南米でゲリラに囚われていた時分に習得した、しようもない技術のひとつに手巻き煙草というものがある。連中が喫み棄てた煙草を掻き集めて作るのである。
煙草を喫んで、その煙が吐き出されるのをぼんやり眺めていると、胸がすうっとして、連夜なぶられている肉体の痛みがすこしばかりは和らぐ気がしたのだ。この身の不幸を呪わずにいられる時間が訪れる気がしたのだ。齢十五歳にも満たない少年は、そんなわけでもうすっかり煙草なしには生きていられないようになっていた。
日本に戻ってからもそれは変わらなかった。変われないというより、変わる気がないために、そのまま放置されている感じだった。
夜半にアパートの部屋を飛び出して、吸殻を集める。部屋に戻って煙草を作る。学校に登校して、校舎裏に座って、自分で切り出して作った不格好な箱を胸ポケットから取り出す。そして煙草を一本つまみ出して口に咥え、喫む。煙草の煙と口から吐き出された煙が混ざり合って突き刺すような冬の空に消えていくのを眺める。
いくら喫んでも昔のようなすっきりとした気分にはなれなかった。それでも煙草を喫んでいる時だけは、やはり体の痛みが和らぐような気がした。体はどこも痛くない。痛めつける者もいないというのに、おかしな話だった。
「おあ?」
ふいに咥えていた煙草を何者かに取り上げられた。
覆い被さる影の主を見上げると、翼がいた。
「まったく……。学校にいられなくなるぞ」
呆れられた。
しまった、とはふしぎに思わなかった。クリスは黙って携帯の灰皿を差し出した。翼はそこに煙草を押し付けて火を消した。
翼がクリスの横に座った。
「制服、汚れるぜ」
「かまわん。だからどうしたというのだ」
にべもなく言われた。へえ、人気アイドルだから身なりはおきれいにしておいたほうがいいじゃないかと思ったんスよ、とクリスは芝居がかった言い方をした。
「くだらないことだ」
愛想よく振る舞う気はないらしい。まあ、そんな関係でもないから当然か。クリスは自分の言ったことのくだらさに呆れながら、髪をわしゃわしゃと掻いた。煙草がないのがなにやら落ち着かない。もう一本、と思ったが翼がいるのでそれもできない。
「よく吸うのか」
「煙草? まあ昔からの癖っつうか……」
「いつからだ」
「んー、おぼえてねえ。十過ぎたあたりからかな」
「早いな」
息を吐いて、翼はそれきり黙った。
クリスはなにか話題を探そうと思って、すぐに諦めた。見つかったところで翼との会話は長続きしないだろう。自分と彼との関係をまともに成り立たせるには、ハブが要るのだ。立花響というハブが。いまはそいつがいない。
早くチャイムが鳴らないだろうか。今はいちおう休憩時間中のはずだから、チャイムが鳴れば翼はいなくなる。授業に参加する気のないクリスはここに居座って、また煙草を喫める。
首筋を指で掻く。ボタンを一個はずす。ゆるんでいたネクタイをさらにゆるめる。前髪をいじる。体をうごかせばうごかしただけ、時間の流れがいっそう遅くなる感じがしたが、じっともしていられない。
「長生きしたいか」
翼は言った。
「なんだい、藪から棒に」
「長生きしたいのか、したくないのか、どちらだ」
「そりゃまあ、生きられるだけ生きられりゃあなとは、ちらっとは思ってるけど」
「思っているのか」
「ちらっと」
クリスは親指とひとさし指を伸ばし、腹を合わせた。
「せっかく手に入れた平和な生活だし、ま、ちらっとは」
本気でそれを言っているのか? とクリスは自問したが、自答はできなかった。
クリスは自分の口から出た「平和な生活」という言葉に寒気を感じた。生活が平和なのは間違っていない。それを気に入っているのはたしかで、長つづきさせたいとも思っている。
しかし、なにかが納得できないでいる。拒否しているわけではない。納得ができないのだ。型にうまく嵌っていないような感覚だ。収まらなければならないものが、ピッタリとそこに収まっていない。
煙草をやめられないのはそのせいかと思うが、煙草のせいで型ずれが発生しているのではないかとも思う。だからやめられない。やめれば、クリスを生かし現在に繋げたピースがひとつなくなる。すでにクリスはふたつもみっつもそれを失っている。損失に臆病になっていた。
翼がクリスの胸の前に掌を差し出した。
「寄越せ」
「なにを」
クリスは眉を顰めた。
「煙草だ」
「なんでだよ」
「長生きしたいのだろう」
「煙草くらいで、伸び縮みするもんでもねえだろうよ」
「そうか」
翼はあっさりと手をひっこめた。
「そうか、ちらっとだからか」
「そうだな、ちらっとだ」
また会話が途切れた。この人との会話は長つづきしたことがない。
チャイムが鳴った。翼はクリスになにも言わずに去っていった。
クリスは胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えた。どういうわけか火を点ける手がうごかない。煙草を箱に戻して、立ち上がり、教室を目指した。授業を受ける気になったわけではないし、煙草を喫む気分が失せたわけでもないが、これ以上ここに留まる意味をクリスは見出せなかった。
翌日も同じように校舎裏で煙草を咥えた。火は点けない。昨日と同じ時間に翼はやってきて、煙草を取り上げた。火が点いていないことに首をかしげたが、クリスの手にライターが握られているのに気づいて、
「すんでで間に合ったようだ」
と言った。
そうではない。煙草はずっとくちびるのあいだに挟んでいた。ただ火を点けていなかっただけだ。翼の到着が遅かろうが早かろう関係なかった。
翼はクリスに煙草を返した。クリスはそれを箱に戻し、箱を胸ポケットに入れて、ライターはズボンのポケットにつっこんだ。
「煙草はここでしか吸わないのか」
「ああ」
「なぜ、吸う。成人まで待てないか」
「薬みたいなもんさ、喫まねえと俺は死んじまうんだよ」
クリスはケタケタと笑った。なんでこんな体の構造になっちまってるんだ、俺は。わかりきっていても問いたくなる時はあるのだ。
「一日に何本吸っている」
「少ないよ。日に二本。午前と午後の一回ずつ。なんせお手製なんで大事に消費しねえとさ、数がおっつかねえ」
「すべてここで吸っているのか」
「だから、そうだって」
「家で吸え」
「あん?」
おかしなことを言い出したと思った。
「家ならいいのかよ」
「学校よりは人目につかぬだろう」
「これでも隠れてるつもりなんだけど」
言ったあとに、話相手にすでに見つかっていることに気づいて、また笑ってしまった。
翼は呆れたような顔をしている。
「見つかっているではないか。それも見つかった場所にまた来ている。普通は場所を変えるものだ」
「俺には普通はわかんねえな」
まともに答える気力がなくて、てきとうに言ったつもりだったが、あんがい本音だったかもしれない。
「辞書なら買い与えたはずだが」
翼は言った。この人も真面目に言っているのか、てきとうにクリスの相手をしているだけなのか、よくわからない。
「そうだな、うち帰ってから煙草吹かしながら調べるわ」
「そうしろ」
チャイムが鳴った。翼は立ち上がった。クリスもやや遅れて立った。
うしろをついていく。
翼はわずかに首をひねって、こちらに視線を持って来た。
「もう学校では吸わないことにしたか」
「どうかね、煙草は関係ねえと思うな。なんか、いてもなにもする気になれねえよ。さっきだって、火を点ける直前だったんじゃなくて、点ける気になれなくて、ずっとああしてただけなんだ」
「そうだったか。慌てて取り上げる必要はなかったかな」
あんたが慌てるものかよ。クリスは心の中で反発した。
「さアてね。あと一分か二分来るの遅れてたら、そのあいだに点ける気になって、喫んでたかもしんねえよ」
とクリスは言ったが、それはきっとなかったろうと思う。
教室に戻ってからは、いちおう真面目に授業を受けた。ひとつの教科も抜け出さずに教師の説明を聞き、黒板の文字の羅列をノートに書き留めた。日本語は話せるが書くほうとなると多少苦手だった。画数の多い漢字は文字というより複雑に画かれた絵のようだった。書き写すのはとうていむりだと感じた時は頭の中で翻訳して、スペイン語で書いた。
学生とはこういうものだろうか。これが学生の普通なのだろうか。
帰宅したクリスはぱらぱらと国語辞典をめくった。
普通の意味はよくわからなかった。ありふれた変わり映えのない日々の流れを普通だと言うのであれば、クリスにとって今の生活は普通ではない。この少年にとっての普通の日々は、もっと残酷で冷酷で何事にも不寛容だった。
煙草の箱はハンガーに掛けた制服の胸ポケットに入れられたまま、一本も取り出されなかった。
次の日もクリスは同じ場所に座って、口に煙草を咥えていた。火は点けていない。
昨日一昨日と同じ時間に翼は現われた。煙草を取り上げ、クリスに返却する。煙草は箱に、箱は胸ポケットに、ライターはズボンのポケットに、収まった。
会話らしい会話もないが終始無言だったわけでもなく、ほどほどに短い言葉を交わして、チャイムが鳴るとそれぞれの教室に向かった。
そんなことを何日かつづけた。
ある朝、アパートの一階の郵便受に新聞を取りに行くと、薄い長方形のちいさな箱が入っていた。プレゼントの品ということだろうか、きれいに包装されている。カードが挟まっていた。差出人名のみが記載されていたが読めなかった。こりゃ芸能人のサインってやつだな、字とも絵ともつかぬ複数の線の交差を「風鳴翼」と解読するには、けっこう時間がかかった。
本物か、偽物か、本人に訊くのが手っ取り早い。部屋に戻って携帯電話をかけてみる。すぐに出た。
「差出人あんた名義でちっこい箱届いてるけど、これ本物?」
「そうだ。開けてみろ」
「どうせ学校か仕事場で会うんだから、そン時に渡しゃあいいだろうよ。それよっかこれ、送り状ねえんだけど、まさかポストに直接つっこんだのか」
「そうだ」
翼はそう言って電話を切った。
「物好きなセンパイさんだことで……ホンット、わけわかんねえよ、あの奇人め」
切れた電話に向かって言った。どうせ翼には聞こえないのだ。
ビリビリと包装紙を破いていく。
「なんだこれ」
目に馴染みのあるような、ないような、奇妙な箱があった。
クリスはそれを持って登校した。
いつもの場所に座って、胸ポケットから箱を取り出し、一本抜いて口に咥えた。火はこのところと同じように点けない。点けないままためしに喫んでみた。
ここちよい感触が口から鼻へ、通っていくようだった。
久方ぶりに胸がすうっとした。
取り上げられる。
見上げれば翼がいる。
「どうだ、味のほうは」
「こっちの薬に乗り換えようかって、ちらっと思ったよ」
「ふふ、気に入ったか」
「まあね」
クリスが言うと、翼はココアシガレットをクリスに返した。受け取ったクリスはそれを箱にはしまわず、また口に咥えた。ハッカの爽やかな匂いがすこぶる気分をよくしてくれる。
「なんでまた、こんなもんを」
「そういう気分だったからだろう」
「だろうって、あんたね」
「理由があったほうがいいか」
「まあ、あるなら、あったで」
クリスとてどうしても翼のこの幼稚な遊びの動機を知りたいわけではない。
「携帯電話で日付を確認してみろ」
「おう」
日付がどうかしたんだろうか。クリスは首をひねりながら、携帯電話の液晶モニタに表示されている日付を確認した。
2月14日〔金〕
そうあった。
「これがなんだってえ?」
「バレンタインデーだ」
「なんだそりゃ、これがあんたから俺へのバレンタインチョコってわけか」
「そうなるな」
その風習についてなにも知らないわけでもない。このところクラスの連中も二課の連中も、とくに男性陣が地に足をつけずに、なにやらずっとそわそわしていた。あれもこれもバレンタインデーが近かったからだ。女の子にチョコレートを貰う、貰えるかもしれないチャンスの日の接近を、今か今かと待ち構えていた男連中の姿だったのだ。
クリスはココアシガレットを真っ二つに折って口の中に全部入れると、一気に噛み砕いて飲み込んだ。
けほ、とすこし咳き込む。欠片いくつか喉にひっかかってうまく嚥下できなかった。
翼がペットボトルのミルクティーを差し出した。数口飲んで欠片を落とし切った。
「サンキュウ、センパイ。これ口つけちゃったけどいいのか」
「なぜ雪音との間接キスなど気にせねばならぬ」
翼はクリスからペットボトルを取り上げて、ぐいとミルクティーを飲んだ。大きな嚥下の音が二回鳴った。蓋を閉め、地面に立てて置く。
「雪音」
「なんだい、センパイ」
「これも贈ろう」
翼はちいさな四角いチョコレートを内ポケットから摘み出した。
「どいつもこいつも、ちゃっちいなあ」
本気で不満があるわけでなく貰えるならありがたく貰うつもりだが、それにしてもこどもの駄菓子とは。
ともかくまあ、甘い物は嫌いではない。ありがたく頂戴しようと手を差し出した。
ところが、翼はすずしげに笑ったまま、なかなかそれを渡そうとしない。
クリスは訝しげに眉間に皺をつくった。
「おちょくってんのか」
「いや、なに、雪音からはなにかないかと思ってな。どうせならば、プレゼント交換といこうではないか」
「なに言ってんだ、こちとらなんにもねえよ。あるわけねえだろ、そんな浮かれたイベントの当日だってこと、さっき気づいたとこだ」
「そうか」
翼はまだ笑っている。残念がっているようすは全然ない。
ますますわからない。わからないのもようすがおかしいのもいつものことだ。この人はおかしいことが普通なのだ。しかしこのおかしさは、やっぱりいつものおかしさとは違うとクリスは思った。誰かをからかうような人間だったか、このノッポな先輩は。
翼はチョコレートの包装紙を取り払った。
「あ、なんであんたがあけるんだよ」
「一石二鳥の提案があるのだが」
防人防人と普段からうるさいクソ真面目なこの男の、意外な一面をクリスは見たような気がした。感動はない。これが防人の流儀だろうかとぼんやり思った。
「わかるように説明してくれよ。こちとらあんたみたいな十年選手じゃねえんだから」
とクリスが言うと、
「こういうことだ」
翼は言って、摘んでいたチョコレートをクリスの口の中にねじ込んだ。甘い味がクリスの口内に拡がる。
「お、なかなかイケるな」
などと感心していると、体を抱き寄せられ、いきなりキスされた。
舌を入れてくる。
きもちわるいとは思わないのは典雅なおもだちのせいだろうか。醜いゲリラ兵の怪物みたいな醜い舌とは違って、人気アーティストの舌はやさしかった。
クリスは無抵抗に翼とのキスに応じて、舌を絡めあった。口の中でチョコレートが転がり、溶けてゆく。
(ああ、こういうことね)
クリスは、今自分がこのいけ好かない美貌の先輩に、チョコレートをくれてやっているのだと知った。
(もってけ、もってけ、全部溶かして腹ン中に詰めちまえ)
クリスは急かした。チョコレートが邪魔で舌を味わえない。
やがてチョコレートが溶けきって、後味だけが舌に残った。翼の目的はこれで果たされたはずだが、彼はクリスの腰を抱きかかえたまま、キスを続行した。クリスもそうしてほしかったので、逆らわなかった。
なにかが、カチリと嵌った感覚があった。
クリスは色々なことを脳内で確認した。性別、年齢、場所、それから翼の社会的地位。
これは普通ではないなとクリスは思った。バレンタインデーに男が浮かれるのは普通なことだと納得はできても、これは普通ではなく異常なことだと思う
そのあきらかな異常事態を、なぜだか普通に受けとめ、快楽に浸る自分がいた。
これは薬だが麻薬の類だとクリスは思った。
――この薬はやめられそうにない。
了