<冷やし飴の季節

 いつ頃からだったか、よく覚えていないが、とにかくまだ小学生くらいだ。
 そのある時期から、翠星石は父の帰宅を怖れるようになっていた。
 父が怖いわけではなく、もちろん嫌いになったわけでもなかったが、その頃父が帰ってくると必ず母との喧嘩になるものだから、両親の言い争いを聞くのが、翠星石には堪えがたかったのである。
 それは双子の妹の蒼星石も同様で、夫婦喧嘩が始まると、ふたりはこの家のねじれようを、半ば怖れ・半ば呆れながら、二階に避難していた。
 厳母を気取る母は、今時だろうが昔時だろうが関係ないと言い、子供部屋にテレビなど与えてくれなかったので、一階の喧騒はいつもふたりに筒抜けだった。
 せめてCDプレイヤーくらいは貸してほしかったと、翠星石は今でも思う。
 毎日の夫婦喧嘩は、そのうち、異様にケバケバしい・化粧臭い・若い女性と、母方の祖母までが加わっていよいよ収拾のつかない状態になり、ほとんどなし崩しに、翠星石と蒼星石は、同じ町の商店街で時計屋を経営している母方の大叔父夫妻の家へ、荷物まとめて転がりこむことになった。
「お母さんたちが話しあっているあいだは、おじいちゃんの弟の家へ遊びにいかないかい?」
 というような内容の話に、
 ――息子を事故で亡くしてから、弟夫婦に元気がなくてね。慰めてあげてほしいんだ。
 こういう理由をつけられて、ふたりは子供抜きでの家族会議が始まるたびに、祖父の弟、つまりは柴崎元治の家に、ご厄介になっていたのである。
 であるが、家族会議なんぞは、頻繁におこなわれていたし、祖父母がいなくても両親はずっと穏やかでない話しあいをしていた。
 いちいち面倒なので、ふたりは次第に帰らなくなり、実際のところ居候しているのと変わらなかった。
 大叔父夫妻は翠星石たちのことを実の子のようにいつくしんでくれた。
 時計屋兼用の家は狭くとも、もはや煩いだけの自宅や一時避難場所になっていた祖父宅とは、比べものにならないほど静かで住み心地がよかった。
 そんなふうに、両親とろくに顔をあわせない生活が三年ほど続き、翠星石と蒼星石が中学校に上がった年、翠星石から見てやっとのこと、両親は離婚することになったらしい。
 その時にはもう、父はあの不倫相手と思われる化粧臭い女とは別れていたという話だから、それを聞いた時、翠星石はなんだか急に、色んなことが馬鹿々々しくなった。
 三年も費やして、あの大人たちは、なにをやっていたのか。
 父母・祖父母が、だれが子どもをひきとるのか、ああだこうだと言いあっていたが、翠星石にしてみると、今さらだれになにを言われても、時計屋を出ていく気などなかった。
 出ていっても不幸になるだけだと、わかりきっている。
 両親に未練大ありで泣いていた気弱な妹にも、そう言って聞かせた。
 そうして様々なもめごとのあと、直系のどこにもひきとられることなく、翠星石と蒼星石は、柴崎元治とその妻・マツの養子となった。

 それが双子十三歳の秋のできごと。
 約一年経った今は夏休み真っ盛り。

 妹は今日も元気に薔薇屋敷へ、父は下で時計屋の仕事、母はお隣の山田さんの奥さんとお出かけ、翠星石は、
「ひまですぅ」
 だった。
 正確には、八月だというのに夏休みの宿題は一つとして片づいておらず、友人たちからの遊楽の誘いが全然来ないわけでもなかったが、宿題は、まあ時間はまだあるし、もしもの時の蒼星石がいる。なにより翠星石は、この暑苦しい日に昼間から出かける気に、とてもなれなかった。ましてや、あのやたらと高所にある薔薇屋敷へなど――!
 そんな感じで、翠星石は自ら進んでひまを作っては、扇風機を傍らにひとり暑さを堪え忍んでいた。
 ――たしか、隣の米屋の前に自販機があったはずです。
 ジュースでも買ってこようと思い、気だるい体を起こして、小銭をつかんだ。
 一階に降りると、足音に気づいたのか、作業台に向かっていた元治の首が上がり、翠星石へと回された。
「おや、出かけるのかね」
 と、元治は言ったが、いやそれは違うか、とすぐに否定した。
 翠星石の格好は、どう考えても部屋着だ。
「ちょっとそこでジュースでも買ってくるです」
 そう言って、左人差し指で山田精米店を示す。
「おじじもどうですか」
 あいかわらず、翠星石は養父母を「おじじ」だの「おばば」だのと呼んでいる。
 初めの頃こそは修正しようとそれなりに努力したものだが、最近はもうこのままでもいいかな、と思いはじめた。
 ふたりのことを「お父さん」とか「お母さん」と呼ぶのは関係上当たり前のことなのに、いざそう呼ぶことは、どこか妙に、照れくさかった。
 返事は「けっこう」とのこと、元治は家にある飲み物でよいらしい。
 店の入り口のガラス戸を出て右を向けば、自販機がある。
 便利なことだが、ただし、外観も中身もちょっと古い。
 翠星石はアスファルトから立ち上る熱にうんざりしながら、コイン入れに百五十円を投入して、
 (翠星石主観で)へんてこなラベルデザインの細長いサイダー飲料を買った。
 それから、お釣りを取ろうと釣り銭口に指をつっこんだところで、
 ――んん?
 違和感を覚えた。
 まさかと思い、とりだして数えてみると、違和感の正体は直前の想像そのものずばりだった。
 五百円玉がまじっていたのである。
 硬貨のなかでは一番貨幣価値の高い五百円玉が、たしかに翠星石の掌にのっかっている。
「おマヌケな人間もいたもんです」
 自分で持っていてもどうしようもないので、その五百円玉は米屋におしつけることにした。
 米屋を出て踵を返した時、翠星石は、はたと自販機前の人物に気づいた。
 クラスメイトの水銀燈が、冷やし飴片手に立っている。
 呆れ顔の水銀燈は、釣り銭口の死角にはりついていた十円玉を翠星石に握らせると、
「どんだおマヌケさんねぇ。ここの、百十円よ?」
 それだけを言って、去っていった。
 アスファルトから立ち上る熱には、もううんざりだ。顔がほら、こんなにも真っ赤。

 ところで水銀燈が買っていった冷やし飴とは、つまり柴崎家の冷蔵庫で大量に保存されているあれのことだろう。
 翠星石は一度も飲んだことがない。見た目からしてまずそうだと思った。
 おじじもおばばも、あれのなにが気に入って阿呆みたいに飲んでいるのか、翠星石は本気でわからない。
 近頃はふたりに影響されたのか、蒼星石まで飲みはじめた。
 冷やし飴にかぎらず、蒼星石はこの家の色に染まるのが早い。
 蒼星石は、実の両親がいつか仲直りするだろうと信じていた時間が翠星石より長くて、諦めるのが翠星石より遅かった。
 離婚した親と離れ離れになるのがいやで泣き続けたのは蒼星石で、それを根気よく慰め続けたのは翠星石だった。
 蒼星石が元治とマツに懐くのは翠星石より早く、あずけられている時自宅に帰りたがらなくなったのは、翠星石より先だった。
 変な子、自分の妹ながらそう思う。
 買ったばかりのサイダーは、あっというまにぬるくなった。
 冷気を失った炭酸飲料ほどまずいソフトドリンクはない。
 氷を入れれば冷えるが味が薄まってまずくなる。
 冷蔵庫に入れて冷やしても気が抜けてまずくなる。
 翠星石はのこりのサイダーを一気に飲みほした。

 明けて早朝、翠星石は自転車のペダルをこいでいた。
 行き先は図書館、督促のハガキが届いたからである。
 籠の鞄には返却期限のとっくに切れた本が十冊入っている。
 すっかり忘れていた。五月か六月くらいに、園芸関係の本を借りていたのだった。
 今日は朝の涼しいうちに出かけて、日中は図書館で過ごそうと思っていた。
 早朝に行っても開館までは近くのコンビニかどこかで時間を潰そう。
 そう思い、めずらしく家族で一番早くに起きて、ついでに新聞をとりにいくと、一緒に郵便受けに入っていたのが図書館からの督促ハガキだったという具合である。
 それで、翠星石は朝も早くからせっせと自転車を走らせていた。
 なんて無意味に気の長い図書館だろう。
 どうせなら返却期限を過ぎた時点で催促してほしかった。
 予定どおり、開館までコンビニで涼み、時計を確認してから図書館へ行く。
 冷房はそれほど強くない。このあたり無遠慮に冷房を効かせる民間店舗とは違い、いかにも公共施設という感じがすると、なんとなく思った。
 借りっぱなしで忘れていた本全てを返却し終えてすっきりした翠星石は、そのまま館内を歩きまわった。
 なにを借りるというつもりではなく、どんな本が置いてあるのか見たくなったからである。
 そして、ばったり出会う。
「おや、時計屋さんのところのお嬢さんじゃありませんか」
 翠星石はしばらくのあいだ、目の前に現れた、このどこかで見たことのある
 顔の男の名前を思い出そうと記憶を探った。
 ――えーっと、薔薇水晶と雪華綺晶の家の……。
 そうだ。たしかあの双子姉妹の家がドールショップをやっていて、男はそこの住み込み店員だったはずだ。名前は、
「白崎さん」
「たった一度店で会ったきり、覚えてくださっていたとは、光栄ですよ」
 大仰な手振りで喜び、白崎は言った。「翠星石さん」
 そちらこそ、一度会ったきりなのによく覚えている、と翠星石は思った。
 薔薇水晶が水銀燈と親しいとはいえ、クラスが違うから、翠星石のことを話す機会などそうないだろう。
「今日は妹さんはご一緒ではないのですか?」
 訊かれて、翠星石は首を振り、今日はひとりですよと返した。
「なにかお探しで」
「なにもお探しでないです」
「それはそれは」
 そう言って、白崎は棚を見上げた。
 白崎は、蔬菜園芸と分類されている棚の、その一冊を手にとって、翠星石にひらいて見せた。
「ぼくは、今日、こういうのを借りにきたんですよ」
 家庭菜園の本だった。
 せっかくだからということでもないが、翠星石も家庭菜園入門だかの本を一冊だけ、いちおう持ってきておいた貸出カードを使って借りた。
 ロビーに出たふたりは、館内自販機でソフトドリンクを買って、休憩コーナーの席に腰をおろした。
 翠星石が買ったのはカルピスソーダ、白崎が買ったのは冷やし飴……冷やし飴?
 ――またですか。
 普段はヤクルト他乳酸菌飲料ばかり飲む水銀燈でさえ買った冷やし飴である。
 その上今回を含めても二度しか会っていない白崎まで買ったとなると、さすがに気になってしまう。
 翠星石は、ひらがなで『ひやしあめ』とラベルの打たれたスチール缶をちらちら見ていると、物欲しそうな目をしていると思ったのか、あるいは見当違いの意図を感じとったのか、眼鏡の向こうの細い目が、さらに細められて笑みをつくった。
 なにをか、勘違いされても困るので、翠星石はかってに弁解をはじめた。
「白崎さんも、冷やし飴が好きですか」
「も?」
 のってくれたので続けて、
「うちの家族、わたし以外みんな好きですよ。昨日は、水銀燈が……」
 と、ここまで言いかけて、水銀燈がだれなのかを補足する。
 知っています、薔薇水晶のお友だちの子ですよね、と白崎は言った。
「そうです。それで、いつもヤクルトばっかり飲んでいるのに、昨日はどうしてなのか、それ、買っていったのです」
 えらく狭い界隈で人気のマイナー飲料が、翠星石には不思議でたまらないのである。
 白崎はまた笑って、――でも、とてもおいしいんですよ。人によってはね。そう言って笑った。
 そのあとふたりは、くだらない、と言えば語弊のあることかもしれないが、とにかく取るに足らぬ話に花を咲かせ、時に散らせた。
 白崎はたいへんに口達者な男だった。
 ここ一月のあいだに自分が体験したという、ドールショップでの日常のできごとを、さもおかしげに話した。
 それは大半が薔薇水晶を主犯とする、冗談なのか本気なのかいま一つ判別のつかない、事件とも言いがたい小さな事件の話で、被害者はこれまた大半を白崎とするものだった。
 彼はその事件簿の登場人物の身振り・手振りの細かな動き、果ては口真似まで加えて、観客ひとりきりの白崎劇場をいっそう滑稽に演出してみせた。
 彼の話しぶりは、例え客がその耳をふさぎ、その目をとじ、その想像力に蓋をしても、その鼓膜を響かせ、その瞼に映し、その心に翼を付けて羽ばたかせるに違いなかった。
 その点では、彼は一級のストーリーテラーであるとも言えた。
 だから翠星石は、このいたずら事件簿を心底から楽しめたのだった。
 それから、白崎は一足先に帰り、翠星石は朝に世話になったコンビニで昼食を買う以外は、そのまま夕方まで図書館で過ごした。

 外がいくらか涼やかになる日没直前になって翠星石はようやく帰宅し、するなり、裏口玄関で蒼星石が図書館の督促ハガキを持ち出して、
「すっかり忘れていたよ。返しにいってくれたんだね。ありがとう」
 と、おかえり代わり言った。
 今日は一日家にいたらしいが、週に二度、高台にある薔薇屋敷へ行く蒼星石は、ほぼ毎日家でだらけている翠星石に比べて、うんと日焼けしている。
 このご時勢、もうちょっと日焼け対策とかしたらどうなんですか、と翠星石は思わなくもない。
 翠星石は鞄を蒼星石にあずけると、踵をひっかけて靴を脱ぎ、家に上がった。
「お礼なんていいですよ。それよりその手にあるのは?」
「冷やし飴。翠星石も飲むかい」
「遠慮しとくです」
「おいしいのに……」
 つまらなそうに言って、蒼星石は冷やし飴のプルタブをあけた。おいしそうに飲んでいる。
 ――でも、とてもおいしいんですよ。人によってはね。
 白崎が言っていた。人によってはね。
 人によってはおいしいものでも、人によってはまずいのだろう。
 そしてきっと、翠星石にとっては、まずいものなのだ。
 飲んだことはなかったが、きっとそうに違いない。
 夕飯を食べてお風呂に入って家族でテレビを見て二階へ上がって、翠星石は図書館で借りてきた本を読み、蒼星石は真面目に宿題をこなし、
「そろそろ宿題やったほうがいいんじゃないの」
「まだだいじょうぶですよ」
「あとになって頼んでも、写させてあげないからね」
「寝てる間にかってに見るから問題ないです」
「ああもうっ」
 と、そんなやりとりをしてこの日は就寝となった。

 日数を重ねて、もののついでに借りた本を返しにいく日である。
 翠星石は本に挟まれていた返却日の書かれた紙を確認する。今日で間違いない。
 とりもなおさずそれは、夏休みがあと一週間で終わることを告げていた。
 ――帰ってきたら、やるです。ちゃんと。
 蒼星石も、写させないけど手伝うとは言ってくれているし、まあ一週間もあれば、なにごともなく終えられるだろう。その蒼星石が、
「ぼくもなにか借りたい」
 と、言ったので、ひさしぶりに一緒に図書館へ行った。
 翠星石は今度こそ返すだけでなにも借りなかった。
 どうせろくに読まないのだから、借りるだけ他の利用者の迷惑だろう。
 蒼星石は家で言っていたとおり、なにか本を借りたようだったが、すぐに鞄のなかにそれをおさめたので、なんの本なのか、翠星石は知らない。
 知らないが想像はできる。が、それを確認するのは野暮というものだ。
 以前の同じ日に本を借りたはずの白崎は、当たり前だが探しても見あたらなかった。
 図書館を出てから、翠星石と蒼星石は、昼食も兼ねて図書館近くの百貨店へ寄っていくことにした。
 その行き道、薔薇水晶とその姉・雪華綺晶が、停車したバスから降りてくるのを見かけた。
 とくに親しいわけではないが、このあいだの愉快な白崎劇場の主役組だと思うと、声の一つもかけたくなる翠星石である。
 しかし、こちらが声をかけるより先に薔薇水晶が目ざとくふたりを見つけ、小走りに走りよってきた。
 薔薇水晶の一方的に話すことには、ふたりはこれから図書館へ行くところらしい。
「白崎、都合つかないから代わりに返すの」
 と、薔薇水晶が言ったので、翠星石は周りに気づかれない程度に肩を落とした。
 都合がつきさえすれば、会えたかもしれないのだ。
 今こうして、薔薇水晶と話しているように、白崎とそうなっていたかもしれなかった。
 ほんの数分立ち話をしたあと、一緒に昼食をとろうということになった。
 クラスが違うと言ってもそれは二年に上がってからのことで、一年の時は四人共々クラスメイトだったのだから、せっかくの双子姉妹同士、これを機会に仲よくなっておいてなにも悪いことはないだろう。
「それじゃ、またあとで」
「適当にひまをつぶしとくですから、とっとと来るですよー」
「うん」
「返すだけですから、そんなにお待たせすることもないでしょう」
 雪華綺晶が締めくくって、立ち話は終了した。
 雪華綺晶の言ったとおり、それほど時間を置かず、四人は百貨店内で合流できた。
 翠星石は洋食と言い、雪華綺晶は和食と言い、蒼星石はなんでもよく、それならばと薔薇水晶の提案で、
「あいだをとって中華にしよう」
 ようするに、ラーメンでも食べましょうかということになり、のこる三人もそれに賛同したが、ほんとうのところ、彼女はたんにラーメンが食べたかっただけなのかもしれない。
 薔薇水晶は物静かな印象に反して、おそろしくお喋りだった。
 それも極めて抑揚の少ない声で、べらべらと喋り続ける。ラーメンも減り続ける。
 ついには一番手で食べ終えてしまった。
 実に器用なことをする女の子だと、日頃の薔薇水晶を知らない翠星石や蒼星石は感嘆するほかない。
 しかし、喋り続ける薔薇水晶の話は、かなり要領を得づらいもので、合間合間に入る雪華綺晶の補完がなければ、聞き手にはさっぱり理解できなかっただろう。
 このあたり、白崎とはずいぶん差がある。
 そう言えば、白崎劇場の登場人物はなにもドールショップの人間に限ったわけではなく、彼が外で槐家の話をするように、内では外で起こったことを話していて、つい最近、その登場人物のひとりに翠星石が加えられたらしい。
 白崎は、薔薇水晶たちに、あの日の図書館のことを、終始ああいう感じで話していたのである。
 薔薇水晶のお喋りがそこまで進んだあたりで、翠星石と雪華綺晶が食べ終えた。
 雪華綺晶は大食いを自称するわりに、(もちろん、早食いと大食いは同じではないだろうがそれにしても)食べるのが遅かった。
 薔薇水晶が話すたびに、そのわかりにくい言葉の説明をしなければならなかったからである。
 そればかりでなく、食事一つとっても細々とした世話を薔薇水晶にやいている。

 お姉さんというよりお母さんみたいだと、蒼星石が感じたのも、無理なかった。
 翠星石もそうだが、ほんのわずかな時間早く生まれたというだけで、どうしてこうも差がついてしまうものなのか。
 言ってしまえば、翠星石にしろ雪華綺晶にしろ、片割れよりも先に生まれたばかりに、姉という責任を、それこそ生まれた瞬間に背負わされたのである。
 そして、ふたりはその責任にひたすら忠実なのだろう。
 一生追いつけそうにない。蒼星石はそう痛感せずにはいられない。
 麺を掬う蒼星石の箸が、少し、鈍った。
 彼女のラーメンはまだ半分も減っていない。
「小麦の手間も八十八手?」
 まったく突然、薔薇水晶は疑問符を付けてそういうことを呟いた。
 薔薇水晶の言葉の不明瞭さは、おおむねこういうものである。
 それだけを言われても、聞いている側は、なんのことだかわかるはずない。
 そこで雪華綺晶の説明が入る。つまりこういうことらしい。
 米を作る手間の八十八手、それにちなんでお米は八十八回よく噛んで食べましょうという訓戒。
 だからご飯はわかるけれども、ラーメンまで八十八回も噛んで食べるのはどうしてかしら。
 雪華綺晶のこれがあって、ようやく問われた人は要領を得る。
 そして要領を得た蒼星石が箸を休めて言う。
「小麦の手間が八十八手かは知らないけれど、でも、さすがに八十八回も噛んでいないよ」
 顎が疲れるし、と。
 苦笑しながらそう言った彼女は、たしかに八十八回も噛んでいないかもしれないが、目算でも五十回以上は確実に、いちいち咀嚼している。
「あんまりノンビリ食べてると、麺のびちまうですよ」
 呆れと、早く帰って宿題を片づけなければならないことを思い出した翠星石が、さらにペースの鈍る蒼星石を、溜め息まじりにせかした。蒼星石は、
「ごめん」
 と言うや、一転して、がっつくように麺をかきこんだ。咀嚼は十回くらい減ったようだった。
 翠星石は、蒼星石から視線をはずして、溜め息をまた吐いた。
 蒼星石は柴崎家に来てから咀嚼の回数が増えた。
 元治やマツに言われたからではなく、自分で考えて自分で増やした。
 なにせ今までの調子で食べていたのでは、すぐに食事が終わってしまう上に、夫妻が食べ終わるまでの時間が長く、なんとなくきまりが悪かったのである。
 時間つぶしというか、とにかく夫妻の食事ペースに合わせようとしたからだった。
 今はそれが自然なことになっている。
 食生活だけではない、起床時間も就寝時間も、柴崎家の生活に関わる他の全てのこと、蒼星石は夫妻に合わせようとして努力して、いつのまにかそれが当たり前になっていた。
 一方翠星石はそうでもなかった。
 咀嚼の回数は増えていないし、早寝早起きは夫妻ではなく同じ部屋で寝起きする蒼星石に合わせた結果である。
 それに、蒼星石と違い翠星石は早々と食事を済ませても、心情的になんともなかった。
 空いた時間は夫妻との会話に回せばよく、口下手な蒼星石にそれがてきなくても、翠星石にはいくらでもできた。
 以前も今も、夫妻との会話の時間は翠星石が蒼星石より多い。
 と言うより、蒼星石は元治ともマツとも、普段からそれほど話さない。
 いつかマツがそのことを気にかけて、あの子はわたしたちに遠慮しているのではないかと言ったことがある。
 こういう気重な内容の話は、マツだけでなく元治も、翠星石にすることはあっても蒼星石にすることはまずない。夫妻は夫妻で、蒼星石に遠慮があるらしかった。
 それは違うと翠星石はマツに言い切った。
 たしかに蒼星石は翠星石のように、あからさまな親しみをみせたりはしないが、そんなものは所詮、双子の性格の差異からくるものに過ぎない。
 蒼星石はもう、おじじとおばばに、なんにも遠慮なんてしていない。
 遠慮があったのは、居候を始めたほんの最初の頃だけだった。
 それもただの性格の違い。翠星石は無遠慮で、蒼星石は心配性、昔からそうだった。
 この差は、なんだろう。
 向こう側が見えるほど低くて薄い、けれどもいつまでたっても越えることも破ることもできそうにない壁がある。
 姉はこちらに、妹はあちらで血の繋がらない両親と一緒にいる。
 老夫婦と親子になりたいと言いだしたのは、はて、だれだったのか。
 冷やし飴の一本でも飲めばそれが解るのだろうかと、翠星石はそんなことを思った。

 翠星石は寝苦しさに目を覚ました。
 上体を起こして時計を見ると、まだ深夜の一時を回って間もない。
 喉の渇きを感じて唇を撫でる。
 水を飲みたくなった。
 眠っている蒼星石を起こしてしまっていけないから、踏みつけないよう足もとに注意し、静かに部屋を出る。
 一歩階段を降りたところで、翠星石は、はあ、と大きく息を吐いた。
 こういう気をつかわなければならないから、相部屋は時々不便に感じる。
 が、ねだったところで、あいにくと部屋はもうない。
 台所へ行こうとして、一点、灯りのあることに気づいた。店のほうだ。
「おーじじ」
 作業台に向かう元治の首が、翠星石へと回される。
 いつかの昼とよく似た光景だが、しかし今は、とうに眠っていなければならないはずの深夜一時である。
「まだやっていたですか」
 元治の顔が、体ごと翠星石へ向けられる。
 老顔が笑った。
「きりのよいところまで、やってしまおうと思ってな」
 時計を見て苦笑する。気がついたらこんな時間になっていたと言いたいらしい。
「しゃーねぇです。お茶でも入れてきてやるですよ」
「かまわんよ。じきに終わる」
「気にすんなです」
 ひらひらと手を振って、翠星石は台所へ行く。
 冷蔵庫に入っているペットボトルをとりだそうとして、大量の冷やし飴が目に入った。
 翠星石はしばらく考えてから、結局一本だけ拝借することにした。
 元治には、コップになみなみとそそいだほうじ茶を運んでやる。
「や、わるいね」
「気にすんなって言ったら、気にすんなですぅ」
 と言って、翠星石は土間に降り、壁際の丸椅子をひっぱりだしてそこに座った。
 蒼星石はよくそうやって、元治の作業風景を眺めている、それを真似たのである。
 元治はなにも言わずに笑い、少しだけ量の減ったコップを置くと、作業を再開した。
 なるほど、翠星石は蒼星石の気持ちがちょっとわかった。
 これはなかなかおもしろい。
 会話もなく、元治の仕事を頬杖ついて眺めるという、だたそれだけのこと、たったそれだけのことが、翠星石の思いのほか楽しかった。
 ――おじいさんは魔法使いなんだよ。
 蒼星石は翠星石に、元治のことをそう表現して言ったことがある。
 種が無いから、手品師じゃなくて魔法使いなんだということらしい。
 そのことを元治に教えると、種は無いが技術があるから魔法ではないよ、と笑いながら言われた。
 それはそうだろうと、その時はそう思った翠星石だが、今は蒼星石に同意したい気分だった。
 元治の手は、止まっていた時間をもう一度動かす力がある。
 ごらんなさい。もうちっとも時間を刻まなくなった、止まってしまった時計が、元治の手によって再び動きだそうとしている。
 そして、店に置かれている種々の時計針の音に、たった今もう一つ、音が重なった。
 規則正しく時が巡る。まさに魔法使いだ。
 その魔法使いの手から、魔法なんて使えない翠星石の手へと、復活した時計がわたされた。
 翠星石は、時計の邪魔をしないよう音を立てないように、歯を噛んで笑った。
 元治もあわせて音なく笑う。
 時計はまもなく、綺麗な小箱のなかにおさまった。
 手持ち無沙汰になった翠星石は、もう片方の手に持ったまま転がして遊んでいた冷やし飴をあけて、一口飲んでみた。
 予想していたとおりあまりおいしくなかったが、飲めなくもない味だった。

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