅かれながら、蒼星石も翠星石も低頭するほかなかった。しばらくして若い女性が客室に入ってきて、浴室まで案内してくれた。
 湯から上がると、脱いだ制服は無く、代わりに別の服が置かれていたので、ふたりはそれに着替えた。
 部屋に戻ると、つくづく気の利いたことに、ホットミルクが運ばれてきた。夏に入ったと言ってもこの雨では、空気はまだ冷え冷えとしている。
 ――言葉なんて、きっとなにもない。
 嚥下の熱を感じながら、蒼星石はそう思った。
 翠星石のお節介はありがたくも、少し、恨めしかった。
 ドアの向こうで女性の声が聞こえた。
 一葉からの招きである。
 呼吸を整えて、蒼星石は廊下に出た。
 うしろを歩く翠星石に背を押された気がしたが、翠星石の体はどこも、蒼星石の背に触れていなかった。
「次からは、あらかじめ連絡をくれると助かる」
 一葉はまずそう言った。翠星石が蒼星石を無理矢理ここまで連れてきたのだから、翠星石が一葉に謝った。
 次いで蒼星石も頭を下げる。その頭が上げられるのを待って、一葉は、
「今日はなんの用でわが屋敷まで来たのか、教えてほしい」
 と言い、瞬きひとつ、あいだにはさんで、視線を左右させた。
 一葉の視線に応えて、翠星石も蒼星石に目配せする。蒼星石はうつむいて目をふせた。
 一葉になんと言えばいいのか。
 蒼星石はせいいっぱい思考をめぐらせて、それはおそらく、時計を届けたあの日以来、つねに心に引っかかり続けて一日も忘れたことのない、あの正体ない・暗く翳る感情のことで、自分はそれを、一葉に伝えたかったために、薔薇屋敷のことを思い続けていたのだろうと見当をつけたが、その感情を言葉にするすべを、彼女はもっていなかった。
 それでも蒼星石はたっぷり考えて三十分、ようやく言葉をしぼりだした。
 それが抱え続けた正体ない感情の翳りの正体≠ネのかどうか、蒼星石自身にもわからなかったが、とにかく、
「ここのお庭は、どうしてあんなにも荒れているのですか」
 と、言った。
 一葉は軽く驚き、
「きみは、それを聞きに、ここへ来たのか。弟のことで気を煩わせてしまったのかと思っていたよ」
 と言って、喉をならした。
 庭が荒れている理由は庭師を辞めさせたから。それは前に言ったはずだった。
 蒼星石は真っ先に否定の言葉を思い浮かべ、それをかき消した。
 言おうと思ったが、それはできなかった。
 いったい薔薇園か二葉か、どちらへの否定であるのか、
 もしかしたら一方だけではなく両方であったかもしれず、どちらでもなかったかもしれない。不確かなこと夥しかった。半端にひらいた口をつぐんだ蒼星石を見て、一葉はまた喉をならした。今度は微笑を含んでいるようだった。
「あの庭は、弟の愛した、弟の庭なのだ。薔薇は弟のために咲いていた。主人を失った屋敷に給仕の居続ける理由がないように、弟を失った庭に、庭師なんぞは必要のない存在だ。だから、弟が死んでからずっと、あの庭は荒れ果てた姿をさらしている」
「ずっと、……ですか」
「そう、ずっとだ。今までも、そしておそらくこれからも、荒れたままだ」
 一葉は笑っているようだった。翠星石は一葉が笑っているとは感じなかったが、蒼星石は笑っているように感じたから、一葉は、やはり、笑っていたのだろう。そして、蒼星石は泣いていたのだろう。本人がそう思わなくとも、一葉と翠星石にはそのように見えたから、やはり、泣いていたのだろう。
 帰りは一葉のすすめどおり車で送ってもらった。
 着っぱなしの服は貰ってくれてかまわないが、返してくれてもかまわない、どちらでもよいと言われた。
 このようにして、蒼星石は、四度目の薔薇屋敷訪問の理由を得たのである。

 月初めから続いた雨が上がり、日の沈むまでがきちんと見えるようになって、週末、蒼星石は借りた服を返しに薔薇屋敷へ向かった。
 翠星石はいない。彼女は野暮用があると言って、蒼星石より先に出かけていった。それは嘘で、実は蒼星石に気を使っただけなのかもしれないが、蒼星石にしても今回翠星石が付いてこないのは、都合のよい気がした。
 四度目の訪問も前回と同じく一葉が自ら出迎えてくれた。
 言われたとおり事前に連絡を入れていたためか、蒼星石の驚いたことに、一葉はわざわざ門まで出て彼女を待っていた。
 もちろん一葉ひとりではなく、一歩下がったところに、いつもの眼鏡の男が立っている。蒼星石は眼鏡の男に、服の入った紙袋と養母に持たされた菓子折をわたした。
 それを見て、一葉は眼鏡の男を屋敷内へ戻らせた。
 門前にふたりきりになった。
「薔薇園を、案内しよう。しかし、さて、きみに頼まれてほしいことがある」
 一葉はそう言って、少し苦みのある笑いを浮かべながら、ハンドリムを指でたたいた。
 つられて蒼星石も小さく笑って、
「押します」
 と、グリップに手をかけた。
 枯れて寂れた薔薇園の中を分け入ってゆく。
 わずかに視界が広がったところで、一葉の右手が上がり、それを合図に車椅子が止まった。
「ひどいものだ」
 一葉が言った。
 そうですねなどと言うわけにもいかない蒼星石は、反応に困り果て、それを誤魔化したいのか、しきりに目を瞬かせて表情をあらためようとした。ただし、一葉はまっすぐ正面の枯れた薔薇を見ているのであり、蒼星石の表情がどれほど変わろうが、彼の知るところではなかった。無反応であることを一つの反応として、だいたい想像がつくだけである。
「この庭は、これから先もこのままなんですか」
 と、蒼星石は言った。声がわずかにうわずっていた。ふり向かずに一葉は答える。
「このままだ。二葉がいないのだから、もう仕方がない」
 一葉は前と同じようなことを言った。
「二葉さんは……」
「二葉は、きみが生まれる何十年も前に死んだ」
 言いかけた蒼星石に、一葉の声が被さり、
「あの頃の庭は薔薇が鮮やかで、二葉はただ幼く、わたしは愚かだった」
 と、ぽつりぽつりと語りだしたので、蒼星石は続きを言うことができなかった。
 彼女は耳を澄まして、一葉の声を聴くことにした。
 ――海の向こうに心の狂った女がいてね。二葉はその女に入れ込んでいた。何度も何度も、海外にいる女に会いにいった。恋だの愛だのと言うのではない、二葉はそのつもりだったのかもしれないが、違う。あれは『気の病に罹った可哀想な女を、紳士の自分が救ってやらなければならない』という、とても幼稚な正義感と善意でしかなかった。二葉がなんと言おうとも、わたしにとってはそうに違いなかった。それは逆の立場でも言えた。わたしがなんと言おうが、どう思おうが、二葉にとってその女は、自分の生涯を懸けて守らなければならない伴侶に違いなかった。わたしはわたしの半身を二葉だと信じていたが、同じように二葉は二葉の半身を海の向こうの女だと信じていた。だから、わたしは二葉が結菱家から出るのを止めようとし、二葉は結菱家を捨て、日本を捨て、海へ出た。そして伴侶に会うことなく、海に沈んで死んだ。――
 一葉の語りはそれで終わった。彼は長大息して、背もたれに頭をおしあてた。
 蒼星石はなにも言えなかった。
 一葉になにがしかの言葉をかけたかったが、なにも思い浮かばなかった。
 それは時計を届けにきた時・翠星石に腕を曳かれてきた時と、なにも変わらなかった。
 しかし、彼女は今度こそ言わなければならなかった。
 三度同じことを繰り返すのは、あまりにも情けないことだった。
「小学生の時、一度ここに来たことがあるんです。姉と一緒に。薔薇屋敷というくらいだから、きっとたくさんの薔薇が咲いている立派な庭があるんだろう思って楽しみにしていました。でも、いざ行ってみると、どこにも立派な薔薇園がなかったんです」
「残念だったかね」
「はい」
 と、いつになく活気のある返事ができた蒼星石は、初めて、一葉との会話を気持ちよく終えられそうな気がした。
「昔から、子どもはよく来る。なぜかはわからないが、ここに薔薇園があることを知っていても、こんなふうに荒れ果てていることまで知らない子どもが、けっこう多いらしくてね」
「そうですね」
 蒼星石は半歩ほど車椅子から離れると、体をずらして一葉の横に立った。一葉と目が合う。
「時計を届けにきた時に、――もう何年も経っているし、もしかしたらって、ちょっと期待していたんですけど、……」
 言ってから、蒼星石は申し訳なさそうに微苦笑した。
「ちょっとか」
 一葉は言葉を咀嚼するように呟き、首を揺らした。
「そのちょっとの期待を、きみがあいかわらず持っているのなら、わたしはそれを口実にしてこの薔薇園をよみがえらせることに、吝かではない」
 どうだろうか? 一葉は、いつかのように右手を上げてひらいた。
 ただし、いつかと違うのは、手袋をはずしたということである。
 蒼星石は、呆然として、動けなかった。
 ただ、口だけはしっかり動いていた。
 そこから言葉が声として発せられているかどうかはべつとして、蒼星石は口を動かした。
 一葉の耳には、しばらく不明瞭な声が届いていたが、そのうちそれは、はっきりとしたかたちをもつようになり、乱れきっていた蒼星石の心も、ようやく平静を取り戻した。
「いいんですか?」
 蒼星石は、きりと眦を鋭くして言った。これはどうしても確認しておきたいことだった。
「かまわない」
 一葉の返答は短かった。
 右手は上げられたままである。
 しかし、先ほどよりも脇がとじられ、蒼星石のほうへ伸びているようだった。
 それに気づいた蒼星石は、
 ――ああ。
 と、悦びとも嘆きともつかない声を心の中でもらした。同時に、なにかが、腑に落ちた。なにか、とは、なんのか、蒼星石にはわからなかったが、なぜ腑に落ちたのかは、わかった。わかった理由もなんとなくわかった。
 蒼星石は、一度も下ろされることなくいつか差し出されていた一葉の右手に、自分の右手を重ねて置き、少しだけ握った。皺の多い手だった。
 蒼星石は泣きそうになった。が、ここは、蒼星石の泣くべき場所ではなく、またその時でもなかった。
 それよりも蒼星石がすべきことは、明確な答えを一葉に言うことだった。
 一葉の問いに対して、彼女はまだ問いしか返していなかった。
 蒼星石は言った。
「ぼくは、薔薇園が見たいです」
 一葉と同じく、蒼星石の返答も、単純で、短かった。
 一葉は重ねられた蒼星石の手へ、さらに自分の左手を添え、にこりと笑った。
「わたしは必ず、二葉の見ていた薔薇園をきみに見せるだろう」

 日が沈みかけている。
 蒼星石は重いのか軽いのかよくわからない足どりで、坂を下っていた。
 しかし心の軽やかさは瞭然としていた。
 いっそ飛び跳ねたいほどだった。
 蒼星石は、そういう気分で坂を歩いた。
 ――ぼくにもお手伝いさせてください。
 蒼星石のこの申し出は、やんわり一葉に断られたが、蒼星石の気がそれで沈むことはなかった。
「これは謂わば、わたしからきみへの、贈り物なのだ。その大切な人の手を、煩わせるわけにはいかない。……というより、手伝われるのは、少々困るかな」
 一葉にそう言われれば、沈むどころか蒼星石は喜躍するしかない。
 坂を下りきると、角の電柱のそばに見覚えのある人影を見つけた。
 見覚えがありすぎて、蒼星石はおもわず噴き出した。
 翠星石が所在なさげに立っている。あちらこちらをせわしなく見わたし、時に踵で地面を踏みたたいている。
 蒼星石は、落ち着きのない人影に声をかけた。
 翠星石が振り返る。驚きに目と口とを大きくひらき、
「蒼星石!」
 と、叫んだ。
 かん高い・遠慮のない・大きな呼び声に、蒼星石はまた笑った。
 電柱から離れて近づいてくる彼女が、次に言おうとしていることは、なんとなく想像がつく。
 奇遇ですねえ、たまたま通りかかったんですよ、でもどうせだから一緒に帰るですか?
 ……なんてわかりやすい。そして、なんて心地よいことだろう。
「お待たせ」
 蒼星石が言うと、とたんに翠星石は顔を真っ赤に染め、口をとがらせた。
 べつに待っちゃいねーです。でもせっかく会ったんだから、一緒に帰るです。器用にも口をとがらせたまま、そんなことを言った。
「うん、帰ろう」
 それから心配してくれてありがとう、と付け加えて言う。
 かたちのよい鼻梁の色はいたって明るい。
 それを覗きこんだ翠星石が、不思議そうな目をして、
「なにか、いいことでもあったですか」
 と、訊いた。
「あったよ」
 と、蒼星石は答えた。めずらしく逡巡のない即答だった。
「長い話になりそうだから、家に帰ってから話すよ。全部」
 と、蒼星石は言い、翠星石の手をつかんで、柴崎時計店への帰路を辿りはじめた。
 蒼星石に曳かれて翠星石も歩きだした。
 蒼星石はついさっきまで自分のいた薔薇屋敷を夢想した。
 数日でよみがえるものでは到底ないから、五度六度と足繁く訪ねても、景色にさしたる変化が出るはずなく、薔薇園は依然として荒れ果てたままだろう。
 しかし、蒼星石には、美しい薔薇園が、驚くほど鮮やかに見えた。

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