桑田由奈は、その日朝から体調がよくなかった。歩けないほどではないし、授業をうけようと思えばうけられる程度のものだったので、今日期限日の提出物のこともあって、いちおう学校には行った。しかし、朝のHRで提出するものをしてしまうと、一限目もうけずに帰った。
正確に言うと、由奈はこの数日ずっと体調のすぐれない日が続いている。もとは機嫌のわるさからはじまって、季節柄の湿った空気もあいまって、しだいに体の調子そのものに波及していったのである。原因は明らかだった。ために由奈は、治す手段のわからないこの体調不良を、仇敵に対するような思いでひきずっていた。
――あの担任、頭狂っているんじゃないの。
着替えてベッドにもぐって、由奈は心の中で悪態をついた。あの梅岡という担任教師は、ほんとうにどうかしている。不登校の生徒を気づかうのはかまわない。学校へ再び来させるために努力するのもよい。
しかし、やり方がいかにもまずい。同級の生徒に励ましの色紙を書かせる・手紙を書かせる、いじめた人間にまで書かせたそれを読んで、誰が学校へなど行きたがるものか。梅岡は善意の塊のような男だが、その善意には多分に独善が含まれている。独善が不登校の男子生徒にだけかかるものならともかく、由奈にも降りかかってくるのが、実にやっかいだった。
不登校になって自宅にひきこもっている桜田ジュンというめだたない生徒に、由奈はかつていかなる感情も抱いていなかった。クラスが替わるか卒業した時点ですぐに記憶から消えてしまう・極めて淡い・言ってしまえばどうでもいい類の生徒だった。
今はどうか。決まっている。由奈の心情は、まったく悪感情で凝り固まっている。由奈はジュンの復帰をよろこばない者のひとりに違いなかった。
復帰するなら最低限クラス替えのある三年の時がよい。今度こそクラスを離してくれるはずだから、その時にもどって来ればよい。もっともよいのは、中学のあいだは、この先もずっとジュンが不登校でいることである。(クラス編成は一年次のものをそのまま継承している。ジュンは、彼をいじめた生徒らとまた同じクラスにぶち込まれてしまったのだから、ひきこもりの原因を学校側が把握していないわけである)
そこまで考えて、由奈は布団の中で大きく息を飲んだ。吐き気がやってきたためである。それを堪えてから、今度は大きく息を吐いた。
一年の秋、文化祭につかうドレスのデザインの募集がされた。それを着るのが由奈ということは、すでに決定されていたことだった。性別制限はなく、男のジュンがそれを考えてならないこともなかった。そんなことは由奈にもわかっている。しかし、真意がほかにあったとしても、彼が想像の中でひとの衣服を剥ぎ、裸体の線をなぞった男に違いなかった。由奈にとってはそうでしかなかった。知らなければなんとも思わなかったのだろうが、知ってしまった由奈は、ジュンへの悪感情を湧かせた。
……校内掲示板に絵が貼られている。掲示板に一目で自分だとわかる女の絵が、見知らぬドレスを着ている! 誰がそれを描いたのか。学年集会で梅岡がその名を言った。と同時に、悪意に満ちた声が聞えた。桜田ジュンを貶める声が、さてまた自分を追い詰める声が――!
思い出した由奈は、自分の体を掻き抱いた。首筋から背を降ってゆく悪寒と一緒に、肌の粟だつのを感じた。
絵が拡大印刷されて掲示板に貼られたことや、集会で名を公開されたことは、ジュンにとって不本意だったのだろう。反応を見ればわかる。梅岡の独断でそんなことをされ、それをきっかけにいじめにあったことを、由奈も少しくらいはあわれに思うが、それ以上に憎んだ。
由奈に励ましの手紙をもらったところで、ジュンも嫌がるだけだろう。そんなわかりきったことのために言葉を考えるのが、由奈にはむしょうに腹だたしかった。あんなものは、書いてよろこばれる生徒にだけ書かせておけばよいことではないか。たとえば、学級委員でジュンの幼なじみである柏葉巴などでじゅうぶんだろう。
由奈は寝がえりをうって、あおむけになると、額に右手の甲をあてて、天井を見上げた。文化祭・学年選出のプリンセス・級友からの祝福の声と拍手――。……つくづく、違ってしまったものだと思う。あの時の自分は、もっと明るい未来を想像していた。
ため息一つ、それを最後に、由奈は学校のことを考えるのをやめた。これ以上体調をくずすのはごめんだった。
夕食後に梅岡から電話がかかってきた。由奈の体調を心配するものだった。一年の時は、こういうこまごまとした気づかいをできるのが、梅岡という教師の美点だと思っていたが、今となっては迷惑以外のなにものでもない。子機を持って来た母親に、由奈は体調不良を理由として、電話に出るのを断わった。
明日が土曜でよかった、と由奈は思う。週末の二連休のあいだ、彼女は梅岡の顔を見ることも声を聞くこともせずにすむ。
この日由奈にかかってきた電話は、梅岡からのものだけではなかった。あとから、巴からも電話があった。由奈は巴の電話には出た。というより、母親が出させた。巴は由奈の母に由奈の状態を聞くつもりでいたらしいが、彼女からの電話なら由奈も嫌がらないと思ったのだろう。
巴は、あの事件以来なにかと由奈に気をまわしてくれる親切な同級生である。時々由奈を慰めたり励ましたりしてくれた。由奈が巴に好感をもったのは、そうした時の巴が、けっしてジュンの名を出さなかったこと、彼についての擁護を一つもしなかったことである。彼に同情の余地があると言いじょう、その余地を由奈に説いたところで、由奈を不快にするだけだということを、巴はちゃんと知っていた。
由奈はごく短い時間、巴と話をした。巴の電話はこれといって用件のあるものではなかった。由奈の体調のことしか言わなかった。
「こんばんは。うん、だいじょうぶ。月曜日? 行けるわよ。だって、病気に罹ったとか、そういうわけじゃないし、ちょっと体がだるかっただけで……。うん、ありがとう。ほんとうにだいじょうぶだから。じゃ――」
そんなふうな答え方をして、由奈は電話を切った。
翌の土曜日は終始体調がかんばしくなく、由奈は一日のほとんどの時間を、ベッドで過ごした。
日曜日、全快とまではいかないものの、近所を遊び歩いても問題ない程度までは調子がもどったので、由奈はひさしぶりに家を出た。気ままな町内散策である。
今日の由奈はすこぶる気分がよかった。
ちょっと歩いて、立ちどまって、周囲を見わたし、また歩きだす、ということをくりかえした。見なれた景色をなつかしんで、近所だが入ったことのなかった道を進み、見なれない景色を見て、ほのかな笑いを口もとにつくった。
――いい風。
涼やか風が由奈の髪を撫でた。が、つよい風でもある。由奈は風によってほどけてゆく髪を、左手でやんわりと押さえた。知らない道をそのまま進むと、知っている小さな公園に出た。なるほどここに繋がっていたのか、と由奈は感心した。
そのまま公園へ入った由奈は、あっと口内で驚きの声をあげた。
ベンチに長身の男が座っている。手入のゆきとどいていない寂れた公園は、片手で数えて余る人数の子供が遊んでいるだけである。その中で、ベンチの男は、きわだったかがやきを発していた。紅藤色の地味なワイシャツを着ていたが、しかし、それを含めた全身が、この世のものとは思われぬ色彩である。また、体躯のよさといい、鼻梁の高さといい、ほの白い緑色の目といい、色の薄い金髪といい、どれをとっても日本人には見えない。年齢は、二十五歳を越えていようが三十歳にとどかぬ感じである。
由奈は、ベンチの男にしばし見惚れた。今公園のベンチに座っている・紅藤のシャツを着た・この長身の男に、由奈は、はっきりと感動していたのである。
妙な視線を感じたのか、男がふりかえってきたが、由奈はそれすら気づかなかったのだから、よほど気がぬけていたのだろう。はっとして気をとりもどした時には、金髪の男はすでに公園からいなくなっていた。
由奈は散策をやめて家に帰った。巴に電話をかけた。昼間に見たあの男のことを話した。自慢の含まれた話し方だったが、巴はていねいにあいづちをうってくれた。声からかよってくるものがある。彼女の妙に甘ったるい声は、由奈の耳に心地好く入ってきた。
週が明けた。
またあの梅岡と顔をあわせなければならないと思うと、それだけで多少やる気のそがれるところがあったが、毎週のことであり、そのあたりはいい加減に慣れが生まれている。
鞄を置いて席についた由奈に、巴が声をかけてきた。一昨々日の分のノートのコピーをわたして、
「昨日のひと」
「昨日のひとって」
「公園の、金髪の男のひとのこと」
と、巴は言った。由奈の前の席をひっぱって、そこに座った。彼女はいつも物憂げな陰気のある色をよくととのった眉目に宿していたが、この時はその陰気さを少しとりのぞいた感じに、しかし変わらぬ真剣な表情を由奈にむけた。
それだから、由奈はちょっと驚いて、かえす言葉もなく、しばらくぽかんと口をあけていた。やがてにっこりと笑い、
「なあに、柏葉さん、羨ましかったの。そのひとを見てみたかった? 昨日は大して興味なさそうだったのに、意外」
と、巴からしてみれば、はなはだ見当違いのことを言った。
「いや、そういうことじゃなくて。あのね、わたし、そのひとのこと知っているかもしれない」
と、巴に言われ、由奈は今度こそ盛大に驚いた。しかし、由奈があの紅藤色のシャツ着た男を見たのは、近所でのことなので、巴の顔見知りでも、とくにおかしいところはなかった。
巴は続けて言った。
「槐さんっていうひとなんだけれど、休日になると、いつもあの公園に行っているんだって。このあいだ教えてもらっていたの、わたし電話切ったあとに思い出したわ。たぶん、同じひとじゃないかなあ。この辺じゃ、そんな男のひと他にいないもの」
巴にしてはめずらしく、わずかだが舌に熱を帯びたような話し方をした。が、その熱に、巴も由奈も気づいていない。由奈はむしろ冷めたような口ぶりで、
「へえ、槐さんっていうんだ」
と、独り言のように言った。槐、というのは、少々変わってはいるが、いちおう日本人の名に聞える。
「それで、もし桑田さんが、そのひとに会ってみたいのなら、どうかなと思って」
そこまでの興味が槐と思しき男に対してあるのかどうか、巴はそのことを由奈に訊きに来たのだった。
「槐さんって佳い男なの」
と、由奈は訊いた。巴は昨日由奈から電話越しに言われた公園の男の形容を、そっくりそのまま言ってみせた。
「じゃ、会ってみたいな。同一人物でも別人でも、このさいかまいやしないわ」
と、由奈は言った。
巴は、ほっとしたように息を吐いたが、そのあと、言おうか言うまいか迷うような素振りを見せて、やはりひじょうに言いづらそうに、こもった声で、「ただ」
「槐さんは人形師なの。自宅に店をもっていて、あと人形だけじゃなくて、人形の服とか装飾品とか、そういうのも作っている」
由奈は、巴の言っていることの意味を理解できなかった。
「それがどうかしたの」
「だいじょうぶかな」
なにが、と言いかけて、由奈は巴の言わんとしていることの意味に理解がとどいた。
「柏葉さん、それは気をつかいすぎ」
と、由奈はわざとらしいくらいに陽気な声で言った。
いくらか日があらたまってから、由奈と巴は学校帰りに槐の店へ行った。この店は丘の中ほどにあり、丘の頂上・よく知られた結菱家の薔薇屋敷へ続く。
Enju Doll
というのが、槐の店の名である。店は閉まっていた。戸に『CLOSED』の札が掛けられている。が、巴はかまわずノブをひねって戸を開けた。すると、鈴が鳴るしくみになっているのだが、それはともかくとして、札があるからといって必ずしも鍵がかけられているわけではない、ということである。
「この店、こんなことよくあるから」
と、巴は苦笑しながら言った。口ぶりから、巴はよくこの店に出入しているのだろうと、由奈は想像した。
店に入ると、巴は奥にむかって、白崎さん、と呼び続けた。誰のことかと由奈が訊くと、この店の販売員だという巴の返答だった。
「ずいぶん親しいのね。常連客なんだ」
「お客じゃないけれどね。だって、高いもの」
と、巴は言い、由奈と笑声を交わした。
由奈は店内を見わたした。なるほど、高そうな西洋人形がいくつも飾られている。中学生の手にはとどきそうにない代物だった。それならそれで、どうして巴はこの店に出入するようになったのだろう。
――そのうち訊いてみようかな。
と、由奈は思った。
「やあ、柏葉さん、こんにちは」
奥からあらわれた白崎は、ひとあたりのよい笑貌で言った。
「今日はもう店じまいですよ」
通常の閉店時間まで一時間以上あるが、白崎はそう言った。『CLOSED』の札が表に掛けられたのは、言うよりさらに一時間以上前である。こんなことは、この店ではよくあることだった。
白崎は言ったあと、おや、とでもいうふうに由奈に目を転じた。
「そちらはお友達ですか」
「一昨日話した、クラスの友人です」
巴は由奈に催顔をむけた。由奈は白崎に自分の姓名を言った。
「あっ、槐が見たと言っていた子だね。ぼく、白崎です。よろしく」
「よろしく……。あの、槐さんが見たって、どういう意味ですか」
と、由奈は疑問を口にした。
「公園でずっと槐を睨んでいたらしいじゃないですか。あれはちょっと忘れられない目だと、槐が言っていたんですよ」
由奈は憮然とした。睨んでなどいない。あれは見惚れていただけである。が、槐はそれを、睨まれていると感じたのか。どうしてそう感じたのかはわからないが、由奈にとっては、気に入らぬこと夥しい。
「槐は工房にいます。ちょっと待っていてください」
と言って、白崎は再び奥へひっこんだ。
「わたし、睨んでなんかいないから!」
と、由奈は巴に言った。わりあいに大声だったので、あるいは白崎にも聞えたかもしれない。
槐が白崎に連れられてやって来た。
「二度目まして、というやつになるのかな」
開口一番に槐はそう言った。
「ああいうのは、会ったうちに入らないんじゃないですか」
由奈は不快さをおさめないままの声で言った。お互い名のりあったわけでも、なにか会話したわけでもないのである。
「たしかに」
にべもなく言った槐は、腰に手をあてて前傾姿勢をとり、由奈を見つめた。
「なんですか」
由奈が怒気をまじえて言うと、
「いや、いいかたちをしていると思ってね。すまなかった」
槐は言って、上体をもどした。
「かたち?」
「容姿がすぐれている、ということさ。そういう女性を見ると、人形のモデルにしたくなる。どのような衣裳が似合うかを想像したくなる」
槐はそんなことを言った。
由奈の腹が、かっと赤くなった。赤い熱が腹から胸へ、喉を通って口から大きな息として吐き出された時、由奈はまったく赤面していた。そうとしか言いようがない顔色だった。
槐が赤くなった由奈の顔をのぞきこんできた。
が、由奈はうつむいた。この赤面をどう言い繕うか、またこの店から出ようか、彼女の頭の中は、もはやそのためにしか思考しなくなっていたのである。
しばらくして、由奈と巴は店を出た。
坂道を下りきったところで、由奈は巴とわかれた。
由奈は一刻も早く家へ帰りたかったが、はやる気にさからって足どりは重く、のろのろと歩いていた。
由奈は冷え冷えとしている自分の腹に手をあてた。あの熱は、いったいなんだったのか。あの時、由奈の腹から起こって首までのぼり、ゆるやかに消えていった赤い熱の正体である。赫怒とも羞恥とも言えるが、しかしどちらとも異なる、どうも今まで体験したことのないような種類の熱だったように思う。しいて言えば怒りに近い感情のはたらきである。店を出る前後では恥じる気の大きさを感じていたが、ここにきて、
――ううん、そう。やっぱり怒っているのよ。ああいう男ってほんとうに最低。
と、由奈は心の中でほえて自分を納得させた。
「なにが気をつかいすぎよ。ああ、ちっともだいじょうぶじゃなかったじゃない」
由奈は腹をさすった。また熱くなってきている。今度は明確に怒りの熱とわかるもので、それが自分に対してのものであることも、はっきりとしている。熱がまた胸と喉とを通ってゆく。
――あの公園にはもう行けない。
慨嘆した由奈は、痰を吐くような音をあげて、熱のこもった息を落とした。
柴崎時計店をすぎたあたりで、由奈は自販機の前に立つ眼鏡の少年を見つけた。レジ袋を片手にさげて、缶ジュースを買おうとしているらしい桜田ジュンだった。彼は、二つ・三つ・四つと、ひとりで飲むには多いと思われる量を買って、レジ袋のなかに缶を押しこめた。それから、半身をかえし、呆然と立っている由奈の存在に気づいたのだった。
「あっ――」
という声を先にあげたのが、どちらだったのかわからないが、互いに決して望んでいない再会への驚きと、それからなんとも言いがたいばつのわるさ≠フ宿った声だったろう。
にわかに赤ら顔になったジュンは、由奈に背をむけて逃げた。かっと腹をたてた由奈は、彼を追った。追い続けて彼が赤信号にひっかかって立ち往生しているところで、手首をつかんだ。男にしては情けないほどほそい手首のように、由奈には思えた。似たような趣味の槐の美丈夫ぶりには遠く及ばない、弱々しい少年の手である。
「ヒキコモリのくせに、なんでこんなところにいるのよ」
由奈はありったけの声で怒鳴ったつもりだったが、彼女の声はむしろ低く小さなものだった。
ジュンはなにかを言おうとしているようで、口をひらいてもごもごと動かし、しかしその言葉を噛んでついに発せず、それから信号が青に変わったのを見て、由奈の手を離して走り去っていった。由奈は追わなかった。
自分の家を目指して、由奈はまたのろのろと歩きだした。雨が降ってきたので、鞄に挟んでいたおりたたみ傘をひろげて差した。
――次に会ったら思いきりひっぱたいてやる。
と、再びは会いたくない男に対して思った由奈は、雨中にますます機嫌をかたむけていった。
近頃の由奈は、すこぶる不機嫌な状態で毎日を過ごしている。自力ではいかにしてもとりのぞきようのない気色である。こればかりは、時間の経過とともに記憶のうすれてゆくのを待つほかない。体調そのものは、そうわるいものではないのが、救いと言えばそう言えた。だから、学校には毎日通ったし、八つ当たりでもするように他者につらく当るようなことも(愛想がよいとは言えないものだったが)しなかった。
そのある日のことである。巴が由奈に話しかけてきた。「槐さんがお話したいことがあるそうなんだけれど、もう一度お店に行けないかしら」と。
「わたしにって、どうして」
「さあ。でも駄目なら、わたしにたのむって」
「いつ」
「いつでも」
由奈はちょっと考えてから、
「わかった。自分で行くわ」
と、返答した。巴の同行は遠慮することにした。どうも、そこまで彼女の厄介になるのは、由奈としてもさすがに気のひけるところがあった。
――今日、行こう。
と、決めた由奈は、指で机の端をたたいた。
由奈はいったん家に帰った。服を着替え、槐の店にむかった。
由奈の前を女の子が歩いている。淡黄色のフード付シャツを着ている子で、ひよこのような女の子だと、由奈は思った。小学生だろう、後姿から九歳くらいに見える。あいらしい背に、由奈は口もとをゆるめた。
が、じっさいは由奈の目測より高く、十二歳になろうかという年齢で、来年には由奈の通っている中学校に入学するはずの子である。槐の店へ行こうとしているところだった。
あるいはそうではないかと思いはじめた由奈は、早足になってその女の子を追い越し、先に店に到着した。
槐の店の入口には、やはり『CLOSED』の札があって、由奈が開けると鈴が鳴るのだった。
「やあ、桑田さん。こんにちは」
店には白崎がいた。由奈はあいさつをかえした。
「槐さんはいますか」
「奥にいるよ」
白崎はそう言って、由奈を店の奥へ案内した。
ひっこんですぐに鈴が鳴った。白崎は、槐、と呼び声をあげ、槐が来ると彼に由奈をあずけ、自身は客の応対に出た。
さっきの子かもしれない。由奈はそっと耳をすましてみた。客の声は聞えないものの、白崎の声はそれなりに聞きとれた。子供に話しかけているような口調だったから、やはり先ほどの女の子だろうと由奈は極め付けた。
槐の店は自宅と一緒になっている。由奈は客間まで上がることになった。
和室である。
槐の話というのは、そう大層なものでなく、先日に由奈の気分を害すようなことを言ってしまったようなので、そのことを謝罪し、菓子折をわたしたいというものだった。
さしだされた菓子折を見て由奈はあわてた。
「なにも、そこまでしてもらうほどのことじゃありませんよ。わたしがかってに気分をわるくしただけで、槐さんはあんまり関係ない……」
昨年の文化祭時分のことがなければ、言われて不機嫌になりはしなかった。たとえなったとしても、顔に出すこともなかったろう。これは由奈の個人的な事情であって、その点において槐はたしかに無関係だった。
「そうか。いや、実のところぼくもそう思っていた。謝る必要はあるんだろうが、菓子折まで用意することはないじゃないか。しかし、うちの白崎はそういうのにうるさい男なんだ。ここはひとつ、うけとってくれないか」
と言って、槐はうすく笑った。
由奈もまた同じくらいに笑って、それなら遠慮なくいただきます、と言い、菓子折を自分のほうに寄せ、頭をさげた。由奈は、槐のことを、もっとうす暗い性格の全然笑わない男だと思っていた。こんなにあっさりと笑貌を見られたことは意外だった。ほんのわずかな笑だったが、由奈には収穫だった。美男子の笑貌は、見ていて気分わるかろうはずない。
「言い訳させてもらうと、あれは一種の職業病みたいなものでさ」
槐はべつな話をきりだした。由奈は落としていた視線をあげて槐を見た。
槐が言う。人形はひとのかたしろ≠ナ、自分はそれを作るわけだから、ひとを見て、その中に人形を見るというところがある。もっぱら女性相手だが性的な感情のはたらきは、はっきり断言できるが一切ない。たとえその女性が、クレオパトラだろうが楊貴妃だろうが、男として欲情せんだろう。そういうことに興味がないわけではなく、人形師としての欲しか湧かないのである。これは相手の性別に関係なく起こるものかもしれないが、男の四角張った(もっと言うと自分と同じ構造の)体を見て、その中に人形を見ることは、まあ、めったにないことだろう。
こう喋っている時の槐は、目がとろんとして、どこか遠くを見ているようで、なんとなく危うい感じがあった。
槐は一度言葉を切って、お茶を一口飲んだ。
「このあいだのことは、ぼくはきみの姿をした人形というのを想像したわけだ。つまり、ぼくはきみの中の人形を見てはいたが、きみのことを見てはいなかった。そうだな、男とか女とかではなく、人形師というべつの生き物になっているのだろう」
ぼくはまぎれもなく人形馬鹿なのだろうが、さすがに人形に欲情しやしない。槐は、心の中でそう結んだ。
あの時、由奈が顔を真っ赤にしてしまったのは、女としての恥じる心からきたのだと槐は思った。だから、おそらく由奈に誤解されているに違いない自分の名誉を回復するために、こういうことを言う必要があると考えたのである。
「ただ、さすがに口に出して言うのは、ぼくの配慮不足だった。すまなかったと思うよ」
「いえ、もう気にしていませんから」
由奈は両手で持っている湯呑に口を当てた。あまり謝られると、こちらがなにか悪いことをしたような気になってくる。
由奈は、はたと思うことがあって口から湯呑を離した。「中学生でも」
「あの、中学生でも、そういうのってあるんですか」
由奈に訊かれ、槐は湯呑を置いた。問いの意味がよくわからない、というふうに催顔をつくった。由奈は再度、
「だから、中学生でも、そういうこと考えるのかなって。その、ひとの中の人形とか、そういうの」
「でも、って、きみは中学生だろう。大人の女性でなくても、うつくしいと思えば小学生だろうが赤ん坊だろうが……」槐は言いかけて「あ、いや、中学生っていうのは、見る人間が中学生ってことか」
「そうです。中学生の男の子」
「そりゃ、あるだろうさ。まあ、ふつうの男子中学生なら、不健全な欲をまったくもたないというのもないと思うが、でも、ある意味ふつうじゃないからね。ぼくは昔からこんなだった。いや、大して参考にはならないな」
途中から独り言のような言い方になった槐に、由奈は、そんなことないですよ、と小さな声で言った。
由奈は内心嘆息した。ジュンに同情したくないという思いのためだった。やはり訊くのではなかったかもしれない。槐はジュンでなく、ジュンは槐ではない。槐の言うとおり、大した参考にはならないはずである。
由奈は自分の内に生じた不愉快な感覚をごまかすように、
「もったいないことしましたね。きっと、すごく女の子からもてていたのに」
「そうかな。ぼくみたいな無愛想で不親切な男は好かれないよ。白崎のほうがよっぽど女子から人気があったと思うな。あいつは親切だし口が達者だったから」
と、槐は昔をなつかしみながら言った。
「そういう人気じゃないですよ」
と、由奈は言いかえしたが、槐には聞えなかったようである。
由奈は腰をあげた。槐と一緒に店に出た。けっこう長話をしたつもりだったが、由奈のあとに入って来た客はまだいた。由奈の前を歩いていた、あのひよこのような女の子に違いなかった。ショーケースの前にしゃがみこんで膝をかかえている。
由奈の見たところ、彼女は紙パックのジュースを飲みつつ、白崎と喋っているだけのようだった。なんの用で来たのかはわからないが、店でなく家の客なのだろうというのは、なんとなく見当がついた。
初めて正面から見たひよこ少女は、いつかの槐のように、見惚れてしまうようなかがやきを発していた。夕日のせいかもしれないし、もともとある光彩かもしれない。
その女の子と白崎に一声かけて、由奈は店を出た。
帰宅途中の由奈の頭で、奇妙な想像がぐるぐると回った。ひよこ少女の服が溶けてゆくようだった。ただばくぜんと奇妙≠ノ感じたのは、この想像がいかなるものかという認識を、彼女がもち得なかったせいである。家の玄関口に至って、ようやく、自分があの女の子にはどういう衣裳が似合うのか、などという、彼女にとって極めて破廉恥な思考をしているとわかり、烈しく嫌悪した。菓子折を母親にわたして、自室を目指して階段を駆け上がる。
腹の底の冷えたような嫌悪感と、背中が蕩けるような興奮とを一纏めにして、由奈はベッドに身を投げ出した。
由奈の頭いっぱいを支配しているのは、今や槐の店で見かけたあの少女と、腹だたしいことに桜田ジュンの存在である。ところが、てんで関係ないはずのこの二つの事象が、由奈の頭の中では、すっかり綯い交ぜになってしまっている。
要するに、(由奈にとっては、はなはだ破廉恥な妄想であるところの)例の少女に着せてみたいと思う衣裳について、いったい誰がそれを作るのかと考えた時、よりにもよってそれがジュンである点に、由奈の嫌悪があった。
――その想像は、槐さんでいい。それで足りている。
と、由奈は自分に言い聞かせた。
それでも、由奈は学校へ行かねばならない。教室には、春からずっと空席になっているジュンの席があるわけだが、上述のこともあって、その無骨なパイプの机と椅子とが、由奈の目にやたらと煩く入ってくるのだった。
由奈は自分の席に行き、机の上に鞄を置いた。その時である。
「あれは、……」
視界の端に入ってきた妙なかげに目をやると、それは黒板横の棚に置かれているはずの花瓶であった。
――中西の席だわ。
と、気づいた時、由奈は、なぜ彼の席にそんなものが置かれているのか、なんとなくわかった。中西はジュンへのいじめの主犯格である。ジュンが学校に来なくなってからも、しばしば彼を謗るような発言をしていた。
まず彼がジュンの机に花瓶を置いたのだろう。花は死者へのたむけである。冗談にしても度を超えており、不快に感じた誰かが、中西が席を離れているうちに彼の席まで花瓶を移動させた、という具合ではないか。よく見るとジュンの机も少し濡れており、そこに塵がまじっているようだった。
教室にもどって来た中西は、自分の席のありさまを見るや、赫怒して花瓶をひっつかみ、床に叩きつけた。当然花瓶は割れた。水が床に飛び散った。どこからともなく笑声があがった。そのあとすぐに担任の梅岡が教室に入って来た。ために、朝のHRの時間は、床掃除に消化されることになったのだった。
由奈は、最初の小休憩の時に巴の席に寄って、
「あいつ、桜田くんになにかうらみでもあるの」
と、小声で訊いた。あいつ、とは中西のことである。他の皆(巴や由奈以外)はジュンの存在などとうに忘れてしまっていて、誰かに名を言われなければ思い出しもしないというのに、あの男だけは変わらずジュンに粘着しているように思われた。たんに享楽を得るためにいじめていたのなら、中西こそがまっさきにジュンのことを忘れるだろう。
由奈にそう言われた巴は、少し考えこむふうにうなって、
「さあ、どうしてだろう」
と言った。巴がこのクラスでとくに気をかけているのは、ジュンでなければ由奈であり、中西について注意ぶかく見たことも考えたこともない。が、言われてみると、たしかに中西は、いい加減しつこい男である。
「うらみというか、好きとか嫌いとかって話になるほど、関わりはなかったと思うけ
れど……」
と、巴は言って、またウーンとうなった。
梅雨を過ぎ、雨以上にうっとうしい期末考査をおえると、まもなく夏季休業に入った。
噂がある。
一学期の終業式以来、繋がりを欠いていたクラス間に行き渡ったそれは、
――桜田ジュンが図書館に出入している。
というもので、事実だった。こうなるとジュンはひきこもりではなく不登校児ということになるが、ここで重要なのは、時期的にきわめて学生の目の多い図書館に通いはじめたことである。
由奈は梅雨頃に買い物帰りと思われるジュンと会っているが、図書館の話を聞いた時にようやく、
――復帰しようとしているらしい。
と、実感した。
由奈は、夏季休業中でも巴とたまに連絡をとりあっていたが、巴は由奈を気づかってジュンの話題を避けていたので、由奈にはジュンの状況はほとんど入ってこない。訊ねてそれを容れられれば、巴は最大の情報提供者になるだろう。が、由奈はこの気のおけない友人に、ついに一度もその話題をふらなかった。
由奈のジュンへむける感情には、依然として圭角がある。巴に対してジュンの話題をふるというのは、その圭角を巴にまでむけることになりかねず、おのれの心の未熟さというか他者への非寛容を自覚しているつもりの由奈は、けっきょくジュンの存在が気になりつつも――先述のとおり由奈はジュンの復学をよろこばない側の人間である――、つとめて自分の内から遠ざけようとしたわけだった。
――夏休みは夏に忙殺されていればいい。
宿題にしろ遊楽にしろ、学生である彼女には、夏だからこそやることが多いのである。それに集中しておればよいと思った。
ところで、この世にはへんな引力でもはたらいているのか、会いたくないと思っている相手にかぎってばったりと会う、ということが、時々あるようだが、幸いにも由奈は夏季休業中に、出先でジュンと会うことはなかった。そうした引力は、梅雨のあの日に、すでにはたらいて消えたものらしかった。
そのかわり、というわけでもあるまいが、駅前の百貨店に行った時、由奈はいつだったか槐の店で見かけた、あのひよこのような風体の少女と再会したのである。(いや、再会というのは正確ではないかもしれない。なにせむこうは由奈のことなど憶えておらず、いつか店であった年上の女子という認識を、おそらく持たなかったのだから)
ひよこ≠ヘ相変わらずひよこ≠セった。あの時と同じ淡黄色のフード付シャツを着ていた。
その少女は、由奈の目の前を、ふらふらとおぼつかない感じで歩き、床に足をとられたのか前のめりに転んだ。由奈が手をとって起こしてやろうとすると、それより早く保護者らしい眼鏡の女性に抱き起こされた。
「どうも」
と、その女性は由奈にむかってかるく頭をさげた。
「いえ……」
なにもしていないのに頭をさげられても、由奈としては恐縮するほかない。
由奈は恐縮ついでに視線を床に落とし、少女を見た。
目が合った。が、少女は、ぎこちなく笑う由奈にむかって、にこりとのん気な笑顔をかえすだけだった。それだけの反応だった。
ひよこ少女と眼鏡の女性は、すぐに店内にあふれる客の中にまぎれていった。それだけの再会だったのだ。
家に帰ってから、
――もう一度、槐さんの店に行ってみようかな。
と、由奈は思った。以前店で見かけた時のようすでは、あの少女はよくあそこに通っているようだった。だから、行けば、あるいは会えるかもしれない。よもや万分の一よりも低い確率ではあるまい、と考えたのである。二学期がはじまるまでのあいだに三四度行ってみて、会えなければ縁がないとして諦めればよい。もしそうなった時、名前を知っていると未練になるので、自分からは白崎や槐に問わないことにする。
由奈は思いたって何日もないうちに、槐の店へ行ったのだった。
由奈は運がよかった。いきなりその少女に会えたのである。
少女は以前と同じように、ショーケースの前に座り、紙パックのジュースのストローをくわえて口からぶらさげながら、白崎となにやら話しているようだった。
――あれって一張羅なのかしら。
と、由奈が勘違いしたくなるほど、少女の服装には変化がなかった。
由奈の顔を見て、少女が立ち上がった。
「あー、あのー、あれ?」
と、由奈のことをけんめいに思い出そうとしているようすで、そんなことを呟き続けた。そして、
「あっ」
と、声を発し、これ以上ないほど目と口とをひらいた。
「思い出してくれたかな」
「デパートで会ったひと」
「そう、こんにちは」
由奈が言うと、こんにちは、と少女も言った。
横で見ていた白崎が、
「前にここでも会っているよね」
と言った。
由奈はうなずき、少女はそんなことは知らないと言わんばかりに、首をかしげた。
「ねえ、あなたお名前はなんていうの」
と言って、由奈は名のった。
「金糸雀かしら」
「カナリア、っていうのね。ふふ、ほんとうに鳥なんだ」
由奈は、なにやらむしょうに嬉しくなって笑った。
金糸雀は目をぱちくりさせ、白崎を見たあと、また首をかしげた。由奈はそうした金糸雀を無視して、
「どういうご関係なんですか」
と、白崎に訊いた。
「うちのお客さんの姪っ子さんです」
「お客さんじゃないかしらあ」
白崎の紹介に、金糸雀は不満の声をもらした。
「みっちゃんのいいひと≠ェいるのよ」
と、金糸雀はまるでわがことのように言い、少し背をそらせた。
「いいひと≠チて……ああ、そっか。槐さん男前だし、そういうののひとりやふたり、やっぱりいるんだ」
「ひとりだけかしらっ」
金糸雀は怒って言った。由奈は、ごめん、と笑いながら謝り、それから、白崎に催顔をつくってむけた。白崎は一つ咳ばらいをいれたあと、
「好きあっているのはたしかだと思うのですが、まだ全然そういうのではないですよ。だからね、この子はしょっちゅうここに来て、ぼくになんとかしてくれ、と」
と言って、肩をすくめてみせた。
みっちゃんは姓名を、草笛みつ、といい、金糸雀によるともうすぐ三十歳になるという年齢らしい。みつを敬愛することはなはだしい金糸雀としては、この好機をのがしてほしくない。
「千載一遇」
とさえ言った。ずいぶんとこむずかしい熟語を知っている、と感心した由奈は、まだ金糸雀のことを九歳くらいの女の子だと思っている。
白崎の補足するところでは、みつはあくまで槐の人形師としての才器に惚れこんでいるのであって、槐の男ぶりに惚れているわけではなく、槐の仕事を眺めたり、彼のつくった人形や衣裳を買って身近に置いたりするだけで、おおむね満足しているようだという。
白崎は由奈の耳もとに口を寄せ、男女の腥さにはほど遠い、と言った。ただし、と白崎は由奈から顔を離して、
「槐のほうは、まんざらその気がないわけでもないみたいなんですがね。まあ、ぼくも槐がいなければ、という感じですから」
「へえ、そんなにいいひとなんですか」
由奈はデパートでの記憶の中からみつの面貌をひっぱりだしてみたが、あの時ほとんど金糸雀しか見ていなかったせいか、眼鏡以外の部分がおぼろげすぎて、思考のたすけにはなってくれなかった。
「うそはだめよ。だって、カナは見たかしら。白崎さん、こないだきれいな女のひととアイビキしていたもの」
金糸雀は、いつのまにか体育座りの姿勢にもどっていた。
彼女が見せた満面の笑みは、にやにやというべきなのか、あるいは、にこにこというべきものか……、とりあえず由奈は、たいへんですね、というふうに白崎に苦笑をむけた。
「だから、あれは仕入屋さんなんだって」
「うーそー」
白崎が言っても、金糸雀は信じなかった。
ジュンがふたたび学校に通うようになったのは、十月初のことである。ただし、教室には一度も顔を出していないし、もちろん授業にも参加していない。彼が通っているのは保健室である。一日をそこで過ごし、時々巴の世話になりつつ、つつましく自習をしているという。復帰の第一歩としては妥当なところだろう。
十一月の中頃に文化祭がある。そろそろ文化祭執行部が設けられ、出し物の準備やら練習やらがはじまる。そういう季節だった。
つまり、学年選出プリンセスなどという、由奈にとってはもはや忌まわしい思い出でしかないイベントの投票がはじまるのも、まもなくということである。といっても、前年度に選ばれた生徒は慣例的に対象外になっているから、由奈にとってはあまり関係のないイベントでもあった。
ただ、あの梅岡が、なにがしかジュンに対して行動を起こすのではないかという気がしていた。そうした想像は、ほとんど確信に近いものとして由奈の内をめぐっているのである。
昨年ジュンがデザインした衣裳は採用されなかった。梅岡はジュンの才能を高く評価していたし、つかわれなかったことを残念がってもいたから、保健室にのりこんで衣裳デザインを手がけるようにジュンにすすめるかもしれない。中西にまで激励の手紙を書かせるような男である。性格的にはじゅうぶん考えられることだった。
すすめる、というのは表現としておだやかだが、梅岡がそのつもりでも、神経のかぼそいジュンにしてみると強迫同然だろう。
HRで二年プリンセスがD組の子だと発表されてから、数日をおいた小休憩時に、由奈は保健室に行った。
――いた。
ジュンは机に教科書とノートをひろげて書き取りをしていた。巴の姿はない。
由奈に気づいたジュンは、びくりと肩をふるわせ、教科書とノートをかき集めて机の端にまとめて置いた。
「梅岡先生、来た?」
と、由奈がジュンに訊いても、彼はとっさには返答できなかった。
由奈は小さく息を吐いて、
「そんなにおびえないでよ。けっこう傷つくんだからさ」
ジュンと机をはさんで正面に座った。
「それより、先生は来たの」
「来た。でも、一昨日。今日は来てない。どこにいるのかわからないよ」
と、ジュンは答えた。
「ううん、べつに先生に用があるわけじゃないから、それはいい」由奈はずいと前のめりになって「先生が来たの、文化祭のこと話しに来たんでしょう。どうなの」
「えっ」
「衣裳デザイン。すすめられたのよね。それ、やるのかやらないのかって、訊いているの」
「なんで、桑田さんが、そんなこと知っているんだ」
ジュンは心底ふしぎそうに言い、目をしばたたかせた。彼はそれより、由奈が文化祭の話題を自分にふってきたことのほうが、いっそうふしぎに感じたようだった。
「知っているわけじゃないけれど、あのひとのやりそうなことなんて、だいたい見当がつくもの。――で、どうなのよ」
前のめりの体を起こして、由奈はかわりに頬杖をついて姿勢をささえた。
「よくわからない」ジュンはぼそりと言った。「たぶん、やりたいんだと思う」
ジュンは泣きそうな顔をしていた。はっきり言って女々しかった。槐はもっと堂々としている。槐とジュンとの差は、ひたすら自尊の差なのだと由奈は思った。
由奈は、ジュンから目を切って黙考することしばし、視線をもどすと、
「ねえ、Enju Dollって人形のお店、桜田くんは行ったことある?」
「え、……ああ、ない。そういう店があったの、知らないよ」
ジュンはゆるゆると首をふった。
「ふうん」
ジュンが槐の店を知らないのは、由奈には少し意外だった。てっきり、巴あたりがすでに教えているのかと思って確認のつもりで訊いたのだが、そうでもないらしい。人形だ裁縫だと、その方面は、ジュンに対して禁句のあつかいだったのかもしれない。
それはともかくとして、由奈は机に両手をついて立ち上がり、
「柏葉さんが知っているから、連れて行ってもらいなよ。槐さんと会ってお話聞かせてもらうといい。あと、髪切って眼鏡やめてコンタクトにしたほうがいいわね。桜田くん、よく見たらさ、けっこう佳い顔しているじゃない。そんなボサボサ髪に黒縁眼鏡なんてしているから、いじめられるのよ、きっと」
言いたい放題言うと、呆然としているジュンを無視して保健室をあとにした。
由奈の胸は清涼を得ていた。
――はあ、なんだかすっきりしちゃった。
ハッカ飴を食べたあとも、ちょうどこんな感じになる。次に会ったら(ジュンの頬を)思いきりひっぱたいてやる≠ニ、かつて誓ったことがあったが、もはやそんなことはどうでもよくなっていた。
けっきょくジュンは、自分の衣裳デザインを文化祭執行部に提出した。むろん新規にデザインしたものである。そもそも名のりの義務はない企画なので、提出については巴に仲介してもらった。「人形師・槐先生の御墨付」は、巴にだけひそやかに伝えられたことだったが、その御墨付どおりにジュンのものが正式に採用されたのだった。
槐は人形師としてはほとんど無名の男である。業界ではそこそこ名があがっているとはいえ、由奈の通っている中学校で槐を知っている人間は、たかが知れている。それでも彼は、間違いなく本物の人形師であり、それを本職にして飯を食えるだけの稼ぎがあり、客を獲得しているのが事実だろう。
槐がジュンになんと言ったのか、由奈の知るよしのないことである。とくに知りたいとも思わなかった。が、内容がどんなものであれ、ジュンを前進させる力をもっていたことはたしかである。
きっとこんな感じだったのだろう、と由奈は想像した。いつか彼が由奈に語って聞かせた時のように、例のほの白い緑色の目で遠くを望みながら、時々大雑把なつくりの体躯をゆらして言うのだ。
――ひとの中に人形を見るのさ。女の中に人形を見る。見ている時、自分は男でなくなって、人形師という一個の生き物になるんだ。すると、うわべの女≠ネんか全然見えなくなるもんだ。たとえそれが、クレオパトラだろうが楊貴妃だろうが……。
由奈は、藁半紙に刷られているプリンセスの衣裳画を嘱目しつつ、教室の喧騒の中ひとり笑った。
文化祭はつつがなく完了した。
好評を得た二年プリンセスの衣裳をデザインしたのが桜田ジュンであることを、クラスの皆はうすうすながら気づいていたようだが、確証はどこにもなかったので、それに関してはすすんで話題にする者はいなかった。
ジュンは、あいかわらず授業には参加せず保健室で過ごしていたが、そこに中西あたりがやって来て、衣裳を考えたのはお前かと問われたら、ジュンは「そうだ」と答えられたかもしれない。
一年前の事件から、ジュンは女の衣裳を考えるにおける自分の卑俗さを疑い、あるいは嫌っていたが、いまやそれは槐によってすっかり払拭されたのである。
ジュンが槐と会ったために、どれほどの自信と名誉を回復させ、いや増したか、文化祭後調子づいた彼が巴に告白し玉砕した、という本人にとって、ちっとも笑えない笑話が残っていることからもわかることだった。(それからふたりの関係がぎくしゃくしたということはなかったから、ジュンはこのことをひきずらなかったのだろうし、巴もそのようなとくべつな意識をもとよりもっていなかったのだろう)
三年になると、由奈とジュンは違うクラスの編成になった。より正確には、巴をのぞいてクラスメイトも担任・副担任も、皆ジュンと違うクラスになった。
ジュンは、完全に復学せしめたのだった。
月日が流れた。
卒業式があった。
式後、由奈はジュンを校門のそばまで呼び出した。クラスが離れてから、ひさしく顔を見ていなかったので、再会には妙な懐かしさがあった。
「同窓会で会いましょう」
と、彼女はジュンに言った。
ジュンがうなずいた。そのうなずきに、かつてのおびえやぎこちなさを感じなかった由奈は、自分もまたうなずいて、それから、プリンセスとはかくありきやという、とびきり陽気な笑顔をジュンにくれてやった。どちらかというと、この顔が彼女の本性なのかもしれない。
とにかく、これで由奈の中学三年間は終わった。
その後の由奈たちについて書いておきたい。
まず、由奈は卒業式の九年後に、時計屋の一人息子と結婚した。柴崎一樹という、由奈より一歳年上の青年である。時計いじりが好きな、おっとりした性格の好青年で、全体的に丸っこい感じがあった。顔も丸いが性格も丸い。
一樹はなんとなく槐に似ていた。由奈がそのことを言うと、一樹は少し照れたふうにほのかに笑った。たしかに一樹はひと好きのする顔だちをしているが、とりたてて美男子というわけでもなく、短躯であり、口数は多くないものの槐のような陰気な静かさはなかった。「物を作る」という職種以外、めだって似ている部分が見当たらない。それでも、由奈には、一樹が槐と重なって見えたのである。
一樹は、自分はいかに時計が好きで、時計をいじるのが好きなのかを、熱っぽく、また滔々と語るのだ。由奈のことなんぞまるで視界に入っていないかのように、目は遠くを見ながら――。それだから、やはり一樹は槐に似ているのだろう。
槐は由奈が中学三年の時にみつと結婚した。春から本格的につきあいはじめて、夏の初めには籍を入れ、秋・みつの三十歳の誕生日の目前に式を挙げたのだから、あわただしい結婚だった。みつはほどなく二女をもうけた。双子である。
巴の周辺はおだやかである。由奈に先だつこと三年、父が運営する剣道場の道場生と婚儀を交わした。柏葉家には男子がいないので、その若者は養子として道場を継ぐことになった。巴は今でも柏葉巴というわけである。まだ子供は生まれていないが、夫婦仲はむつまじい。
ジュンは被服科のある高校に進学した。こういうのは早いほうがよいという、槐のつよいすすめがあったためである。卒業後、ジュンはすぐに渡独した。しばらく槐の店で修行をする予定だったが、当時ドイツには槐の師匠のローゼンが滞在していたので、槐がむりやり背を押して行かせたのだった。ローゼンは風来坊であり、しばしば妻子をおいて一人旅に出るので、槐としては所在がはっきりしているうちに、なんとしてもジュンを師のもとへ送りたかったのだろう。そのローゼンの娘を婚約者として、ジュンは二十八歳になる今年、日本に帰って来た。
由奈の白い指は、結婚式の招待状をつまみあげている。ジュンからのものである。
ウェディングドレスは、彼が作ったものなのだろうか。
中学時代に彼がデザインした二着の衣裳を思い出しながら、由奈は想像のとばりをおろした。
了