かわりにくちづけ

 車椅子に座る結菱一葉の白い手が、蒼星石の肩を撫でた。彼の手の白いのは、手袋をつけているがためである。色の暗いコートから床へ、結晶混じりの水が落ちた。
 外は、二月十四日という日付に気をつかったのか、はらりはらりと、ひかえめに雪が降っている。が、高台の薔薇屋敷にかかる雪はすぐに溶けて消え、数十年ぶりに蘇った花景色をうもれさせるに至らなかった。
 蒼星石は、雪のすっかり落ちてしまったコートを脱いで、鞄と一緒に脇に抱えた。学校指定の鞄である。
 つまり、蒼星石のコートの下は制服だった。
 バレンタインに関わるプレゼントのたぐいを学校に持ってきてはいけないと担任に言われていたが、この季節、一度家に帰ってまた坂道を上るというのは、あまりにつらく、蒼星石はもうしわけないと思いつつ、鞄のなかに、目的の物をしのばせていた。
 下校のその足で、蒼星石は高台の薔薇屋敷へ向かった。
 途中で雪が降ってきた時には、日没までに着けるのかと蒼星石は心配になったが、さいわい足取りをにぶらせるほどの雪ではなかった。
 それでもフードや肩に雪は積もってしまうもので、しかもそれはすぐに水に変わり、蒼星石の服を濡らした。
 それを、一葉がていねいに払ってくれた。この行程は、雪の日に来た時には必ずやることで、そのあと、奥の一葉の部屋へ案内され、テーブル向かいあわせに座るのは、いつものことだった。
 時刻を見るかぎりでは、まだ日が沈んでいないはずなのに、窓の外の景色は、夜のように暗かった。厚い雲が日を隠し、空を隠し、ために町を暗くしていた。しかし、室内は明るい。
 今日という日にここに来て、やることなど最初から決まっている。蒼星石は鞄から金の色からなる紙で包装された薄く小さな包を取り出し、これを一葉に贈った。
 一葉は、包みを開き、つぎに箱を開き、なかを確かめるに、
「これは、……」
 と、呟き、そのあとまなじりを緩ませ・口もとを綻ばせ、しかしそれは、蒼星石には苦笑に見えるものだった。
 無理もないことだと、蒼星石は恐縮して顔をうつぶせた。
 箱のなかには、ネクタイがあった。
 蟄居して久しい一葉に、これを使う機会が、この先にそうあるようには思われなかった。一葉の苦笑の理由だろう。
 蒼星石は言葉に窮し、ますます縮こまった。彼女自身、贈り物の内容については、疑問のあることおびただしかった。
 蒼星石はただ、友人に薦められるままに買っただけである。それは善意によるもので、断われない彼女の性格のためだった。
 言い訳として口に出せば友人に責任のあることとして貶めることになりそうなので、蒼星石はなにも言えなかった。
 結局、蒼星石自身が選んで買ったに違いなかった。
 一葉の笑貌から、ほんのわずかにあっただけの苦さが取り除かれた。
「わたしは、きみに、チョコレートやクリームのような甘いものは苦手だと言ったおぼえはないが、きみは、よくよくわたしのことを知っている」
 と、一葉は言った。
「ありがとう」
 蒼星石を気づかう言葉に違いないが、まぎれもない本音である。
 蒼星石は少しだけ恐縮をやわらげて、目をあげた。
 すると一葉は、
「こちらに来なさい」
 と、蒼星石を手招いた。
 蒼星石が立って一葉に近づくと、一葉は膝掛けの下から包もなにもない、はだかの状態の首飾りを取り出した。
 蒼星石は困惑し、また狼狽した。
 それが自分へ贈られるものだとわかったからである。
 しかし、一葉は笑貌を保ったままこう言った。
「こういうものは、相手より己の程度を見て選ぶものだ。わたしはこれを買うことのできる程度で、そして、わたしの買ったこれは、きっときみに似あうと思われた。だから贈るのだが、それはきみの気にかけることではない」
 さあ――、と一葉は手袋をはずした手で首飾りを持ち上げ、蒼星石に差し出した。
 蒼星石は観念して、彼のそばまで寄り、素直に頭を下げた。
 蒼星石の細い首に、首飾りが懸けられた。
 一葉はその首飾りをつまみあげると、蒼く光る石にそっとくちづけ、
「この薔薇の朽ちることはないだろう」
 と言った。
 首飾りの薔薇の装飾に埋め込まれた蒼い石が、自分と同じ名の石であると蒼星石が知ったのは、だいぶんあとのことである。

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