痛みと絆

 ――蛇だ。
 と思った。
 それがクリスのいだいた、フィーネへの最初の印象だった。
 その蛇というのはフィーネの鋭い目について感じていたのだが、あとあとになって、蛇のような性格の女という意味も追加された。
 日本政府にいったんは保護されたクリスを拉致したこの女の人品は、はっきりいって褒められたものではないが、それでも両親を殺したゲリラの連中よりも、残念なことにはるかにマシな女でもあった。
 フィーネにはクリスへの愛情など欠片もないが、平生ほとんどの時間をクリスに対して無関心でいるので、気が楽と言えばそう言えなくもなかった。
 高台のだだっ広い邸宅で、クリスとフィーネは毎食一緒に食事をとる。風呂と寝床は別々だ。
 たまたま人肌恋しくなったクリスは、夜間フィーネの寝室に忍び込み、ベッドの中に潜り込んだことがある。そのまま朝まで寝入っていたが、フィーネが起きた時、べつだんなにも言われなかった。
 その程度にフィーネはクリスに無関心だった。そのようにクリスの目には映った。
 だから、最初の頃はどうしてこの女が自分を拉致したのかさっぱりわからなかった。
 目的のわからないまま一年近くが経過した頃、赤いペンダントを手渡された。まさかプレゼントというわけではないだろうに、
「これはなに?」
 ふしぎに思ったクリスはおそるおそる訊ねた。
「歌いなさい」
 とフィーネはそっけなく言った。
「なにを――」
「なんでも、知っている歌を歌いなさい」
 逆らうことをゆるさないという強い口調だった。クリスはおとなしくそれに従って、母親に教えてもらった歌を歌った。
 クリスが起動させた二つの聖遺物のうちの第一番がそれだった。
 イチイバルである。
 弓神・ウルの聖遺物の欠片はあっさりとクリスの歌に応えた。フィーネはすこしも嬉しそうな顔を見せないで、すぐにイチイバルをクリスから取り上げた。
 わずかな時間にだけ、露出の多い、いやに鉄っぽいものに変貌したクリスの衣服は、それですぐに元に戻った。
 二つ目のソロモンは中々起動してくれなかった。
 クリスは何度もフィーネに歌わされた。半年かかってようやくソロモンは起動したが、そのあいだフィーネは表情ひとつろくに変えずに、ただ黙ってクリスに歌わせては、聖遺物を取り上げる、ということを繰り返した。
 失敗しても一言も怒られなかったのが、クリスにはむやみやたらにさびしかった。そういう日の夜にまたフィーネのベッドに潜り込んで眠ったが、フィーネはやはりなにも言わなかった。
 歌わされている、という以外、なにをさせられているのか、クリスにはわからない。
 歌わせるためにクリスを拉致したのだということは、なんとなく理解させられた。
 会話の少ない生活だったが、クリスにとって久方ぶりの平和な生活でもあった。もっともフィーネに拉致されなければ、「聖遺物」などという耳なれぬものと関わることもなく、日本政府の保護の元に平穏で普通の生活をおくれていたのだろう。まさかシンフォギア装者候補として名が挙がっているなどとは知らないクリスは、時々そういう本来あるはずだったフィーネの存在を知らない生活を夢想していた。
 会話のないことに苦痛はなかったが、どうしようもない寂寥に襲われることがあった。それはたいていの場合において夜に発生して、そのたびにクリスはフィーネの寝所に足を向かわせた。
 満月の夜だった。
 外は明るい夜の空だった。
 フィーネの金色の目が、その時初めて、赤く燃えているようにクリスの目に見えた。それは人間への憎悪と失望の目だとクリスは思った。ゲリラの連中の目もそのような目をしていたのだ。
 ベッドに潜り込んでフィーネに体を密着させた時、クリスは冷たい感触をほおに感じた。なんだろうと思っていると、それはフィーネの長い指だった。クリスのほおを撫でていたのだ。やがてその指はクリスの髪に触れ、今度はこの方を撫ではじめた。
 クリスは、うれしいような、はずかしいような、そんな気持ちになった。
 が、それらはすぐにかき消された。
 フィーネはふたりの体を覆うシーツを床に放り投げた。クリスの体を仰向けにして、足をひらかせ、自分の体を押し込んだ。
 瞬間、クリスは状況を半ば理解し、半ば信じられなかった。
 フィーネにキスされたのだ。
 ただのキスではない。強引に唇をひらかせて舌をねじこみ、そうやってクリスの口の中を犯した。
 クリスの幼い小さな体はすでにいやというほど男を知っている。
 フィーネはまさに、その男と同じことをしようとしているのだとわかった。それが信じられなかった。フィーネは女だ。同じことができるはずがない、とクリスは混乱する頭からそう考えた。そうであってほしいと思った。口の中くらいなら、舌くらいならいくらだってくれてやろう。それで終わってほしいと思った。またそれ以上のことができようはずないと信じたかった。
 だが、そうはならなかった。
 フィーネはそのままクリスの体を玩弄した。小さな体に反して大きな乳房を鷲掴みにして握り潰すように揉んだ。股間の中央にある襞の多い真っ赤なそこを指や舌で犯した。
 クリスの頭にはそれがどういう行為なのか理解できなかった。なんの意味があるのかわからなかった。
 理解できてもできなくても、フィーネの行為はフィーネの気分が満足するまで終わらないことは確かだった。
 クリスは泣き喚いた。その涙の溢れる目には、フィーネの目が、真っ赤に見えたのだった。
 その夜以来、クリスの寝室のほうにフィーネがしばしば足を運ぶようになり、クリスを犯した。クリスの平和はそのために破られた。そしてフィーネは、あいかわらず無口のまま、クリスの体を気侭になぶりつづけた。
 ――勘違いするな。
 無言のフィーネはそう言っているような気がした。
 それならこれはクリスへの罰だろうし、あるいは躾であるとも言える。だが、回数が尋常ではない。疑似親子のような関係を求めるのはお門違いだと教えたいのなら、もう充分にクリスの身に染みている。それが伝わっていないと思えない。
 それなら、なぜフィーネはこんなことをつづけるのか。やめないのか。泣きながら考え、考えながら泣いたが、正解らしき答えは一向にクリスの頭には出現しなかった。
 ある夜、最初と同じ満月の夜に、フィーネはようやく一言呟きらしいものをもらした。
「痛みだけが、人の心を繋いで絆と結ぶ」
 それがクリスに対して発せられたものなのか、ただの独り言なのかはわからなかったが、疲れきったクリスの耳にしかと届いた。
「痛いのがそうなの? じゃあ、これがそれなの?」
 クリスはつい聞き返してしまった。怒られると思った瞬間、クリスの青ざめた肌膚からさらに色が失せた。
「そんなものは自分で決めなさい」
 フィーネはそれだけを言って、シーツをかぶって眠ってしまった。
「そんな……」
 無責任な、と言いそうになった口をクリスはあわてて両手でふさいだ。
 ちらりと横目でフィーネを見る。
(痛みだけが、人の心を繋いで絆と結ぶ)
 クリスは頭の中でその言葉を反芻した。
 フィーネとの性交が、一欠片の愛情も通わせないふたりの絆を結ぶ行為なのか。フィーネがそのつもりで、それをおこなっているのか。
 クリスは考えつづけたが、結局わかる日が来ることはなかった。
 科学者・櫻井了子としてのフィーネがその最期を迎えた時、クリスは彼女のために泣いた。そしておそらく、自分のためにも流した涙に違いなかった。
 櫻井了子という女が何者であるのか、クリスは知らない。周りの人間がその女性の死を哀しんでいる中で、ひとりクリスは違う女の死を哀しんだ。
 フィーネはクリスのことを愛していたのか。クリスと絆を結ぼうとしていたのか。
 その痛みを受け入れたクリス自身はフィーネのことを愛していたのだろうか。
 蛇のような女との二年におよぶ奇妙な共同生活の中にあった、正体の不明な、それを絆と呼ぶとすれば、その絆がなにものであったのか――。
 クリスは今も、わからないままでいる。

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