真っ白い部屋だった。
それ以外の色はほとんどないと言ってよい。
その白い部屋の中をあざやかな色の髪が流れた。
マリアは花を差した花瓶を棚の上に置いた。
「ごめんなさい。本当はもうすこし早くに来たかったのだけれど、いろいろと問題や手続きが多くて……、切歌と調も来たがっていたのに結局今回は私だけで……」
マリアは言った。
「事前に連絡も入れられなくって、急に来てしまって、ごめんなさいね」
「いえ、おかまいなく」
と未来は言った。不自由な生活をしているただなかだろうに、こうして時間を割いて見舞いに来てくれること自体が、ありがたい。
「ついさっきまでは元気に起きてたんですけど」
と言って、未来はベッドで眠りこけているクリスのほおを指でつついた。
「そう」
それだけを言って、マリアは静かにほほえんだ。ひとをいつくしむ以外にはなにも知らなさそうなやさしい表情だった。
マリアは壁際の椅子を持ってきて、未来のとなりに腰かけた。
「フィーネを騙っていたことがあるの」
マリアはちいさな声でぼそりぼそりと話しはじめた。
「けれど、私は本物のフィーネとして覚醒していたわけではないから、記憶や知識なんてまるでなくて」
「―――」
「この子に訊かれたわ、一緒に暮らしていた時のこと思い出せないか、って。私はそれには、すくなくとも彼女の望む答えはひとつも返せなかった」
「―――」
「もし本当にフィーネとして覚醒していたら、この子の望む答えを返せていたかもしれない。この子が求めていた愛情をそそげたかもしれない。そう思うともうしわけなくて――。あの時、この子が私を見ていた目、今でもはっきりとおぼえている」
マリアは一つ息を吐いた。
「訊いてもいいかしら」
「なんですか」
「この子は親の愛情にめぐまれなかったのかしら。きっとこの子は私のことを母としてみたかったのだと思う。あるいは母として愛するつもりだったのかもしれない。そういうさびしそうな、甘えるような目をしていたわ。手を繋ぎたくて、でも手酷く振り払われたらどうしよう……そういう不安の目でもあった」
とマリアは言った。未来の初めて知ったことだった。
未来は話してよいのかどうか一瞬迷ったが、
「ご両親はこどもの頃に亡くなったそうです。それからしばらくしてフィーネさんに拾われて、一緒に暮らしていたって聞きました。前にフィーネさんが消える時にクリスはとても悲しんでいたから、クリスはフィーネさんのことを愛していたと思います」
と言った。
「そう」
マリアはまた短く言って、親指を目尻にあてた。
それを横目で捉えた未来は、心の中でかすかに嘆息した。
フィーネがはたしてクリスになんらかの愛情を向けていたのかどうか、未来は知らない。フィーネのことを、クリスは、――あたしを道具のように扱うばかりだった、と吐き捨てるように未来に言ったことがある。マリアは彼女の立場から可能な範囲で、部外者と言うべきクリスと未来にそれとなく愛情をそそいでくれた。未来はそう感じているが、その人格がそっくりフィーネに入れ替わったらどうなっていただろう。あまり明るい想像はできない、というのが正直な気持ちだった。
それでもフィーネと再会できたとしたら、クリスはやはり喜んだのだろうか。その死を悲しんで泣いたように、その生まれを喜び泣いたのだろうか。だが、フィーネの誕生はマリアの精神的な死と繋がっている。それを脇に置いてはしゃぐクリスの姿もなにか想像しづらい。
結局のところ、クリスのことを、未来はろくにわからないし知らないままなのだ。そしてろくにわかろうとも知ろうともしていない。
クリスの過去は本人の口から、おおざっぱにだが聞いたことがある。不器用に縫合された傷痕を強引に破って踏みにじった、あの夜の一方的な交わりを悔やむ気はないが、もう一度同じことをする気にもなれない。
そこは閉ざされた深い暗闇だ。その暗闇は響のそれとは違い、未来の知らない、かつて共有したことのないものだ。暗闇の最奥で泣き崩れている影が、未来の手が差し伸ばされることを求めているとはかぎらない。クリスは響ではないし、クリスにとっての未来もまた、響にとっての未来とは、大いに違うものだ。
あれもこれも、クリスに直接問い詰めればあっさりと全部を吐き出してくれるかもしれないが、そうする気持ちにはなれなかった。未来はクリスにかつてない愛情を抱いたことで、かえって自分の中のクリスの存在が遠くなった。いや、遠ざけた、と言ったほうが正確だろうか。
また心の中で嘆息する。
のんきに眠っているクリスがなんとなく小憎たらしくなってきた。
「起こしちゃいましょうか、これ」
と未来はクリスを指さして言った。
「えっ」
マリアは本気で驚いたようだった。
「や、冗談です」
取り繕うように言うと、これもまた本気で安堵したように息を吐いた。
「じゃあ、そろそろ、おいとまさせてもらうわね」
と言ってマリアは立ち、椅子をもとの位置に戻した。
未来も立った。
「はい。今日はありがとうございます」
「こっちこそ、時間遅れちゃってごめんなさいね。できればその子にもあいさつしたかったのだけれど」
もうしわけなさそうにマリアは言った。未来はこちらがもうしわけない気分になった。途中まで送っていこうとしたが、これはマリアに断わられた。
「また、今度……できれば、その時には退院しているといいわね」
「そうですね。先生に頼んでリハビリのピッチあげてもらいます」
「……お手やわらかに、ね」
マリアは本気には受け取らず、微笑で返して去っていった。
未来はベッド脇の椅子に座りなおした。
いつか白い部屋は朱く染まりつつあった。
クリスは安眠の中にあって起きそうにない。
まさかマリアの見舞いがあったことを伝えずに、黙って帰るわけにもいかない。
(面会時間の終わりまでには起きてほしいけど……)
そう思いながら、未来はクリスのやわらかいほおを飽きもせずにつついた。
クリスはまだ起きない。
未来の指先にかかる力が増した。
爪の跡がついた。
「起きないなあ」
いつもはここまで昼寝はふかくないのだが、どういうわけか今日にかぎってふかぶかと寝入っている。――マリアに会いたくなかったのだろうか。ふと、未来はそんなことを思った。
(そういえば小説持ってきてた)
未来はかばんの中から文庫本を取り出した。暮れの光が酷くて猛烈に読みづらい。カーテンを閉じた。室内がうす暗くなった。椅子に戻ってページを開く。これはこれで読みづらい。溜息一つ、諦めてかばんに文庫本をしまった。
「ひま」
未来は天井をあおいだ。
「もう帰っていいよね。私がんばったよね。書き置きしたらそれでいいよね。どうせ明日も来るんだし――よし帰ろう」
言い訳を並べて未来は席を立った。
「んあ……」
クリスが目を覚ました。
「タイミングわる……」
「えっ、なにが」
「なんでもない」
いかにもご機嫌ナナメといった表情で言った。
クリスが体を起こそうとしたので、
「ああ、寝てていいから」
と言ってとめた。
「電気点けよっか?」
「うん」
未来は病室の明かりを点けて、それから座りなおした。
「寝てるあいだに、マリアさんがお見舞いに来てくれたわよ。ほら、あれがお見舞いの花」
未来は花瓶を指さして言った。
クリスは花瓶と未来を交互にみて、ふしぎそうに目をしばたたかせた。
「マリアって誰だっけ」
「えっ、おぼえてないの?」
「名前おぼえるの苦手」
「翼さんと一緒にライヴで歌っていたひとよ。ほら、あの変な一味のリーダーのフィーネさん――」
「あー、あいつかー、なんで見舞い?」
クリスは得心して、そのために湧いた疑問を口にする。
「なんでって……そんなのクリスが心配で来たに決まっ――」
未来は言葉に詰まった。そういえばどうしてわざわざ見舞いに来たのだろう。マリアがやさしいひとだから、で片付きそうだが、切歌や調が来たがっていたという話が本当なら、なるほど理由がよくわからなくなってくる。いちおう一時は「フィーネ」の構成員だったことはあるが、そこまで彼女たちと親しかったおぼえがない。
「さあ……」
未来は首をかしげた。
その動きにあわせるように、クリスも体をかたむけて、未来の顔をのぞきこんだ。
「訊かなかったのか」
「お見舞いの理由なんて、わざわざ訊くようなことでもないし」
「ふうん。そういうもんか」
クリスはそれで納得したようだった。
「ねえクリス」
「なんだ」
「ちょっと服脱いで」
「はあ!?」
「ちょっとだけ、ちょっと前はだけてくれるだけでいいから」
言いながら未来はクリスの病衣に手をかけた。
クリスは身をよじって逃げた。
「まてまて、やめろ!」
「ちょっとだけだってば」
「ちょっともたくさんも駄目だ!」
「ああっ、下にTシャツ着てる、こしゃくな――」
「やーめーろー」
「あ、みえ、た――」
未来がそう言ったとたん、クリスの抵抗がぴたりとやんだ。
「どうしたの」
「好きにしろい」
クリスは言葉を投げ捨てるように言った。
「お言葉に甘えちゃうけど、いいの」
「訊くくらいなら最初からやるなよ。……べつにいいよ」
「じゃあちょっと失礼」
ベッドの中に手をすべりこませて、紐をほどき、ボタンをはずす。病衣を開くと、やはりTシャツが邪魔だと思ったが、仕方がないと諦めた。Tシャツの襟に指をひっかけて、左肩をはだけさせた。
大きな刃物傷がある。この傷は肩から右脇腹まで通っている。何度か手術を重ねるうちに多少はうすくなったが、とりわけ目立つ傷には違いなかった。完全に消えることは、たぶんないだろう。
「物好きなやつ」
「べつに楽しむために見るんじゃないし」
「じゃあなんで見るんだ?」
「クリスが全然気にしないから、私が代わりに気にしてあげてるの」
未来は平然と言った。
「もともと傷ばっかりの体なんだ、いまさらふたつみっつ増えたって同じだろ」
「もう! そんなんだから代わりに気にしてるんじゃない」
「なんで怒る……」
クリスは口の中でもごもごと言葉をこね回したが、そのまま呑みこんだようだった。
未来はあいているほうの手の指で、傷をなでさすった。クリスはくすぐったそうにわずかに身をよじった。
「ふっ――」
未来は笑った。
クリスは口をとがらせた。
「やっぱり楽しんでるんじゃあないか」
「そうかな」
未来は自分ではそんなつもりはなかった。が、笑ってしまったことについては弁明のしようもない。
自分なりにその笑いの原因をさぐってみる。案外、浅いところにそれはあった。
「私を守ってくれた証の傷なのよね」
どこか他人事のようなふわふわとした声で未来は言った。実のところ、その時のことを、未来はよくおぼえていない。なにかまた心にもないことを言ってクリスを傷つけたような、そんな記憶がかすかにあるだけだった。それでも未来はこの傷をなにやら愛おしげに触れずにはいられなかった。
「証だなんて、ごたいそうなもんじゃない」
クリスは顔をそむけた。
「全然守れてないし、ざまアなかった」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも守るって約束してくれたでしょう」
未来はTシャツから指を離し、不格好ではあるが病衣をなおして、肩の傷を隠した。
「うん……」
顔をそむけたまま、力のない声で言った。
「じゃあ、これからもがんばって私のこと守ってね」
未来は言った。
「もっと頼りがいのあるひとに任せたほうが、いい」
クリスは頭から布団をかぶって身を隠してしまった。
「アマテラスならぬアマクリスちゃん? 鏡もうないよ?」
布団越しに体をゆすってみる。反応がない。
はあ、と未来は溜息を吐いた。
「クリスー、お顔みせてー」
媚びた声で言ってみる。やはり反応はない。
ぐずぐずと鼻をするる音が聞こえだした。
(こんなにすぐ泣く子だったかな……)
未来は首筋を掻いた。
こどもだ。まるでこどもみたいだ。いや、こどもそのものだ。これで未来より年上というのだから驚きである。年齢のわりに幼い顔だちで年齢のわりに大人びた性格の子だと、以前は思っていたものだが、今やその面影はどこにもみあたらない。それともこれが彼女の本性なのだろうか。――どうもそうらしい、と未来はことあるごとに確信を深めている。
――愛おしい。
そう感じる。
きっとクリスのほうは、その懸倍に未来のことを想い焦がれているのだろう。
未来は布団の上からクリスを抱いた。
「月がきれいね」
ためしにそんなことを言ってみる。
「へえ?」
鼻声が布団の中から聞こえてくる。クリスの首が出てきた。
クリスは窓の外をみて、
「まだ日ィ沈んでないぞ」
と言った。
「あー通じないっか……」
未来はひたいに手の付け根をあてた。
クリスはあおむけに寝なおした。
「なにが?」
「味噌汁ならわかる?」
「なにがわかるってんだ?」
「これだから帰国子女は……」
未来が呆れてみせると、クリスは鼻をすすりながらふしぎそうに、
「関係あるのかそれ」
と言った。クリスのはれぼったい顔が疑問符でいっぱいになっている。
「まあ、それなりに」
と未来はあいまいな言い方をした。
「交換日記をはじめるというのは、どうかしら」
「日記を交換? よくわからないけど、やりたいならいいぞ」
簡単に承諾してくれた。
「クリス、手を握らせて」
「いいよ」
これもあっさりゆるしてもらえた。未来はクリスの手を握った。クリスは握りかえしてこない。それを動かすのが今彼女が励んでいるリハビリテーションの内容だ。
未来はクリスの温度と肌の感触を確かめるように、お互いのあいだに今ある距離を測るように、握る手に力を込めたり、抜いたりを繰り返した。
やがてもうひとつの手を持ってきてクリスの手をつつんだ。それが未来なりの、愛情表現のひとつだった。
「まずは、お友達からはじめてみましょうか」
すでに友達である相手にそんなことを言った。
「友達、最初からやりなおすのか」
クリスの疑問を口にした。
(やっぱり通じない)
そう思いつつ、
「そうね、ちょっと仕切りなおしたいかも」
「そうしたいなら、それでいい」
「ほいほい聞き入れちゃっていいの? こっちが心配になってくる」
「駄目なのか?」
クリスはどこまでも理解できないといった表情で未来をみた。未来自身もみょうなことばかりを言っている自覚があるにはあった。だが、同時にこれはどうしてもやらずばならないことだとも強く思っていた。
「駄目じゃないわ。ありがとう、クリス」
未来はやわらかくほほえんだ。これでクリスは落ちる、とわかっていてやっているのだから、自分はつくづく悪女だと未来は思った。
涙で赤くなっていた目が、こんどは嬉しくてたまらないといった具合に、らんらんとかがやいている。
(単純だなあ)
それも含めてクリスのことが、未来には愛おしく恋しい。
未来は手を離した。自由の利かないクリスの手が名残惜しげにかすかに動いて、未来の指をかすめた。
クリスの表情をたしかめてみれば、眉宇がさびしげにしめっている。
「そろそろ帰るわね」
「時間いっぱいまでいてくれてもいいのに」
クリスが言ったので、未来は苦笑した。時間いっぱいまでいてほしい、とは、さすがに言えないらしい。
「明日も来るから」
そう言い残して、未来は病室をあとにした。
帰路を辿る。
白い丸い彩が薄紫色の空に滲んでいる。
日の沈むのとは逆の方角から、月が昇ろうとしているのだった。
あいかわらず欠けた月が、やはりあいかわらずつたない環をともなって、ゆらゆらと昇ってゆこうとしている。
地平に消えることはあっても、地上に落ちてくることのない月である。F.I.S.から離脱した武装組織「フィーネ」が、遂にその目的を達成した、これこそが証というものだった。
月を見るたびに、未来はクリスとのほんの数回ばかりの夜の逢瀬を思い出す。
クリスの要望どおりに、二〇時までの面会時間いっぱいまで病室にいれば、また一緒に月を見ることもできるだろう。だが、未来はそれをしたくなかった。そのためにどうしても月が出てくる前に帰りたかった。
それはクリスが退院してからでよいだろう。未来は自分に対してそう言い訳している。
また夜の走り込みを再開して、その時偶然、そうだ、あくまで偶然に、夜の散歩に出歩いているクリスとばたりと会えばいい。そして肩をならべて歩くのだ。
夜の逢瀬の、最初の夜のことを、未来は思い出す。
今度はいきなり駆け出してクリスを置き去りにするようなことはすまい。
夜の逢瀬の、三回目の夜のことを、未来は思い出す。
今度もまたクリスは未来の手を、おびえたような手つきで、それでもおさえきれない熱をこめて、握ってくるかもしれない。その熱がかつてクリスの手に帯びたことのない、きっとあれが恋の熱だったのだと未来は思う。クリスが未来に一歩踏み込んだ瞬間だったのだと思う。未来はあの時、手を握りかえしはしたが、心の中ではクリスの手をはねのけた。握りかえしたのはあわれみのためだ。はねのけたのはそれが響の手ではなかったためだ。――同じことはしない、と未来は腹を固めているつもりだが、実際にその時が訪れるまではなんら保証のできるものはなかった。
ただし、ふたりの関係に多少なりとも――クリスにとってはおそらく大いに――変化をもたらしたきっかけがどこにあったかと言えば、やはりあの瞬間だったろうし、だから未来は、あそこから仕切りなおそうと考えている。
手を握ってくればいいと思う。こちらのほうに踏み込んでくればいいと思う。
泣き虫で、臆病者の、愛おしき、恋しき、雪音クリス。愛すべき、いつくしむべき、少女、雪音クリス。未来は何度も心の中でその名を呼んでみた。――クリス、手を握って、私も握りかえすから。クリス、踏み込んできて、私も踏み込む。――雪音クリス! このどうしようもない女に恋い焦がれるどうしようもない少女!