春が立って最初の休日である。
駅のホームのベンチに座っている柏葉巴は、冷えた駅のホームに寒さを吐き出した。吐く息の白さが、立春を過ぎたと言いじょう今はまだ冬なのだと、巴に教えているようだった。
巴はひとりで電車を待っているのではない。連れがいる。桑田由奈という。同じ中学のクラスメイトで、巴ともっとも仲の良い友人である。彼女はベンチのすぐ横の自販機で、ホットドリンクを物色しているところだった。コーヒーか、ココアか、あるいは巴と同じコーンスープか、ということを、彼女は悩んでいるらしかった。
時々風が起こって巴の耳をつんざく以外は、いたって静かなホームだった。少し視線をずらすだけで、中途半端に切り取られた空が見える。そうした時に見える空は、冬の空のようであり、また春の空のようでもあった。
巴は、腿のあいだにうめるかっこうで持っていたスチール缶の口から、コーンスープを飲んだ。由奈がただ今目前にしている自販機ではなく、改札口前の自販機で買ったものである。
由奈がもどって来た。いかにも熱そうな感じに、ホットコーヒーの缶のふちを二本の指で持っている。
巴は由奈を見るついでに、そこから少し視線を上げ、屋根から吊り下げられている時計で時刻を確認した。
「あと、一二分か、一三分くらい」
「けっこうあるのね」
と、由奈も時計を見て言い、ベンチに座った。プルタブを開け、小さな口へ何度か息を吹きかけると、少しだけ飲んだ。それから、大きなため息を一つ吐いた。あと一〇分強のあいだ、この寒気の中でじっとして電車を待っていなければならない。
「また、遅くまでしていたんでしょう」
と、由奈は巴に言った。巴が視線を移して来たので、自分の目をそれに合わせ、
「受験勉強。さっきから、すごく眠そうにしているから」
と言った。巴は、自分では気づかなかったが、先ほどから頻繁にあくびをしている。由奈はそのことを指摘した。自分の持っているコーヒー缶を差し出し、これでも飲んで眠気を覚ましたら? そういうふうに言った。巴はにべもなく断わった。
由奈は肩をすくめた。
「まだ、二年なのに」
「もう二年だから。というより、もうすぐ三年でしょう」
と、巴は言った。
「遊びに行く前日くらい、早く眠ればいいのに……」
と、由奈はぼやいた。今の時期から、このようにして時間を詰め・身を追い詰めていては、そのうち身がもたなくなるのではないかと思う。来年度の夏頃から受験勉強をはじめ、それで通る程度の高校を受けるつもりでいる由奈としては、巴
の在り方は、ちょっと理解のとどかないところにあった。
巴は剣道部に所属していた。部では期待されていた方の部員だった。由奈の憶えているかぎりでは、巴はひじょうに熱心に部活動に参加していた。だのに、今年の夏、突然やめてしまった。
由奈は時々、巴の部活をのぞきにいった。剣道をしている時の巴が好きだった。それだけに、残念でならなかった。
巴からすれば、悩みに悩んだ末にようやく決断したことであって、突然でもなんでもなかったが、誰にも相談せずに実行したものだから、周囲の者には、やはり突然のことに思えた。
「柏葉さん、頭がいいんだから、そんなに根詰めてやらなくても、だいじょうぶだと思うんだけれど」
と、由奈は言った。巴の志望校は進学校に違いなかったが、彼女ほどの優等生であれば、多少気を抜いても、余裕をもって合格できる程度の高校と思われた。
しかし、巴は、
「まだ、全然足りない」
と、言う。
「そうかな」
「うん、そう」
こんなやりとりを、もう何度くりかえしたのか、わからない。
「そうかな」
と、由奈はもう一度言った。巴はそれには言葉をかえさなかった。
「なんとなくなんだけれどね、柏葉さんって、一所懸命がんばりすぎて、かんじんの当日に風邪とかこじらせちゃうタイプだと思うの」
と、由奈は言い、くすりと笑った。つられて巴も笑った。そのとおりだろう。由奈の言ったことは、巴にはずいぶんと身に憶えのあることだった。
「休んだほうがいいよ」
と、由奈は言った。巴は笑ったまま、ゆるゆると首を振り、
「でも、わたしは、休んだら、たぶんもっとだめになる」
と言った。この言い方は由奈には不快だった。遊びに誘ったのは由奈である。しかし、由奈はなにも言わなかった。巴も嫌味でそう言ったのではないとわかりきっていた。たとえそうであっても、嫌味に嫌味をかえすのは、あまりに無粋だろう。
それにしても、
――どうしてこう、なにかにつけて、自信がないんだろう。
と、由奈はつねづね思う。べつにそれを嫌っているわけでも、疎んじているわけでもなかったが、しかし、ふしぎに感じていた。
由奈はどちらかと言えば顕揚欲のつよい性格だろう。自己を虚しくできる巴の性格は、由奈の鋭さと衝突せずにすんだ。うまい具合に互いの美点をつきあわせ、欠点を隠しながら、ふたりは今の良好な関係を得ている。
が、けっきょくのところ、由奈は、巴の自己不信を含んだ謙虚さを愛しているのである。巴も巴で、由奈の陽気な自己顕揚を愛しているのだった。
「今日一日くらいは、いいでしょう」
由奈がそう言って、
「うん」
巴がそうかえして、ふたりはそれきり会話をしなくなった。
いつか、ホームにはひとが増えていた。巴と由奈以外にも、四、五人はいるようである。ひとが増えると会話する気になれないのは、巴と由奈に共通していることだった。
スチール缶の口から立ち上る湯気は、逐次消えていった。由奈のそれは飲みきってしまったからで、巴のそれは冷えたためである。
ベンチに座ったまま静かに電車の到着を待つふたりに、時間の流れは、ひどくゆったりとした・長い・遠いものに感じられた。一〇分強とは、はたしてこれほどの長時間だったかと思うくらいだった。
巴は熱を失ったスープを飲みきった。口から少しコーンが見える。缶を持ち上げて、さらに目をこらすと、底のほうにも、けっこうな量が残っているようだった。
「指なんて入れちゃだめよ。舌も」
と、由奈がからかうような言い方で言ってきた。巴は、ふっと笑って、缶を持っていた手を下ろした。そんな品のないことをする気はちょっともなかったが、そう言われてはじめて、巴は缶に残っているコーンに、わずかながらも未練をもった。
ようやくにして、待っていた電車が、けたたましい音を鳴らしながらやって来た。巴たちを繁華街まで乗せてゆく電車である。視認して、じっさいにホームまで入って来るまでの時間は、一二、三分ではきかないほど長く感じられた。巴と由奈はじれた。
電車がホームに入って来た。空気の抜ける音がして、ドアが開かれた。
巴は由奈に肩を押された。つよい力は込められておらず、押すというより、撫でるような手つきだった。なんにせよ、そのために巴は由奈より先に乗車することになった。
車内は暖房がよく効いていた。すぐにその暖かさが、ふたりの冷えた体にかよってきた。
座席を確保して一息吐いたところで、巴は、となりに座る由奈の顔をうかがった。妙なことをすると思ったからである。
それについては、由奈も同感だった。どうして自分がそんなことをしたのか、考えてもわからなかった。なんらかの意図を込めた気がするが、なんの意図もなくやったことのような気もした。
「んん、たぶん、なんとなく」
と、由奈は言った。由奈はもうそれ以上そのことを聞かれたくないのか、巴とは反対の方向へ首を回して、肩口に車窓を見た。電車はまだ出ていない。車窓からはホームが見える。
「ね、桑田さん」
と、巴は由奈に声をかけた。声が由奈の背にふれると、彼女は巴をふりかえった。
「今日は、思いっきり気を抜こうと思う」
と、巴は少しも表情をうごかさずに言った。
「うん、それがいい」
と、由奈は巴に言った。
「今日だけじゃなくて――」
「うん」
「時々、そうする」
と、巴は言った。ずいぶんと急な心変わりだった。
「どうしてまた、急にそんな気になったの」
「なんとなく」
と、巴は答えた。
「なんとなく、で気を抜いちゃうんだ」
由奈はほのかに笑った。
「そう、なんとなくで、決めちゃった」
と、巴も笑って言った。
巴は由奈から目をそらせた。由奈の顔を見たくなかったからである。巴はにわかにそういう気になってしまった。理由は判然としないが、おそらくは羞恥の気持ちから、目をそらせたのだろうと思われた。
なんとなく、と巴は由奈に言った。なんとなく、休んだところで、どこまでもだめになることはない。前進しないが、後退もしないだろう、と。
暖房と、羞恥と、肩にのこる由奈の手の感触で、やたらと熱っぽくなった心が言わせたことだった。
了