今日はなんだか

 風鳴翼の朝は早い。
 どのくらい早いかと言えば未明に起きる程度には早い。
 なぜそんなに早いのかと言えば飼っている鶏が未明に鳴くからである。
 風鳴一家は代々せっかちな鶏を飼っている。せっかちな鶏がせっかちな雛を産み、来る日も来る日も日の出前に朝を告げるのである。
 だから風鳴翼の朝は早いのである。
 もちろん叔父の風鳴弦十郎の朝も早い。
 居候の雪音クリスはまだ寝ている。
 ふたりはクリスを放置して、まだ暗い道路に飛び出て走り込みを開始する。
 どのくらい走り込みをするのかと言えばだいたい四時間くらいである。
 帰る頃には空はすっかり朝の情景を満面に浮かべている。
 軽くシャワーを浴びて汗を落としたあとは、朝食の用意をして、新聞を読んだりテレビをつけてニュースを見たりする。まったりと静かに朝を過ごす。それから着替え。それぞれの出立の準備をする。ふたりは七時一〇分をすこし過ぎた頃に家を出て、やはりそれぞれの戦場へと赴く。
 雪音クリスの朝は遅い。
 どのくらい遅いのかと言えば朝のHRの二〇分前に起きる程度には遅い。
 HRは八時二〇分からなので彼女はだいたい八時前後に目を覚ます。
 それから寝ぼけまなこをこすりながら、ふらふらと洗面所に向かう。歯を磨いて、台所のテイブルに置かれた朝食をとり、着替える。髪はめんどうだからそのまま。いや髪飾りをふたつ通す。しかし整えない。
 雪音クリスは入学の三日目には置き勉を覚えた。そして昼食は購買で買う。いつものあんパンと牛乳だ。
 だから雪音クリスは、おおむねカラッポの学生鞄を片手に、のんきに家を出る。
 そんな調子でも間に合うのだからなんら問題はないのだ。しいて問題にするところがあるとしたら、彼女の就寝時間がいたってよいこな二十一時だということくらいだろう。
 普通教科はいつも半分眠っている。音楽教科の時間になると元気になる。
 昼食は以前はお気に入りの場所でひとりでとっていたが、友人に見つかってしまった今は数人に囲まれながらとっている。購買で買ったのはあんパンと牛乳だけなのに、なぜかいつもおにぎりやらたまごやきやらたこさんウインナーまで食べてしまっている。それが餌付であることを彼女は知らない。
 帰る時はひとりだったりふたりだったりそれ以上だったりする。
 今日は翼とふたりで帰る。
 立花響がいないとろくに会話が発生しないことに最近気づいた。
 すぐに家に着くから気にしないことにした。
 弦十郎が参加すれば会話は発生する。
 夕食は弦十郎が作る。翼も手伝う。クリスは手伝わない。
 制服のままこたつにもぐりこんでぬくぬくしながらテレビを見る。
 夕方はニュースばかりでつまらない。
 早く七時になってほしいとクリスは祈る。
 祈っていると時間の経過がやたらに遅くなることに最近気づいたが、気にしないことにした。
 良いにおいが居間にまでとどいてくると、クリスはそわそわする。
 そわそわの理由はよくわからないが、そわそわしてもすぐさま人体に影響を及ぼすものではないので、クリスは無視することにした。
 そわそわしながらごはんの到着を待つ。
 風鳴家の夕食は和食が圧倒的に多い。
 クリスにはほとんど未体験の食事風景だった。波瀾万丈の人生の中で「和」に触れる機会はそれほどなかった。
 今日は肉じゃがだな、と見当をつける。
 ちょうどその頃に翼がやって来て、服を着替えろとうるさく言う。しぶしぶ着替えて制服を畳にほったらかしにしていると、またしても翼がうるさく言う。しぶしぶ自室に運んでハンガーにかけた。自室の床に放り投げたいのはやまやまだが、翼に見張られているのでそれはできない。こんなことを学校のある日は毎日やっている。飽きないやつだクリスは呆れているが、懲りないやつだと翼は呆れていることだろう。
 居間に戻ると弦十郎が皿やら箸やらを運んでいる最中だった。翼が手伝う。クリスはこたつに復帰する。
 夕食の用意が整ったら手を合わせて、いただきます。
 テレビはゴールデンタイムに突入している。バラエティ番組を見る。
 弦十郎が笑う。翼は笑わない。クリスは笑いどころがわからない。
 弦十郎に学校での調子を訊かれる。いつもどおり眠いと答えると翼から寝過ぎだと言われた。たっぷり眠っているのに眠気がおさまらないことがクリスには納得できないが、睡眠時間は絶対に減らしたくない。クリスとて譲れない一線がある。
 食事を終えてお風呂に入る。よいこのクリスは就寝時間が近いので自室に向かおうとするが、翼に阻まれる。頭にタオルを被せさせられ、わしゃわしゃと掻き乱された。理想はドライヤーに櫛、でもこれで勘弁してやると言わんばかりに、髪を拭き終えた翼はクリスを解放する。そしておやすみなさいと言ってやわらかく笑う。正直この人の笑顔はきみがわるいなとクリスは思っているが、さすがに口には出せない。以前ライブDVDを見た時に、満面の笑みを浮かべる歌姫を指さして誰こいつと言ったらとなりにいた翼にしたたか怒られたことがあるので、うかつに口にはできないのだ。
 与えられた部屋に入る。
 布団は敷きっぱなしになっている。
 でも翼と違って部屋自体は片付いているほうだ。クリスには自信がある。そもそも散らかすほどの所有物がまだないだけなのだが、クリスにはどうでもいい話だ。
 布団に下半身を滑り込ませ、電気を消して、寝る。
 自分はよほど畳や敷き布団と相性がいいのだろうか、寝つきの最高に悪かった過去からは信じられないほど――いやもういっそ惚れ惚れするほどすぐに眠りつける。
 悪夢も見ない。日々快眠。
 朝になるまで一度も起きない。
 朝になっても中々起きない。
 せっかちな鶏が鳴いても彼女は起きない。
 せっかちではない鶏が鳴いても起きない。
 時計が朝の八時になる頃に、彼女はまた寝ぼけまなこをこすりながら、布団から這い出る。
 枕元に包装されたふたつのちいさな箱が置かれていた。
 はてなんだろうと思っていると、結びつけられたリボンにカードが挟まっていた。
 ――ハッピーバースデイ!
 ――誕生日おめでとう。
 女の子が書いたみたいなかわいらしいバースデイカードと、そこらのメモ用紙にボールペンで走り書きしたようなカードだった。差出人名は記入されていないが、かわいいほうが弦十郎でかわいくないほうが翼だろう。
 なんの感傷も感動もこもらない手で荒っぽく包みを剥がしながら、するってえと今日はあたしの誕生日なのかとクリスは思った。自分の誕生日なんぞすっかり記憶から忘却されていた。その日の特別性も忘れていた。
 弦十郎からは髪留めのリボンだった。翼からは目覚まし時計だった。
 目覚まし時計に電池を入れて、合わせてみる。
 鳴らす。
 うるさい。バカみたいにうるさい。どれくらいうるさいかと言えばスイッチの入った響のマシンガントーク並にうるさい。
 クリスはすぐに針をずらしてとめた。
 しかしなんだか気分がいい。
 眠気は知らないあいだにかき消えていた。
 歯を磨いて、朝ごはんを食べて、制服に着替えて、貰ったばかりのリボンをつけて、その前にちょっとブラッシングもしてみた。
 ほぼカラッポの学生鞄を手にクリスは家を出る。
 今日はなんだか、気分がいい。

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