「師匠と山籠もりに行ってくる!」
親指を立てて元気よくそう言うと、同居人は風のように寮から姿を消した。
大晦日まであと数日という時分だった。どうやら弦十郎と共に冬山で年を越すつもりらしい。
気でも触れたんじゃないかと未来は一瞬思ったが言わなかった。そのいとまさえ与えられず、響はあわただしく出発していった。
未来は盛大に溜息を吐いた。リディアンでの最初の大晦日と正月をひとりで過ごせというのか。響にそんなつもりはなかったかもしれないが、そういうことになってしまった。
――仕方ない。
未来は携帯電話を手に、ひとつ連絡を入れた。
昼過ぎにクリスの訪問があった。
「いらっしゃい。言ってたもの、ちゃんと持ってきたみたいね」
未来はクリスが手に提げているかばんを見て言った。
「あ、ああ。……」
クリスの返事はぎこちない。
「どうぞ、あがって。響はいないけど」
「知ってる」
そりゃそうか。響は弦十郎と一緒に山に登ったのだから、弦十郎の家に居候しているクリスの知らないわけがない。
「い、いいのか。寮生でもないのに、かってに泊まりこんだりして」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
未来は無根拠に言い切って、クリスの荷物を引ったくった。
「あ――」
まぬけな声をあげるクリスの背をたたいて催促する。
「さあ、あがって、あがって。どうせ、クリスもひとりなんでしょ。ひとりぼっち同士仲良くしましょ」
「そうだけど……、ううん、いいのかなあ」
ぶつくさと言いながらもクリスはくつをぬいで、玄関をあがった。
「お昼はまだよね?」
「うん」
「じゃあなにか作るから、こたつで待ってて」
「わかった」
クリスはそのまま部屋の奥に入っていった。
そわそわして落ち着かないようすが、空気をつたってキッチンまでとどいてくる。
なにもそこまで緊張しなくてもいいのに、と未来は苦笑した。
いちおう隠している気でいるらしいクリスの恋慕を、未来はもう知っている。だからなにかに文句を言ったとしても、まあこちらの頼みごとを断わったりはしないだろうと思って誘ったのだ。案の定そうなった。
酷いことをしているという自覚はある。あるが、それをやめる気には、ふしぎに全然なれなかった。
未来は時々、もういっそのことクリスのそのちいさな体に全身をあずけてしまいたい感情に強烈に襲われることがある。きっと彼女は戸惑いながらも未来を抱き締めて、愛してくれることだろう。どんな手で、どんな言葉で、未来を愛するか、それもはっきりと想像できる。
クリスの情愛のわかりやすさに反した、響のわかりづらさはどうしたことだろう。
最も付き合いが長く、最も深い関係を構築しているはずの人間の、自分に対して抱く感情の正体をさぐろうとすると、とたんに濃い霧がかかったいみたいに、そのいどころがつかめなくなる。
この欲望をぶつけてもかまわないのかどうかわからない。むこうがこちらの情欲に気づいているのかどうか、それさえわからない。平生は手に取るようにわかる響の感情が、こういう時ばかりはまるっきり不確かなものになってしまう。
……などと考えごとをしていたら指を切った。
水ですこし冷やしてから、ばんそうこうを貼って、調理をつづけた。
「おまちどうさま」
テーブルの上に皿を並べる。
「あ、ありがとう」
まだ緊張が解けないらしい。かちんこちんになっているのがよくわかる。
「チャーハン?」
クリスは皿を見下ろしてから、すんと鼻を鳴らした。
「うん、カニチャーハン。って言ってもカニカマだけど」
と言って未来もこたつに入った。
「あの、さ」
れんげを手にしたクリスは、言いづらそうにきりだした。
「なに」
「いや、あの、いただきます」
「ん? うん」
クリスは一口目にやたらと時間をかけて咀嚼してから、ようやく嚥下の音を立てた。
「お味はどう?」
「おいしい……です」
なぜ語尾にですをつけるのか。未来はまた溜息を吐いた。
「いや、違うぞ。お世辞じゃないぞ。ホントにおいしいから」
溜息の意味を誤解されてしまったようだった。
「お世辞だなんて思ってないわ。ただ、もうちょっとリラックスしてくれるといいなって」
「リラ、ックス?」
また固まった。駄目だこれは。れんげを落としそうな気がしたので未来はそれをとりあげて、テーブルに置いた。
「とりあえず深呼吸でもしよっか?」
未来は提案した。
「気ぃ遣わせちゃってごめん」
クリスの肩がちぢこまった。
「いきなり家に誘ったのはこっちなんだから、謝るなら私のほうよ」
未来がそう言うとクリスはますます身をちぢこませた。
「ほら、深呼吸、深呼吸」
と言って未来は自分で深呼吸してみせた。クリスはぜえはあと荒い息を吐き出した。一向に体のほぐれるきざしさえみえない。
人間、恋をするとこんなになってしまうものだろうか。だとすれば、自分はべつに響に恋心を抱いているわけではないのかもしれない。クリスの姿をみていると、未来はそんな気がしてきた。
「あのね、正直なこと話しちゃうと、響がいなくてさびしいから、代わりに呼んだのよ、クリスのこと」
言っててすこし、むなしくなった。
「あたしもひとりだったし、ちょうどよかったよ」
そうよね、ひとりぼっちのところを好きな女の子と過ごせるなんて、とんだ僥倖よね。未来はいじわるなことを思いながら、言葉を繋いだ。
「だから、もしクリスがかまわないなら、いつも響がやってること、やってほしいんだけど……」
「あいつが、いつも、やってること? えっ、なにを?」
「一緒にお風呂入ったり」
「お風呂!?」
「あと一緒に寝たり」
「寝るのか!?」
「うん、寝るのよ」
「二段ベッドなんだろ!?」
「下は荷物置き場につかってるから」
「そ、そこでいい。そこで寝るから、あたし」
狼狽ぶりが酷い。顔が青ざめたり赤らんだりといそがしい。そのうち心臓が停まってしまうんじゃないかと未来はいらぬ心配をした。
「お客さんにそんな寝床を提供できるわけないでしょ」
未来が呆れて言うと、
「あたしはべつに、そこらへんの床の上でも土の上でも、全然、だいじょうぶだから。全然、寝られるし、平気」
とクリスはしどろもどろに言う。聞き流しがたい言葉がまざっていたが、未来は聞き流した。土の上どころか、ゴミの上で死体と寄り添って眠ったことさえクリスにはある。そういう過去をまんざら知らないわけでもない未来である。
「じゃあせめて、肩の力抜いてごはん食べてほしいな」
未来はおもいきり妥協した。もともと全部こちらの我儘であり、クリスを無視して押し通そうとしたことにむりがある。
「うん、うん」
クリスは力いっぱいの声で答えて、ふたたびれんげを手にした。
(あれ?)
未来はいぶかしげにクリスの顔をのぞきみた。
なんとなくだが元気がないようにみえる。がっかり、というべきか、しょんぼり、というべきか、とにかく気持ちのしぼんだような眉をつくっている。もしかして未来がひきさがったことが、クリスには残念だったのだろうか。
(いや、まさか)
そう思いつつ、未来はクリスに訊いた。
「一緒にお風呂入る?」
「は、へ?」
顔が赤い。そしてゆるんでいる。
――めんどくさい。
未来は痛感した。なにがめんどうかと言えばクリス自身のことではない、恋愛感情といった種類の感情そのものをである。
ただでさえ響には振り回されっぱなしなのに、この上こんなふうに相手の言動にいちいち一喜一憂していたのでは、とうてい身がもたない。ましてや、クリスとは違って、未来は響と共に起居しているのだ。そこにクリスと同じ状態に陥りでもしたら、疲れるなんてものではないだろう。
やはり自分は響に恋しているわけではない、と未来は確信に近いことを思った。
ぐだぐだとやっているうちにすっかり冷えたチャーハンを腹に詰めて、テレビを見ながらたあいもない世間話をして、ノートパソコンを立ち上げてネットのニュースサイトを巡回して、またくだらないことを話して、そうやって喋り詰めに喋っていると、そのうちにクリスの声に眠気がまざりはじめた。こくりこくりと首がゆれる。
「眠いなら寝ちゃっていいよ。夕飯まではまだ時間あるし。クッション持ってくるね」
「うーん、だいじょうぶ……」
言いながらクリスの頭はいまにもテーブルに激突しそうだった。
クッションを持ってきて床に敷き、そこにクリスの体を寝かしつけた。こたつカバーを引っ張って肩までかけてやる。
またひとりになってしまった。
未来はたいくつを覚えた。
もうほとんど片付けてしまった課題の残りでもやりきってしまおうと考え、すぐにその考えを消した。
クリスの寝息が聞こえる。
未来はこたつの中にもぐりこみ、そのまま体をずるずると進ませて、クリスの眠っている面のほうに顔を出した。
目の前にクリスの寝顔がある。体を横に――結果的には未来のほうに――向けて気持ちよさそうに眠っている。昼食中のがちがちの緊張感からはすっかり解放されている姿があった。
まつげが長い、と未来はそんなしようもないことを思った。
「あ、よだれ」
未来はちいさく噴き出した。
唇の端のそれはクリスのほおをつたってほどなく、床に落ちた。
未来はクリスの鼻をつまんだ。
クリスの眉がすこし寄った。
「私のどこを好きになったの? ねえ、クリスちゃーん、聞いてる?」
と未来は言ったが、クリスからはなんの反応もない。ぐっすり眠っているようだ。
クリスの鼻を離した未来は、さらに体を近づけて、ぴたりと密着させた。背中に腕を回して抱きついてみる。
この子は夜どうなるのだろうか。
ちゃんと眠れるのだろうか。
未来は肘をたてて、手の上に顎を乗せた。
意味もなくクリスの背中をとんとんとやんわりたたく。
――寒い。
急に室内が冷えてきたと未来は思った。
未来は肘をたたみ、両手をこたつの中にしまいこんだ。
同じくしまいこまれたクリスの手をさがして握った。
ぬくもりが未来の手につたわってきた。
未来はクリスの長いまつげと、よく通った鼻筋と、それから少々かさついている唇をじっと見つめた。
(それにしても……)
未来はクリスを見て思う。よくもここまでうつくしい「もののかたち」がこの世に存在しているものだ。そういう、かなりおおげさな感想を未来は本気で湧かせた。お人形さんみたい、なんて形容が全然ものたりなく、あるいは失礼になってしまうのではないかというくらい、未来にとってクリスはこの世ならないうつくしさを所有していた。
「惚れちゃおうかな」
その気もないのに呟く。が、見惚れているのは事実である。
そうやって日の沈むまで、飽くことなく未来はクリスを見つめつづけた。
クリスの寝顔に視線を固定している未来は、窓の外で雪が降りはじめていることに気づかなかった。
了