モノクロム・エピソード〜さあ手を繋ごう

 いったい、自分はいつ頃から小日向未来という少女を恋い焦がれるようになったのだろうか。出会ったその瞬間から、というのはさすがに言い過ぎだろうし、あの頃そんな上等でロマンティックな感情が自分に備わっていたとも思われない。が、ずいぶんと久しぶりに出会った、純粋に好意をもてる相手だったことは、たしかに出会った瞬間からそうだった気がする。未来は混じりけのない善意のひとだった。(すくなくてもクリスにはそのように感じられたのだ)
 当時は友達と喧嘩している真っ最中だったらしい未来の、その「友達」が、そう表現するにはなにもかもが不足しているほど途方もなく巨大な存在だったことを知ったのは、もうずっとあとのことで、言いきってしまえば死んでからようやく思い知った。立花響が太陽のようなひとの生きるに抜きがたい存在であることを思い知らされた、恋したのはきっとその時なのではないかと思う。
 いや、そうではないだろう。それより以前のことだ。響が死ぬよりもっと以前に、未来と親しんでゆくうちに自然と湧かしていった感情が恋だったに違いない。その感情は、ただし、響の強烈な存在感を前にしてみすぼらしくちぢこまって、けして叶わぬ想いとしてやがて諦観のうちに封印していたものだった。それが響の死後、半ば死んだように過ごす未来の姿をみて、響への烈しい憎悪と嫉妬とともに蘇ってきたのだろう。狂おしいほどに未来の体と心がほしくなった。青臭い恋心が生臭い情念を帯びた。無意識に帯びさせまいとしていたものをやはり無意識に帯びさせたような感じだった。その情念の濃さに気づいても消す気になれなかったのは、自分のことながらちょっと意外な気持ちだった。響が死んだのをこれさいわいと、その未来にとって掛け替えのない席を襲って居座ってしまおうなど、響への裏切り以外のなにものでもないだろう。だのに、それをためらいなく超えてゆこうとする未来への強い執着というか、心の粘性があった。
 未来をどこかへ連れ去りたい。あのあたたかな手を取って自分たちのことなど誰も知らぬ世界へ逃避したい。そこでふたりで過ごしたい。そういうしようのない欲求にクリスはしばしば心を奪われた。どこかへ、どこかの世界へ、それはあえて想像するならば南米の熱帯林だった。凶暴な濃い色の緑が空を埋め尽くす、まるで太陽の存在を否定するような不気味にうす暗い場所だった。あるいは腹を空かせた怪物が侵入者を食い殺そうと大きな口を開けているようでもあった。両親の惨死の上にある幼年期の体験が残るそんな場所に、未来を連れて行きたいと思ったのである。湿った土と草の上に立たせたいと思ったのである。もしかしたら、残酷に凍り付いた記憶を陽だまりであたためたいという気持ちがはたらいたのかもしれない。なんにせよ、とうてい実現不可能なことで、だから夢想にも劣る妄想に過ぎなかった。うつくしいものを醜悪の中に立たせ、さらにうつくしくみせたい、そんな妄想だったかもしれない。
 この世でもっともうつくしいものは、それはおそらく小日向未来の笑顔だろう。最愛の人物を懸想している時の彼女のあの笑顔ほどうつくしいものを、クリスはほかに知らない。だが、この世でもっともきらめいているものは、彼女の困難に立ち向かっている時のふたつの凛々たる碧い瞳だろう。あれ以上にきらめいているものはほかにないとクリスは思う。クリスはそのどちらも見ていてかなしくなるし、胸が痛くなる。自分の横恋慕をくだらないと笑いたくなるし、またいかなる困難も退けてゆく未来の力強さと自分の貧弱さに打ちのめされる。彼女の白い肌膚を下に敷いて淫猥な行為に没頭したいなどというのは、まったく南米の熱帯林に連れて行くよりもさらに現実味のない妄想であり願望だった。
 クリスは未来に対して信仰といってよいほど、彼女の存在を清潔で神聖なものと見て決め付けていたが、反面その神聖性を自分の足もとに引き摺りろしてめちゃくちゃにしてやりたいという欲望が、ほとんどひっきりなし出現して頭を悩ませてくれた。そういう欲望が絶えない理由の、なんとなく自覚しているもののひとつは、自分自身が未来の身をどうこうしたところで、彼女の神聖性は毛の先ほども損なわれず、白い肌膚はそのかがやきを喪うことはないだろうという、いやに確信めいたものがクリスの頭の中にあったからだった。
 ところが現実というのはおそろしいもので、クリスがそれほど信仰していた小日向未来という女性の清潔と神聖は、あろうことか彼女自身によって無惨に破られたのである。足もとに引き摺り下ろしたかったものは、自らクリスの足もとに降りてきて、クリスの肌体は彼女の下に転ばされて、淫猥な行為≠ノよってめちゃくちゃにされたのだった。あの夜の未来だけは、すこしも神聖でなく清潔でなく力強くもなく、ただ愛する伴侶を喪ったあわれな女の狂気があるだけだった。朝になれば彼女は「すっかり」とは言えないまでもあらかたもとに戻っていた。凛々とした碧いふたつの瞳をあいかわらずきらめかせていた。
 未来の精神の在り方について、クリスはしばしば未来当人と強い・強くないと言い合っていたが、クリスが未来に対して弱さらしいものを感じたのは、初めて寮の部屋を訪れて胸で泣かれた時と、あの夜の一時だけである。
 結局、未来を「フィーネ」に荷担させたものが、なんだったのか、すべてが終わった今になってもクリスは知らない。訊いてもたぶん彼女は教えてくれないだろう。未来はマリアとナスターシャの率いる組織「フィーネ」に、というよりは、ウェルに荷担したと言える。ナスターシャとウェルではフロンティアを求める理由も思想も違った。ナスターシャはフロンティアに眠る技術でもって月軌道を修正し、その落下を阻止しようと考え、それを成功せしめたが、ウェルは月を落としきって、浮上させたフロンティアという箱庭世界の支配者になろうとして、失敗した。だとしたら、未来の企望もまた地に墜ちたと言えるだろうが、仮にウェルの企みが成功していたとして、滅亡した世界の上に浮かぶ新世界に、未来が求めたものとはなんであったのだろうか。「クリスを裏切るかもしれない」と言った彼女の、その後の行動のなにを指して「裏切り」と言ったのだろうか。知りたいような知りたくないような、クリスはそんな気持ちでいる。なんとなくだが、そこには立花響の存在が、もうどうしようもなく生々しく巨大な像を形成してどっかと居座っている気がしたのである。それをのぞきみる勇気を、あいにくクリスはもっていなかった。
 世界は、クリスたち数名の人間にとってのたったひとつの巨大な喪失を除いて、大多数の者たちには全部の時間が、翼とマリアの合同コンサートより以前に巻き戻ったような感じだった。二ヶ月というわずかな期間、世界中の人々を熱狂させた歌姫の名も、彼女の宣戦布告も、その中にあった月の落下による危機も、忘れられたわけではないが、もはや誰も積極的に思い出そうとしなくなっていた。

 クリスの日々におだやかな季節の風がやって来た。

 平和な風が吹き荒れている。
 渡英と卒業を目前にひかえた翼の忙しさが尋常ではない。
 復学したクリスは、邸内でも校内でもさっぱり翼の姿を見なかった。いったいどこにいるのか、弦十郎を掴まえて訊いてみてもいまいち要領を得ない。
 渡英前の最後の日本公演を東名阪の三都市でやるらしい。らしい、と、同居人で同僚なのに、その程度の情報しかクリスの耳に入ってこない。それもクラスメイトに教えてもらったことだ。
 しばらくすると弦十郎が東京公演のチケットを五枚寄越して来た。
「足りない」
 とクリスが言うと、弦十郎は意外そうな顔をした。
「きみと、未来くんと、未来くんの友達の三人で、五人だろう?」
「あたしの友達三人いる」
「ああ、なるほど」
 弦十郎は顎髭を撫でた。クリス自身の友人は勘定に入れていなかったらしい。そういえば邸に連れて来たことがない。今度誘ってみようと思った。彼女らも忙しいだろう合間を縫って、クリスの見舞いに来てくれたものだった。そのお礼もまだできていないことだ。風鳴翼のコンサートに連れて行ってやりたいと思った。
「では、もう三枚ねだってこよう」
 と弦十郎は快く言ってくれた。
「あ、オッサン」
「なんだ?」
「あともう三枚ほしい。だから、六枚」
 とクリスは言った。
 誰の分か、とは弦十郎は訊かなかった。代わりに、そちらはもう手配している、とかろやかに言った。
 登校すると正門で未来が待っている。
 短い時間を一緒に歩いて過ごす。
 弦十郎から貰ったチケットを未来に渡した。
「ありがとう」
 と言って未来はチケットの枚数を数えて、
「弓美たちも誘っていいのね」
「うん。あとあいつらも来る。たぶんだけど」
 とクリスは言った。
「そう」
 未来は花やいだ笑顔をみせた。
 つられてクリスも笑う。
 にわかに風が起こった。
「きゃ――」
 未来はかわいらしい声をあげると、チケットを持つ手でスカートをおさえた。
 風はすぐにやんだ。
 冷たい風だった。
「今朝はいちだんと冷えるな」
「そうね。でもすぐにあたたかくなるわ」
「すぐっていつくらい?」
「たしか週明け、ってテレビのニュースでやっていたと思う」
「そっか」
「傷の具合はどう? 寒さのせいで痛むとかしてない?」
「うん。べつになんともないよ」
 クリスは未来の前に左手を差し出して、掌を開いたり閉じたりした。
「平気」
「それならよかった」
 と未来が言った時、下駄箱に到着した。
「じゃあ、お昼に、いつものところでね。授業中に居眠りしないようにね」
「最後の、余計だろ」
 クリスはかるく抗議を入れたが、未来はひらりとかわして自分の上履きを取りにいった。

 翼が最初の公演先である名古屋入りする前に、二課のおもだった者たちで響の墓参りに行くことになった。そのために皆でノイズの犠牲者を弔った共同墓地に赴いた。
 雲はすくなく、日射しがきつかった。
 墓の前に到着した。
 未来が「ルナ・アタック」のおりに置いた写真立てがそのままにされている。あほづらとしか表現のしようのない響の遺影に、クリスは内心で微苦笑した。
 手をあわせたあと、帰るまでいくらかの自由時間ができた。
 未来はクリスの手を引いて、墓地を離れて機密のために一時死んだことになっていた響たちと再会した道に行きたいと言った。クリスはうなずいた。
 くるまもひとも通らない道をふたりは歩いた。
 会話はすこしもなかったが、クリスは苦痛を感じなかった。
 そうやって歩きつづけたが、未来が足をとめたので、クリスも足をとめた。
「どうした?」
「あれ――」
 未来はまぶしげに目をほそめながら、右腕を東の空に向けてまっすぐに伸ばし、太陽を指さした。
 クリスは指先に視線を向けた。雲のない太陽を直視することはできない。ひたいに手を翳して、それよりすこし下のほうを見た。
「あれって?」
「太陽があるでしょう」
「うん」
 未来の言っていることの意図がつかみきれないクリスは、ひたいの手の角度をかえて、一瞬だけ太陽をみた。日射しが目を刺す。クリスは目をつむった。
「日暈はないな」
 とクリスは言った。
「雲かかってないじゃない」
 日暈など発生しようがない。未来は呆れた。腕をおろして、クリスのほうに向きなおる。
「そうだな」
 と言って、クリスはひたいから手を離して、視線を未来の顔のあたりに付けた。
「それが、なんだっていうんだ」
「ちゃんと見た?」
「ちゃんとは見てない。……って、あんなもんまともに見られるわけないだろ、まぶしすぎる。へんなこと言うなあ」
 クリスが正直なことを言うと、未来はちょっと怒ったように口をとがらせた。
「え、あれ、なんか、まずいこと言ったか?」
 クリスは慌てた。未来の機嫌をそこねるようなことを言ったつもりはなかった。しかし未来はたしかに怒っているようだった。
「あのね、クリス」
 未来は苦しげに息を吐いた。
 呼びかけておいて未来はその後無言になった。うつむき、下唇を噛んでいる。
 クリスは心配になって未来の肩に手を置き、だいじょうぶか、と声をかけた。返事代わりでもないだろうが、未来はその手首をつかんだ。
「クリス、……」
「どうしたんだ。どっか調子わるいのか? 陰で休むか?」
 未来は首を横に振った。
「月は欠けても月なように、満月が欠けても満月なように、太陽は死んでも太陽なの。私たちはそう名づけたものをそう呼ばなくちゃいけない」
 クリスの体がびくりとはねた。とっさに逃げようとしたが未来に手首をつかまれていて、うごけない。首筋に汗が滲む。未来はクリスの胸の内のなにを知っているのだろうか。未来の本意をクリスはさがしあぐねた。気づかずに両手が拳を握っている。
 ――わからない。
 なんの話だ、お前はなにを言いたいんだ、なにを言っているんだ、その言葉が次々に喉で鳴っては消えた。口から吐き出せない。そうしてやっと吐き出した自身の言葉を、クリスは信じられなかった。
「むり、だ」
 とクリスは言った。汗がとまらない。なんのために発せられた汗なのかクリスにはわからなかった。
 未来はクリスの手首を離し、クリスの背に両腕をまわして、手に鉤をつくって抱き締めた。
「クリス、私のことを、ちゃんと見て。こんなにくっついて、ねえ、クリスと私のあいだになにがあるの? なにもないでしょう? それならクリスは、まっすぐに私のことを見られるはずよ。なんにも遮られてないんだから――」
 まくしたてるように言うと、未来はクリスの肩に顔を埋めて、あとはしずかに涙を流して泣いた。
 そこまで言われるとクリスは思考の逃げ場をうしなった。未来がなにを言っているのか理解しなければならなかった。月が欠けても月であるように、満月が欠けても満月であるように、そしてまた太陽が死んでも太陽であるように――そのつづきをクリスは認めなければならなかった。そう名づけたものはそう呼ばなければならない。死と名づけたものを死と呼ばなければならない。立花響の死がただ立花響の死でしかないように、太陽は死んでも東の空から昇りつづける太陽でしかない、そのことを認めなければならなかった。その死を太陽に仮託して、ながらく未来と自分とのあいだに横たわらせていた「立花響」の頑なな生命の影を、みがってな妄想を、クリスは今度こそ完全に消し去ってしまわなければならなかった。
 クリスは固く握られた拳を懸命に開こうとした。なかなかそれがうまくゆかず、悪戦苦闘した。この期におよんでいくじのない自分に腹が立ってきた。潔く生きろ! とクリスは自分の心に叱った。ようやくにして拳をひらいた。その瞬間に、クリスは自分の中の拘泥を潔く棄てた。同時に、未来の両手も解かれた。
 未来はクリスから離れ、一歩二歩とうしろにさがって距離をつくった。
 クリスはほっと息を吐いた。未来が機嫌のよさそうに笑っていたからである。感受性の強い少女なのだろうか、あるいは細微にまできくばりのできる性分なのだろうか、クリスが拘泥を棄てたことをすでに察しているようだった。
「やっぱり強いんじゃあないか、お前」
「またその話? 好きよね、クリスも」
 強くなんかない、とは言い返されなかった。
「そりゃあ、そこに惚れちまったんだから仕方がない」
 クリスはいなおった。
「じゃあ、お友達からはじめましょう」
 未来はいつか言ったことと同じことをここでも言った。
「それさ、意味調べてみたけど、お前、本当にひどいな。味噌汁だとか月がきれいだとか、……部屋に誰もいないのにめちゃくちゃ恥ずかしかったぞ」
 言いながら、クリスは未来のつくった距離の分だけ歩を進めた。一歩二歩と未来に近づいた。
 未来は身をひるがえした。
 ふたりは同じ方向に肩を並べて立つことになった。
「オッサンのところに戻ろう」
 クリスは言った。
「うん」
 と未来は答えた。
 クリスは未来の手を握った。自分でも驚くほど素直にその手を握れた。未来も握りかえしてきた。
「友達ってこんな感じでいいのか? いまさらだけど」
「さあ、まあ、いいんじゃない」
 未来はてきとうなことを言った。
「あたしはお前が初めてなんだからさ、そっちがそんな調子じゃあ、なにを基準にしていいのかわからなくなる」
「ひとが聞いたら誤解されそうなこと言わない!」
 未来は怒って荒っぽく手を離した。
「あ、――」
 クリスの手が名残惜しげに空をつかんだ。
「お前の怒る基準わかんねえ」
 クリスは困惑するしかない。
 未来はクリスを放置してひとりでずんずんと歩きはじめた。クリスもあとを追う。
 歩いているうちにクリスは気分をあらためた。
「なあなあ、喧嘩ってこういうのか? あたしら、もしかして今、喧嘩してる?」
 とクリスはうかれた声で言った。
「なんで嬉しそうなの」
「いやあ、もう、だって、さ、なあ?」
 クリスは笑ってごまかした。つまらない諍いではなくしょうもない喧嘩だ。嬉しいに決まっているし楽しいに決まっている。これを楽しまないで人生のなにを楽しめというのだ。
 未来の横に並んだクリスは、ふたたびその手を握った。未来はあいかわらず怒っているようだったが、すぐに握りかえしてきた。
 そのうちはやる気分をおさえきれなくなって、クリスは半ば駆け出した。
「ちょっと、クリス――」
 強引に走らされることになった未来は、クリスを呼びとめて歩かせようとした。
 クリスはかまわない。
 未来の手を握ったまま、湧き水のように溢れる幸福感を笑声で飛ばして、ひたすら走る、走る――
 お幸せに!
 どこかから、そんな陽気な声がした。

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