置いてかれぼっち

 夢のような人だなと、思った。
 というより、夢そのものの人だ。
 それは風鳴翼自身の夢でもあるし、彼女に多くの人々が託した夢でもある。
 その名のとおり翼を背負った彼女は、卒業後英国に渡った。
 マリア・カデンツァヴナ・イヴとの合同ライヴによって一足早く風鳴翼の名と歌は世界に知られたが、これから本格的に、彼女の歌は世界中の人々に聴かれることになるだろう。
 空港で見送りをすませて、さて帰ろうかという時に、クリスはふと急に、となりでぐしゃぐしゃと泣きはらす響の後頭部を引っぱたきたくなって、そして実際に引っぱたいた。
 それは響への嫉妬みたいなものがもたらした行為だったが、向こうはどう解釈したのか、
「ありがとう、クリスちゃん。もうだいじょうぶだから」
 と、なにもだいじょうぶでない、ぶざいくな笑顔で言った。
 響の肩を支える未来も、涙ぐんでいる。
 見送りの三人の後輩のうちで、クリスひとりがてんで一滴の涙もこぼさなかった。
 遠く離れてゆく先輩に対してそういういじらしい切ない感傷をクリスはどうしても持てなかった。
 それがつい、羨ましく嫉ましくなって、響の頭を引っぱたいてしまった。
 なぜ自分は泣かないのだろう。それなりに親しくしていたつもりだったし、それなりに敬意を持っていたし、それなりに多くの時間をこの人と過ごしたいと思ってもいたのだ。
 さびしいともかなしいとも思わないこの感情がなんなのか、クリスにはわかりかねた。
 尊敬する先輩の歌が世界に広まってゆくということを、よろこぶ感情もない。
 まったくなんの感傷もないという、ふしぎな状態に雪音クリスという自身の存在は置かれていた。
 空港を出て、電車とバスを乗り継ぎ、見慣れた街に戻ってから、クリスは響と未来と別れて、長くない時間を翼とともに過ごしたマンションの一室に帰って来た。
 翼の荷物はいくつかは部屋に残されていた。英国に後日輸送する予定もない。それらは現地で調達するものだったから、そのまま部屋に置かれていった。
 そう思った時、なんとなくクリスは無性に腹が立った。誰に腹が立ったのかわからなかったが、とにかく猛然と腹が立ったのだ。
 置いていかれたのだ、自分は。
 風鳴翼との別れのなかで初めて湧かした感情が、なんということか、怒りであった。
 食器棚には揃いのマグカップや箸がある。
 翼の部屋は住人がいなくなったせいで、きれいに片付いている。とにかくも、物が少ない。しかし、物はある。全部が全部、日本ではない別の島国に渡ったわけではない。
 ――残していくものは、雪音が好きにいいぞ。
 翼はそんなことを言っていた。
 ようし、じゃあやってやろうじゃあないか!
 クリスは腕をまくって、翼が残していった、翼がここにかつてクリスと暮らしていた痕跡を、片っ端から破壊していった。散らかすのは翼の仕事で、それを片付けるのがクリスの仕事だった。
 クリスが散らかして、そうした時、誰が片付けるのだろうか。家にはクリス以外誰もいない。
 ひとしきり破壊し尽くしたクリスは、肩で息をして、その場にへたりこんだ。床に手を付くと、痛みが差した。
 掌を見てみると、食器の破片のせいで、手が切れていた。血が浮き出てくる。掌をすこし斜めにすると、その血は流れて、床に赤い斑点をつくった。
「ああ、ちくしょう、家のモン持ってくならなにもかも持っていきやがれってんだ。半端に残しやがるせいで、このザマだ。全部、全部、持っていきゃ、こんなことにはならなかったんだ」
 クリスは血の流れる手を固く握り締めた。
 ほんとうに、この部屋にあるなにもかもを、持っていってほしかった。
 しかし、遠い英国に持ってゆくに不要だから、みなここに残されたのだ。
 自分もそのひとつだ。
 そう思った時、クリスは初めて、さびしいと思った。
 住人のひとりいなくなった部屋を、どうしようもなくさびしいと感じたのだった。

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