先方のごたごたがあって、予定されていた写真撮影とインタビューがなくなり、風鳴翼のスケジュールは、丸一日、突然ぽっかりと空いた。
その間隙を見逃す気のない響は、
「じゃあデートしましょう、デート!」
とすかさず提案した。
四人でデートすることになった。
午前一〇時に駅近くの公園の噴水前で待ち合わせ、そこから繁華街を巡る。映画、食事、ゲーム、ショッピング。響の立てたおおざっぱなデートプランが、翼とクリスの携帯電話にメールで送られた。
前日、響はそうとう興奮したようで、なかなか眠りつけず、未来は響を寝かしつけるのに苦労した。以前、翼と出かけた時も、響はやはり深夜まで起きていて、朝起きられず、結局遅刻してしまったのだ。
二時半ばを過ぎた頃にようやく響は眠った。待ち合わせは一〇時だから、朝支度を手早くすませば、多少起きるのが遅れても間に合わせられる。服はもう用意してある。前回のように朝慌てて選ぶこともない。未来はそう算段しつつ眠りついた。
朝になった。
ベッドの上段はこういう時に不便だと未来は思った。むりやり起こして洗面所まで引き摺っていくことができない。足を踏み外して落ちてしまったら事である。
なんとか響の目をひらかせて、ベッドから降りるように言った。ぼんやりとした頭の中に翼との約束がちゃんとあるのか、響の足は思いの外しっかりと洗面所にむかっていった。未来は響についてゆき、歯磨きと洗顔を手伝った。タオルを顔におしつけてらんぼうに拭い、ひどい寝癖の髪をととのえてやる。響はされるがままになっている。
朝ごはんはトースト一枚にホットミルクで軽く済ます。
外出着に着替え、パジャマを洗濯機に放り込んだ。乾燥までやってくれるから、帰って来てからアイロンがけをすればよい。
「気温、ちょっとあやしいかも」
と響が言ったので、なかに一枚多めに着た。
九時ちょうどに寮を出た。
冬の深まりを感じる空気があった。
空は晴れている。時間を追って日射しがきつくなりそうである。昼頃にはコートを脱ぐことがあるかもしれない。
一〇時前に待ち合わせ場所に到着した。翼とクリスはすでにいた。
「遅かったな」
とクリスが言った。
「九時四六分、早いくらいよ」
と未来は公園の時計を見ながら言い返した。
「なんにせよ揃ったのだ。さあ、ゆこう」
と翼が言って、デートがはじまった。
翼は寒さを感じないのだろうか、寒気のためにこわばっているクリスと違い、表情がやわらかい。機嫌がよいのはたしかだろう。響がうれしそうに翼の右隣を陣取った。
翼は歩くのが早い。響もそれに歩調を合わせているわけだから、未来とクリスは数歩おいていかれるかっこうになった。
クリスが未来の肩を指でたたいた。
「なに、クリス」
「いいのか、あれ」
クリスの指が翼と響の背を指した。
未来は苦笑した。クリスの言いたいことはわかる。が、響はべつに未来の所有物ではない。そして響は、翼のファンなのである。
「いいのよ、今日はそういう日だから」
「意外に淡白なんだな」
クリスは、未来が翼に嫉妬して口をとがらせる姿を想像していたのだろうか。軽い驚きを口にした。
「手を離しても、だいじょうぶだって、わかったから。ううんと、違うかな。だいじょうぶになった、って思えるようになったから? とにかく、だから、四六時中くっついてなくてもいいの、もう」
と未来が言うと、
「前は四六時中くっついてたのか」
とクリスはまた驚いた。
「響は翼さんのこと大好きだもの、せっかくのこんな機会、めいっぱい楽しんでほしいから」
これはまぎれもなく未来の本音である。響はただの一ファンでなく、友人として、翼の身近にいることができるのだ、これを楽しまなくては、もったいないどころの話ではないだろう。
「ああ、そうだな、あいつ、一度も最後までライブ見たことないってしょげてたな、そういえば」
クリスは納得したようだった。
ノイズがいなくなってからは、天候に祟られるようになった。響が会場にゆくたびに豪雨にみまわれた。ドーム公演ならだいじょうぶだろうと思いチケットを取ったら、これも台風直撃で電車が停まり、会場にたどり着けなかった。
つくづく運のない響だったが、幸運なところもある。
「週刊誌に撮られたらたまんねえな」
とクリスは言った。
翼と並んで歩く響は、ついに翼の腕に抱きついた。ファンが見れば暴動を起こすかもしれない。雑誌社の人間が見たら記事にするかもしれない。翼はあまり周囲の目に頓着せず、変装もろくにしないので、見る人が見ればすぐに風鳴翼だとわかる風貌をかくさないでいる。
「そうねえ……」
未来はつぶやきながら、クリスの手を握った。
「なんだ、急に」
クリスは突然のことに目をぱちくりさせた。
「寒いのよ。手が冷たいから暖めて」
「手袋は」
「持って来てない。クリスもしてないじゃない」
「そうだけどさ」
クリスは未来の手を振り払わなかった。未来はクリスのコートのポケットにふたつの手をつっこんだ。最初冷たかった手はしだいにぬくもりをもつようになった。
「これ、見つかったらニュースになるかしら」
「うん? あたしらがか?」
「そう、ご両親は有名人なんでしょう」
クリスは歯を見せてくつと笑った。
「親はともかくあたしのことなんて、誰も知らないよ。家で歌ってただけで、外じゃなにもしてないからな。親にしたって、クラシック畑の人間だ、一般人は顔も名前も知らないさ」
雪音雅律とソネットに風鳴翼ほどの知名度やニュースバリューはない。クラシックファンにもすでに忘れられた名だろう。
「そうなんだ」
「そうだよ」
クリスの声は乾いている。感傷をもたない声だった。
未来はクリスの肩に頭を乗せた。
「ねえ、クリス」
「なんだ」
「サインちょうだい」
「はあ、なんで――」
クリスは今日いちばんの驚きを発した。呆れた、と言ったほうが正しいかもしれない。
「いつか有名になったら、友達に自慢するの。雪音クリスのファン第一号だって」
「べつに、歌でメシ食うつもりは……」
そう言ったクリスは、それでも、なにかはにかむように笑って、――サインなんてないからやれない、けどそれでメシ食うようになったら、その時は最初におまえに書いてやる、と言った。
了