前略、立花響(ホントウノバカ)

 笑顔のうつくしい女性だとクリスは思う。
 憎たらしいことにクリスがいちばん好きな未来の笑顔というのは、響のことを想っている時のものなのだ。
 まったく憎たらしいと言ったらない。
 未来はクリスに対しても笑顔を向けてくれる。
 花のようなうつくしい笑顔だ。
 未来は意識しているわけではないだろうが、その微笑みのはなつ光彩は残念ながら響に向けるそれに劣る、とクリスは感じている。
 この醜い嫉妬心をどうしてくれようか。ただし愛する女性のうちのもっともうつくしい表情を引きだしてくれる響に、クリスはまた反面感謝もしているのだ。うつくしいものは、やはりうつくしいから。

 昼休みも終わろうかという時分に、青い芝の上でひとり変なダンスをしている響を見つけた。見物人がちらほらといるが恥ずかしくないのだろうか。
 響や弦十郎がやっている拳をもう片方の手で包む、あの形は、
 明
 という漢字をあらわしていると聞いた。なんでそんな動作をへんてこダンスの最後にするのかはクリスは知らない。興味がないから聞かなかった。明の字はかってに響が話したことだ。
 ひゅーと息を吐きだした響に近づくと、
「バーカ、バーカ。すっとこバーカ」
 とその頭を小突いた。
「あ、クリスちゃん。……いいかげんで名前呼んでよう」
 頭部をさすりながら、響はちょっと笑いながら言った。彼女の笑顔もクリスはそれなりに好きである。惚れ惚れとするようなものではないが、なんとなく、心がすっきりとする。
「お前があたしのこと先輩って呼んだら、考えてやる」
「えー。クリスちゃんがせんぱいー?」
 響は鼻で笑った。クリスを見下ろしながら。
「おい」
「未来は呼び捨てなのに……」
 響の不満はそこにある。
「あいつはいいんだよ」
「ひいきだ。差別だ。クリスちゃん未来にばっかり優しくて私に冷たいー」
 そりゃそうだ、とクリスは思った。もちろん口にはしない。
 それにしても身振り手振りの大きなやつだなとクリスは思う。喋るごとにいちいち動く。頭のてっぺんのピョンと伸びた二つの短いくせ毛がゆらゆらと揺れて、それがむしょうにおかしい。見るたびにクリスは笑いたくなる。そしてそれをがまんする。だからクリスを笑わせようとするその頭のてっぺんをはたきたくなる。実際にそうしようと手をあげたところで、予鈴が鳴った。あと五分で午後の授業が始まる。
 クリスは手をさげた。
「ふん」
 クリスは大げさにおびえてみせる響に背を向けて歩き出した。
「クリスちゃーん」
 響がついてくる。――というわけでもない。校舎に入らないことには教室にも入れないのだから、途中まで同じ進路を辿るほかないのだ。
「ついてくんなよ」
「いやだって、私もこっちの方向に用があるから。用って言うか授業」
「お前ってさー」
 歩きながらクリスは言った。
「んー、なあに」
「本当にバカだよな」
「………」
 響は口の中でごにょごにょとなにごとか言っているようだが、当たり前でクリスには聞こえない。
「あ、そういえばさ」
 響は突然思い出したように言った。
「なんだ」
「スクリューボールってなに」
 三ヶ月前の話を持ち出されてクリスはあっけにとられてしまった。スクリューボール、はクリスによる響評だ。とんだスクリューボールだ、たしかにそう言ったことがある。それは要するに奇人変人、変化球ヤロウというつもりで言ったわけだが、クリスはそうは説明せず、
「野球のな、ななめに沈む変化球のことだ」
「沈む……」
 響はむずかしそうに眉をひそめて、顎に指を当ててなにやら考えはじめた。
「私、落ち込んでたの」
「さあな」
「しかもナナメに」
「どうだか」
「まじめに答えてよう」
「いいぞ。まじめに答えてやる」
 クリスは足をとめた。
 びくっとして響も立ちどまった。
 クリスが真剣なまなざしを響に向けると、響もまたそれに応えて真剣なまなざしを、やはりクリスにまっすぐに向けた。
(いいやつだ。本当にこいつは)
 クリスは心の中でだけ笑った。
「お前さ、いや、お前は……」
 言いかけてクリスは、
「いや、やっぱやめだ。こんなとこで話すことじゃねえや」
「ええッ!?」
「まじめな話だろ。学校で歩きながらすることじゃねえ」
 クリスがそう言うと、響は納得したようなしないような顔つきでウウンと口をとがらせた。
「じゃあな」
 追及を嫌うように、クリスは小走りに廊下を走って響から離れていった。


 響、とクリスは心の中でその名を呼んでみた。
 なあ響、と心の中で問いかけた。
 響、お前はあの時、ひとりで月の欠片を破壊しに行こうとしたな。
 響、お前はあの時、生きて帰る算段はちゃんとあったのか。後を追ったあたしにはなかった。
 響、お前はそれで、あの子をどうするつもりだったんだ。
 響、お前は生きるのを諦めるなとあの子に言っておいて、自分はどうだったんだ。
 響、あたしはお前が死ぬつもりで宇宙に行ったんじゃないってわかってるけど、なにがなんでも生きて帰る気があったわけでもないんだろう?
 それから、響、お前はどうして。
 お前はどうして、フィーネを助けてくれたんだ。
 ありがとう、って言ってもいいのかな。あいつすげえ悪いことばっかりしたけどさ。感謝してもいいのかな。
 響、なあ、響。
 フィーネもあの子も、あたしの知るかぎりだとお前と話してる時がいちばん、とびきりいちばん綺麗な笑顔になるんだ。あれはなんでなんだ。風鳴センパイも、どうやらそうなんだよ。
 なあ響。それでお前と話してる時のあたしの笑顔って、周りから見てどんなんだろうな。
 いのいちばんな笑顔をやっぱり作ってるのかな。
 響、響。お前がフィーネを救ってくれて、お前がフィーネを笑顔にしてくれて、だからあたしたちは、あの月の欠片の爆発から生き残れたんだよな。フィーネがお前の胸に託した力のおかげで。胸に託す気にさせたお前のおかげで。
 響。だからお前はあたしたちと一緒にこの素晴らしい世界に帰ってきて、あの子は泣きながら、でも笑って、あたしたちの、お前の帰りを喜んでくれたんだよな。
 あの時のあの子の笑顔が、あたしは一等に好きなんだ。きっとあの時惚れたんだな。あの子に、小日向未来に。
 そうだよ、よりにもよって、お前の生還を喜んでむせび泣いて、お前に抱きついてる、でも笑っている、あの子に惚れてしまったんだ。
 響、なあ、響よ。まったく、こいつはどうすりゃいいんだ。
 どうしようもないじゃないか。
 最初から勝ち目なんてないじゃないか。いや、勝負にすらならないぞ、これは。
 なあ、響。
 なにがなんでも生き残ろうとしてくれてありがとう。死んでたまるかってがむしゃらに生きてくれてありがとう。
 あたしは奏という人のことはよく知らないけれど、多分その人にもありがとうって言ったほうがいいんだろうな。
 大好きなあの子が、陽だまりみたいにあたたかくてやさしい笑顔でいてくれるから。
 あたしはその笑顔を見て、嬉しい気持ちになれるから。

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