響と未来と十二の月・四

 梅雨明けに服を買いにいった。
 例年どおりの七月なかごろのことである。
 夏に未来の親戚の家にゆくことになったので、そのための服を買いにいったのである。
 それから水着も買うことにした。
 未来の話によると、山麓ある沢がとてもきれいで、水は冷たく、足をつけるときもちがよいらしい。沢のまわりは岩と木々におおわれ、それが日射しをさえぎってくれるので、ひじょうに涼やかで、日中でも暑さにやられることがない。ただし、つけくわえて、
「夜はけっこう冷えるから」
 とも言った。それに沢にゆくにしても天気次第では肌寒く感じるかもしれない。なにせ日射しがほとんどはいってこないのである。
「ちょっと暗いかな。水もちょっと黒くみえるくらい」
「へえ……」
 水着を物色しながら響はかるいおどろきをしめした。黒い水、と聞いて脳内で水のなかに墨汁が一滴たらされたが、未来の言う黒さとはこういうものではないだろう。海が黒くみえるときがあるが、そちらはどうだろうか。
 陰のさす沢はさぞかしきもちのよいものだろう。枝葉をかわしてはいってくる木洩れ日を、響は想像した。その木洩れ日を反射してきらきらと光る陰の下の沢を想像した。
 きっときれいだろう。涼しくてここちよいだろう。響は内心にっこりと笑った。その笑顔をみて未来も笑って、
「ほんとうにね、冷たくてきもちいいの」
 と言った。
「たのしみだね」
 と響が言うと、
「たのしいよ」
 と未来は言った。未来は水着のひとつをとりあげ、
「ん、これがいいかな」
 と、響の胸のまえにあてた。
「柄物はちょっと……」
「いや?」
「はずかしい」
「わたしと響以外だれもいないよ、たぶん」
「うん、だからはずかしい」
 未来はすこし首をかしげてから、
「そう」
 と言って水着をもとの場所にもどした。
 けっきょく響はあれこれ物色するだけで水着を買わなかった。学校の水着でいいや、と結論をだして、大きめのTシャツと揃いのハーフパンツを買った。もしかしたら泳がないかもしれない。足をひたして水遊びをするていどでおわるのだれば、それを思うと水着にお金をかける必要はないし、どのみち上になにかしらを羽織って傷をかくすことになるのである。
 それから薄手のピンクのパーカーを買った。未来が夜は冷えると言ったから、これはそのためである。電車の冷房の具合によっては道中で着ることになるだろう。
 サンダルもほしいと思ったが、予算オーバーだった。靴箱か納屋をあされば昨年のものが出てくるかもしれない。
 買う物を買うと、寄り道はせずにすぐに帰った。
 ほどなくして学校は夏期休暇にはいった。

 夏休みが始まってからほとんど毎日、未来は響の家にやって来る。
 一緒に課題をやるために来るのである。
 早いうちにすべてかたづけて、なんの憂えもなく旅行に行きたい。未来がとりあえずのものとして設けた期限は二週間である。八月の上旬あたりをめやすにとりくむことになった。
 とはいえ、三年生で受験生ということもあり、課題の量自体はさほど多くない。むりのないペースでかたづけられそうだった。
 八月の十二日の朝に出発して、二泊三日、三日目の午前中に帰りの電車に乗る。それが今回の旅行のスケジュールになる。
 課題のすすみは順調であるともそうでないとも言えた。つっかえるたびに未来に教えられて、
「あ、そうか」
 と、問題をクリアーする。それのくりかえしで、これじゃ未来がふたり分やっているのと変わらない、と響は自分をいましめた。なんでも未来に頼っていてはいかにもなさけない。夏休みの宿題くらいはひとりの力でやり遂げたい。が、未来は甘やかしているというより旅行までにまにあわせたい気に急かされて、つい響に一から十まで教えてしまうようだった。それをすげなくあつかうのもはばかられる。甘えることそれ自体にはほとんど抵抗らしい抵抗をもたない響自身にも問題がなくはない。
 自力でなんとかするには、未来に勘づかれないように、できない問題はさっと飛ばして、できそうな問題をさきにやる。つまってうんうんうなずいているうちに未来はすかさず、
「そこは――」
 と助言をしてくる。
 さすがに答え合わせまで未来はお節介をするわけではない。飛ばしたところは未来が帰ってからやろう、と響は決めた。ただし、
 ――でも、なにも聞かないのは、怪しまれるかな。
 と思ったので、ぜんぶをあとまわしにするのは避けることにした。
 さっさと解ける問題だけを探してページをぺらぺらとめくる。
 未来も、一問目から順番にやりなさい、などと小言のようなことは言わない。響が自分できるところをさがし、ひとりでやろうとするのをとめる理由はない。
 なにかを察したのか未来のほうからなにか一方的に助言してくることはなくなった。響が根をあげて助けを求めたときにだけ、それに応じると、未来のほうも決めたらしかった。
 さっそくで、響は未来にすがった。
「ねえ、未来、ここなんだけど……」
「うん」
 響の疑問を未来はていねいにひもといてゆく。そうとうにものごとを理解していないと、問題を解くことはできても解き方を教えるまではゆかない。頭の出来がそんなにも違うものなのだろうか。同じ高校に進学する気でいる響には、そこがすこしつらい。授業はまじめに聞いているし、ノートもちゃんととっている、復習だってやっているのに、期末はともかく中間テストの結果だってわるくはなかった。
 響は溜息を吐いてから天井をあおいだ。
「おちこむなア」
「どうしたの」
「学校で習ったはずなのに、ちゃんと聞いてと思うんだけど、できないの、くやしいなって」
「ん……」
 ペンをうごかす未来の手がとまった。
「響のノートも教科書も蛍光ペンで線たくさん引いてるもんね」
「うん。忘れないようにって」
 それだけでなく付箋もぺたぺたとたくさんはりつけている。未来にしてみるとそれはすべき範囲ややるべきことを把握できていない証左なのだが、未来はそこまで言わなかった。ただ、響のいっしょけんめいを肯定しつつ、
「がんばろ」
 一緒にリディアンに行こう、と言った。

 響と未来は、七月下旬から八月上旬のスケジュールを課題中心に組みつつ、そのあいまにちょくちょく休息と称して外出した。朝の涼しいうちにちょっと遠くの公園まで散歩にいったり、図書館や美術館にもいった。市民プールと海にはいかなかった。水遊びはとっておきにとっておこうと思ったし、なにより人目がある。
 そのなかでは早朝の散歩がいちばんたのしかった。
 未来は陸上部をやめたいまでもたまにランニングしているらしい。それはトレーニングというより一種の気晴らしのためで、毎日やっているわけではなく、ほんとうにたまにしかやっていないという。
 ランニングでは響はついてけないので、その日は散歩ということになったのである。
 歩きながらたくさんの会話をしたのが、響にはたのしかった。未来のあたらしい趣味の話を聞いたり、あの雨の日にひろった犬のその後の暮らしぶりを聞いたりするのはたのしかった。自分のほうは昨日歌番組に翼が出ていたとか、それの録画をしそこねたとか、いまサマーツアーの真っ最中で、今日は熊本でライブがあるのだとか、そんな話をした。
「いつかいきたいな」
 と響は言った。
「そのときはチケットとるの手伝うよ」
 そこからしばらく無言になった。
 街路樹の下をふたりは公園にむかってひたすら歩く。
 ライブにいくときは、今度こそ未来と一緒にみたい、と響は思っている。だからどれほど、
 ――一緒にいこうよ。
 と言いたくなったかしれない。が、響はついに一度もそれを言いだせないまま、チケット予約という壮絶な戦いに身を投じたことすらない。
 いま誘っても未来はきっといきたがらないだろうから、響としてもなにがなんでもチケットをとってやろうという気にはならなかった。
 いくならふたりでいきたい。心の底からそう思っている。だからそのときが来るのを響はひそかに待っている。
 公園につくと、自販機でジュースを買って、ふたりでベンチに腰かけ、くつろいだ。
 響はぶどうのサイダーで、未来は無炭酸のオレンジジュースを買った。
 朝の木陰のベンチはひんやりとしてここちよい。
 蝉の鳴き声が聞こえる。夏の代名詞といってよい鳴き声を聞いていると実感する。
「夏だね」
「そうね」
 ミンミンゼミが鳴いている。

 気温があがりすぎるまえに帰宅した。時刻としては八時まえの帰宅になった。
 洗濯物をほしたばかりの母が、
「おはよう、散歩どうだった」
「きもちよかった。いい運動になるかも。でも毎日はむりかな」
「そう、朝ごはん、まだでしょう。用意するからちょっと待っていて」
「うん」
 響は居間の畳にねころがった。
 祖母がテレビをみている。
 朝はほとんどニュース番組しかやっていない。祖母がみているのもニュース番組だった。どこの局も内容は大差ないだろう。おなじニュースをおなじような時間にながしている。芸能コーナーにさしかかったが、翼のニュースはなかった。
 朝食をすませると、自室にもどってのこっている課題をすこしやった。どうしてもわからない部分は仕方ないので放置した。
 ――あとで未来に聞こう。
 甘えすぎるのはいやだが、まったく頼らないのも未来に気負わせることになる。
 響は棚の上に置いている写真立てに目をやった。中学にはいったばかりのころに撮ったふたりの写真がある。
 あのころはふつうの友達同士だった。
 気づかいのまったくない関係も気づかいすぎる関係もたいして変わらないような気がした。遠慮しないのも遠慮しすぎるのも。
 友人であるには違いなく、お互いを思いやることは友情であるに違いないのに、ふたりの関係にはやはり、以前にはなかったいびつなものが生まれてしまっているのだろうか。
 以前とおなじような関係でいることはむりなことは響も承知している。それはきっとふたりが友達同士であるかぎり一生涯つづくことで、未来と響が背負わなければならないであろう過去にあった現実である。
 響を見捨てなかった未来がいる。響の手をとりつづけた未来の手がある。未来の友情と、やさしさと、罪悪感、響と未来を繋いでいる要素はかつてのような「友情」のひとつだけではない。ふたつもみっつも重なり増えた。
 響がまがりなりにもふつうの生活ができているのは、未来がそそぎつづけたたくさんの愛情である。
 棚の前に立ち、写真立てを手に取る。
 写真のなかのふたりが無邪気に笑っている。
 むかしにもどりたいとは思わない。
 ただ、未来のたくさんの愛情の裏にあるおびただしい数の重荷を、そのうちのもっとも軽いもののひとつでも背負わせてほしい。
 ――そう願うことが未来を苦しめるわがままにならなければいいのに。
 写真立てをつかむ指に知らず力がこもった。

 八月一日の登校日があった。課題はなかばほどかたづいている。未来が組んだ予定は順調にすすんでいた。
 学校の帰りに本屋に寄っていった。先月末に発売された音楽雑誌の表紙が翼だったので、それを買うためである。
「ほんとうに好きだよね」
 本屋を出たときなかば呆れた調子で未来にそう言われた。響は雑誌のはいった紙袋を胸に抱きしめて、
「だって、かっこいいんだもん」
 と、とろとろと融けたような声で言った。
「そうだね」
 未来は同意してくれたが、あいかわらず呆れているようだった。
 ツヴァイウィングを響にすすめた未来だが、まさかここまでハマるとは思っていなかったのだろう。なにせ音楽にはまるで興味がなかった響である。
 紙袋をすこしあけて、なかの表紙をちょっとだけのぞいた。
「かっこいい……」
「ちゃんとまえみて歩いて。あぶないよ」
「うん、うん」
 そう言いながら、響はまだみている。
 スーツ姿の男性が歩いてくる。こちらも電話をしているようで、前方不注意ぎみだった。
 ぶつかりそうになるまえに未来は響の腕をひいてかわした。
「響、あぶないって」
 つよい語気で言われて、響はようやくかばんのなかに雑誌をしまった。
「ごめん、ごめん」
 ごまかすように笑った。が、未来は本気で怒っていた。
「響」
 この声にはごまかし笑いをゆるしてくれないふんいきがある。
「気をつけて、ほんとに」
「ごめん」
 響はしおれて肩をおとし、あらためて謝った。翼にうかれて、未来の心を無視しては、なんにもならない。
「山も沢もあぶないから」
「うん、がんばる」
 軽率な自分をしかりつけると、響は拳を握って言った。
「がんばるっていうのは、ちょっとちがうかなあ」
 未来はまた呆れたように言って、それから笑った。
「がんばらないほうがいいの?」
「気をつけるのはがんばってほしいけど、それよりたのしんでほしい」
「わかった」
 そう答えて響も笑った。未来に甘えすぎるのは本意ではないが、未来が一緒にいるのだから、危険はない、と自身を安心させて。

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