始業式当日は天気予報どおりの大雪だった。
邸の屋根も庭も、周辺の道路も、一面に雪が積って真っ白だった。
行きは弦十郎がくるまを出して、未来と翼を学校まで送っていくことになった。弦十郎はふたりを送ったその足でそのまま仕事に向かう。したがって、始業式が終わって未来が帰って来るまで邸にはクリスひとりきりになるが、クリスを長時間そうしておくのは、久しぶりのことである。
未来の胸に不安がないことはない。
クリスはあいかわらず朝食を食べ終えると、すぐにこたつに寝転がって眠ってしまった。そのせいで未来は、いってきます、の一言を言えなかった。そのことが心のしこりとなって残っている。たったそれだけのことを、未来は会話のない車中で繰り返し後悔した。むりに起こしてでも言うべきだったのだろうか。
クリスだって今日の予定を知らないわけではないが、それでも彼女に黙って邸を出てきたことが、罪悪感をともなって、未来を強烈に責め立てるのだった。
カッターナイフの刃が出てくる音が聞こえた。
鈍色の空と雪の下に沈んでいく音の中で、その軽薄な金属音がいやに生々しい響きで未来の耳の裏を打った。不快な音だった。知らず未来は眉間を歪め、首を振った。こんなものはただの空耳だ。ありもしない音だ。現実ではない。
「顔色がよくないな」
と翼に言われた。
「クリスのことが、すこし心配で」
未来は正直に言った。
「そうか。……」
それきり翼はなにも言わなかった。未来とクリスについて、あれこれ問わず、関わらない。そういう約束を最初にしている。未来はいまさらになって、失敗だったかもしれないと思い、あるいはもうその約束を解除しようかとも思った。
翼と弦十郎に、昨日フィーネの邸であったなにもかもをぶちまけたい気分に、未来はにわかに陥ったのだった。
学校に到着して、翼と別れて自分の教室に入ると、なにやらすっかり懐かしいような顔ぶれが未来を出迎えた。
その先頭に立つ響の笑顔が見慣れたそれとは違い、すこし暗かったのは、彼女もクリスのことが心に引っかかったままだからだろう。気の置けない親友との再会に浮かれきってほかのことを忘却する性格ではない。響はうわべは大らかだが、存外きめがこまかいのである。
「雪、凄いよね」
と創世が言いながら、未来の髪や肩に残ったわずかな雪を手で払った。皆登校には一苦労あったようだった。
それからいったん席について、おもに冬期休暇中に起こった出来事を報告し合い、笑い合った。未来は自分からはあまり話さず、話すにしてもあたりさわりのない内容に終始した。
HRと始業式はつつがなく終了した。
帰り際、未来は廊下でひとりの上級生に呼びとめられた。
その上級生はクリスの友人だった。五代という背の高い上級生である。
クリスの近況について訊ねてきた。さすがに翼さんには話しけづらくって、と苦笑を前置きにして、
「雪音さんの風邪、長引いてるみたいだけど、体調のほうはどう? さすがに冬休み中ずっと風邪だったわけじゃないよね? またぶり返してきたの? まさかインフルエンザとかってことは……」
と五代は言った。そういえば風邪ということになっていた、と未来は言われて思い出した。
「風邪はもう治ってます。でも体のほうはまだちょっと元気がないみたいで。このところ雪がつづいていますし、それもあって」
未来はてきとうに言い繕った。
「そう」
五代は言って、
「雪音さんと話す機会があったら、よろしく言っておいて。授業遅れた分取り返す時は協力するからって」
と未来に言伝を頼むと、去っていった。
五代は二学期の終業式の時に、課題のプリントや教室に置きっぱなしにしていた教材などを家まで持って来てくれたひとである。
ここで、わざわざ未来に話しかけてきたのは、すでになにがしかの異常を感じていたからかもしれない。
そう思うと未来はやはりどうしようもない不安感に襲われた。邸に残るクリスが気になって仕方がなかった。しかし未来は口をひらくと、それとは正反対に、
「響、帰りに寮に寄っていくね」
と傍らに立つ響に言った。
響はうなずいたが、未来からなにを察したのか、その眉には暗い陰翳が落ちていた。
寮の部屋に入ると響が、
「コーヒーか紅茶でも淹れよっか」
と気を利かせてくれた。
「じゃあ、紅茶で」
「ミルクティー?」
「うん」
「わかった」
しばらくして響の淹れたミルクティーがテイブルに置かれた。
「おまちどお」
「ありがと」
未来は一口飲んだ。この味もずいぶんと久しぶりのような気がする。
「何時くらいに師匠んちに戻るの?」
と響が訊いてきた。
未来はカップを置き、
「電話がかかってきたら」
と答えた。たった今思いついた。そうだ、そうしよう。未来は決めた。クリスから電話がかかってきたら邸に戻ろう。そう思って携帯電話をカップのよこに置いた。
未来が今寮にいるのは、当初の予定にはなかったことで、もちろんクリスの知らないことだ。クリスは始業式が終われば当然未来はまっすぐに帰って来ると思っているだろう。あるべき帰宅時間を過ぎても未来が帰って来なければ、この大雪である、心配して連絡のひとつでもしようとするかもしれない。未来はそれを待ってみることにした。
テレビをつけて、昼のニュース番組を見ながら、響の淹れてくれたミルクティーを飲んだ。
会話はほとんどなかったが、未来はそれを苦痛とは感じなかった。こうしてふたりきりでたあいもない時間を過ごすことも、やはり久しぶりのことだった。短い談笑も、長い沈黙も、ここちがよかった。
クリスの一件以来、響は師・弦十郎の邸にあまり顔を出さなくなった。未来とのあいだに話し合いや約束があったわけではなく、響が自身でそう選んだのである。時々電話をかけてきて、近況などを訊いてくることはあった。まったくの無干渉でいるわけでもない。ただ、頬の傷についてはなにも言ってこなかった。
「夜はどう? 眠れてる?」
と未来は訊いた。
「うーん、どうだろ。夜中に目を覚ましちゃうこと多いけど、へんな夢は見てないよ」
と響は答えた。
「それなら、よかった」
へんな夢、という言い方をしているが、ようは悪夢のことである。さらに言えば中学生の頃のそれである。未来がいなくてもそうした夢を見ないですんでいるなら、未来としてはひとまず安心できる。
「クリスちゃんのほうは、どうなの? 前に師匠んちに行った時は、けっこう顔色よくなってた気がしたけど」
「今日しだい、かな。たぶん」
未来は嘆息と一緒にもらした。
きっとそのとおりだと思う。
未来はふと、クリスの背中を思い出した。辞書を取りに行ったきり戻って来ないクリスを追って部屋に入った時に見つけた、微動だにしないあの背中である。それから、ちいさな笑い、ふいにひらかれた背の裏側、辞書の上に置かれた刃の出ていないカッターナイフ……
今日、弦十郎の邸に戻った時、クリスがどのような状態でこちらを迎えるのだろうか。それを想像した未来は、にわかに自分の足が二度目の大きな岐路に立ったような気持ちになった。
気がつくとカップがからになっていた。
「淹れようか?」
と響が言った。未来はお言葉に甘えることにした。
暖房を効かせているせいなのか、緊張のためなのか、唇と喉が渇いて仕方がない。
外では雪がはらりはらりと降っている。勢いは朝ほどではない。
連絡が遅ければそれの分、未来の帰宅も遅れる。遅すぎると今度は未来は寮から帰れなくなってしまう。あるいは翼のほうが先に帰って来れば、事によっては、クリスではなく翼が連絡を寄越してくることもあるだろう。
――電話がかかってきたら。
未来はその携帯電話に目を落とした。
その時、液晶に出現する名前は、雪音クリスでなくてはならない。なにが起ころうとも、なにも起こらなくとも、未来にいの一番に連絡してくるのはクリスでなくてはならず、翼や弦十郎では意味がない。
携帯電話を睨む未来の胸のどこかで、軽薄な金属音が低く鳴った。
電話は鳴らない。液晶の時刻表示は二時を過ぎた。
まだ眠っているのか、起きてはいるがひとの帰宅時間など気にも留めていないのか。
重い溜息を吐きそうになった未来は、つとめて軽い声で、
「おっそいなあ」
と言って、未来は携帯電話を手に取った。
「クリスちゃんからだよね、待ってるの」
「うん。出る時寝てたけど、まだ寝てるのかしら」
未来は言った。
昨日の疲労はもちろんまだ残っているだろう。一日中眠っていたくなっても仕方がないかもしれない。そう思った時、未来は自分も眠くなって、ちいさくあくびをした。そのあと、もしかしたら風邪を引いたのかもしれないと、ようやくそのことに想像が及んだ。ずっと雪に打たれていたのだから、ありえないことではなかった。
そうであれば、ここでクリスの電話を待ちつづける理由も張る意地もないだろう。
――前言撤回して、すぐにも邸に戻ろうか。
そんなことを考えていると、持ちっぱなしの携帯電話がけたたましく鳴った。
「わっ」
とおどろいて、未来は思わず電話を落としそうになった。
「言ったそばからだね」
響の苦笑がちらりと見えた。
液晶に表示された名前を見て、一瞬みょうな緊張感が胸をよぎり、すこしふるえた指で受信ボタンを押した。耳にあてる、
「もしもし、クリス?」
「お前今どこにいるんだ? なんか遅いけど、なんかあったのか?」
寝ぼけた声が聞こえてきた。響にも聞こえたらしい。彼女は未来より先に、そして未来よりおおきく安堵の息を吐いた。
「寮にいるわ。響のところ。雪が凄くて……こっちのほうが近かったから――。それよりクリス、もしかしてずっと寝てたの? ああ、途中で起きたのね、えっ、電話? したの? ごめん、気づかなかった。それっていつ頃……ああ、その時間だとまだ学校終わってないから……ううん、泊まっていかない。今から帰るから、うん、うん、じゃあね」
電話を切って、
「弦十郎さんの家に戻るね」
と未来は響に言った。
「送ってくよ」
と提案した響に未来は首を振って、だいじょうぶ、と答えた。それでも響は、
「じゃあ、せめて門まで」
と言って、先に立ち上がった。
未来も腰を上げた。
階段をおりて、傘を差し、門までの路をすこし歩いた。雪はもう朝の激しさをすっかり失っていたが、足もとはずいぶんと積っていた。
「ありがとう、響、また明日」
「うん、明日……」
そう言ってから響はちょっとうつむいて、なにかを考えていたが、やがて顔を上げ、
「あの、どう言っていいのかわかんないけど、その、とにかく……がんばって!」
と言って、両手に拳をつくった。
「わかった、がんばる」
響の拳を、こつんと自分の拳で突いて、未来は笑った。