恩人依存症・四

 未来は響のほうは一泊だけで寮に帰し、自分は弦十郎の邸に残った。
 風呂も寝床もクリスと共にした。
 夜はふしぎなくらいおだやかだった。クリスはおとなしく眠って朝まで起きない。話に聞いていた奇行はまったくなかった。
 日中は未来が学校に行っているあいだ、邸でひとりになった時に、クリスは手首に刃を当てて切っているようだった。そのたびに未来はクリスと揃いのカッターナイフで自分の手首を切った。クリスはまた泣いて謝って、未来はクリスを抱き寄せて、なぐさめになっていない言葉でなぐさめた。
 まもなく冬期休暇に入った。
 家でつきっきりになったためか、クリスの自傷の回数がかなり減った。トイレに行くクリスに声をかけて、
「これ持っていったら」
 とカッターナイフを差し出すと、クリスはうつろな目でそれを受け取ってトイレに行き、あっさりと手首を切ってみせた。未来の手首に傷がひとつ増えた。また泣き、また謝り、また抱き寄せ、またなだめる。
 夜の平穏なことが、未来の気にかかっていた。奇声もあげなければ暴れまわって部屋をめちゃくちゃにすることもない。未来が風鳴邸にころがりこんで以来、クリスの部屋はきれいな状態を保っている。
 自分が一緒に寝ているせいだろうか。それなら一度違う部屋で寝てみようか。そう思いついた矢先に、ちょっとした異変があった。
 時計を確認したわけではないから正確な時刻はわからない。が、ずいぶんと夜の更けた頃だったと思う。未来は目を覚ました。胸のあたりに違和感があった。なにごとかと思えば、驚いたことにクリスが未来の乳房を寝間着から取り出して吸っていた。
 眉間をしわくちゃにして一心不乱に吸うクリスに、未来は声をひそめて呼びかけた。
「なにしてるの」
 訊いてもクリスは夢中で吸いつづけた。強い力で吸ってくるものだから、未来はさすがに痛くなってきて、やめさせようとしたが、どうもクリスが泣いているようだったので、引き剥がそうとした手をとめて、背にまわしてなでてやった。
 なぜクリスが泣いているのか未来は想像を飛ばした。未来の望まぬことを強引にやっていることにもうしわけない気持ちで泣いているのか、あるいはただ母が恋しいだけなのか。両方なのかもしれない。どちらでもないのかもしれない。意味も理由もなく目から液体が流されているだけかもしれない。
 とりあえず未来は、
「吸っても母乳なんか出ないよ」
 とだけ言って、あとはクリスの背をなでるために造られた機械みたいに、意識から離脱したその手を、クリスの気の済むまでうごかした。そのうちウトウトとしてきて、未来はふたたび眠った。機械化した手が停まったのはその時である。
 朝起きるとクリスが泣いていた。未来の膝につっぷして謝りつづけた。幼児みたいだと未来は思った。してはいけないことをしたちいさなこどもが、親に謝っている姿そのものった。未来の乳を吸っていたのもそのために泣いていたのも、やはり母親が恋しくてそうしたのだろう。未来は納得した。たった今気づいたが寝間着もそのままだ。未来はボタンをしめた。どうせすぐに部屋着に着替えるのだが、はだけられたところから寒さが侵入してきてかなわない。
 クリスはずっと謝っている。
 気にしないでと言いたいところだが、気にしてないことは全然ないので、言うに言えなかった。流さずに追及したほうがいいと思ったし、なにより乳首がまだ痛い。
「謝るのはあとでいいから、なんでこんなことしたのか教えてくれない?」
 と言って、未来はクリスの頭をあげさせた。謝らなくていいと言えばクリスはますま謝り倒すだろうから、そうは言わず、あとまわしにさせた。それでもクリスは、
「ごめんなさい」
 と言ってしまうわけだから、未来にはほとほと困ったことだった。なのに、かんじんの理由については、口をもごもごさせるばかりで、いっこうに喋らない。喋ろうと懸命になっているのはわかるが、言葉にして出せないでいる。
 これはどうしたものか。謝罪とまとめてあとまわしにすべきか。
 未来は黙考を始めた。
 その沈黙をどう受けとめたのか、クリスの目に怯えの色がついた。
 未来は無視した。無視しながらじぃっとクリスを見つめた。
「クリス」
 頬に手をあて、親指でかるくなでる。
「私たちって、友達なんだよね」
 未来が言うと、
「うん」
 クリスはあんがいに明瞭な声で言った。
「揉まれることはたまにあるけど、さすがに吸われたのは初めてだったわ」
 クリスはまたうつむいてしまった。泣くのは堪えているようである。体がかすかにふるえている。
 涙を堪えるより自傷をやめるほうが、今のクリスにはむずかしいらしい。
 未来は溜息を吐こうした口を手でおさえた。べつだんクリスに呆れたわけでも嘆いたわけでもないが、ただふいに出そうになったのだった。咳をしてごまかす。そのあと、クリスの表情に変化がないか観察した。未来の咳にクリスは無反応だった。どうやらありもしない意図を見つけられはしなかったようだ。心の中で安堵の息を吐いた。
 それにしても、怪我をした時にこそ涙を流すのが普通だろうに、クリスは自分の身に自分で怪我を負わせても、一滴の涙も流すそぶりがない。未来が自傷した時やマリアの夢を見た時などにあっさりと多量に垂れ流される涙は、クリスがクリス自身を傷つける時にはいったいどこにしまわれているのだろうか。
 ――それなら、他人に傷つけられた時は。
 一瞬そんな考えが頭に浮かんで、未来はすぐさま排除した。わかりきったことだ。いまさら疑問に思うことではない。
 未来はうつむいているクリスのひたいを、中指の爪ではじいた。
 いたっ、とちいさく悲鳴をあげたクリスの目には、涙が溜められている。
 未来はなんとなく、ひたいの痛みのせいにしたくなった。

 朝食後、未来はクリスを公園に連れ出した。
 台所を借りて弁当を作ってそれをかばんに詰めて家を出たのは、九時半頃だったろうか。
 青い空である。雲の量はそれほどでもなく、日射しはやわらかく、冬のぴんと張った澄んだ空気が、そよりと流れては、緑の沈んだ樹木を微妙にざわつかせていた。
 あいているベンチを指さして未来はクリスを導き、そこに座らせた。
 未来の頬の傷は今でもわりとくっきり残っていて、それに気づいた人が時々、すれ違った直後に驚きの目をもって未来の背に振り返ってきた。クリスはよほど心苦しかったのだろう。ベンチに着くなり未来に謝った。
 しかしこの頬の傷は未来が自分でこしらえたものであり、それにクリスがまったく無関係ではないにしても、責任の所在がクリスにあるはずもなく、したがって謝罪される筋合はないと未来は考えているが、未来は気に病む必要はないとか謝らなくていいとか言わなかった。クリスがそうしたいのならすればいいのだ。それでクリスの気が済むのなら。
 それからもうひとつ、自分でやったこととはいえ、未来はやはりひとりの年頃の女の子として、行き交う人々の視線が気になってはいたし、胸になにかいやな重いものを感じていたのである。
 視線を浴びるのは仕方ない。振り返られるのも当然のことだ。自業自得とわかりながら、周囲の目が気になるのは、これも仕方のないことだった。
「やめる気になった?」
 未来は訊いた。
 頬の傷はさておいて、クリスが自傷をやめれば、この先未来の傷が新たに生まれることはない。
 クリスは首を振った。
「フィーネに会いたい」
 と言った。答えになっていない。やめるともやめないとも言わず、自分の願望を言っただけだ。
 この気持ちは切実だった。
 フィーネがクリスの生きているうちにふたたび転生し、目の前に姿を現わす保証なんてどこにもない。クリスは無茶を承知でそんなことを夢見ているのだ。ほとんど不可能と知りながら諦められないのだ。
 両親の雅律とソネットの死は覆しようのない事実だが、フィーネの場合はそれとは事情が違った。死んだと言い切れないところがあった。だからフィーネをたぐりよせるクリスの知ってる唯一の方法を、フィーネと再会することを諦めない以上は、クリスはやりつづけなければならなかった。
 求めることをやめてしまえば、フィーネはついに完全に自分への関心をうしなうだろう。クリスはそう信じていた。そうなってほしくなかった。愛してくれなくてもかまわない。見てくれなくてもいい。ただそばにいてほしい。
 クリスは未来にそう言った。
 もう何度目かもわからぬ同じ内容の告白を、未来はこの時も黙って聞いていた。
 こういう素直さを、多分、クリスはほかの誰にも見せない。そして多分≠ニ言うあいまいな言い方をするなら、多分マリアにも同じ素直さを見せるのではないかと未来は思った。
 自分はクリスの友達のはずだ。幾人かいるクリスの友達の中で、ちょっとした特別な響きを持っているのが「小日向未来」という自分の姓名のはずだ。だからクリスの狂乱をとめるために、未来は自分も狂ったような行動をとることにした。クリスは渾身が狂気に染め抜かれているわけではない。狂人と同じ種類のことをしているだけで狂人そのものではない。他者の、それもかけがえのない存在の狂気を見ればいやでも正気に戻ると考えた。未来が手首を切るたびにクリスが泣くのはそこに正気があるからだろう。
 ――それはいいんだけど……。
 と未来は考えながら髪を小指で掻いた。
 特別な友達というのはかまわない。それは未来にとってちょうど幼馴染の響に当たる存在なのだろうと思う。
 未来は自分のクラスメイトの顔と名をひとりずつ思い浮かべて、彼女たちの軽重をおおざっぱに振り分けていった。どう考えても、いつもつるんでいる響・詩織・弓美・創世の四人は他の友人とは格別であるし、とりわけ響の存在は重い。序列はどうしたって生まれる。そして、それは、あえて邪悪と呼ばれるものでもないだろう。
 だが、フィーネやマリアと同一視されるとなると話は違ってくる。特別な友達ではなく友達以外の何者かにされてしまっている気がする。それをクリスは友達だと勘違いしている。
 はっきり言ってしまえばクリスは未来を母親だと思い込んでいるのであって、だから泣いて謝ってもついぞ自分の行動を改めようとしないのだろう。我が子が自傷に走ったとする。母親はそれを治そうとする。そして叱りつけるかもしれないが、同時に赦しもする。赦してもらえるから結局やめない。そのために母親が傷ついても母親が我が子のために傷つき嘆きかなしむのは当たり前のことだから――
「って、冗談じゃないわ!」
 未来はクリスの側頭部をかるく小突いた。
「な、なんだイキナリ!」
「響といいクリスといい、なに、なんなの? 私はふたりのお母さんでもなければ保護責任者でもないんだけど!?」
 そりゃあクリスに対しても響に対しても、未来にはある一定の責任があることは理解しているが、この場合はそうではなくて。
「なんであいつの名前だすんだよ……」
 小突かれたところを手でおさえながら、クリスはまなざしを下げた。小突かれたこと自体はどうでもよさそうで、お母さんの部分も保護者の部分もクリスは無視した。あきらかにクリスは響に嫉妬していた。
 未来はむかむかと腹が立ってきた。
 近頃未来は響をほったらかし気味でクリスにつきっきりになっている。冬期休暇に入ってからは時々寮に帰ったり響が邸にやって来たりしたが、毎日朝から晩までべったりだった夏期休暇とは、比べものにならないほど響との接触が減少している。
 このまま未来がクリスの世話をつづけたらどうなるだろうか。もしかしてクリスは、この状態が保たれれば、未来にとっての自分の存在感が、名実ともに響を上回るとでも思っているのではないか。
「私たちって友達よね?」
 むかつきを吐き出すついでに、未来はまた訊いた。
「うん」
 やはりいやに明瞭な声で返事を寄越してくる。
「友達でなけりゃあ、なんなんだ」
「お母さんとか」
「年下のママかあ」
 クリスは笑った。ころころと気分が変わる。クリスには未来をバカにしたつもりはないだろう。ただおもしろかったから笑っただけだ。
 未来は喉まで出かかった不快を削除した。
 おもしろいことに笑い、たのしいことに笑うならそうすればいい。歳の二桁にもならぬ頃にうしなった平穏と普通をようやく取り返したところだ。自ら手放すのはいかにもバカらしい。
 だが、とうのクリスに手放す気はなくても、手放さなければ手に入れられないものを必死で手にしようとしている。それだってクリスが、うしないたくなかったのに、うしなってしまったもののひとつには違いなかった。
 未来は頭の中でクリスの心の秤をかたちづくってみた。皿の沈んだほうに乗せられている錘が、クリスの手にできるものだとする。まず「フィーネ」の錘を乗せ、もうひとつの皿に「小日向未来」の錘を乗せる。この秤のどちらの皿が沈むのか未来にはわからない。傾きを争って揺れるかどうかさえ想像がつかない。
 クリスは両方の錘を得ようとしている。そうでありながら、均衡を保とうという気はまるでない。ようするに折合とか不誠実な意味でのテキトウというものを彼女は知らないのだ。全部諦めるか、絶対諦めないか、そのどちらかしかない。
「ねえ、フィーネさんってどんな人だったの」
 未来は訊いた。以前クリスの口からフィーネの人物像について短評を聞かされたことがあるが、あれはすこぶる悪いものだった。
「イヤなやつだったよ」
 クリスはあっさりと言った。
「フィーネさんに会いたい?」
「うん」
 この声にはくぐもりがあった。
 クリスのこの感情は、会いたい、より、帰りたい、のほうが正確な言い方なのかもしれない。見捨てられても殺されそうになっても、クリスはフィーネのところに帰りつづけた。そこしか居場所がなかったからだ。
 フィーネが死んで、クリスは違う居場所を提供された。そこはクリスのお気に入りの場所になった。物質的にはフィーネの邸に替わって弦十郎の邸に帰るようになった。
 クリスは今の居場所を捨ててフィーネのところに帰ろうとしているのではなくて、そこにフィーネの存在を付加して、また以前のように彼女のもとに帰りたがっているのではないか。
 未来はもう一度クリスの秤を思い浮かべた。未来の錘の乗っている皿に、クリスの身近な人物を片っ端から乗せていく。まず響、翼、弦十郎に、他の二課の職員たち、クリスと話をしている時にたびたび出てくる同じクラスの誰それ……、秤の揺れ方が、未来には想像できない。ためしにフィーネの錘を未来の錘のとなりに置いた。皿はあっさりと沈んだ。
「家に帰ろっか」
 未来はベンチから腰をあげ、服をはたいて埃を落とした。
「え、もう帰るの? 弁当は?」
 クリスはきょとんとした目で未来を見る。
「それは家で食べたらいいし」
 だが、その家がどこにあるのか、未来は知らない。
「ねえ、クリス、案内して」
「案内ってどこに案内すればいいんだ。ってか、家に帰るんじゃないのか。どっか寄っていきたいとこあるのか」
「寄り道じゃなくてまっすぐ家に帰るの」
 未来は弁当を入れたかばんを腕に掛け、クリスの手を両手で掴んで強引に立たせた。
「だから、どこにだ」
 クリスの言い方にいらだちがある。からかわれていると思ったのだろう。
 未来は真剣だ。
「知らない。だから教えて」
 クリスはますますいらだったようすだった。未来の意図はクリスにはなかなか伝わらない。
「クリスのおうちに、帰るのよ。私は場所知らないけど、クリスは知ってるでしょ?」
 と未来はクリスの手を捕まえたまま言った。
 クリスの顔がすこしずつ青ざめていった。それがクリスが未来の意図を理解していく速度だった。
 クリスの唇が、ふるえながら、なにかを言った。声はしなかった。音さえなかった。
 ――そんなの、もう、ない。
 青白い唇はそう言っているようだった。

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