クリスが初めてかつて響と未来がともに起居していた寮の一部屋に足を踏み入れてから、およそ三日程度で、未来はすくなくとも傍目には、すっかりその伴侶ともいうべき響の死から立ち直っているように思われた。
未来はまだ白い月の残る頃に起きて、体を動かしている。グラウンドを何十周と走り、汗を流す。時間も本数も厳密に決めているわけでなく、その時に未来が自分の体に問うて、これでよいと納得するとか、始業時間が近づいてやむをえずやめるとか、なんともむちゃくちゃな内容だった。
それに付き合おうとしたクリスは一日で音をあげた。
いつもこうなのか、と訊いたら、昔は、とそっけなく返された。
こんな体をいじめぬくようなことをして楽しいのか、と訊けば、昔は、とやはりにべもない。
クリスは早朝の適当な時間に起きて、グラウンドに行き、未来の修練が終わるのを見学する日々が始まった。
気がつくとグラウンドを走る影が二つになった。
未来のとなりで青い髪が風を切っている。
クリスはすこし自分が情けなくなった。朝に走る影を三つにする度胸はクリスにはない。
「物好きだよなあ」
あぐらをかいて砂の上に座っているクリスは、ぼそりとそんなことを呟いた。
並走しているのにお互いの存在が意識の中にあるのか、どうもあやしい。
ふたり一緒に走っているのではなく、たまたま同じグラウンドを同じ速度で、横並びで走っているだけなのだろうか。自分だけの世界に没頭するこの手合いは、クリスには馴染みがない。研究者気質のフィーネのほうがよほど開かれていたかもしれない。彼女はおのれの成果を人に見せびらかすのがわりあいに好きな人だったから。
それにしても、響や弦十郎はわかりやすかった。二が独立した一と一とが並んでいるのではなく、集合された二という数字になっていた、それはある種の一だった。(かつての響と未来のように、あるいは翼と奏のように)
今グラウンドを走っているのがあの頭のおかしな師弟であれば、クリスはやはり「物好きだよなあ」と呟きながらも、このどうしようもない寂寥と情けなさを感じることはなかっただろう。見学しているだけのクリスも、気分だけは走っていただろう。そうはいっても、賑やかすぎるあの二人は、それはそれでクリスはすこし苦手なところがあった。面倒な性格をしているものだ、われながら。そう自嘲することがある。
(暗いな……)
東の方に目をやれば、いよいよ昇りはじめた太陽が、グラウンドを強烈に照らしはじめている。それでも暗い、とクリスはもうずっと思っている。
(ニセモノめ)
クリスは思った。本物の太陽はもう死んでいる。だからわれもかれも暗く寒いのだとクリスは信じている。
本物の太陽は直視しても目を痛めつけるようなことはなかった。その太陽がやさしかったからである。
偽物の太陽は誰の心も明るくしてくれないし、あたたかくもしてくれない。なにより言葉を持たない。クリスの手を握り、大丈夫、などとは間違っても言ってくれやしないのだ。そのありさまで偽物でなくてなんだというのか。
校舎に取り付けられた大時計に目をやる。そろそろとめてやらなければならない。
大声を発して、未来と翼を呼びとめた。
二つの影が近づいてくる。
「もうちょっと気持ちよさそうな顔すりゃいいのに。体動かすとすっきりするんだろ?」
クリスがそう言うと、
「そのために体を動かせばそうなる、そうでないのであれば、そのような表情にはならない」
とまじめくさった顔で翼が答えた。
「ふうん、そうかい」
クリスは「気分転換」と称する運動に付き合わされたことが何度かあるが、翼はいつもむつとした顔しかしていなかったと思う。気持ちよさそうにしているのは響や弦十郎だけで、クリスはいつもへとへとで胸と頭が気持ち悪かった。
未来は無言でクールダウンにとりかかっている。
「ちゃっちゃと切り上げないと、メシ食う時間もシャワー浴びる時間もなくなるぞ」
クリスはそう言って先にグラウンドを後にした。
偽物の太陽が沈むと、今度は満ちても欠けたままの月が、つたない環を引き摺って姿を現す。
未来はまた、二名の居住者がいることを示すネームプレートのある寮の一室で、ひとりで眠るのだろう。
クリスにはそれをどうすることもできない。
やりきれない。まさに手も足も出ない。
だが、どうにかしたい、という気持ちもある。それは単純に未来への愛情であったし、未来と響に救われたことへの恩に報いたい想いでもあったし、あるいはまた短いあいだではあったが気の置けない友達としてクリスを振り回してくれた、響に義理を立てたいという、クリスなりの友情でもあった。響の愛する未来を、どうにかしてやりたいという気は大きかった。
あの世というものがあるかどうかはわからないし、死者に心があるのかもわからないが、それにしても未来の存在は響にとって未練だろうとクリスは思う。無念だろうと思う。
クリスはなにも、生前の響の立ち位置に取って代わろうなどと考えているわけではない。
ただクリスは聞いていたのだ。
かつてフィーネが月を破壊しようとした時、響が落下する月の欠片を破壊しにゆこうとした時、未来になんと言ったか。生きるのを諦めないで、そう言ったではないか。
今の未来はどうだろうか。クリスが初めて彼女の部屋を訪れた時、クリスに体をあずけて泣いた時、あの時は進んで死のうとはしていなかったが、あえて生きようともしていなかったのではないか。
早朝の修練を始めた未来は、それと比べていくらか生きようとする気が湧いているように思われるが、結局は自力で立ち上がってしまう未来の、クリスからするととてつもない精神の強さを、凄いと思うよりなにか哀しいと、クリスには感じられた。
響は死者で未来は生者だ。だから未来は今独りで立っているのだとクリスは思う。依然響に助けられながら立っている未来は、やはり生者であるかぎりどうしようもなく独りなのだと思う。
抱いて慰めてやることはできなくても、手を引いて歩かせることはできなくても、あの時のように胸を貸して、彼女が響の死に涙するくらいのことは、クリスはやってやりたい。それができる近さにいたい。
身勝手な欲望と言ってしまえば、そう言えるし、誰かにそう言われたら肯定できてしまうかもしれない。それでもクリスは未来のためになにかしてやりたかった。それは、翼や弦十郎や、あるいは安藤らではなく自分の仕事なのだと漠然とした確信をもっていた。
その根拠を問われたら、クリスは多分、自分がフィーネの娘だからだ、と答えたかもしれない。
夜の道を、クリスは歩いている。
ノイズ災害からいまだ復活しきっていない、傷ついた商店街の道を、クリスは歩いている。
クリスはそうやって、時々無性にかつて未来に拾われた商店街の裏路地に行きたくなって、その欲望に突き動かされるように、居候先の風鳴邸から夜半飛び出した。
夜の商店街からは自分以外の人の呼吸はまったくないように思われた。この世界に自分はひとりしかいないのではないかと、そんな勘違いを起こしたくなるほど、夜の道は静かである。風も落ちている。ただ寒さのあまり、耳にキインと金属音のようなものが鳴る程度だ。そろそろもう一枚、中に着るものを増やす時節かもしれないと、この夜クリスは思った。
「あら、クリスじゃない」
背後からふいに名を呼ばれて、クリスは肩をふるわせた。
振り返ると、ジャージ姿の未来がいた。
「驚かせるなよ……。ってか忍者かお前は。足音聞こえなかったぞ」
「そっちがぼんやりしすぎてるだけじゃないの」
「……夜も走ってるんだな」
クリスは目線を上下させて、未来の頭から足までを暗がりの中でざっと観察した。
「うん。たまにだけどね」
「そうか、たまに、か」
朝とは違う心持ちで走っているらしかった。
未来はクリスにあわせて走るのをやめた。
夜の道をふたりで歩くことになった。
「元気、か」
「どうかしら。クリスにはどう見える」
「元気になったように見えるよ」
「なら、元気になったのだと思う」
「強いな、お前は。どうしてそんなに強いんだ」
クリスが問いを重ねると、未来は鼻をすすりながら笑った。
「強かったらあんなにみっともなく泣いたりしないわ」
未来は言うと、ねえ、と声を低くした。
「響は、本当に死んだの」
「え、どうして、突然」
「前みたいに、機密とかで、死んだってことにして、隠してるとか、本当は生きてるとか、そういうのじゃなくて、本当に死んだの?」
強い低い声が、すこしふるえているようにクリスには聞こえた。
死んだのは事実だ。それをどういう言葉で答えればよいのだろうか。クリスは迷った。
「死んだ。死んだんだ、本当にアイツは、あたしも最初は、信じられなかったけど、本当に死んじゃったんだ」
「遺体は――」
「ない……」
ネフィリムという化物に食い殺されて全部呑みこまれしまった、とは言えなかった。
「そう」
会話は一端そこで途切れた。
未来はまた走りだした。
クリスもそれについていこうとした。
速度があがっていく。
ぐんぐんと猛烈な速さで未来は走る。
クリスは渾身で未来についてゆく。
「いつもね、私の知らないところで、怪我するの。いつも、いつも、私のいないところで、傷をつくって。いつも一緒にいたのに。いたはずだったのにね。――女の子なのに生傷だらけで。――いつも、笑って、大丈夫だって。私のせいで大怪我した時も、大丈夫だよって、未来のせいじゃないよって、――そう言って笑ってた」
「そうか。うん、あいつはそういう、やつだよな」
クリスはかすれた声でなんとか言った。
未来の呼吸にはまだ余裕がある。体力の桁が違うのだろう。仮にも民間人の未来にさえ劣る自分がつくづく情けなく恨めしい。
「いつも一緒だったのよ。なのに、走っても走っても、どれだけ速く走っても、響のところに届かない。私は、響に追いつけない、助けられない」
「そんなことは――」
「そんなこと、ある」
そんなことはないと否定しようとしたクリスの言葉は、最後まで吐き出されなかった。クリスの言葉はまたたくまに未来に否定された。
未来は突然立ちどまった。
とまろうとしたクリスはあやうく転びそうになった。
未来は月を見上げている。
月はむろん欠けている。
「今夜は満月のはずだけれど……」
未来はそんなことを言った。
「欠けてるのは、本当に月が欠けてるからな。満ち欠け(月相)は関係ないんだ」
「そうね。了子さんや響がやったんだっけ……」
未来は天に手を伸ばし、欠けた月の周りに構築された環を指でなぞるようなしぐさをした。
「変なの」
「そうだな。変な世界だ。変なやつが愛した変な世界だ」
クリスは言った。
未来はなにがおかしかったのか、大笑いに笑った。彼女らしくもなく品のない笑い方だった。
「響はたしかに変な子だったけど、クリスにまで変なやつ呼ばわりされるなんて」
「あたしは別に、あいつのことだとは、言ってないけど……」
「でも、そうなんでしょう」
「まあ、うん」
クリスは口もとを手で隠した。笑いたくなったのを未来に見られたくなかった。
ハア、と未来は大きく息を吐き出した。いまさらながらに、全力で走りに走って乱れた呼吸を整えようとしているらしかった。あるいは変な子に対する呆れを含んだ嘆きの息かもしれなかった。
未来はクリスに近づき、肩口に頭をのせた。
「どうしたんだ」
「あのね、クリス、あの時みたいに、たまに、肩貸してくれる?」
「あたしは、いいけど……いいのか? お前のほうは?」
「うん」
そう答えた未来は、けれども泣いてはいないようだった。
あたしなんかの肩ですこしでも心がやすらかになれるのなら、いくらだって貸してやろうとクリスは思った。
それ以上に愛する人に甘えられるおのれに浮かれている心に気づいて、クリスは自分を叱った。響の存在をまったく無視した酷い醜い感情だと思った。そんな浮かれた心は絶対にもってはいけなかった。クリスは浮ついた心を地面に叩きつけた。
なんという少女だろうとクリスは思った。なんと強い少女だろうと思った。
そう思うと涙が溢れてとまらなくなった。
(バカ! 本当のバカ! どうして死んじまったんだ!)
クリスはしばらくぶりに、響に対する怒りが蘇ってきた。
小日向未来がその身を預ける相手の名は、雪音クリスではなく、立花響でなくてはならないのに! 死んでしまってはそれもできないじゃあないか! バカ!
クリスはキッと月を睨み上げた。
あそこからあの底抜けに人の好い、太陽みたいに明るいバカが帰って来ないだろうかと、そんなどうしようもない妄想をした。