夕食をすませて食器をかたづけているとき、携帯電話が鳴った。未来にことわってからキッチンを離れ、携帯電話を手にすると、相手は翼だった。めずらしいこともあると思いつつも、やはり相手が相手である、響は多少心を浮きたたせながら電話に出た。
「立花の誕生日は今月の十三日だったな」
やぶからぼうに翼は言った。
「誕生日、わたしの、あ、はい、そうです。十三です」
「当日はスケジュールをあけられないので、前日でよければ半日ほど立花の時間と身柄を借りたいのだが、かまわないかな」
と翼は訊いた。
「ええと、それは」
「都合がつかないか」
翼の溜息が聞こえた。
「いえ、ひまですけど……。――えっ、いいんですか?」
声がうわずった。ようするに翼は、響への誕生日プレゼントとしてデートに誘っているのだ。響はようやくわかった。それが声をうわずらせた。(友人同士で遊びに出かけることを響の定義するところでは「デート」と呼称する)
「いいもわるいもない。こちらが訊きたいことだ。それで、いいかな」
「もちろんです、もちろん! よろこんでおともさせていただきます!」
なんで断わる理由があろうか。響は勢いよく首をたてにふった。
「半日……といっても二、三時間ていどだが、たのしんでもらえるようわたしも努力する」
「全力でたのしみます!」
今年度の九月十二日は人生最良の日になるかもしれない。気がつかないうちに手に力がはいっていたのか、携帯電話が軋んだ音をかすかにたてた。
「では、当日――」
と言って翼は電話を切った。
響は携帯電話を耳から離し、胸に抱きしめた。満腔によろこびがひろがっているのがわかる。多忙な翼の時間のいくらかを自分のためにつかわせてしまう、というもうしわけなさはない。それは翼に対していかにも失礼だろう。
「なにかいいことあったの」
キッチンから未来が戻って来た。
「お皿もう全部かたづけちゃったから」
未来の両手にはコーヒーカップがある。
響はコーヒーカップを受け取った。
カップを揺らしながら、響はひとりごとのようにつぶやきはじめた。
「いいことねー、いいことはあったよー、すごい、いいこと。あったっていうか、これからあるっていうか。ふふふ……。未来、知りたい? 知りたい? でもひみぅ――」
弛緩しきった響の顔面を未来が人さし指で押した。
家を出るのは昼食をとってからでいいと翼に言われたので響はそうした。夜景を眺めながらのディナーなどあるはずはなく、夕方には帰宅することになるだろうから、翼がくれた誕生日プレゼントはほんとうにわずかな時間である。その時間の貴重さを響は噛み締め、
「いってきます」
と言った。
「いってらっしゃい」
未来は笑顔で送りだしてくれた。思えば彼女が、音楽に興味のなかった響に、ツヴァイウィングを勧めてくれたのだった。翼の歌との出会いの仲立ち人といってよい。響は心の深いところでこの親友に感謝した。
踊るような足取りで待ち合わせ場所に行った。翼はまだ来ていないのか見あたらなかった。が、じつは翼はもう到着していた。
見知らぬ女性に肩をたたかれた、と響が思ったその女性こそが翼だった。ずいぶんと地味な服装である。有名人のくせに出歩くときに変装らしい変装をしないのが翼の特長であったが、今回はしっかり変装していた。目立つ色の髪は後ろでまとめあげ、それをひさしのある帽子ですっぽりとおおっている。ひとつ、ちょっとは派手といえるのがサングラスであったが、これはマリアの所有物でなかったか。
「マリアにもらったのだ」
変装は彼女の指図らしい。
「似合ってますよ」
「不自然でないなら、よかった」
ほっと息を吐き出してから、翼は響の腕を抱き寄せた。
「わっ」
と驚いた響に、翼はささやいた。
「時間と身柄を借りるとは、こういうことだ」
きもちのよい笑貌が響の視界いっぱいに映った。
「あちこちを歩きまわる時間はない。一ヶ所だけ。時間いっぱいそこで過ごす」
その一ヶ所とはカラオケボックスだ、と翼は言った。
「それって……」
「なかなかいいチョイスだろう?」
翼は自画自賛した。
こくりとうなずいて響を唾を飲んだ。風鳴翼のシークレットミニライブ。なにかとんでもないものを贈られることになってしまった。
「リクエストがあるならわかる範囲で歌おう。立花も歌いたいものがあったら、歌っていいんだ。カラオケだからな」
「じゃあ、じゃあ」
響のあたまがぐるぐると回転しはじめた。デビューシングルからニューアルバムまでの楽曲リストがスクロールされてゆく。これはと思った曲が一〇秒くらい流れてはフェードアウトしてゆく。ひとつ、ある歌のところで停止した。
「あの、ツヴァイウィングの歌でもいいですか」
響はちょっとためらいながら言った。
「それは、ツヴァイウィングのなかのソロ曲ではなくて?」
「はい」
その返事はしっかりとした声で言った。
翼は首をかしげ、
「ひとりでそれは……」
むずかしい、と言いかけた翼は、さきほど自分の言った言葉を思い出すと、にこりと笑って、
「不遜なやつ」
と響の髪をわしゃわしゃと掻きまわした。
カラオケボックスに入った翼は、響をソファに座らせ、まずは数曲、自分の持ち歌を歌った。
響はみじろぎもせずに翼の歌を聴いている。
以前、未来をいれて三人でここに来たときの響はたいそうやかましく、翼の歌にも合いの手をかかさなかったが、いまの響はそれとはまったく違う姿を見せている。
緊張で堅くなっているわけではないと翼にはすぐわかった。全身全霊で、翼からの誕生日プレゼントを受け取ろうとしているのが、いまここにいる響である。
それにしても響のあの真剣な眼差しはどうであろう。よくないな、と翼は感じる。真剣になるあまり、歌を楽しむ、ということに欠けてはいないか。翼は響の真剣さをななめに見ているわけではないが、なにごともほどのよさが必要なのである。
――立花を楽にしてやろう。
と心中思ったことを、もしも口にしていたら、それはもはや介錯人の口上である。
翼は響の気組みを崩すために、響の友人の力を拝借することにした。昨年の秋桜祭で彼女たちが歌っていたあの妙に熱い歌である。
イントロが流れた瞬間、響は目をみひらいた。
唖然とする響に、翼はタイトルが表示されたモニタにマイクをむけ、これ、これ、と示した。それから手招いた。歌はもう始まっている。歌いながら翼は響を手招いた。こっちに来い、とマイクを持っていない手を響に伸ばした。
響が腰をうかした。間奏で展開されるミニドラマは翼ひとりではむりなのである。翼よりも響のほうがそれをよく知っている。
予定より早く、響は翼のとなりに立ち、マイクをもって、一緒に歌うことになってしまった。最初はとまどいの強かった響だったが、歌の力か、友人の思い出の力か、ときどき笑いで声をふるわせながら、しかしようやく楽しげな表情で、歌いはじめた。役割分担をしていなかったミニドラマの演技は、ふたりそろっててんで駄目だった。それもふくめて、おかしくてたまらず、楽しくてたまらなかった。
「じっさいに歌ってみてようやく、彼の苦悩と偉大さがわかったよ」
と翼はしみじみと言った。
響もおなじようにしみじみとうなずいた。
次はいよいよ本命である。
耳になじんだ音楽が流れはじめる。
「はじめて聴いた歌がこれだったんです。はじめて好きになった歌でもあるのかな」
と響は言った。
「未来がライブに誘ってくれて……未来はおうちの事情で会場には来られなかったんだけど……わたし、それまで歌とか全然興味なくて、じつはいまもそんなに音楽は興味なくて、よくわかんないままだけど、でも、ツヴァイウィングのライブ行けてよかったって、思います。わたし、歌好きです」
そう語る響に、翼はなにも言わなかった。なにを言ったところで、これからつむぐ言葉以上に、かけるにふさわしい言葉を、響につたえることはできないだろうと思った。
――だからこれは、独り言だ。
翼は響の手を握り締め、
「わたしも、歌が好きだ」
と言った。
三〇秒余のイントロが終わった。
翼が最初に歌声をあげた。響はでおくれた。これは、――奏のパートはわたしが歌うから、わたしのパートを立花が歌え、と言ったことにひとしい。
響からすると翼は当然自分のパートを歌うのだろうと思っていたに違いない。たしかに響はガングニールのシンフォギア装者である。が、それよりずっと前から風鳴翼のファンである。だからこの分担が妥当だ、と響の混乱をよそに、翼は思った。
翼は手を握ったまま、体を寄せた。混乱でまともに歌えていない響に、歌え、もっと大きな声で歌え、と急かした。唇に笑みをつくって、さあ、歌おう、と繋いだ手をたかだかと持ち上げた。
――あっ。
と一瞬呆けた声をあげた響は、しばらくその繋がれた手を見つめていたが、やがて意を決して、ひと叫びした。
「ははは、立花は歌わずに叫ぶか」
翼が笑うと、
「歌い叫びます」
響はほがらかに言い、歌った。
翼も歌った。
ふたりの歌声が重なった。
贈り物はこの日たしかに胸に届けられた。
了