月の夜の下をクリスは歩いている。
うしろから息を吐き出す音と砂利を擦る駆け足の音が近づいてくる。
クリスは振り返らない。
足音の主は呼吸をととのえ、歩調をクリスにあわせた。
「三回目かな」
と未来は言った。
「うん」
とクリスは答えた。
朝の走り込みと違って、夜の未来はクリスを無視しない。クリスが歩いていれば未来も肩をそろえて歩いてくれる。
たあいない世間話をしつつふたりは夜の道を歩いてゆく。
クリスはふと月を見上げた。相変わらずぶさいくな月だなと思った。
「あれが落ちてくるんだ、知ってるか」
クリスは月を指さして言った。
「知ってる。私、あのライブ会場にいたもの。それにあれ、全世界配信されていたじゃない」
「そうか。そういやあそうだったな」
未来が笑って言うものだから、クリスもつられて笑った。
歪なかたちの月はそのうちに、いずれの日にか落下してくるという。とても信じられない話だが、二課のオペレーターの男性が計測したかぎりでは、どうにもフィーネ・マリアがライブで言ったことは妄語ではないらしい。ただし、時間的な猶予はまだだいぶんある、という。武装組織「フィーネ」が事を急ぐ理由までは敏腕な彼にもわからないようだった。
「落ちてきたらたいへんなことになるよなあ」
「他人事みたいに言わないでよ。クリスたちがなんとかしてくれるんでしょう?」
「なんとかしなきゃならないけど、やり方わかんねえ」
クリスは困ったように首筋を指で掻いた。
「まあオッサンたちがなんか思いついてくれるさ」
その時に、対ノイズのようにシンフォギアの力を必要とするのであれば、自分は持つ力を大いに発揮すればよい。それ以外にできることなんて、結局は自分にはないし、またそれを断固しなければならないとも思っている。クリスは最近ようやく、自分にできることをして、できないことはしない、できる人間にやってもらい、それを手助けする、ということが、ぼんやりとだが、体に染みてわかってきた。
昔の理想に燃えてそれ以外になにもしようとしなかった頃よりも、危機にさいしても暢気にかまえている今のほうが、よほど両親やフィーネが体現しようとした正道にのっとっていると、クリスは感じている。
フィーネのなにもかもが間違っていたとはクリスは思わない。聞きかじった彼女の理想の一欠片でも、多くの人々の幸せに寄り添うかたちであらわせたら――。そう考えていると、自分がなにやらフィーネの後継者にでもなった気分になる。居心地はわるくない。それもあってか、フィーネ・マリアへの心象は、はっきりと言ってよくない。そもそもが響を殺した組織の首領なのだ、マリア・カデンツァヴナ・イヴという女は。
(あれは、騙りだ)
クリスはマリアを偽のフィーネだと決めつけている。
「響がいればな」
耳になじんでも口になじまない名前がするりと出てくる。
「うん?」
「あいつがいれば、やっぱりみんな、今頃とっくに、なんとかなってんだろうな」
なんとかならないことがあったから、響は死んでしまったのだが、クリスはあえてそれを無視して思いつきの妄想を語った。
そう思わせる不思議な少女だったのだ。彼女にだいじょうぶと言われたら、本当にだいじょうぶな気持ちになれた。つくづく不思議な少女だった。本当に。(だが、今はもう、いない)
「どうかしらね。響はのんびり屋だから」
未来は小首をかしげた。
「のんびり屋かあ? あたしには、やたらとせかせかしてる、こうるさくて、せっかちなやつに見えたけどなあ」
とクリスが言うと、未来は、たしかにね、と言ってくすりと笑った。
故人の存在をこうして明るく話題にできるのは、いい傾向だと思ってもよいのだろうか。クリスにはまだすこし自信がない。
「月が落ちるのも、流れ星っていったら、流れ星なのかな」
未来はそんなことを言った。
「そりゃ月も星だから、流れ落ちれば、流れ星だろうさ。でも、ふつうの流れ星と違ってあんまりロマンチックじゃないぞ、月が落ちてくるのは」
「そうね。――ふふ、クリスの口からロマンチックなんて言葉が聞けるとは思わなかった」
「へえ、あたしだって、それくらいは言う」
未来の小さな笑いが先ほどからとまらない。クリスもとめようと思わない。彼女の笑顔よりうつくしいものはこの世界には存在しないとさえ、クリスは信じている。
(そうだ。だから、このために命を懸けても、惜しくないんだ)
そう考えると小日向未来は危険な人間かもしれない。ひとを死ぬ気にさせる人間はとてつもなく危険だ。
(生きるのを諦めるな、と言われても、ちょっとむずかしいぞ、カナデサン)
又聞きの励声に、クリスは心の中でそう返した。ただし、未来にはその手の女が持つ妖しさや艶やかさは微塵もない。その点で未来は安心できる女性である。
「だからまあ、だいじょうぶだな」
「なにがだいじょうぶなの?」
クリスの呟きに、未来がすかさず反応した。
「うーん、そうだな、うん。月だ。月のことだよ、だいじょうぶだと言ったのは」
あきらかに今思いついたというクリスの口振りだった。
「だいじょうぶだって。あたしは泳ぎはけっこう得意なんだ」
「ますますわからないわ。なにがだいじょうぶなのよ」
未来の追及をクリスは肩で笑ってかわした。――フィーネみたいに恋に溺れたりはしないってことだ、とは、さすがにクリスは言えなかった。
流れ星が夜天を横切った。
「あ、流れ星だ――」
未来の視線を追ってクリスも流れ星をさがしたが、すでに消えていた。
一瞬のできごとだ。
クリスは溜息を吐いた。
「惜しかったね、クリス」
「うん、まあな」
それほど残念だったわけではないが、未来が見たものと同じものを、自分も見たかったという気持ちはわずかだがあるにはあった。なにかしらを共有したいのだ。愛する人とそうありたいと願うのは、別段おかしなことではないが、どうしたって死んだ響が、未来の最愛の少女が、強烈にその存在をクリスに訴えかけてくる。うしろめたさがクリスの体内から消えない。
あいつはバカだから、お人好しだから、思いがけずクリスと未来の仲が進展したとしても、たぶん気にしないだろうし、気にしないでいいと言ってくれるに違いない。このうしろめたさは、誰のせいでもない、クリスがクリス自身のために頑なに所有しているものだった。
(でも、すこしだけ……)
とクリスは欲張りたくなることがある。
根拠はないし自信もないが、世界を救ってみせると約束する。お前が愛した、お前とお前の恋人が愛した、この世界をみんなと一緒に守ってみせる。だから、すこしだけ、とクリスは固く拳を握って祈った。どうか拒まれませんように、と。
クリスは意を決して拳をひらき、その手に未来の手を掴んだ。
未来はいきなりのことで驚いたようだったが、いやがるふうでもなく、クリスの手を握りかえした。あたたかい手だった。やさしい手だった。
響に似ているとクリスは思った。ソロモンの杖の搬送中にノイズに襲われた時、クリスの不安を払拭するために、響はクリスの手をつつみこんでくれた。今の未来の手はそれに似ている。
太陽は死んだ。
月は欠けている。
それでも陽だまりはここにある、とクリスはこの時初めて、ほんのかすかではあるが、そう信じることができるようになった気がした自分を感じた。