夏の幻影、青春の反映

 真っ暗闇の中で蒼星石は叫んだ。双子の姉の名を呼び、老いたる養父母を呼んだ。声は自分の耳と頭に響いたが、暗闇には響かなかった。
 暗闇の中で、ほの白い階段だけが、かろうじて足もとに見える。蒼星石はそこを駆け下りていた。早く下りきってしまわないと、やがてこの階段もわずかの光さえ失い、ついになにも見えなくなると思われた。
 蒼星石は最初学校にいた。自分の通っている高校である。夜の学校で、教室で、部屋着を着て立っていた。空には満月があった。雲はなく、月のうつくしい夜だった。
 どうして自分がそんなところにいるのかを考えなかったのは、彼女が夢を見ていたからに他ならない。どんなに奇妙な状況でも、それを奇妙と感じないのが夢である。
 北校舎三階の教室から出、西階段を下りた。二階についたあたりで、夜が深くなった。二階から一階へ――ふと、踊り場の窓から空を見上げると、月明かりというものが全く消えていた。いつのまにか墨のような空になっていた。
 蒼星石はそこで初めて、怖れた。怖れていないものなど一つもないというほど、いろいろのことを怖れた。
 蒼星石は、早く家へ帰らなければと思った。それが足どりにもあらわれ、三階から二階へ下りていた時より、蒼星石は少し駆け足になった。
 ――おかしい。
 と、蒼星石はすぐに、足もとのおかしさに気づいた。早足になっているはずなのに、ちっとも一階につかなかった。
 蒼星石が気づいた瞬間には、空にぶちまけられた墨は、もう校舎にまでおよんでいた。光と言う光は、今や足もとのほの白い階段をのぞいて消えてしまった。
見下ろしてそこに、目指している一階は見えず、見上げてそこに、つい先ほど墨のような空を見た踊り場はなかった。窓もなかった。
 蒼星石はいよいよ恐怖した。階段しか見えなくなってしまった。そして、階段も見えなくなってしまうかもしれない。
 蒼星石は階段を駆け下りた。時々足をもつれさせながら、ひたすら駆け下りた。しかし、階段はいっこうに終わらなかった。
 ――翠星石!
 蒼星石は姉の名を叫んだ。助けを求めた。
 反応はなかった。自分の声さえ響かなかった。
 蒼星石はまた姉の名を叫んだ。やはりなにも起こらず、姉はあらわれなかったので、蒼星石は次に養父を呼んだ。養母を呼び、三度姉の名を呼んだ。叫んだ。
 そんなことをくりかえしてのち、おとずれた事態の変化は、階段のほの白い明かりの消えたことだけだった。
 階段が見えなくなって、蒼星石はまた叫んだ。誰の名を呼んだわけでもなく、ただ叫んだ。悲鳴をあげたのである。
 声ではあったが、言葉ではなかった。
 蒼星石は落ちた。落ちた、という感覚だけが首筋をなぞった。
 夢はそこで終わった。

 目を覚ました蒼星石は、夢のことをかなりはっきりと憶えていた。
 それだのに、変な夢を見た、と不快になるゆとりもなかったのは、自分が今翠星石に抱かれていることを、起きてすぐに知ったためである。
 正確に抱くというほどのものでなく、ただ普段寝床を並べて眠っているはずの姉が、どういうわけか蒼星石と同じ布団に眠っており、しかも腕が蒼星石の首に回っていた。寝床に横になっているのだから、肩にのかっていると表現するのが、より適切かもしれない。不得要領のまま、蒼星石はその腕をのかした。
 翠星石が目を覚ました。両手で布団を押して上体だけ起こすと、瞼をこすりながら、だいじょうぶかと蒼星石に訊いてきた。
 問いの意味をつかみかねた蒼星石は、体を起こして翠星石と同じような姿勢をとり、
「なにが」
 と、訊きかえした。翠星石が起きぬけに気づかうほど、蒼星石のだいじょうぶでないことがあったのか。
「なにって……」
 翠星石はまだ眠気からまぬかれていない頓狂な調子の声を発すと、あくびの合間を縫って説明した。
 夜中、蒼星石はとんでもない叫び声をあげてはね起きた。となりでそんな大声があがるのだから、むろん翠星石も起き、すぐに立って電気を点けた。
 蒼星石は怖い夢を見たと言った。夢の内容はろくに憶えておらず、怖いという感覚だけが首筋あたりに残っている、と。そう言って、両手で頭をかかえ、はなして首筋を撫でた。
 蒼星石はしばらく室内に視線をただよわせていたが、やがて気をとりもどしたのか、あるいはさらに失ったのか、いきなり翠星石にとびついてきた。
「それで一緒に寝てやったんじゃねえですか」
 翠星石は、きょとんとしている蒼星石を指さした。
「甘えてくれるのは嬉しいですけれどねえ、十六歳にもなって、ちょっと情けなくもあるですよ」
 と言った翠星石は、真夜中に添い寝をせがんできた妹の姿を思い出して、白い歯を噛んで笑った。喋っているうちに翠星石は覚醒しきったようだった。
 蒼星石は、はっとして目を落とした。自分の眠っていた布団が、翠星石のものだとわかった。翠星石が蒼星石の布団にもぐりこんで来たのではなく、蒼星石がそうしていたのである。
「憶えていないや」
 と、蒼星石は憮然として言った。添い寝を求めたことどころか、いったん目を覚ましたことさえ憶えのないことだった。
 今憶えている夢と言えば、夜の学校の階段を駆け下りる夢だけである。憶えていない夢は、憶えている夢と同じものなのか、それとも全く違う夢だったのか。
 どちらにしろ、一つの夜に二度も悪夢を見るなど、気分の悪いこと夥しかった。
一度目の夢の内容を憶えていないのが、幸いと言えばそう言えた。
「暑い、暑い」
 翠星石はそう言って掛け布団をのかすと、眠っているうちに停止した扇風機の電源スイッチを押して、風をあおいだ。
 夏休みの真っ最中である。寝床を同じに眠っていれば、汗の量の倍加されるのは仕方のないことであった。それでも養父母に影響されたおかげで、比較的涼しい時刻に起きることができていた。これでクラスメイトのように休日は昼まで、なんて習慣があったら、もっとたいへんなことになっていたに違いない。
「下へ行こう」
 蒼星石は翠星石の腕をやんわりつかんで、立つようにうながした。翠星石は生返事をして立ち上がった。
 布団をかたづけ、一階の洗面所へ行った。歯磨きと洗顔をすませ、着替えるためにまた二階へ上がった。着替えているあいだに朝食の支度が終わったらしく、一階の養母に呼ばれた。
 昼前になると、クラスメイトの水銀燈から電話がかかってきた。
 今夜、学校できもだめしをやるので、その誘いの電話だった。夜の学校に生徒は入れないはずだが、そのあたりは水銀燈の父が学校に融通を利かせてくれたらしかった。
 電話に出た翠星石は、朝のことを心配して、断わろうかと蒼星石に言ってきたが、怖い夢を見たからいやだ、などと断わるのは、かっこうがつかないので、蒼星石は諒承させた。

 きもだめしは、東西にのびる北校舎の一階を東口から西口へ通り抜けるというものだった。
 水銀燈と金糸雀、蒼星石と翠星石、雪華綺晶と薔薇水晶、真紅と雛苺、……と、ひねりを入れられることもなく、いつもの取り合わせで、この順番できもだめしをすることになった。じっさいにきも≠ためすのはこの四組だが、学校に来たのは八人でなく、みっちゃんと白崎が保護者として姿を見せていた。
 みっちゃんは単純に姪の金糸雀が心配でたまらず、ついて来た。
 白崎は槐の代役でやって来た。
 槐は男の癖にやたらと怖がりだった。娘二人・雪華綺晶と薔薇水晶が心配で白崎をついて行かせたが、自分は家に残った。夜の学校は、槐にとって途方もない恐怖の対象である。絶対に行くものか、だから白崎、おまえが行け、槐は白崎にそう言った。
 白崎は、槐の口真似をしながら、事の経緯を説明した。夜に沈んだ学校でおだやかな笑声が上がった。
 蒼星石は空を見た。弓形の月が出ている。満月ではなかった。些細でも夢と異なる部分に、蒼星石は安堵した。
 気分をきりかえた蒼星石は、水銀燈に、
「宿直の先生、いるのかな」
 と言った。水銀燈はちょっとのあいだ首をかたむけていたが、ああ、と得心したふうにうなずくと、
「挨拶にでも行きましょうってことね。いいのよ、そんなの。話はちゃんとつけているんだから」
 と、あっさりとそう言って、蒼星石が提案しようとしていたことを、先に制した。そんな面倒なことをしても、自分たちの気をそぐだけだろう。
 先だって北校舎に入って行った水銀燈と金糸雀につづいて、蒼星石と翠星石も北校舎に進入した。
 蒼星石はふしぎな感慨にうたれた。
 夢の中では、全力で階段を駆け下りても、この北校舎一階へ行きつかなかった。
それなのに、現実では無難な足どりでその一階を進んでいる。
 あるいは逆に、現実の北校舎は、ここから階段を駆け上っても、二階より上へ行きつかない仕組になっているかもしれない。
 蒼星石は、そんな想像を一瞬したが、すぐにそれをうち消し、むつと口をとがらせた。今の蒼星石には、はなはだ笑えない想像だった。
「あっ」
 蒼星石は急に立ちどまった。西階段手前に、
「誰かいる」
 蒼星石は言った。ひゃっ、という小さな悲鳴が背中にぶつかってきた。それからまもなく、悲鳴をあげた翠星石が蒼星石の手をほどき、背にしがみついてきた。
 蒼星石は自分にしがみついている翠星石の体をはなし、人影を発見した方向にまた目をもどした。しかし、もう誰の姿も見えなかった。ちょっと目を切っているうちに、人影は消えてしまった。
 仕方がないので、蒼星石は翠星石の手を曳いて校舎から出、ゴール地点で待っていた白崎と、先に出発していた水銀燈・金糸雀組と合流した。
「誰か、校舎の中に入って来た? ええと、今さっきにさ」
 と、蒼星石は訊いた。
「誰も入っていないわよ。見てもいないし……どうかしたの」
 答えて、水銀燈は催顔をつくった。
「蒼星石が、誰かいるとか、言いやがったです」
 翠星石は蒼星石を睨んだ。
「ま、さ、か、――」
 と、音を切りながら金糸雀が言った。右手が水銀燈の背後にかくれている。服をつかんでいるのだろう。水銀燈が呆れている。
 白崎は一度金糸雀を見てほのかに笑い、
「幽霊を見たとか、そういうことかな」
 と、金糸雀の言葉を継いで言った。
「いや、さあ、どうでしょう」
 蒼星石は首をひねった。
 金糸雀が足はあったのかどうかを訊いてきた。足があれば人間で、足がなければ幽霊、という理屈だが、人間であっても怪奇な現象なことには変わりなかった。どちらも本来いるはずのない存在だった。
 蒼星石は、どうにも答えようがなかった。あった気がするし、なかった気もする。足に注目して見たわけではないので、そのあたりは曖昧だった。そもそも、足のあるなしで人影の生き死にが定まるものでもない。
 蒼星石は、人影を見たという自信が、だんだんなくなってきた。ほんとうは人影なんてものはなく、ただの蒼星石の勘違いかもしれなかった。そしてそれは、じっさいに彼女の勘違いだった。以降しばらく、彼女は自分の勘違い振り回されることになる。
 雪華綺晶・薔薇水晶組に真紅・雛苺組がきもだめしを終えて校舎から出て来た。そこでまた、蒼星石の見たという人影の話になった。
 しばらく喧々としていたが、白崎の柏手一つを合図に、スタート地点で皆を見送ったみっちゃんのもとへもどった。
「ラーメンでも食べて帰ろうよ」
 と、みっちゃんが言った。彼女に屋台ラーメンを馳走され、その夜は散開となった。
 就寝時、翠星石が蒼星石の布団にもぐりこんで来た。蒼星石のせいだ、蒼星石が変なことを言うからいけない、翠星石はそういう目で蒼星石を見た。
「暑いよ」
 と、苦笑まじりに蒼星石は言った。しかし、拒みはしなかった。自分もやってもらったことだった。
 その夜の蒼星石は、いやな夢を見ずにすんだようだった。内容は全く憶えていなかったが、朝の寝ざめが爽やかだったので、そうに違いないと思われた。
 昼頃には、また水銀燈から電話があった。きもだめしを兼ねた幽霊さがしの誘いだった。
 今度は蒼星石が電話に出たので、うしろで聞き耳をたてていた翠星石に、どうするか訊いた。
 翠星石は責めるような目を蒼星石にむけた。水銀燈の誘いの発端が、昨日の蒼星石の発言にあったことは明らかだった。しかし、幽霊が怖いなんて理由で参加しないのは、なんと情けないことだろう。翠星石は諒承させた。
「行くよ。明日――うん、八時に東門だね。わかった」
 水銀燈にそう答えて、蒼星石は電話をきった。蒼星石はいつもぼそぼそと不明瞭な声で話す癖があったが、この時は明瞭な声で言った。翠星石に言って聞かせるために意識してやったことだった。
 蒼星石は内心のり気があった。彼女は怪奇現象の類が好きだったり、またそれを信じていたりしたわけではなかったし、幽霊さがしに興味のあったわけでもないのに、怖がる姉を気づかわずに諒承したのは、一昨日に見た夢の内容を、なんとなくたどってみたくなったためである。参加しないのはもったいないと思った。夜の学校へ入る機会など、そうあるものではなかった。
 蒼星石は電話をきったあと、もう一度、
「明日の午後八時、東門前」
 と、翠星石に言った。それは昨日と同じ指定だった。

 翌――
 蒼星石と翠星石が東門前に到着した時には、ほかは皆もう来ていた。ふたりを待っていたのは、主催者の水銀燈に、真紅・雪華綺晶・薔薇水晶・白崎の計五人で、雛苺と金糸雀は、
「幽霊さがしなんて、まっぴらごめん」
 ということで、不参加だった。金糸雀がいないのだから、むろんみっちゃんもいない。
 蒼星石のとなりで、翠星石がこっそり息を吐いた。精神年齢のひとより幼い雛苺や金糸雀と並ばずにすんだ、という安心感だろう。
 蒼星石は声をひそめて小さく笑った。怒った翠星石が、蒼星石の足をやんわりふんできた。怖い夢を見たからと姉の布団にもぐりこみ、怖いくせに意地はってきもだめしに参加する、蒼星石の程度もかわらない。ひとを笑えない。ごめん、と蒼星石は唇をうごかした。
 校内へ入った直後、蒼星石の服の袖を水銀燈が引っぱった。今日は日曜だから、宿直はいないはずよ、と言った。蒼星石は肩をすくめた。そんなことは、今やすっかり頭から抜け落ちていたことだった。
 蒼星石は水銀燈たちを件の現場へ案内したあと、職員室へ教室の鍵を取りに行くと言って、集団から離れた。職員室は南校舎西端(本館)の二階にある。
 翠星石と真紅がついて来た。ふたりとも怪訝な目で、先頭を進む蒼星石の背を見ている。視線に気づいた蒼星石は、教室へ行く目的を話した。
「めったにない機会だから」
「そう」
 と、そっけなく呟いた真紅は、それでもほどほどの理解を、蒼星石に示しているようだった。
 蒼星石はいったん水銀燈たちのもとへもどった。そうして、半時間ほど皆で幽霊の有りや無しやについて話し、時に笑声を天井へ上らせたのぼらせた。
「教室へ行ってくる」
 と、蒼星石は言い、西階段をゆっくりと上った。翠星石と真紅がまたついて来た。
 なじみのある教室の前につくと、蒼星石はオンボロな鍵を開けて中へ入った。
「どのあたりだったっけな」
 蒼星石は教室内を見わたした。自分の席の前というのが妥当だろうか。それとも、少し離れた姉の席だろうか。が、姉の席は廊下側にあり、自分の席は真ん中の列にある。満月を見ていた記憶があるから、そのどちらでもない窓際に立っていたのだろう。
 いちおう自分の席の横に立ってみたが、天井がひくすぎて月は見えなかった。
 蒼星石は窓際へ寄って行き、窓を開けて身をのりだした。
 月がある。
 こういう姿勢で月を見ていたのではなかったと思うが、どうせ見るなら、より見やすいようにしたかった。きちんとなぞりたい部分は、一階と二階を繋ぐ西階段にある。
「あたりまえだけれど、ずいぶんと違うものね」
 と言った真紅が、自分の使っている机を指でなぞった。
 教室のふんいきのことである。部活なり委員会なりで、日の沈んだあとでも学校にいることが時にはある。しかし、そうした時と違い、今は校舎内に電灯の明かりもなく、せいぜい外灯がお情け程度に点いているくらいで、見知った夜の学校とは、ふんいきがかなり異なった。
「そうだね」
 と、蒼星石は窓から上半身を出したまま同意した。
「でも、ちょっと懐かしいです」
 と、翠星石が言った。夏休みがはじまってから、ずっと入っていなかった教室である。最初の登校日まで、あと四日ある。
 蒼星石の胸に、翠星石の言う懐かしさが宿った。それから、ほんの少しの後悔があった。
 ――ひとりで教室まで来ればよかった。
 ということである。
 が、ついて来てしまったものは、今さらどうしようもない。
 蒼星石はふたりをうながして、教室を出た。
 夢の中で墨のぶちまけられたような空を見た、例の踊り場に到った時、蒼星石は突然足の力を失って尻もちをついた。まったく、本人にもわからない力の抜け方で、突然尻もちをついてしまった。
 蒼星石は、翠星石に腕を曳かれて立ち上がったあとも、しばらくのあいだ足もとを睨みつづけた。
「いきなり、どうしたの」
 と、真紅が怪訝そうな表情をして言ったので、蒼星石は正直に、よくわからない、と答えた。
 真紅は上履を踊り場にすべらせた。キュッとどことなく窮屈な高音が踊り場に響いた。ちょっとすべるみたい、と真紅は言った。
 蒼星石も真紅を真似てみたが、特別すべるようには感じなかった。真紅なりのフォローなのだろうと蒼星石は思った。したがって、蒼星石が尻もちをついた原因は、床ではなく彼女自身にあり、
 ――夢じゃないんだからさ。
 と、蒼星石は自分に呆れた。床がなくなるとか階段がなくなるとか、そんなことがあるはずない。空はちっとも墨のぶちまけられたような黒々しいものでないし、階段はほの白く奇妙に光っているもでもない。
 気をとりなおした蒼星石は、無難に階段を下りきった。
 あらわれた蒼星石たちを、一階の廊下で待っていた水銀燈が、
「おかえり」
 と言ってねぎらい、教室の様子を訊いてきた。
 蒼星石は教室内で感じたことの全部を話した。記憶とふんいきの違ったのは当然のことだが、それでもひっきょう、「変わりなし」の一言に尽く。教室は教室のまま、昼が夜になっただけで、終業式の日からちょっとも変わっていなかった。変わられて困るところでもある。
「幽霊さん、ずっと待っていたのに来ない」
 薔薇水晶は蒼星石の言った人影の出現箇所を指さし、そう言った。
「こっちも会わなかったよ。単なるぼくの見間違えだったのだと思う」
 と、蒼星石は言った。
 昨日みっちゃんに連れて行ってもらったラーメン屋でまた夜食をとり、蒼星石と翠星石は、皆と別れた。
 途中、鍵を返し忘れたような気がして、蒼星石は立ちどまった。その場で服のあちこちをまさぐってみたが、鍵は出てこなかった。きっとちゃんと返したのだろう、と思い、蒼星石はとめていた足をまた動かして、帰路を辿った。
 ところが、困ったことに、家に帰ってから鍵が出てきたのである。
「どうしよう」
 と、言ってくる蒼星石に、翠星石は決まりきった解答を与えた。
 明日にすればよい。日のあるうちに堂々と正門から入って、職員室へ行って鍵を返せばよい。
 翠星石も、まさか蒼星石が、今から学校へ行くなんてことはないと思いつつ、いちおう釘を刺した。蒼星石は妙な頑なさが性格にあった。悪癖の起こる前にとめておかなければならなかった。
「そうするよ」
 と言って、蒼星石は息を吐いた。残念がっているのか、ほっとしているのか、翠星石にはつかみかねた。

 蒼星石は、いつもより少しだけ早めに起きると、食事もそこそこに家を出た。日が昇ればそれだけ暑くなるので、なるたけ涼しいうちに用をすませたかった。
 職員室の前で、雪華綺晶とばったり会った。
 めずらしいこともあるものだと、蒼星石は思った。
「部活とか、やっていたっけ」
 と、蒼星石は雪華綺晶に訊いた。蒼星石の憶え違いでなければ、雪華綺晶は部活動をしていなかったはずである。また補習に出るほど成績のわるいわけでも、まして呼び出しを受けるような不良生徒でもなかった。
 雪華綺晶は首を振った。蒼星石の知ってのとおり、雪華綺晶は帰宅部である。教師から呼び出しを受けたのでもない。ただ、ちょっと学校に用があり、帰る前に、もののついでにと、担任へ挨拶しに来ただけだった。
 雪華綺晶は、自分はともかく、蒼星石はどうしてこんなところにいるのかと訊きかえした。
「これ。昨日、教室の鍵を返し忘れちゃって」
 蒼星石は雪華綺晶に鍵を見せた。
「なるほど、蒼星石にも、そういうことがある」
 と、雪華綺晶は感心したふうな言い方をした。
「そういうことって、なに。鍵を返し忘れたこと?」
「あまり、忘れ物とかしませんから」
「ふうん」
 忘れ物をしない蒼星石が忘れ物をした。鍵を返し忘れた。雪華綺晶はそんなことを感心した。どこに感心する要素があったのか、蒼星石にはわからなかった。
 ところで、雪華綺晶の言う用とはどんなものなのだろう。蒼星石は訊いた。すると雪華綺晶は、ちょっとはちょっとです、と言うだけで、詳しく説明しなかった。蒼星石もそれ以上は詮索しなかった。
 ふたりは途中まで一緒に帰ることにした。
 職員室のある本館を下りて、一階東口から出たところで、雪華綺晶はいったん立ちどまり、
「空が、……」
 と、蒼星石に言った。空はひらけているが、明るいとは言えないものだった。暗さは北からのびて来ている。雪華綺晶は空を見て指さし、蒼星石に空の様子のおかしいことを言った。
「あ――」
 と、声をもらしたあと、苦しげにあえいだ蒼星石は、雪華綺晶の言った空に、なにか薄暗い雲のたちこめていることを知った。雨雲に違いなかった。じきにこの地区まで達すると思われた。
「予報では、快晴のはずなのですが、はずれましたね」
 と、雪華綺晶は言った。たしかに朝の天気予報によらば、今日は雲一つない快晴のはずで、蒼星石が家を出た時もそうだった。
 ――予報がはずれることもある。
 蒼星石は陰鬱な気分になった。
 にわかに雨が降った。空はすっかり雲に蔽われ、色を落とした。
「わっ、もう――」
 蒼星石は驚いて言った。
 雨はまたたくまでどしゃ降りになった。蒼星石と雪華綺晶は本館へもどった。蒼星石は雨具を持って来ていない。雪華綺晶もそうである。天気予報では晴れと出ていたから、持って来る理由がなかった。
「通り雨ですめばいいけれど……」
 と、蒼星石は呟いた。
 ふたりは一時間ほど粘ったが、けっきょく雨はやまなかった。雪華綺晶は職員室で電話を借り、家へ連絡を入れた。一〇分ほど経つと白崎が車でむかえに来た。蒼星石は雪華綺晶と同車して、家まで送ってもらった。

 蒼星石がこの夜に見た夢は、以前に見た、あの墨色の空の出てくる夢だった。あの夢のつづきのようだった。そのためなのか、蒼星石は今回の夢において、これが夢だと認識できた。現実と思わなかった。
 前回は階段がなくなり、視界が全く真っ暗になったところで落ちたが、落ちた先には底があったようで、蒼星石はどこまでも落ちるということなく、ざらざらとした砂の積もる底にとどまった。蒼星石はその砂をつかんで体を起こした。
 視界は変わらず暗かったが、それに恐怖といったものを感じたりはしなかった。夢だとわかっていたからである。
 落ちた時に体をしたたかに打ちつけたらしく、腰や尻が痛かった。夢と知り、夢で痛みを感じた。こういう夢をなんと言ったか。蒼星石はふと考えたが、どうにも思い出せなかった。しかし、大して気になるようなことでもなかった。
 視界は暗かったが、まばゆい光をあびているような感覚がした。それはおそらく、蒼星石が今まさに起きようとしているからだった。現実はとうに朝になっていて、部屋は電気が点いているか、雨戸が開けられたがために、その光が夢にまで入り込んでいるのだった。
 蒼星石はその場に座ったまま目をつむった。つむって、――早く起きてしまえ、と念じた。
 蒼星石は目をひらいた。現実ではなく、夢の中においてである。ふいにひとの気配がしたので、目をひらかないわけにはゆかなかった。
 目の前に、ぼんやりと白い光があった。光源とするにはあまりにも頼りないほのかな光だった。やがてその光は明確な輪郭を得て、ついにはひとのかたちを得た。
 蒼星石の知っているかたち≠セった。写真で見たことのある姿だった。養父母の死んだ息子に違いなかった。一樹という。
 幽霊だ。幽霊の出る夢を、蒼星石は今まさに見ている。蒼星石は立ち上がった。最初蒼星石を見下ろしていた一樹は、蒼星石が立つと今度は彼女を見上げた。ひどく小さな子どもだった。
 ふたりはじっとお互いを見つめ、それ以外のなにもしなかった。声をかけあうこともなかった。指先のちょっとも動かさなかった。ただ時々思い出したようにまばたきをする程度だった。
 蒼星石は、突然ひたいに鋭い痛みの走るのを感じた。
「いたっ」
 と、思わず叫んでしまった時、彼女は夢から抜け出して、目を覚ました。ひたいの痛みは翠星石に叩かれたせいで走ったものだった。
 天井の電灯の明るさが目にぶつかって痛かったので、蒼星石はとっさに右手を動かしてかざそうとしたが、その前に、たった今蒼星石のひたいを叩いたばかりの翠星石の手にやわく当った。
「やっと起きた」
 と、翠星石はにやにやと笑いながら言った。
 蒼星石は当った翠星石の手をつかんでのかすと、床に肘をついて上体を起こした。
 雨の音がする。窓に目をやると、翠星石が開放したらしい窓の外で、ざあざあと雨の降っているのが見えた。昨日から降っている雨が、今日の朝になってもまだやんでいない。
 時計の針は、いつもの起床時間からだいぶん過ぎた時刻を示していた。翠星石に「やっと起きた」と言われるわけだ、と蒼星石は納得した。
 それにしても笑っているのは解せない。理由を訊くと、翠星石は一言、
「寝言」
 とだけ言った。どうも翠星石に笑われてしまうような寝言を言っていたらしい。蒼星石は、しかし、先ほど見た夢において自分が喋ったという記憶がなかったので、首をひねった。忘れてしまっただけかもしれない。そう思いつつ、腑に落ちないものを感じた。かんじんの寝言の内容は、教えてほしいとたのんでも教えてもらえなかった。
 蒼星石は、八月初めの登校日の朝まで、同じ夢を見つづけた。一樹の出てくる夢である。蒼星石と一樹は、いつも無言のまま、ただ突っ立ってお互いを見ていた。それだけの夢だった。
 そのあいだ、蒼星石はかならず翠星石に起こされた。翠星石に起こしてもらわなければ、どうしても起きられなかった。
 起きるたびに、翠星石に寝言のことを言われた。登校日の朝に、翠星石は寝言の内容を教えてくれた。蒼星石はひらすら翠星石の名を呼んでいて、寝言はそれしか聞いたことがないと、翠星石は言った。
 しかし、蒼星石は夢の中で翠星石の名を呼んだことなどなかった。蒼星石のとってあの夢は、姉に助けを求めたくなるような悪夢ではなかったからである。呼んだのは、それこそ、あのきもだめし以前に見た、墨色の空の出てくる夢においてだけだった。少なくとも、彼女が憶えている範囲ではそうだった。
 養父にそれらのことをあまさず話すと、彼は、ひとというのは自分の見たいと思ったものを見、あるいは、見たくないものを、見たくないゆえに見えもしないのに見る、夢に見るのも同じだ、と言った。
 ……すると、蒼星石の見た一連の夢やきもだめしの時の人影も、その類だったのだろうか。幽霊は死者で、なるほど、蒼星石にとっていちばん身近な死者は、一樹であることに違いない。夜の学校・きもだめしに付物の出現を望んで、出てきたのが、あの人影と、夢の一樹ということだった。
 墨色の空の夢についてはまだわからなかったが、見たいものを見、見たくないものを見るのがひとだと言われたばかりだったし、そもそも夢にそこまでの理屈を求めるものでもないと思った。
「翠星石と一樹くんにわるいことをした」
 と、蒼星石は言った。もうしわけない気持ちでいっぱいだった。父は少し困ったように笑ってから、なにも謝るようなことじゃない、と言うと、
「蒼星石も、ひとなみにそういうことを望むのだな」
 ひかえめでおとなしい、この寡欲な娘の頭を撫でた。

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