その日風鳴翼は朝からゴキゲンだった。
朝シャンすれば鼻歌を歌い、トーストが焼ければ踊るような動作でバターを塗る。
にこにこにこにこと、いったいなにがそんなに愉快なのか、ずっと笑顔をキープしている。
機嫌が良いのはかまわない。機嫌が悪いよりいいだろう。もちろんだ。ではあるのだが……
「きもちわりぃ」
クリスはトーストをひったくって一口かじった。
あきらかにようすがおかしかった。べつに笑顔でいることはおかしくないが、笑顔の風鳴翼とはクリスにとってテレビの向こう側かステージの上にしか存在しない。すくなくともこんな満面のきもちわるい笑顔はだ。
「なんだ、雪音、朝から機嫌が悪いな。始まったか」
「殴るぞてめえ!」
背後で弦十郎がひたいに親指を当てて顔をしかめている。
「なあ、オッサン、こいつどうしたんだ。忙しすぎて頭おかしくなったのか」
「いや、仕事量は減らしているくらいなんだが……」
弦十郎は炊飯ジャーを開けながら言った。三人家族(叔父・姪・居候)の朝食はてんでばらばらだ。弦十郎は握り飯、翼はシリアル、クリスはトースト。朝食はみんな軽めに済ます。トーストはクリスの朝食だ。だから、翼が焼いたトーストをクリスが食べるのは正しいのだ。
「今日はパンの気分なんです」
翼は弦十郎に向かっていった。身長差がかなりあるので、その言葉はそのままクリスの頭上を、アホ毛一本ゆらして通り抜けていった。
「しかし雪音にとられてしまったので、食べ残しをもらうことにします」
「やらねえよ! フレーク食えよ!」
ニワトリ印のコーンフレークの箱を指さす。ほぼ翼専用の朝食だ。クリスはおやつがわりに鷲掴みにして食べるので、翼専用シリアルのわりには消費が早い。たぶんクリスのほうが消費量は多いだろう。クリスの知ったことではない。
朝食は居間ではなく台所でとる。居間と違って背の高いテイブルと椅子があるので、クリスにはいくぶん楽だった。尻を床につけて座るのはどうも落ち着かない。椅子を引っ張りだしてそこに腰かけた。
「なんで、そんなにゴキゲンなんだ、あんた」
「知りたいか」
「知りたかねえけどきもちわりぃから元に戻れって思う」
「知りたいか、そうか、そうか。ははは、あいかわらず雪音は素直じゃないなあ」
「素直にきもちわりぃっつってんだよ!」
テイブルを叩いた。手が痛かった。弦十郎に叱られた。
翼は皿にシリアルを盛って牛乳をかけると、それをテイブルに置いて、クリスと向かい合わせに座った。弦十郎はぬか漬けを洗っている。
翼は笑っている。スプーンを手にしたまま、一口も食べないで、笑っている。
にこにこにこにこ。
クリスはおもしろくない。きもちわるい。トーストをかじりながら、きもちわるくてむかっ腹の立つ翼の笑顔からおもいきり顔をそむけた。
翼のにこにこはクリスをいらいらさせた。音になって聞こえてきそうだとクリスは思った。この奇天烈な先輩のにこにこが。
「朝からあまりギスギスしないでくれよ」
卵焼きを焼きながら弦十郎は言った。
「ギスギスなどしていませんよ」
「……あまりクリスくんを困らせるなよ」
「困らせてなどいません」
爽やかな笑顔ではきはきと答える。
クリスには、今自分と先輩との仲がギスギスしているのかは、わからない。自分が困っているのかもわからない。ただ、彼女の笑顔はすこぶるきもちわるいし、機嫌の良さもきもちわるいし、口から出る言葉も全部きもちわるくて、そして腹が立つのだった。
「それで話のつづきなのだが」
「フレークふやふやになんぞ」
「話のつづきなのだがな」
「食えよ」
「雪音」
にこにこにこにこ。
いらいらいらいら。
はらはらはらはら。
「雪音」
「あんだよ」
「友達ができたらしいな!」
「は?」
「なに?」
ウインナーを茹でている弦十郎が驚いてこちらを見てきた。
「いやあ、昨日の夜、小日向から電話があってな。なんだ、なんだ、雪音よ。今度の日曜日に、その友達と、遊びに行く約束があるそうではないか」
我がことのように喜び話す。朝から絶えることのない翼の笑顔は、クリスには堪え難い笑顔だ。きもちわるいし、腹が立つ。
どんな感情によってそうなったのかは不明だが、とにかくクリスは、ふるえる手からトーストを落としてしまった。そしてやはりふるえる声で言った。
「お、おまえ、それ、一昨日晩メシの時に話した……」
仕事に忙殺されて忘却されたのだろうか。
風鳴翼の二日前の食卓の記憶は。
――まてよ、おい、先輩、そりゃあねえよ。あんなに、にこにこして、嬉しそうに聞いてくれてたじゃねえかよ、あたしの話。
くちびるはうごいたが声には出ない。
口からはぼろぼろと食べかすがこぼれ落ちていった。
了