わがままな彼女

「この指は――」
 痩せ細っためぐの青白い指が、水銀燈の左手の薬指をなぞった。
 水銀燈の左手は、病牀にあって上体だけを起こしているめぐの左手につかまれていた。正確には、やんわりと手首を持ちあげられているというべきかもしれない。
 水銀燈の薬指をなぞるのは、めぐの右手のそれである。
「この指は、わたしのものなのよね」
 ねえ水銀燈、そう言って、めぐは笑った。彼女は水銀燈が見舞うたびにそんなことを言う。口ぐせのようであり、時にうわごとのような響きで、水銀燈の耳に聞こえた。
 水銀燈とめぐが知りあったのは、この病院においてである。あてがわれた病室が同じで、ベッドが隣、年の近い女の子同士の退屈しのぎの会話を始めたのが、きっかけだった。
 めぐは水銀燈より二歳年上だが、この差はふたりの友情にどれほどの隔たりも距離もつくらなかった。
 最初は水銀燈のほうがよほど病の篤いもので、逆にめぐはすぐに退院するはずだった。見舞いにくる柿崎夫妻の顔の明るさが、それを示していた。めぐも、お見舞いにくるからね、などと言っていたのである。
 にもかかわらず、水銀燈が退院して六年が経った今でも、めぐはまだ病牀から出られないでいる。健常体でありさえすれば、彼女は今日高校の入学式を迎えているはずだったのに、彼女は変わらず病牀にいた。(この時点でめぐはすでに個室に映っている)
 しかしながら、それは水銀燈の心を暗く翳らせることはあっても、めぐの心をそうさせるには至らないものだった。それどころか、最近とみに明るい。そして水銀燈は、そのめぐが、これからますます明るくなっていくだろうということを、なんとなくわかっていた。
「あと二ヶ月よ」
 と、めぐはその日を待ち遠しそうに言う。
 二月後にはめぐの誕生日がある。結婚のできる年齢に達するのである。
「あなたがそうでも、わたしには無理よ」
 と、今年十四歳になるだけの水銀燈が言っても、彼女は聞かない。あとまた二年も待てないし、どうせ女の子同士なんだから、そんなことを言って、水銀燈の指をなぞった。
 手にくすぐったさを覚えはじめた水銀燈は、あいている手でめぐの指を離した。
 なによ、とめぐは拗ねたふうにそっぽを向いた。
 自然、目は窓の外へ向けられる。
 外では、桜が散っていた。
 桜の季節に結婚っていうのも悪くなかったかも、
 とちょっと残念そうに言って、めぐはすぐに気色をあらためた。
「ジューン・ブライドね。誕生日が六月でよかった。雨は嫌いじゃないわ。外へは出ないのだし、降ったってかまいやしないもの。雨音をBGMにしてね、真っ白なウェディングドレスを着た花嫁に抱かれて死ぬのよ。素敵でしょう」
 どうやら、めぐのなかでは自分が花婿で水銀燈が花嫁らしい。
「真っ白なウェディングドレスなんて、どこにあるのよ」
 水銀燈が言うと、めぐはにこりと笑って、今自分の下半身にかむっている真っ白いシーツをつかみ、それで水銀燈を頭からおおいつくしてしまった。
「いきなり、なにを――」
 憮然と言う水銀燈は、しかしシーツをのかすにはせいぜい顔をのぞかせる程度にとどめて、めぐの、この児戯のようなおこないにつきあった。
 めぐはひとしきり笑ってから、
「綺麗よ、水銀燈」
 と言って、水銀燈からシーツをのかした。
「そう」
 水銀燈は素っ気なく、でもまんざらでもなさそうな、そんな声で言った。
「あ、あと指輪も要るわね。買ってきてちょうだい。二つ」
 めぐは笑ったまま、ひらひらと両手をあげ、わたしは買いにいけないから水銀燈お願いね、と言った。
 もちろん本物の結婚指輪を買ってこいと言っているのではない。けれども、どうせなら、なるたけ質の上等な指輪を使いたいものである。
「買うことは買うけれど、ものは期待しないで」
 水銀燈はわりと裕福な家庭の生まれだが、所詮中学生に過ぎない。自由になる金などそう多くなかった。
 指輪を買ってくる約束がされ、この日の見舞いは終わった。
 中学の始業式まで、もう少ししかない。今のように毎日めぐを見舞うことも、なくなるだろう。
 水銀燈はめぐの長い黒髪を撫でた。めぐはされるがままである。
 気持ちよさそうに目をつむり、微笑んだ。
 こういう時のふたりは、どちらが年上なのかわかりにくい。
 それどころか、まるで親子のようだと、たまの見舞いの同伴者に言われることがある。
「明日も来るわ」
「明日も明後日もね」
 水銀燈の指がほどかれた。

 結婚の話を言い出したのは、めぐではなく水銀燈である。いい加減生きることが馬鹿々々しくなった・早く死にたいと言うめぐを、どうにか元気づけようとした水銀燈が、あれこれ考えた末の思いつきだった。
 つまり、女子は十六歳になれば結婚できるから、とりあえずその時まではめぐに生きていてほしい旨を言ったのだが、自分の年齢なんぞまるで頭になかった。
 めぐは、だれがなにを言っても冷めた反応しか寄越さなかった。水銀燈に対しても例外ではなかった。それなのに、なかばやけっぱちで言ったことを、あそこまで喜ばれるとは水銀燈も思わなかった。が、とにかく、そういう経緯があってのち、水銀燈の左手薬指にはめぐの予約が入ったのである。
 水銀燈が中学にあがったばかりの頃のことで、それから一年が経とうとしている。

 そのあいだ、めぐの病体は小康を得て、時々院内の中庭を歩きまわったり、外出許可が出ることもあるらしい。
 とはいえ、めぐ自身が病室から出たがることはまずないから、それは必ず、見舞い人がかってに気を回した結果だった。
 期間限定的に病魔が消えてしまっているのか、病は気からを地で行っていると勘違いをしたくなるような、近頃のめぐである。
 勘違いを続けるのなら、結婚の日を長引かせれば長引かせるほど、めぐの命数は倍加するということになろう。
 五月に入って、水銀燈は引き伸ばしの方法を探しはじめた。めぐの言葉どおりのことが彼女の誕生日当日にある、
 その日に彼女が死んでしまうのだと、水銀燈は半ば本気で信じていたのかもしれない。
「それで、わたしを家に呼んだの」
「せっかくの休日を邪魔したのは悪かったけれど、
 わたしにとって死活問題なのよ。知恵を貸してちょうだい」
 水銀燈は、真紅が今コースターに置いたばかりのカップに、紅茶をそそいだ。
 七十センチメートル四方あるかというガラステーブル上で、紅茶の落ちる音と湯気が立つ。
 紅茶を出しさえすれば、ご機嫌をとれると思っているのかしら。
 だれもかれも真紅に対してはそんな感じで、果ては水銀燈までがそうなのか。たしかに真紅は紅茶が好きだけれども、それだけで釣られたことはまだないはずである。
 不快げに眉を顰める真紅の内心は、しかし少し浮かれていた。自尊心の塊のような水銀燈から、真紅が恃まれごとをされたのは、今まで一度もない。
 自尊の高さはお互いさまなので、真紅もしたことはなかったが、彼女は水銀燈に比べて性根がお節介焼きなので、われながら不謹慎と思いつつも、恃まれるのは素直に嬉しかった。
「まあ、今日はなんの予定も入っていなかったから、かまわないわ」
 ――それに、紅茶もおいしい。真紅はカップにくちづけた。
「あなたも意外に信心深いのね。今日死にたいから死なせてください、でその通りにしてくれるほど、死神さまも親切じゃないでしょう」
 と、真紅は言った。そうね、と水銀燈は苦笑した。
 だから、それよりあとに死ぬかもしれないし、それよりさきに死んでしまうかもしれない。もちろん、死ぬのは誕生日よりあとのほうがよいに決まっている。いつの誕生日でも同じである。このさきずっと、めぐの誕生日を迎えて、死期はそれよりあとにあるのがよい。
 指輪を嵌める手には皺が多ければ多いほどよい。
「どうにかならないものかしらねえ」
「わたしにはなんとも……」
 と言った真紅は、唸り声を小さくもらすと、
 しばらく黙考し、そして、
「でも、そうね。結婚式の日を延期させたいのなら、そう言えばいいじゃない。例えば、水銀燈、あなたの誕生日まで待ってもらうとか」
「わたしの誕生日はめぐの三日前だもの」
 はあ、と大きな溜め息が二つ、テーブルの上に落ちた。
 めぐの誕生日は六月の中旬初にある。
 今が五月の下旬半ばだから、あと二週間と少ししかない。
「ねえ、真紅」
「なに」
 水銀燈は寝かせていた膝を立てて抱いた。
 なにかを言いかけて、結局なにも言わなかった。
 真紅はそれを催促しなかった。
 紅茶をすする音がする。
 真紅のもののみで、水銀燈のものは絶えて久しい。
 水銀燈の唇は乾いていた。
 喉は嗄れきっていた。
 腹の底でなにかが重かった。
 そのような感覚が、水銀燈にはあった。
 その、なにか、の正体がわからないまま、水銀燈はまた、真紅の名を呼んだ。
「ないのよ」
「なにが、ないの」
「めぐに、あなたに死んでほしくないと言ったことが、一度も」
 少なくともめぐが望んで死を待つようになってから、水銀燈はめぐに、そういう言葉を言ったことがない。結婚の話にしても、期限を定めてそこまで生きてと言っただけだ。それが終われば、という部分にはいっさいふれていない。
「言えないことなの」
「言えないわ。怖いのよ、きっと」
 水銀燈は鼻で笑い、勇気のない自分を嘲った。
 ――わたしがあなたの死を望んでいないと言えば、あなたはわたしに失望するのでしょうか。
 水銀燈は、なによりそれが怖かった。

 週末、水銀燈は病院へ行く。
 病室のドアを開いた水銀燈に、めぐは微笑んで、
「今月ね」
 と、あいさつ代わりに言った。
 そう言っている時のめぐの笑貌は、どう考えても病人のそれではなく、明るい艶があり、そのまばゆさに、水銀燈はしばしば目をつむりそうになる。
 水銀燈が病牀の横に座ると、めぐは彼女の手を取り、愛しげに撫でた。
 外には雨が降っている。

 六月は実に雨からはじまった。
 雨の多い時節は、そのせいで足もとが雨にずぶ濡れて、ひじょうに気持ちが悪い。
 靴下をはきかえたところで足裏に残る水の嫌な感触は消えてくれず、水銀燈はこれだから、六月を特に好まないのである。
 水銀燈に限らず、だれもが鬱屈そうな顔つきで授業を受けていた。
 雨は以降四日ほど続いたから、生徒の鬱屈をあらわした顔もそのあいだ続いたということである。
 違うつくりの顔の同じ表情が教室いっぱいに並ぶ様は、異様と言うほかない。
 が、その鬱気からも、さすがに休憩時間中だけは多少まぬかれることができるようで、教室のあちらこちらで明るい談笑がのぼった。
 ひとり、水銀燈だけが、睫の長い目を暗くふせたまま、陰鬱に陥っていた。
「こんな時季に結婚したがる人間の気がしれないわ」
 窓の外をなんの気もなしに眺めていた水銀燈は、ふとめぐのことを思いだしてか、ぼそりと呟いた。
 なにかの意味が込められているわけではない、ただの独り言である。
 水銀燈の呟きを聞き及んだわけでもあるまいが、真紅が友人との会話を打ち切って、水銀燈に近寄ってきた。
「ずいぶんと、暗いじゃない」
 そう言う真紅の眉宇もけっして明るいとは言えないものである。
「悩みごとがあるのなら、相談に乗るわよ」
 と、水銀燈を気づかう真紅は、訊かなくても水銀燈の悩みの内容を知っているわけで、彼女の暗さは多分に水銀燈のそれを映し出したものだった。
 水銀燈は、真紅と目を合わせずに、べつに、と短く言った。
 水銀燈は雨だけを見ている。
 あるいは雨の向こう側にあるめぐの姿を見ていた。
 外は雨がやまない。
 この雨を、めぐは、嫌いじゃないと言った。
 誕生日に雨が降ってもかまわない・雨音をBGMに、と言っていたから、むしろ降ってほしいと思っているのかもしれない。
 たかだか十分の小休憩は、あっというまに終わった。直前に真紅が寄ってこなければ、授業がはじまっても、水銀燈はそれを知らないままだっただろう。ただし、知ろうが知るまいが、どのみち水銀燈は雨見ているだけで、それは下校時間になるまで続いた。

 雨に足をとられて転びそう、という真紅の述懐である。
 家が近いのだからという理由で、真紅は水銀燈の家まで付き添った。
 近いと言えばそうかもしれないが、さすがに水銀燈の家まで着いていけば、真紅自身が帰るにはたいぶん遠回りになる。
 真紅の親切だった。
 帰宅して自室に戻ると、嫌でも机の上の包が水銀燈の目に入る。中身は指輪であり、どういうわけか、どこにもしまう気になれないものである。
 水銀燈はそれについて、どうせ近く使うものなのだから、わざわざ取り出す手間をつくる理由はない、として自分に言い聞かせていた。もちろんその理由には嘘がある。
 水銀燈は自分の左手をあげて、甲を見つめた。
 どろりと、粘性のある感情が水銀燈の腹に重く落ちた。それはある種の興奮であり、いつかめぐの誕生日を心待ちにしている自分に、水銀燈はぞっとした。
 水銀燈は手があけば、指を折って、めぐの誕生日までの日数を確認した。そうしていると、いつのまにか自分の誕生日がやってきたが、それは水銀燈の内を無感動に通り過ぎていくだけのものだった。友人や両親からの祝いも、水銀燈の頭上をなんとなく
 かすめていくだけの淡い存在でしかなかった。
 三日後にはめぐの誕生日である。自分の誕生日よりも鮮やかに・強烈に、水銀燈の心へ、存在をうったえかけてくる。
 夕食後、水銀燈はにわかに体調をくずした。
 発熱し、その熱が水銀燈の体中をぐるぐると鈍い動きで巡る、そういう感覚である。不気味でさえあった。不気味な感覚に恐怖心が伴われてきたところで、ベッドの上の水銀燈は目を伏せている時間が長くなった。
 風邪を引いたのだから、眠ってしまってもかまわないのだろうが、水銀燈は服を着替えておらず、風呂には入っておらず、歯も磨いていない、就寝支度はなに一つ終わっていなかった。
 迷ったのは転瞬のことで、水銀燈はすぐに立ちあがり、ベッドから降りた。薬を飲もうと思ったのである。風呂は諦めることにした。
 が、部屋からは出なかった。
 立ちあがったのは携帯電話を取るためで、水銀燈は一階の母に言って、薬と水とを自室まで運んでもらった。
 ――明日は学校を休んで、それで治まらないようなら、真紅に電話しよう。
 そう決めて、水銀燈は眠った。
 真紅に連絡を入れようと思ったのは、不調が長引けばそれを建前にして、自分は病院へ行かないような気がしたのである。そうなった時、無理矢理にでもベッドから曳きずりだして、病院まで連れていける人材として、水銀燈には真紅しかあてがなかった。
 めぐに風邪をうつすかもしれない、ということは考えなかった。風邪が死のきっかけになるのなら、めぐはかまうどころか喜ぶだろう。
 めぐは今の自分のおかれている状況に、陶酔しているところがある。病牀に死を待つだけの少女の、うつくしさである。
 水銀燈からすると、早いところその酩酊から醒めてほしいものだが、近頃はめぐの気持ちが少し分かるような気がしてきている。
 めぐが酔いの中にあり続けたいと願うのであれば、それはそれでかまわない、水銀燈はそう思いはじめていたために、風邪が治まらなくても病院へ行くつもりだったのだが、この思いはかなしかった。
 ――あ、風邪……、風邪引きでも面会できるんだっけ。
 朝起きて、水銀燈はそんなことを考え、真紅の後の身を隠していれば誤魔化せるだろうと、半分眠っている思考を結んだ。
 午後を過ぎてもいっこうに熱が下がらない。
 夕になると、真紅が見舞いにきたので、水銀燈は上述の内容を話してたのんだ。
 真紅はなかなか頷かなかったが、それでもしつこく水銀燈がたのみおがむと、しぶしぶながらも諒承した。
 真紅は机の上の包を見つけ、それを指さし、
「あれが、そうなの」
 と、曖昧な訊きかたをした。
「そうよ」
 起きあがるのもおっくうな水銀燈は、真紅の指先の示しているものに目もくれずに言った。
 水銀燈の目は、今天井を見ている。額にかかる腕のせいで、視界は上半分ほどをふさがれていた。
「明後日、わたすのね」
「両方、わたしがお金を出して買ったのよ。おかしな話だわ」
 と言ってから、水銀燈は小さく溜め息を吐いた。
 水銀燈の買ったのは、いわゆるファッションリングだが、それでも水銀燈にはそうとう痛い出費だったことに変わりない。
「ええ、おかしな話ね。おかしいというより、不公平な話。あとでちゃんと返してもらいなさい」
 そう言って、真紅は微笑した。
 水銀燈は驚いて、いやにいつくしむ目を自分に落としている真紅へと、視線を合わせた。
「指輪を?」
 と、水銀燈が訊くと、真紅は笑ったまま、ゆるゆると首を振った。「指輪代を」
「返してもらいなさい。金銭の扱いがずさんなのは、よくないことなのだわ。いくら結婚して財産共有をすると言ってもね」
 真紅は、こういうことには口うるさい性質らしい。水銀燈から言いづらいのなら、わたしが代わってあげるわ、とまで言った。
 ――ほんとうにお節介な子。
 水銀燈は鄭重に断わった。
 水銀燈の感情として、真紅の気づかいは素直に嬉しいものだったが、こういうことは自分で言うべきことなのだろうと、思ったのである。断わられた真紅は、くすりと笑うだけだった。
「わたしは立ち会うの、それとも外で待っていたほうがいいかしら」
 と、真紅は、今度はべつのことを訊いた。
 外で、と短く答えた水銀燈は、少し眠かった。
 日の沈む前に真紅が帰っていたことに、水銀燈が気づかなかったのは、その時すでに眠ってしまっていたからである。

 熱は引いた。
 しかし、体力はごっそり熱に持っていかれていたようで、それを蓄えるには時間が足らず、水銀燈は真紅に病院――めぐの病室前――まで、同行してもらった。

 めぐがいる。
 あまりのまばゆさに、水銀燈は思わず目を細めた。人の塵埃や臭いからまぬかれたうつくしさである。あれほど強く思っていた死への願いさえ、今のめぐにはないのではないか、と水銀燈には思われた。
 それは今日必ずおとずれるもので、叶えるに祈りも願いも要らないと、めぐは信じきっているようだった。
 彼女は今にもベッドの上で跳ねあがらんばかりに、喜色を満面に広げている。
「はしゃいでいるのに水を差すようでわるいけれど、今日死にたいから死なせてください、でその通りにしてくれるほど、死神さまは親切じゃないわよ」
 水銀燈は以前真紅から言われたことを、そのままめぐに言った。
 めぐは水銀燈の首に腕を回し、抱き寄せると、
「最近、来てくれなかったでしょう。会えて嬉しいわ」
 と言った。上すべっているのか、上ずっているのか、水銀燈には判断のつきかねる、複雑な色あいの声だった。めぐについてわからないことがあったので、水銀燈は気色ばんだ。たしかにめぐは性格にかなりむずかしいものがあるが、自己表現においては(良きにしろ悪しにしろ)どこまでもまっすぐな子だったはずである。
 韜晦を嫌うめぐが、こういう曖昧な声で言葉を発することが、水銀燈には気にいらなかった。
「なあに、水銀燈。怒っているの。
 この晴れの日に、そんな顔はだめよ」
 めぐは水銀燈の両肩をついて体を離し、彼女の目をのぞきこんだ。
「なにか、企んでいるでしょう」
 と、水銀燈は不機嫌なまま言った。
 ふふ、というめぐの声が水銀燈に聞こえたが、笑声には感じられなかった。
「水銀燈が会いにきてくれないと、わたしは水銀燈に会えないのよ?」
 めぐは当たり前のことを言った。
「わたしの誕生日のことを言っているの。風邪を引いたのよ。仕方ないじゃない。今日のこともあるし、ちゃんと休もうと思ったの」
 と、水銀燈は弁解した。
「企んでいたのは水銀燈の誕生日のためによ。本人来ないで終わっちゃったんだから、今はなんにも企んでなんかいないわ。それより――」
 と言って、めぐはにこりと笑い、膝を寝かせたまま畳んで、その上のシーツをのかせた。
「さあ」
 と、めぐは水銀燈を手招いて言う。
 水銀燈はめぐがあけてくれたスペースの端に腰かけた。それを見てめぐはまたにこりと笑い、のかしていたシーツで水銀燈を頭からすっぽりおおいつくしてしまった。前と違うのは、今回はめぐ自身もそのシーツの下に身を
 もぐらせたということである。
 ――両方、花嫁なの。
 と、水銀燈は思った。
 考えてみれば、女同士なのだから、そうあって当然のことだった。
 どちらか一方を無理矢理男役に仕立て上げようとするのが、どうかしている。
「誓いましょう」
 と、水銀燈は言って、包から二対の指輪を取り出し、片方をめぐにわたした。

 めぐが、お決まりの文句を適当にアレンジして言い、誓いあって、ふたりは指輪を交換した。
 そのあと、めぐは、はたとあることに思いあたり、あっと声をもらした。
 水銀燈の唇に自分の唇を近づけ、
「誓いのキス、どうしようか。ねえ、ファーストキスってまだだっけ。それなら、好きになった男の子に、とっておいたほうがいい?」
 水銀燈は今日めぐを見舞いにきてから、はじめて笑った。
 しかも、声をたてて笑ったのである。
「今さらよ。それも含めて、たった今、あなたに捧げたんだもの」
「じゃあ、……」
 すでにほとんど距離を保っていなかったふたりの唇が、そのやりとりのあとに重なり、そして――

 水銀燈の顔面に枕が直撃した。めぐが投げたものである。その枕が床に落ちるより早く、めぐの罵声が水銀燈めがけて飛んできた。
 めぐがベッドの上でだだをこねている。めぐは髪が天を衝かんばかりにはげしい怒りを見せた。四月、めぐは水銀燈に言ったはずだ。誕生日に、自分は花嫁に抱かれて死ぬのだと、たしかに言った。
「どうして、どうして、わたしは死なないの。絶好のシチュエーションだったのに。キスしたあと、雨だって降ったのよ。なのに、ひどい」
 ということらしい。水銀燈は枕を拾いあげると、それをめぐに投げ返した。枕はめぐの胸に当たって、膝もとに落ちた。
「だから、言ったじゃない。窓から飛び降りるとか首を吊るとか、そんなこと全然していないのに、そう都合よく死ぬわけないでしょう」
 と、水銀燈が言うと、めぐは、
「自殺なんてナンセンスなこと、たのまれたってしないわよ」
 と、口をとがらせながら言った。
 めぐには、彼女のなりの死への美学というものがあり、自殺はそれに悖るものである。
「あーあ、時間が巻き戻らないかな。もう一度昨日をやり直したいわ」
「無茶言わないの」
 水銀燈は、呆れと安堵とをない交ぜにした息を床に落とした。昨日死ななかったというだけで、めぐが病人であることに以前変わりないが、とにかく元気があるのは、よいことである。
 ぶちぶちと文句を言うめぐは、しかし落ち込んでいるふうでもなく、ある意味活力にあふれている。
 今のめぐに、水銀燈が目を細めてしまうようなまばゆさはない。
 理由は大体想像できる。
 めぐはこの世に未練というか欲をもつと、独特の光彩を失うらしい。
「なに笑っているの」
 めぐが不機嫌に怪訝を上乗せした目を、水銀燈に向けた。
「笑っているの? 気づかなかったわ」
 ごめんなさいね、と水銀燈は上辺だけの謝辞を口にした。
 が、めぐの渋顔が、それでおさまるわけは、もちろんない。
「ひどいわ、水銀燈も。わたしはね、千載一遇のチャンスというのを、のがしてしまったのよ。なのに、水銀燈は喜んでいるじゃない。伴侶の不幸を喜ぶなんてっ」
 めぐは膝もとの枕をつかんで、また水銀燈に投げつけた。さきほどよりも至近距離からぶつけられたわけだが、水銀燈はきちんと両手で受けとめて、すぐにめぐの胸に押しつけた。
「あなたはわたしの死なんて望んじゃいないくせに、ほんとうにひどいのはどっちよ」
 その言葉は、大声で悪態を放ち続けるめぐには、聞こえなかっただろう。
 水銀燈も自分がどんな言葉を今吐いたのかはわかっていたものの、その声までは聞きとれなかった。
 それほど小さな声だった。
「ねえ、めぐ」
「なによ」
 めぐの声からは怒気が消えていない。消すつもりもないようだった。
「わたしの誕生日に、なにをしようとしていたの」
「気になるの。いいじゃない、もう。
 誕生日を過ぎっちゃったんだから」
「過ぎるともう駄目なの」
「駄目よ。あの日じゃないと、意味が無かったの」
 水銀燈は自分の生まれた日とか、どうでもいいのね、とめぐは言った。
 生まれた日、と言われて感ずるところがあったのか、水銀燈はひきさがった。
「そろそろ帰るわね」
「どうぞご自由に。でも明日もちゃんと来なさいよ。結婚したんだから、それくらいは当然よね」
 と、めぐは言い、不貞腐れでもしたように、水銀燈に背をむけて寝ると、シーツで頭までかくした。
 病室を出る前に、水銀燈はめぐに訊いた。
「来年じゃ駄目なの。来年の誕生日」
 めぐはなにも答えなかった。
 水銀燈は病室をあとにした。

 一月・二月・三月と、月日が経過していく。……

「隣のクラスに、とびきり変な女の子がいるのよ。おもしろい子よ」
 水銀燈は最近、その子と仲がよい。
「今度、会わせてあげる。きっとめぐと気が合うわ」
「へえ……。それはたのしみね。名前、なんていうの」
 と、めぐが訊くと、水銀燈は首を振って、教えない、と言った。
「本人に教えてもらいなさい。それもきっと、おもしろいから」
「自己紹介からおもしろいんだ。ますますたのしみ」
 めぐは笑った。
 秋になっても、めぐは健在である。
 水銀燈は今日も、めぐにこの世の未練を植えつけるためにやってくる。

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