フィーネに拉致されてからおよそ二年が経ったある日のことだった。
これまで邸外に出ることを一切禁じられていたクリスは、その夜初めて外出することを許されたのだった。夜と言っても時計はすでに二時を過ぎており、クリスは当然眠っていた。それを叩き起こされた上で、これから出かけるからついて来なさい、そう言われたのである。
昼間買って来たらしい真新しい服を着せられ、その上に袖のついたケープを羽織らされ、最後にニット帽を被せられて、クリスはフィーネのくるまの後部座席に乗った。
「こんな時間に、どこに行くんだ?」
と寝ぼけまなこのクリスが訊くと、
「そうね、海にでも行こうかしら」
とフィーネは答えた。それから、あまり窓から顔を見せないように、と言った。
クリスはいちおうそれに従ったが、ずいぶんと、言ってはなんだが無駄に念入りなことだなと思った。見られたところで、誰も自分が南米からの帰国後、突然行方不明になった故雪音夫妻の一人娘などとは気づかないだろう。
二年経つとこの生活に不自然さを感じなくなった。フィーネと暮らす日々が当たり前のものとしてクリスの中にあった。拉致された、という感覚は日に日に体から剥がれ落ちていって、今は見る影もない。
フィーネは恩人だ。拉致犯だが、それ以上に恩人なのだ。フィーネがいなければ自分は今でも半ば死んだままだっただろう。そんなふうにクリスは思っている。何事も無く政府に保護され、何事も無く政府から与えられた生活の中で、はたしてこれが手に入れられていたかどうか、クリスには甚だ疑問である。
ひどく空虚な心と誰が動かしているかわからない体を引き摺って、用意されたチャーター機に乗って日本に帰って来た。その状態はフィーネの横槍がなければ今もつづいていたと思う。
フィーネはクリスに様々なものを教え、与えてくれた。それが今のクリスの活力になっている。すくなくとも今の自分は心も体もしっかりと生きている、と感じられる。
人と人との繋がり、心の絆、世界の在り方、両親の命を奪った戦争、その火種を消す方法と実行するための力、……。
それらのひとつひとつを思い浮かべながら、クリスはバックミラーに目をやった。フィーネの金色の目がそこには映っていた。もちろん、こちらを見てはいない。
窓に顔をくっつけて外の景色を見ていると叱られた。クリスはすぐに首をひっこめた。フィーネは恩人だが、恐い女なのだ。なるべく機嫌は損ねたくない。
このくるまは海に向かっているらしいが、クリスは海にはさして興味を惹かれなかった。また、どうして海に行こうと思ったのか、それにクリスを連れて行こうと思ったのか、よくわからない。
深夜の二時にむりやり起こされた。乗せられたくるまからは顔を出すなと言われた。暖房は暖かかった。眠気を誘発する要素はいくらもあった。
クリスはついにシートベルトをはずして、後部座席に寝転がった。目をあけて、かすかに視界に映るフィーネを見ていたが、それも困難になってきた。クリスは目をつむった。それからいくらもかからずに、クリスは完全に眠ってしまった。
フィーネの運転するくるまが港に近づいていった。ただでさえ少ないくるまの量はさらに減った。途中、コンビニエンスストアに寄って、フィーネは短いペットボトルのホットレモンを二本購入した。
突堤にくるまをつけた時、フィーネは後部座席のクリスに声をかけた。反応がないので、振り向き、もう一度声をかけた。やはり起きる気配はなかった。フィーネはホットレモン一本片手に運転席から出ると、突堤をすこし歩き回った。たまにホットレモンに口をつけて、白い息を吐き出した。黒い海を眺めた。昼の海の色とはまるで違う色だった。
くるまに戻って窓から後部座席を覗いてみると、クリスはまだ眠っていた。フィーネは運転席に座った。暖房の効いた車内に一瞬冷たい空気が入りこんだが、すぐに消えた。
フィーネはまたホットレモンを一口飲んだ。
背後で起っているだろうクリスの寝息は、エンジン音にまぎれてフィーネの耳には聞こえてこなかった。
ホットレモンを飲み終えると、フィーネはふたたびくるまを発進させた。フィーネの運転はけっこう荒っぽい。それなり衝撃と振動が座席にあったに違いないのにクリスは起きない。すっかり寝入っているようだった。
邸のある高台の道にさしかかった時、クリスは目を覚ました。身を起こして、
「海、ついたの」
と言った。
「海にはもう行ったわ。起こしても起きなかったのよ、あなた。もうすぐ家に着くわ」
「あっ、帰りなんだ……」
クリスは残念そうに肩を落とした。
「残念だったわね。ま、そのうちまた連れて行ってあげるわ」
「べつに、いいよ。家に湖あるじゃん」
とクリスは未練を捨て去った声で言った。
「海と湖は全然違うでしょう」
とフィーネが言うと、
「連れて行ってくれるの? 本当に?」
とクリスが座席にしがみついて言った。べつだん海に行きたいわけではないが、フィーネと一緒にどこかに出かけられるなら、そうしたいと思った。フィーネは仕事が忙しいらしく、帰宅は遅いことが多い。何日も帰って来ないこともある。
「夜になったらね。日中は駄目よ」
「わかってるよ」
クリスは座りなおした。
くるまは高台を登ってゆく。
ふたりの暮らす邸に近づいてゆく。
ほどなく邸が見えた。
(お出かけが終わる……終わっちゃうのか、もう。ずっと寝てたのに、なにもしてないのに)
クリスはきゅうにさびしく、かなしい気持ちになった。
くるまが停まった。
ふたりはくるまから降りた。
「寒い」
とクリスは身を縮めた。フィーネはクリスの肩を抱き寄せた。それだけでクリスの寒さがかなりやわらいだのは、多分に精神的な要素があったろう。
フィーネは邸に入ると、クリスを抱えたまま自分の部屋に行った。
着ていた服を脱いで、下着姿でふたりはベッドにもぐりこんだ。
一緒に眠るのは久しぶりだった。ここに連れて来られた当初は、いつも一緒に眠っていた。クリスを懐柔するためにそうしていたのかもしれない。そう思いつつ、クリスはフィーネと寝床を共にできるのは嬉しかった。
「つぎはいつくらい?」
とクリスは訊いた。
「さあ、いつくらいかしら」
「早いほうがいいな。明日とか明後日くらい」
「急くのね」
クリスは多弁になって我儘を言った。フィーネはそれを叱らなかった。
「早くしないと、やること始まっちゃうだろ。そしたら、そんな時間とれないから」
クリスがそう言っても、フィーネはもうなにも答えなかった。
眠っているわけではなかったが、クリスの話につきあう気もなかったのだろう。
クリスはふてくされた。ここはどうしても約束がほしかったのだ。だが、諦めなければならないこともいやというほど承知していた。これ以上しつこく言えばフィーネは機嫌を損ねるどころか大いに激怒し、クリスを虐待するかもしれず、さらに海に連れて行くことも二度としないだろう。
クリスは布団の中に頭まですっぽり入って目をつむった。眠気はどこかに消えていた。かわりに興奮が湧き起こっていた。その興奮で火照ったような、寒さで冷え切ったような体温の体を、フィーネが胸に抱き寄せた。
今日のフィーネはやさしいのかもしれない。クリスはいったん目をひらき、おそるおそる手を伸ばして、フィーネの腕を掴んだ。拒まれなかった。クリスは安堵して、また目をつむった。興奮はまたたくまで鎮まり、行方不明になっていた眠気が再来した。
そして、クリスは、夢を見た。
フィーネに連れられてドライブをして、港の海を見る夢である。その海は夜の海でなく昼の海で、青黒さをたたえた海が、白い太陽の光をきらきらと反射させていた。
およそありえない光景だったが、クリスはすんなりと受け入れてその夢に浸った。
朝、目を覚ました時、フィーネはもう仕事に出ていなかった。
食堂にはフィーネの作ったトーストとハムエッグと、それからペットボトルのホットレモンが置かれていた。
「なんだろ、これ」
クリスはペットボトルを手に取った。これだけがフィーネの手作りでなくて、いつものクリスの舌に合せた甘ったるいコーヒーではなかった。実におかしな存在だった。
眠っていたクリスは、夜のドライブ中にフィーネがクリスのためにホットレモンを購入していたことを知らなかった。
「まあいいや。いただきます」
そう言いながら、クリスはひっかかりを取り除けなかった。どうしてこれだけがいつもと違うのか。このペットボトルにはなにか不吉で不安なものを感じた。どうしようもない恐怖心があった。
クリスはトーストとハムエッグを急いで腹に詰めると、ホットレモンを一気に飲み干した。ほんとうはこんな得体の知れないものを飲みたくなかったが、フィーネに叱られると思って、一気に飲んだのである。それから自分でコーヒーを淹れて、これもまた一気に体に流し込み、ホットレモンの味と不吉を排除した。
寒い朝の、ひとりきりの食事だった。
その寒い冬を越えてほどなくして、フィーネは死んだ。
二度目のドライブは実現しなかった。
クリスは電車とバスを乗り継いで、おそらくあの夜フィーネがくるまを停めただろう突堤に行った。そこであっているかどうかはわからなかった。
突堤に辿り着いたクリスは、そこに腰を降ろし、夜を待った。季節は夏に入っていて、日が落ちても寒さは感じなかった。
退屈に耐えてじっとしてると眠気がやって来た。
携帯電話で時間を見る。二時を過ぎていた。
頃合だ。クリスは立ち上がって、海を見た。夜に沈んだ暗い海だった。
駅の購買で買ったホットレモンのボトルの蓋をひねってあけ、一口それを口に含んだ。
「レモンみたいな味がする」
当たり前の感想を独り言でもらした。
あの夜、フィーネはどうしてクリスをここに連れて来たのだろうか。
新しい衣服を買い与え、ホットレモンを買い与えて、ドライブに連れて行って、夜の海を見せて、そうしてクリスに、なにをしようとしていたのだろうか。
「ちゃんと起きていれば、それもわかったのかな」
――なあ、フィーネ。そう呼びかける声に応える女はどこにもいなかった。
了