響と未来と十二の月・三

 天気予報から傘マークが消えることがまれになった。
 洗濯物が乾かなくて困る、と母がこぼしたちいさな愚痴を、響は学校から帰ってくるなり聞いた。
 そのとき母は居間にいて、響の下着にアイロンをかけているところだった。梅雨や冬のただなかにはこういう力技が増える。このことは下着の替えがサイクルに乗り切れていないことをあらわしていた。
 玄関の框に腰をおろして、靴をぬぎ、靴下もぬいだ。それから祖母がもってきてくれたタオルで髪、手、足、と、ひととおり濡れているところをぬぐった。
 脱衣所にむかうとちゅうで、
「きょう着るパジャマ、洗濯籠にはいれないで、あしたも着てちょうだい」
 と母に言われて、うん、とみじかく答えた。
 洗濯籠に靴下とタオルをいれると自室に行った。
 この季節はずっとじめじめとして不快な気分がつのり、おさまらない。
 制服から部屋着に着替えると、響はいつものようにポータブルプレイヤーを手にとり、ベッドにころがった。
 風鳴翼の歌を聴く。すると響はすぐに眉をひそめた。このところかならずふつふつと沸き起こる違和感がきょうも沸いてきた。
 聴きたいから聴いているだけのはずなのに、そうすべきものだからする日課のようになっている、と響は感じないではない。義務ではないことにたいしてどこか気負っている自分がみえた。それも最近になって急にそう感じるようになった。
 だから響は、このごろはすぐに音楽を聴くのをやめてしまう。翼の歌を聴くことに苦痛をおぼえはじめでもしたら、なんにもならない。
 ――他の歌手さがしてみようかな。未来はなにかいいの知ってるかな。
 なんとなくそう思ったが、きっとなにを聴いても風鳴翼と比べてしまって、いい歌なのに、自分でかってに台無しにしてしまいそうな気がした。それはそれで、その歌にもうしわけない。
 けっきょくのところ響は歌が好きというより風鳴翼という一個人が好きなだけなのだろう。音楽に関してはまだまだそういう段階なのだ。さきの段にすすむ気があるかといえばその気はあまりないけれど――
 夜になって未来から電話がかかってくる。意識してそうしている日課を今日もこなして、響は眠りにつく。寝返りをうつと衣擦れの音がする。あしたもそのパジャマを着てちょうだい、と言った母のことばが、みょうにに耳の裏にこびりついてはなれなかった。

 連日、雨に降られた。
 この日の降水確率は二〇パーセント程度で、午前中は雨こそ降らないもののずっと曇り模様だった。湿気も多く、なんとなく不快な気分がぬけなかった。
 午後になってぱらぱらと雨が降ってきた。下校時間になるころには雨は本格的なものになって、風がつよいのもあり、響と未来は傘をしばしばもっていかれそうになった。
 傘の柄を持つ手が濡れて滑り落ちそうになることもある。かばんも制服も靴も濡れた。とくに足もとはひどく、靴下がぐちゃぐちゃになっているのは確認するまでもなくよくわかる。雨の登下校はいつもこうなる。足の裏に、はりつき、はなれ、そのたびにごぽごぽと水音を立てる。感触のきもちわるさと言ったら、ちょっとことばにできない。
 梅雨がおわるまでずっとこうなのだと思うと、毎年のことながら気が滅入る。
「いっそ傘たたんでびしょ濡れになったら気持ちいいかな」
「やめてよ、風邪ひくだけだって」
 冗談で言ったつもりだったが未来は真剣に響の軽忽をなじった。
「もう傘あってもなくてもあんまかわんない気がするけど……」
 ちょっとだけ残念そうな目で響は未来をみた。が、未来は眉をひそめて首をふるだけだった。だめ、ということである。首をふった拍子にゆれた髪からしずくが散った。そのしずくが響の頬にあたり、それに気づいた未来があやまった。
 ――あ、……。
 と響はかすかにおどろいた。
 自分がいま酷いありさまだというのはわかっている。それなのに、響はふしぎなことに、おなじ状態であるはずの未来をみて、
 ――みどりしたたる。
 という古文で習ったことばを思い出した。ただし、ぼんやりとうかんだそのことばの意味までは思い出せない。ただ、
 ――きれいだ。
 と思ったのである。みどりしたたる、もそんな意味ではなかったか。よくわからないけれど、そうだった気がする。
「みどりしたたるってなんだっけ」
「ん?」
 いきなりそんなことを言われて未来は一瞬きょとんとした顔をした。すぐに表情をあらため、
「草や木が瑞々しい、っていう意味だったと思うけど」
 あごに指をそえ、首をかしげながら未来は言った。
「全然ちがった」
 響は苦笑した。未来は植物ではない。喩えにしても、いまの未来に響が感じているのは艶やかな色気であって、瑞々しさとはすこし違う。ふだんの未来であれば、瑞々しい、と言ってさしつかえなかったろう。
「なにが?」
「水もしたたるとまちがえてた」
「ん、んん……」
 水もしたたるなにをみて、みどりしたたる、と感じたのか、ひびきはけっきょく答えなかったし、未来もふかく聞きだそうとはしなかった。
 しかし、響は、その後もしばしば、雨のせいで濡れた未来の傘を持つ手や、烏みたいに緑がかってぺったりとはりついた髪をみては、
 ――みどりしたたる、みどりしたたる。
 と心のなかで反芻するようになった。未来をみるたびに感動したといってよい。
 べつに詩的な感性を刺激されたとかそういう話ではなく、響の頭に詩文などうかんでこない。ただ、たんじゅんに、そうしてひたすら、――きれいだ、と思ったのである。未来にみとれているあいだだけは、傘の用を為さずにずぶぬれになった全身も気にならなかった。足の裏のきもちわるさも忘れられた。

 そのように梅雨の経過を待っていると、ある朝、雨音のなかに犬の鳴き声を聞いた。
 さきに気づいたのは未来だった。
「あ、捨て犬――」
 と言った未来の視線を追って、その方を見ると、たしかに犬がいた。子犬がいた。ダンボール箱に入れられた、いかにもな捨て犬だった。いまどきドラマや漫画でしかみたことがない、と思っていたが、むろん現実でも起こっているのである。たまたまこれまでその目撃者になったことがなく、そして、たまたま今回その目撃者になったのである。
 ふたりは無言でそのダンボール箱に近づいていった。それから未来がしゃがんで、街路樹でかろうじて雨よけされている犬の頭上に傘をかたむけた。
「この子、捨てられたんだ」
 と未来は言った。
 どうして、と響は言いたかった。しかし、言えなかった。どうして、なんてみじかいことばが口からでてこられないのが、響にはふしぎだった。なぜ、どうして、と言えないのだろうかと思った。
 かわいそう、とはあきらかにちがう感情が響の胸の奥からほとばしっている。この感情がなんなのか響にはわからない。ただ、この犬は捨てられた、そのことだけが、たしかなことばとして響の頭のなかを、犬の鳴き声とともに鳴り響いた。犬は捨てられた、捨てられた犬がいる、捨てられた犬が――
「たすけないと」
 響は言った。大きな声で「たすけないと」と言ったつもりだったが、じっさいはのどを鳴らす程度のちいさな声でしかなかった。それでも未来には聞こえたのか、彼女はこくりとうなずいた。
「うん、なんとかしてあげたいね。でも……」
 学校が、と言いかけた未来が、首をかしげて、背後に立ったままの響を見あげた。
 なにかを問いたそうなふたつの目が響を見あげている。その声なき声には答えず、響はただ、
「連れて帰ろう」
 とだけ言った。
 のちに響の趣味となるものが、こんなところに落ちていたのである。

 響は生まれてはじめて学校をサボタージュした。風邪を引いたとか親戚が亡くなったとか大事があったわけでもなく、ただ犬を連れ帰るために学校を休んだ。そんなことははじめてだった。
「お母さん、タオル、タオル――」
 玄関を開けるなり響はさけんだ。
 おどろいて出てきた母に、響はまた、
「タオルちょうだい」
 と言ってせかした。
「まあ、響……、それに未来ちゃんまで……」
「おじゃまします」
「ごゆっくり、って言ってもいいのかしら……」
 ただならないようすのふたりにいぶかしげになりながら、母はそれでも急に帰って来た娘をとがめはせずに、タオルをとりにいってくれた。洗面所から戻ってきたときにようやく響のあしもとの子犬に気づいて、事情を把握したようだった。
「その犬、どうしたの」
「がっこ行くとちゅうで拾ったの」
「走って帰って来たのでしょう、ずぶ濡れじゃない」
 玄関で濡れた犬の体を拭く響の頭にタオルをかぶせ、未来にもわたした。
 やがて祖母が顔を出して、
「お湯わかすから、はいってあったまりなさいな」
 と、おだやかな声で言った。なにがたのしいのか、なぜかにこにこと笑っていた。
「ありがとうございます」
 タオル越しに響の髪をかきまわしていた未来は、その手をいったんとめると、かるく頭をさげ、またわしゃわしゃとかきまわした。響は響でひととおり濡れ鼠の子犬にまとわりつく水滴をとりのぞいたらしく、満足げに犬の頭をなでていた。
 半分くらい湯がたまったところで、響たちは風呂場にはいった。シャワーをあびて体を洗いながら、のこりがたまるのをまった。拾った犬は風呂好きらしい。体が泡まみれになり、シャワーをあてられても、まったくいやがらなかった。
 湯船につかってすぐ、
「里親が見つかるまでうちであずかるね」
 と未来は言った。
「うん」
 響は未来の好意に甘えた。気をつかわれているのはわかっている。響の父が蒸発して、母がパートに出ている、女三人暮らし。犬を飼う余裕はほとんどない。あとさきを考えずに拾って帰って来たが、その時点でそうとう未来に甘えている。響のまきぞえで未来も学校を休むことになったのである。それ以外のいろんなことにつきあわせ、甘えている。
「そこまでしてくれなくていいよ」
 と断われないのは、未来のかかえる罪悪感をどうすることもできない響の弱さでもあるだろう。自覚はある。が、やはりどうすることもできない。
 とはいえ、今回についていえば、考えなしに行動した結果なのだから、つぎから改善する余地はあると信じたい。
 梅雨が終わるころ、いつものように夜の日報をあげていると、未来から、
「あの犬のことだけど、親戚のひとにもらわれることになったから」
 と言われた。
「そっか」
 響はほっと息を吐いた。未来とふたりでネットなどをつかってやっていた里親さがしはうまくいかなかったが、存外身近なところに引取手がいたものである。
「夏休みになったらさ」
 と未来が言った。
「うん」
「その親戚のところに一緒に行かない?」
「いいの」
「いいよ、いつもお友達連れて来なさいって言われているもの。田んぼがね、すごく、ひろくて、おおきな山ときれいな川があって
「うん」
「野菜とか果物とか、とてもおいしいの」
「うん、行きたい」
 言ったタイミングがよくなかったのか、
「食いしん坊」
 と笑われた。
 なにはともあれ、夏休みの予定がまずはひとつ、決まったのだった。

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