あざやかな衣裳に身をつつんだふたりの歌姫がいる。
力強く、やさしく、はげしく、あるいは悲喜を交わらせて、ステージを踊り、駆け、歌っている。
目まぐるしく変わる照明の色、夥しい数の観客、ペンライトの光の洪水、波濤のような歓声――
そのふたりの少女は、液晶テレビの中で、白金のようにかがやいていた。
「誰だこいつ」
畳の上にあぐらを掻いて座っているクリスは、画面を指さして言った。
「奏だ。天羽奏。彼女のことは、雪音にも前に教えたろう」
正座して昔の自分が収録されたライヴDVDを観賞している翼が言った。
「じゃあ、なくてさ」
「ではなくて、なんだ」
「あの青くてきもちわるい笑い顔つくってる、貧相な体のやつ」
「よし、そこになおれ」
翼は立ち上がった。
クリスは大げさに胸の前で何度も両手を交差させた。
「いや、だってよ、マジで誰だよ。お前のこんな笑い方、あたし見たことねえぞ。誰だっけ、あの、F.I.S.のピンクの、あいつと歌ってた時だって、いつもの余裕ぶったいけすかない笑い方だっただろ」
「つまり私に喧嘩を売っているのだな、雪音は」
翼の目が座っている。これはまずいとクリスは思った。
「だからちげえって!」
「立花、私の左文字を持て」
翼は手を差し伸ばした。その先に慌てふためく客人・立花響がいた。
「ああ、わわわ、お、落ち着いてください翼さんっ」
「つうか、なんだよサモンジって。天羽々斬だろお前の剣は。自分の得物の名前も忘れたのか」
クリスはこめかみの横でひとさし指を回した。
くるくるぱー。
響は翼のこめかみに青筋が立ったような気がした。
「そうか、そちらで刃を合わせたいのか、いいだろう」
「なんでそうなんだよ!」
そう言いながら、ちょっとムッとしたクリスは、膝を立てて、拳を握りしめ、すこしだけ抗戦の姿勢になった。
響はますます慌てた。
これはクリスが悪い。誰が見てもそうだ。響は翼とクリスのあいだに体を割り込ませて、
「今のまずいよ、クリスちゃん、謝って、はやく、お願い、私、もう死しそう。死ぬ」
と懇願した。
「なんでだよ」
謝る筋合も響が死ぬ理由もないだろう。クリスにしてみれば響の懇願は意味がわからない。
しかし響には、意味がわかってもらえないことが理解できない。
響は必死だった。背中の殺気が尋常ではない。これも考えてみたら響には不可解だった。そりゃ問答無用にクリスちゃんが悪い。しこたま口が悪い。怒らせて当然のことを言ったと思う。しかし、殺気立つことはないとさすがに思う。思いたい。そう感じる自分の感覚の正しさを響は信じたい。「クリスちゃん謝って」「なんでだよ」「翼さん落ち着いて」「立花、左文字を」しばし同じやりとりが繰り返された。クリスちゃんじゃないけどなんですかサモンジって私知りませんよどこにあるかなんて。
響のあせりをよそに、翼とクリスは睨み合ったまま、するどく立った気をおさめようとしない。
しかし、突然その状態は解除された。
放置されたライヴDVDが天羽奏のソロ曲を流しはじめると、翼はさっと殺気をおさめたのだった。
ふたたび正座して、夭逝したパートナーのひとり舞台を、なつかしそうな、さびしそうな、ただほんのわずかにだけやわらかくほそめられた、そんな目で見つめた。
「きもちわりぃ」
「クリスちゃん!」
もう勘弁してほしい。
響は泣きたくなった。
が、翼は無反応だった。
翼は画面の中の少女を、ただまっすぐに見ていた。その燃え上がるような姿以外のなにものをも視界に映すまいと、そこだけに集中させていた。その歌声以外のなにものをも侵入させまいと、耳をそばだたせていた。
クリスの耳にはそれは人間の歌には聞こえなかった。燃え盛る炎が一個の意志をもって吠え猛っているようだった。あるいはその姿は炎そのものだった。
燃えている。命とか、魂とか、血とか、そういうものが悉く燃焼されている。そこになにかを遺し、なにも残さないかのように、烈しく燃焼している。
クリスの胸にひとつの恐怖が落ちた。
これほど恐ろしい激烈な生命の活動をクリスはかつて見たことがなかった。人間に絶望し、人間に希求し、武器を手に戦いつづける南米の男どもよりも、天上の神に恋い焦がれ、狂おしいほどの想いを抱いて永遠を生きつづける太古の巫女よりも、この天羽奏という女は圧倒的にそこに存在している。そうでありながら、やはり圧倒的に、おだやかでやさしげな表情と歌声とを所有している。なにより、この女の、なんとたのしげに歌っていることか!
奏が歌が終わった時、クリスは一時停止ボタンを押した。ちょうど観客席に向かって満面に笑って手を振っているところだった。それを一瞥したクリスは、翼に向き直り、
「天羽奏サンってえのは、いったいどんなひとだったんだ?」
と訊いた。
響が心配そうな顔をクリスにも翼にも向けた。
当たり障りのない説明ならすでに受けている。翼とユニットを組んで活動していたこと、響の前の第三号聖遺物・ガングニールのシンフォギア装者であったこと、クリスがフィーネに拉致されたちょうどその頃にライヴ会場で歌い果てたということ。だが、クリスが聞きたいのはそんなことではないだろう。響ははらはらしながらふたりを見守った。
「そうだな……」
翼は声をしめらせて言うと、目をつむり、しばらく黙考していたが、やがて目をひらき、口もとにクリス曰くいけすかない¥ホみを浮かべ、
「今、急に昔話がしたくなった。ふたりとも、どうだろうか、私のわがままに付き合ってはくれないか」
と言って、からりと笑い飛ばした。
クリスと響は目をまるくして、顔を見合わせ、首をかしげた。
初めて会った時の奏は、いや会ったというか、叔父様の背中に隠れて、ふたりの会話をみていたのだが、まるで昔の雪音のようでな、やたら口は悪いし手も悪い、暴れまわって叫びまわって、まるでかわいげのない……おいおい怒るなべつに雪音を非難しているわけではないぞ。まあ今からはちょっと想像もつかない、いやちょっとはつくだろうか? ま、たいそうにやんちゃ者だったのだ。そう、そのとおりだ立花、あの頃の雪音を思い浮かべれば、だいたい正解だ。な、意外だろう? 私もそうおも……だから怒るなと言っているだろう、まあまあ気を落ち着けて座れ。
初めは歌も、獣が吠えているような、こどもが泣き叫んでいるような、そんな無秩序で暴力的な歌だったよ。きっと本人もどんな歌を歌っているのか、わかっていなかったのではないだろうか。とかく歌詞が聞きとりづらくてなあ。そうそう、あの頃の雪音みたいでな。よくおぼえているな立花は。だから、立つな、座れ。
ただ、ふしぎとウマが合うところがあってな、ノイズとの戦闘でも連携に困ることはなかったし、なんだかんだで私たちは最初の頃から仲は良かったのだと思う。まあ、奏のほうはどう思っていたのかはわからないが。すくなくとも私は、あの暴れ者の時代の奏と一緒にいて、不都合や窮屈を感じたことはなかったな。
ある時、やはりノイズとの戦闘中でのことだ。ノイズを殲滅しきった私たちは、次に瓦礫の下に閉じ込められていた自衛隊員たちの救助を始めた。そのひとりが、こう言ったのだ、――ありがとう、ずっと歌が聞こえていた、だから諦めなかった。……それだけだ。一言そう言うと、彼は同僚に担がれて去っていった。その時だな、奏から圭角がとれたのは。憑き物が落ちた、とは違うか。ただ、これまでに見たこともなかったような陰翳のない笑みを、目もとと口もとに、浮かべていたのだ。私が初めて見る種類の笑顔だった。私はそれが嬉しかったのだ。その日以来だったか、奏の歌が変わった。
命懸けで戦っているのに奇妙な話だろう。暢気だとも言えるかもしれない。たのしかったよ。奏と一緒に過ごす時間のすべてが、好きだった。戦場で、ライヴ会場で、共に歌っている時間が、たまらなく愛おしかった。ところで、奏は遠慮のない性格でな、そういう、ともすればくさい♂ネ白を平気で言うんだ。翼と一緒にいるとたのしい、翼がいればなんだってできる、ずっと翼と歌っていたい――私は、そういうことは、言えなかった。初めて口にしたのは、奏が死ぬ直前だった。後悔? どうだろうな。あるかもしれないし、ないかもしれない。たらればを考えればきりがないさ。……
さてと、しめっぽい話はこれで終わりだ。なに、思ったより話が短かっただと? なんだ、雪音には物足りなかったか。まあ、かなり端折ってはいるな。仔細を話し詰めに話せば、それこそ、きりがないからな。付き合わせるのも悪いだろう。そんなことはない、か。ふふ、立花はあいかわらず人が好い。
ところで、これからどうする。DVDのつづきを観るか、ここでお開きにするか。ああ、そうか、では、明日また、学校で会おう。雪音、途中まで送ってやれ。いやだと? 駄目だ、ゆけ。でないと夕飯のおかずを一品抜くぞ。理不尽とは言うまいな。居候は居候らしくするものだ、さあ送ってゆけ。
「ちくしょう、こきつかいやがって」
不満を全身から垂れ流しながら、雪音は立ち上がった。
「あのう、翼さん、べつに、ひとりでも帰れますけど……」
と響は翼に言ってみたが、翼はうべなわなかった。
ひとりになりたいのかもしれないと響は思った。それなら自分はクリスに送られなければならないだろう。
「いくぞーバカ」
「それ返事しづらいよクリスちゃん。返事したらバカって認めることになっちゃうよ」
「あん? 実際にバカなんだから、バカって呼ばれてハイって返事すりゃいいじゃねえか。なんかまちがってんのか?」
「わー、すこしも迷いがない!」
「ほら、とっとと帰るぞ」
クリスは立花の学生鞄を脇にかかえた。
「あ、自分で持つよ」
「持たせろよ。居候は居候らしくこきつかわれるさ」
部屋を出る時、クリスはちらと、液晶テレビに目をやった。
映像はクリスの手で停止されたままだ。
画面の中の天羽奏は翼が昔話を始める直前と変わりなく、今も笑っている。
その笑顔は誰に向けられたものなのだろうか。
ライヴDVDの映像なのだ、当然観客に向かって笑っている――が、クリスはそう決め付けられない自分を感じていた。
死んだ少女は誰に向かって笑っているのだろうか。それから、この少女とかつて共に歌っていた、クリスからするとはなはだきみのわるい、きらきらとかがやく幼い笑顔のもちぬしは、観客席に向かいながら、本当は誰に向けて笑っていたのだろうか。
クリスは、ふと、そんなことを思った。
了