彼女の笑顔

 菫が気をきかせて持たせてくれた花を、髪の長いおとなの女性にわたすと、彼女はそれを花瓶に生けて、すぐに病室を出ていった。
 室内には、照と、ベッドで横になっている怜だけになった。
 怜は上体だけ起こすと、
「いまの、おかん……お母さん」
 とおしえてくれた。
「綺麗なひと」
「な、似てるやろ」
 冗談で言ったのだろうが、怜は怜の母に似てうつくしい容貌にちがいないので、
「うん」
 と、照はうなずいた。かなわんな、とちいさくつぶやく声が聞こえた。
「見舞いありがとうな。団体終わったばっかりで個人戦も近いのに」
 と、怜は言って、にへら、と笑った。思わぬ見舞い人に多少戸惑っているようだった。
「とりあえず優勝おめでと」
 怜にそう言われて、照はなんとなくこそばゆいものを感じた。負かした相手に祝福されるのは初めてではないが、こそばゆさを感じたのは初めてだ。なぜだろうか。相手が、園城寺怜だからか。
 照れかくしのつもりで、
「三連覇」
 と言い、Vサインしたあと、もう一本指をのばして、三、とした。
「しました」
「うん、すごかったな」
 怜も指を三本立てた。
「試合、見ていたの?」
「見てたよ、ヒマやもん」
 怜は言うと、そばに置いてあった麻雀誌を手に取った。それをぺらぺらとめくっていって、
「ここに書かれてんのぜんぶ、過去になってもうたな」
 ガラスのエースやって、と言って、怜は自分の記事を指さして苦笑した。そのとおりのことになったと自嘲したのではないか、と照は思った。
「まあ、座りや」
 うながされて、壁に立てかけていたパイプ椅子をベッド脇に置き、そこに腰をおろした。
「園城寺さん、は」
 口になかなかなじまない姓を呼んでみる。
「んー」
「個人戦には出てないの」
 出場選手一覧を見て、どうにも気になったことがあった。園城寺怜の名前が北大阪の欄になかったのである。怜の実力からいって当然代表二枠に選ばれているだろうと思っていたのに、いなかったのは、体のことがあったとしか思えなかった。
「出てないよ」
「きつい?」
「個人はスケジュールがなぁ。むりやった。予選も出てへん。半荘二回でへろへろやのに、あんなん出たら途中で死んでまう」
 そう言ってまたくつくつ笑う。なぜ笑えるのか、照にはわからない。
「インハイ以外は出る?」
「なにに?」
「コクマとか、世界大会、とか。強いし、安定しているから、きっと選ばれると思う」
 と照は言った。が、怜はゆるゆると首を振って笑うだけだった。
 ――まただ。
 と照は思った。また彼女は笑う。どうしてそんなに、困ったみたいに笑うのだろう。
 どうして、とは、自分自身にもあって、いやにしつこくて、多弁になっている自分が、照にはやはりわからなかった。
 園城寺怜の姓名が、自分のなかで特別なものみたいになっているのかもしれないと思った。
「母さんに怒られてもうた。大阪の先生もめっちゃ怒ってるって」
 そうして、苦笑したまま、怜は言って、
「ガラスのエースやからな」
 雑誌に載っている自分の写真を爪で弾いた。
「泣いてた。いっぱい泣かれた。母さんにも、竜華にも、チームメイトにも」
「倒れたから……」
「うん。無茶はしない、危ないなって自分で思ったらすぐに棄権する、そういう約束で、つづけさしてもらってたし、団体戦の先鋒も、ゆるしてもらってた」
「そうだったんだ」
 照の想像していた以上に怜は危ういところを歩いているようだった。病気はもう治って体力だけが問題だと聞いていたが、考えてみれば体力が回復しきっていないのは、それだけ病気にたいして弱い状態がつづいているということでもある。
「監督が先生に頭さげてくれたのに、わたしが約束破ったから、麻雀はもうおしまい」
「麻雀、やめるの?」
「競技麻雀はな、もうあかんって。趣味で打つくらいなら、まあちょっとは見逃すって。いっぱい泣かれたから。これ以上親不孝もできんし」
 怜は雑誌を閉じる。
「選手はもうおしまい」
 だからコクマにも世界大会にも出ない。そういうことだった。
「対戦相手でも、チームメイトでもいいから、また一緒に打ちたかった」
「こっちはもう勘弁してほしいなあ。宮永さんとやるんしんどいもん」
 宮永さん、と言われて、またこそばゆくなった。名を呼ばれるのが、なんだかうれしいことだと感じた。でも、うれしい、は心の半分くらいで、のこり半分は、さびしい、とか、かなしい、とかに分類されるもので、率直にいって怜の引退が残念だった。仕方がないこととはいえ、やはり惜しかった。
「わたしは、たぶんプロに行く」
「たぶん?」
「進路まだ決めてない」
「意外」
「夏おわったら考えようと思ってて」
「ふうん」
 ぽす、と間の抜けた音がした。怜は体をたおして、ベッドにあおむけに寝た。
「宮永さんってネット麻雀やってる?」
「ん?」
「遊びで打つなら、見逃してくれるから」
「あ……」
 照はハッとした。打てる。また一緒に打てる。そのよろこびを目もとにかすかにあらわした。照としてはめいっぱいよろこびを表現しているつもりだったが、他者にはなかなかそう見えないらしい、
「なんや、あんまりうれしそうやないな」
「ううん、うれしい。やってないけど、菫に言われて、ID? っていうのだけあるから、できる」
「やる環境はあるねんな」
「うん、うん」
 照は知らず怜の手を両手で握りしめて上下に振った。うれしい、うれしい。
「こどもみたい」
 と言われた。
「高三はこども」
 事実として思ったことを口にすると、怜は噴き出した。
「そうやな。こどもや。遊び盛りで若気が至るこどもや」
 そう言った怜は、うごきをとめた照の両手に、握られていないほうの手を添えた。
「くろちゃんと新道寺も誘ってやろか」
「今度は一対一対一対一がいい」
「どやろなあ」
 怜が笑う。
 けらけらといたずらをたくらんでいるように、おかしそうに笑う。
 照はもう、どうして笑うのか、とは思わなかった。笑う理由がわかったから、どうしてとは思わなかった。
 怜が笑っている。
 病室に入り込んだ穏やかな日射しが、彼女のおさなくてうつくしい笑貌を照らした。

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