最初は荒い息を吐いていたクリスは、しばらく経つとおだやかな寝息をたてるようになった。
――どうしてだ、なんでお前はそんなに強いんだ。あたしに守らせてくれないんだ。
へたりこんでそう繰り返し泣き叫んだクリスは、やにわに立ち上がると、短い悲鳴のような声をあげてから、やがて事切れるように未来のほうに体を傾けた。
冷たい鉄の床に膝をついて、腰をまげて上半身を未来の太腿にあずけるという、かなり窮屈なかっこうで眠っているが、それでも年齢にそぐわない幼い寝顔はやすらいでいるように、未来の目には見えた。
これなのだから、よほどに疲労が溜っていたのだろう。
ちゃんと寝ているか、たびたび心配してくる彼女のほうこそ、実はまともに眠りつけていなかったのではないか、もう何日も洗っていないのにやたらにやわらかい髪を撫でながら、未来はそんなことを思った。
この上で風邪など引かせたら一大事である。クリスの持ってきたコートを彼女の肩からかけてやった。マリアから貰ったものに違いないが、未来が貰ったものとは違うデザインのものだった。つくづく、みょうなところに気をくばる人だ。親友を殺した組織の首魁を相手に、未来はなんだか笑いたくなった。
もともと怨み憎しみなどはすこしもない相手でもある。当のマリアはそうしてくれたほうがありがたそうな表情を未来に向けるが、殺されたところを目撃したわけではないし、直接手をくだしたわけでもないらしいマリアを憎むのは、未来の性格では難しすぎた。それもこれも自分の心の弱さだと未来は思っている。それ、はクリスの叫びに対する反論であり、これ、はマリアたちを憎むことである。
「強くなんかないのに」
買いかぶりすぎた、だれもかれもが自分を買いかぶっている。未来は不満を呟きにのせて嘆息した。膝で眠るクリスにゆっくりとその息が落ちた。
響は三度死んだ。二度生き返って三度目は生き返らなかった。未来にはそういう感覚がある。一度目はツヴァイウィングのライヴの時で、二度目はルナ・アタックの時、三度目が今回である。一度目は巻き込まれて死んだのではないかと気が気ではなかった、二度目は二課から死亡報告があって未来はそれを信じた、三度目も同じように訃報をもたらされたが、今度は嘘の報告ではなかった。
三度の死は全て一度目の死にかかっている。なにもかもが最初のツヴァイウィングのライヴ事件が遠因としてある。そしてそのライヴに響を誘ったのは誰あろう、未来自身だ。
だから、誰が響を殺したのかと考えれば、結局は自分だと思うしかないが、それだけは未来は響の親友としてしてはならないと自分を強く戒めていた。もとより自分を憎むほど未来は愚劣ではない。
ただ、結局響の死地に一度も立ち会えず、救うこともできなかった責念と後悔とがいやに強烈な響きをもって未来に自省をうながしてくる。
未来は響が心配でならなかった。だが同時に自由に気持ちよく生きさせたいとも思っていた。だからほとんど飼い主が飼い犬を放し飼いにするように、可能なかぎり未来は響の好きにさせた。
――でも、こんなことになるのなら。
考えまいとしても考えてしまう。羽交い締めにすればよかったのだろうか。どこにもいかないでとでもみっともなく泣いてすがって抱き締めれば、愛する彼女は自分のもとから去るようなことはなかったのだろうか。はなから答えの存在しない問いが、幾度も未来の胸の衝き、腹に落ち、そして消えていった。
未来を陽だまりと喩えた響は、それこそ喩えるなら太陽そのもののような存在だった。あかるくかがやいていた。そのきらめきが消え失せた時、陽だまりも消えるべきなのだろうか。誰よりそのことを響は否定する。生きるのを諦めないで、と未来に言いつづける。だから未来は生きつづけなければいけない。
素直で、単純で、そしてずるい子だと思った。おたがいさまかもしれないが、未来の無限の好意に甘えた響の生き方が、未来は今になってすこし腹立たしく感じられるようになった。響はまた自身も無限の愛でもって未来に接し、未来に寄りかかり、未来に甘えていたのだ。
それなのに、ひとり先に死んでおいて未来に死ぬことをゆるさないのは、やはりずるい、と未来は思った。でもおたがいさまだ。立場が逆なら自分もやはり同じことを響にずるく要求したに違いない。自分も結局はずるい人間なのだ。わかりきったことで、わかりすぎていて、だからどうしようもなく未来はかなしかったし、さびしかった。
未来はまたクリスの髪を撫でた。
クリスがリディアンに転入して来てから、何日もしないうちに、未来はもう彼女が自分に向けてくる視線に、友人へのそれでない、一種の生臭みをともなった、ありていにいえば男が女を、女が男を見るような、そういう「色」が宿っていることに気づいてしまった。
気づいて無視しつづけた。
どれほど想われても、未来はとうていそれには応えられないし、かといってクリスからべつだんなにかしてくるわけでもなかったから、面と向かって断わることもできなかった。それも、やはり、自分の弱さだ。こんなにも自分は弱い女なのだ。未来はクリスに言ってやりたい。
ブリーフィングルームの扉がひらかれた。
「あ、やっぱりここにいたデス。もうすぐ着陸だから気をつけてってマリアから伝言デス。そいでそのあとごはん」
と切歌はおおざっぱな報告をした。今のところ陸沿いに飛行しているが、長時間の旅はナスターシャの体に障るので、今日はここで打ち切りというわけだった。
「まあ海に出ちゃうとノンストップ一直線デスけど」
切歌はほおを掻いて、クリスを見下ろした。
「こいつ寝てばっかデスね。なのに胸しか育ってないデス」
と言って、切歌はクリスの長い後ろ髪をつまみあげた。
「外人?」
「ハーフって言ってた」
未来は答えた。
「ハハア、だからマリアと違って胸だけ育って背はちびっけつなんデスね。育ち方がハンパもんデス」
はなはだ無礼な納得をして、切歌は髪を離した。
「起きてたら怒られるよ」
「返り討ちにしてやるデス」
拳を突き上げて、けらけらと軽快にあかるく言う切歌の声には、どこかつねにさびしげな暗い陰翳があって、そこがなんとなく響に似ているような気がして、未来はこの陽気な誘拐犯に好意をいだきながら、同時に生理的な抑えがたい嫌悪感を覚えていた。その点でいえば口数のすくないおとなしい調のほうが、未来からするとまだいくらか付き合いやすかった。
切歌はなにを思ったのか、未来のとなりの席に腰かけた。
未来はかすかに顔を不快でゆがめた。
切歌の持つ独特の影が濃くなっている。そのつど、彼女の姿は響のそれに重なってゆく。
「やるのデスか。ほんとうに」
「決めたからね」
「後悔しちゃってからじゃ遅いのに」
「後悔したくないからすぐ決めたの。迷うのはそのこと自体が間違った結果を生むだけだって、思い知らされたから」
「思い違いかもしれない」
切歌はしつこい。
「それでも、いい」
「怒られるかもしれないよ」
「だれに?」
「あいつに」
「名前で言ってくれないとわからないわ。クリスのこと?」
未来はすっとぼけた。
「立花響に」
切歌は濁りのない声で言った。
「まさか」
未来は鼻で笑った。喜怒哀楽のうち、もっとも響と縁のない感情だ。
「あたしなら、怒る」
切歌は言った。その言葉は未来の心臓を真一文字に鋭く切った。
「あんたがなにやったって、それであたしたちの力になるなら、べつにいいけど――」
切歌は一度言葉をとめて、
「でも、もしあたしが死んで、調がおんなじことやろうとしたら、ケチョンケチョンにして怒る」
と言った切歌は、すでに妄想の中の調に対して猛然と怒っているようだった。
「響はあなたみたいに怒ったりしないわ」
「ふん」
切歌は荒っぽい動作で席から立った。大きな音まで一緒に立てたせいで、クリスが目を覚ました。
「あ、やっべ」
切歌は逃げるように、というより実際に走って逃げた。
「ああ、なんだ、あいつ。来てたのか」
クリスは眠気の残る声で言って、ぱさりと肩からコートが落ちるのに気づくと、
「あ、ごめん」
コートをつかんで、未来から体を離した。
「ホントに、ごめん……」
また謝った。たぶんこちらは、泣き叫んで未来を罵倒したことへの謝罪だろう。
「気にしてないから」
そう言うと、クリスはほっとしたような顔をしたが、そのあと、
「気にしてほしい」
と、かなしげなまなざしを向けて言った。
未来はその視線を横に流した。応えられないものはどうあったって応えられない。
「もうすぐ着陸だって」
「なんだ、まっすぐに海に行くんじゃないのか」
想像とは違う進路をとっているらしいと知って、クリスは意外で目をみひらいた。
「クリス」
未来は椅子叩いて着席をうながした。いつまでも床に足を寝かせて座っているのは、いかにも品がなくて女の子らしくない。
「うん」
クリスはおとなしく未来の言うことにしたがった。
「あいつなにしに来てたんだ。へんなことされたり、言われたりしなかったか」
クリスはあいかわらず未来を心配することばかりを言う。
「なにも。報告しに来てくれただけよ」
と未来は言った。響の死後、クリスが未来に対してどうあろうとしているのか、未来にはなんとなくわかっている。自分が切歌に響の影を重ねていると知れば、彼女はさぞ傷つくだろうと思った。
「そっか」
クリスは言って、目を服の袖でこすった。
「痒いの?」
「泣きすぎた。みっともねえ」
「掻くとよけい痒くなるから、やめたほうがいいと思うんだけど」
「でも痒いし」
クリスは二度三度同じことをやってから、ようやく目をこするのをやめた。異常に我慢強いように見えて、みょうなところでこどもっぽい堪え性のないところがクリスにはある。
「喉渇いたなあ」
「降りたらごはんだって言ってたわ」
「そうか、じゃあいいや」
「飲み物ならそのへんにたくさんあるけど」
「いや、いいよ」
こういう強情ばりなところも、やはりどこかこどもっぽい。
たぶん、それが切歌の買ってきたものなのが、クリスの気に入らないのだろう。未来は思った。その後の食事も切歌と調が調達して来たものなのだが、それはクリスの中では数に入っていないのだろうか。
「さっきはホントにごめん」
「気にしてほしいんじゃないの? だったら謝らなきゃいいじゃない」
「うん、気にしてはほしいけど、でもやっぱりごめん」
クリスは謝り詰めに謝った。
未来は自分のほうがもうしわけない気持ちになってきた。
「もういいから」
倦んだ気を隠さずはっきりとぶつけると、クリスはまた「ごめん」と言って、しかしようやく謝るのをやめた。
未来はクリスの肩に頭を乗せた。
「あ、え、なに」
クリスは驚きに驚いている。
「なに驚いてるのよ、肩貸してくれるって約束じゃない」
「そう、だけど、なんで……」
なんで、突然、とクリスは言いたかったのかもしれない。そういえばこの約束をしてから、実際に肩を貸してもらうのは初めてになる。たしかにいまさらだ。いまさらのことを、未来は思い出したように突然やっている。それがクリスには驚いたらしかった。
未来は目をつむった。クリスに膝を貸して寝かしつけていた代わりに、自分はクリスの肩を借りて眠ってやろうと思った。それからひとつ、とんでもなく酷い思いつきをして、そして実行することにした。
「ねえ、クリス」
「なんだ?」
「あなたのことを愛している、って言ったら、どうする――」
「―――」
クリスからはなんの言葉も出なかった。喉の鳴る音がした。ちいさい悲鳴のようなものが、彼女の口の奥で何度もあがっているようだった。
クリスの速まった心臓の音が、密着した箇所を通して、高く重く、静かに未来の耳の裏を打った。
――バカな子。
未来は罵りたくなった。その「バカ」はクリスが口癖のように、あだ名のように呼んでいた響のことであったし、そう呼んでいた張本人であるクリスのことでもあったし、そしてまた未来自身のことでもあった。
こんなバカな子に惚れるなんてしてしまって、ほんとうにバカなんだから、と未来はふたりをバカにした。あんなバカな子に惚れてしまうなんて、ほんとうにバカなんだから、と未来は自分をバカにした。
「クリス、愛しているわ。この世の誰よりも」
未来はまた意地の悪いことを言った。
それきりなにかを言うのがめんどうになって、いよいよ未来はこのまま眠りついてしまおうと決めて、ゆっくりと体の力を抜き、体重をクリスにかけていった。
その時、
――未来!
遠い遠い、どこかから、未来を怒る声が、はるか遠いどこかから聞こえてきた気がした。
聞きおぼえのある声の主を誰何するより先に、未来は眠りに落ちた。