リバーシブル・バカ

 盤上は黒石が優位に戦いを進めていた。
 白の響はうんうんと唸りながら、次にひっくり返すべき石をさがした。
 百均で購入したマグネットのちいさなオセロ盤である。
 それを昼食後、中庭のベンチに広げて、響とクリスはオセロに興じていた。
 未来と翼はそれぞれ委員会がどうとかで、昼食もそちらでとるらしく、ここにはいない。
「あーうー、どうしよ」
「降参か、降参するか?」
「いや、まって、ええと」
「はやくしろよ。昼休憩が終わっちまう」
「うーん、よしっ」
 これと決めた石をめくる。
 ぱちりぱちりとこきみよい音をたてる。
「あ、けっこういいかも」
 めくる。
 盤の白が拡がる。
 まためくる。
「やった、いいとこついた」
 響の声がはずむ。
 めくる。そして、めくる。
「あれ?」
 響は首をかしげた。指がとまらない。
「おい、――バカ、おい!」
 クリスはあせりだした。ついさっきまで圧勝ペースだったのに、なんだかまずいことになっている。
 ぱちり。
 緑の盤上が隅々まで白く染まった。
「ああー」
 炭酸の抜けたサイダア水みたいな響の声があがった。
「バ……このバカ! 全部白にするやつがあるか!」
 クリスは青ざめ、頭をかかえた。信じられないほどの完敗だ。負けたクリスはもちろん、勝った響でさえにわかには理解できないほどの完敗・完勝だった。
「いや、あははは、まさか、全部とは……」
「うわあ、信じらんねえ。お前、お、おま、お前、なんで、お前」
 クリスはオセロ盤を掴み上げた。磁石でくっついているから、垂直にしても石は落ちない。盤を睨む。横にしたり、斜めにしたり、逆さにしたり、色々な角度からためつすがめつ、確かめる。
 知らずクリスの口から呻き声がもれる。
 白かった。どこからどう見ても、盤は圧倒的に白かった。一個の黒石もなかった。
 クリスはオセロ盤を持つ腕を降ろした。
 響はもうしわけなさそうに苦笑いしながら、
「もっかいやる?」
「やらねえ」
 クリスはキッと響を睨みつけた。
「そ、そうだね。もう昼休み終わるしね」
 響は首を竦めた。
 クリスはハアと溜息を吐いてうなだれた。落ち込んでいるのではない。向後のことをあらためて考えねばならなかった。そうだ、この忌々しいウルトラバカとの関係について、自分は考えをあらためなければならないだろう。
「クリスちゃんー?」
 響がいぶかしげに顔をのぞきこんでくる。
 クリスはまなじりを決してた。
「こうなっちゃあ、仕方ない。絶交だ」
「オセロでボロ負けしたくらいで!?」
「うっせえ!」
 オセロ盤をベンチに叩きつけたクリスは、その場に響を置いて、中庭から足早に脱出した。
 響は追いかけなかった。
 クリスのせいで磁力から放たれて散ったいくつかの石を、彼女はこれから拾い集めなければならなかった。

「オセロでぶざまに負けたらしいな」
 なごやかな食卓につめたい声が響いた。
 大皿のおかずをとろうと伸ばした箸が一瞬とまった。
 翼が本当に言いたいのはオセロに負けたことではなく、オセロで負けたあとのクリスの態度についてだろう。
 なんとか言い訳しようと言葉をさがしたが、見つからず、口のかわりに箸先がいそがしくうごいた。
「迷い箸はいかんぞ、クリスくん」
 かんちがいした弦十郎にかるく叱られる。
「石をすべて白にされたそうではないか」
 抑揚のなさがクリスにはなにやら恐ろしかった。いや、声に抑揚をつけないのはいつものことだ、と自分に言い聞かせる。すぐに無駄を悟る。ないのは抑揚ではなく温度だ。怒っている。まちがいなく翼は怒っている。
「全部白にされたって? それはめずらしいこともあったもんだ」
 弦十郎はそう言って、ほがらかに笑った。クリスは全力でそれに乗っかった。
「まったくだよ! あのバカときたら、かたっぱしから石ぺちぺちひっくり返しちゃあまたひっくり返して、全然手がとまんねえの。おいおい、いつまでお前の番なんだよって思ってるうちにす」
「雪音」
「はい」
「あとで私の部屋に来い」
「わかりました」
「ふたりとも、なんだ、どうしたんだ、いったい」
 弦十郎はあきらかにようすのおかしいふたりの顔を交互に見て、――年頃の女の子はむずかしいなあとちょっと見当違いなことを身に染みて感じて、そうして長い長い溜息を吐いた。
 べつにクリスは翼に食後すぐに来いと言われたわけではないし、風呂からあがってからとも言われていないし、ようするに時刻指定がないのだから、翼の言うところの「あとで」とはいかようにも取れるわけで、だからいつ行ってもかまわないだろうとクリスは都合よく解釈しようとしたが、足は自然と翼の部屋の前に辿り着いた。
「は、はいっていいか」
 返事がなかった。
「はいるぞ?」
 返事がない。
「はいったぞ」
 戸を開けて部屋にはいる。
 翼はいなかった。
「なんでえ、留守かい。そうかいそうかい、そりゃ失敬。留守なら仕方ないなあ。んじゃま、帰ろうぜ。ああ、こりゃ仕方ない。時間が合わなかったみたいだ、せっかくのお呼ばれなのに、ああまったく残念残念」
 自室に戻ろうと体をくるりと回転させる。
「すまん、お小水に行っていた」
 翼がいた。
 逃げ道が塞がれていることに気づいた時、サアっと血の気の引いていく音が聞こえた。
 座布団の上に座らされた。あぐらを掻くと正座させられた。
「足痺れるからいやなんだよ、これ」
 腿と踵をくっつけるほど折り曲げた両方の膝をつきあわせるような、そういう座り方はクリスにはまるで馴染みがない。クリスにとって座るとは脚の付いた椅子に座ることで、そうでなければ地べたに尻をつけて足をなげだすものだった。
「それは正座のかたちが正しくないからだ。きちんとしていれば、足は痺れないし、疲れない。だから正座なのだ」
 と翼はぴしゃりと言った。
 こういう言い方をされると、クリスは反論の道具を見つけられない。
「それで、あー、なんの用なんだよ」
 呼び出しの理由は承知しているが、クリスはそう言った。
「立花にオセロで負けたらしいではないか」
 翼は夕食の時とだいたい同じことを言った。
「負けたけど、それがなんだっていうんだ?」
 翼の言わんとしていることはわかっているが、それでもクリスはすっとぼけた。
「絶交宣言して、その上オセロ盤を投げつけたそうではないか」
「しました。ああ、したとも! それで? したらどうだっていうんだ!?」
「――という話を小日向から聞いたのだが、彼女、ずいぶんと雪音を心配していたぞ」
「……あしたあやまってくる」
「それがいい」
 話はそれで終わって、クリスは早々に解放された。

 翌日、絶交したベンチでクリスは昼食をとっていた。今日は響だけでなく、翼もいれば未来もいた。
 響と顔を合わせたクリスは、すぐさま響に謝った。
 響はゆるすとかゆるさないとか以前に、そもそも本気で絶交されたとは思っていなかった。クリスの絶交宣言も気にも留めていなかったらしく、
「今日こういうことがあったんだよー」
 とすこぶるかるい気持ちで未来に話したところ、それが翼に伝わったのだった。バカなことをしでかしたクリスはきっと翼から正座で長時間説教を浴びせられるに違いないと思った未来は、それを哀れんで翼に、響がさして気にしていないことを連絡し、ついでに「おてやわらかにお願いします」と頼んだ。クリスが早くに解放されたのはそのためである。
「オセロいっこ見つかんなくて」
 と握り飯を食べながら響は言った。
「わるい。ホントにわるかった」
「それはいいんだけど、あと一回勝ったら、クリスちゃん私にジュース奢る約束だよね」
「そういやそうだったな」
 対戦成績はたしかクリスの一勝二敗だったか。先に三勝したほうがジュースを奢るというルールでやっていた。しかし、そのためのオセロは石が一つ足りない。
「どうするの? 百均だし、買い直す?」
 未来が横から言ってきた。
「私、将棋崩しがしたい!」
 と響はオセロとは全然関係ないことを言った。
「マグネット将棋ならあるんだけど、あれだと将棋崩しできないから。でも師匠の家に、すっごく良い将棋あって、前に師匠と将棋崩ししたんだけど、すっごく気持ちいい音がするんだよ。あれつかって、みんなで将棋崩しがしたい」
 クリスは首をひねって、翼のほうを見た。
「あったっけ?」
「あるな。叔父様が友人からなにかの祝いで贈られたものだそうだ」
「へー」
 クリスは空を見上げた。
 菓子パンをかじる。口をもごもごさせながら、
「昨日の勝負のつづきはどうすんだ」
 とクリスはなにげなくクリスは言った。オセロが将棋崩しになるわけだから、仕切り直しになるだろうか。クリスは都合よく楽観した。
「参加者増えるから、あと一回負けたらクリスちゃんが人数分ジュース奢る。私と未来と翼さんで三人分。もしかしたら師匠も入れて四人分」
「はあ!?」
 菓子パンが口からこぼれた。
「冗談だよね?」
 クリスに助け船を出すつもりで未来は言った。
「本気だよ?」
 爛々とした目を見れば、その言葉に嘘がないことがわかる。
「おい……」
 クリスは未来にすがるような目を向けた。
 未来はゆるゆると首を振った。
 どうやら本当に本気らしい。
 ――バカなことをしちまった!
 たかがジュース三四本のことだと言い放てるほど、クリスの懐事情はかんばしくない。
 たかがと言うなら、それこそたかがオセロで全部白にされたくらいで、あそこまでのことをするのではなかった。オセロ盤を投げたことも絶交宣言したことも、クリスにとって悪い方向にしかはたらいてない。当たり前といえばこれほど当たり前のことはない。
 クリスが投げ捨てたせいで消失したオセロの石が一個。その一個のために、響はオセロの代わりに将棋崩しを思いつき、その遊戯の性質上翼と未来まで参加することになったのだ。
 たった一個が足りないせいで、あとたった一回負けるとクリスのすくないこづかいから、何枚かの硬貨がむざむざ失われてしまう。
 昨日昼休憩にオセロを持って来たのは響だ。ジュースを賭けて勝負することを提案したのはクリスだ。ひよこみたいな頭のこのバカをカモにしてやろうと愚かしくも企んだのもクリスだ。
 つまりこの場にバカはクリスひとりしかいない。
 ああこのどうしようもないバカ!
 クリスは頭をかかえた。
「負けなければ、奢らずに済むから……」
 未来のなぐさめがつらかった。

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