響と未来と十二の月・五

 電車がトンネルを抜けたとき、にわかに視界が広がった。
「わあ――」
 と響は驚きと感動を口にした。
 車窓からみえるのは、上下二つに分かれて、上に突き抜けるような雲一つない青空と、やはり青々とした稲穂のゆれる、八月の田園風景であった。
 もともと響は感受性がゆたかな娘なのだろう。窮屈な地元をはなれるという開放感もあったのかもしれない。
 電車に揺られながら、響はしだいに緑がふえてゆくその景色に、いちいち感動した。
 早朝から出発してひきずりつづけていた眠気がきれいさっぱり消えたといってよい。
 田園自体は東京にもいくらでもあるが、県境を越えて未来の親戚の家に向かう途中にあるこの東京外の景色は、やはり東京のそれとはちがう色の風があるように思われた。東京の緑はここまで青くはない、と思った。
「ねえ、未来、みてよ、きれいだよ」
 響は首をまわして、むかいに座っている未来に言った。
「そうだね」
 未来はそう言うと、ちいさく息を吐いた。
「これからいく山の木や草もきれいだよ」
「たのしみだね」
 そう言うと響はまた窓のそとに視線をもどした。
 うつくしい風景がながれてゆく。いまは電車からみているだけの景色である。未来の親戚の家につけば、そのうつくしい景色のなかにはいってゆく。さわやかに音を鳴らして揺れる木々のなかにはいってゆく。
 響は深呼吸した。

 駅から親戚の家までそう遠くない。響と未来はほそい道を歩いた。
 自然がゆたかなである。が、静かさとは無縁の喧騒がある。都会とは種類のちがううるささがある。それを、響は、ここちよい、と感じた。
 世間話をしているうちに家についた。
 少々古めかしい感じのする日本家屋だった。
「ここ?」
「そう」
 未来がインターホンを押した。玄関戸がひらかれると恰幅のよい女性があらわれた。
 よくきたねえ、と未来のおばさんはゆたかな声で言った。
「ゆっくりしていってちょうだい」
 おばさんは響の肩を抱くように家のなかにいれた。
 広い畳の部屋に案内された。
 窓から庭がみえる。背の低いなにかの木が数本生っている。未来がその窓をひらくと、風がそよりとはいってきた。庭木の緑の葉がゆれている。
「いいところでしょう」
 かばんを部屋の隅に置きながら未来は言った。
「うん、いいところ」
 未来は風景のことを言ったのだろうが、響はおばさんの人柄をそう言った。
「きょうはゆっくりして、山には明日はいろう」
 と未来は言った。響は未来の言うとおりにした。
 日射しがあがってきて、わずかに暑さが増してきた。が、さほどでもない。風もある。いまが八月であることを思えば、じゅうぶん過ごしやすい気温だろう。
 実は課題ののこりがすこしある。
 午前中はそれをやって、雨の日に拾って、この家にあずけられることになった犬と再会し、ひとしきり遊んだ。昼食はそうめんだった。それを食べると、午後からは庭でバドミントンをした。
「あの木ね」
 と未来が言った。
「うん、みかんみたいな実がなってる」
「そう、たちばな、っていう木」
「たちばな」
 おなじだ、と響は思った。
「柑橘類の、きつ、の字」
「あっ、おなじなようで、おなじじゃない」
 と言ったとき、未来の打ったシャトルが響の頭上をはるかにこえていった。
 追いかけて、地面におちたシャトルをひろう。目をあげると、ちょうどそこに、橘の木があった。
「おばさんが言ってたんだけど、ほんとうはもっとあたたかいところじゃないと、ちゃんと育たないんだって。だから、こんなにちいさいの」
「へえ……でも、ちゃんと葉も実もつけて育ってくれてる、よっ」
 響はおもいきりラケットを振った。シャトルはそのわりにいきおいよくは飛ばない。あっさりと未来に返され、響は体をおよがせながら、なんとか打ちかえした。
「うん、すっぱすぎて、食べられないけど」
 もともと運動が好きなのだろうが、未来はスポーツの類はなんでも器用にこなす。さきほどは遠くにとばしすぎたが、基本的に響のかえせそうなぎりぎりのところにシャトルをおとしてくる。
 響にそこまでの器用さはない。
「暑いね。ちょっと休憩しよっか」
 と未来が言って、手をとめた。
 未来は縁側の下に金盥を置き、ホースをひっぱってきて、そこに水をふんだんにそそいだだ。
「足をつけると、きもちいいから」
 と言ったので、縁側に座り、ふたりでその水に素足をひたした。たしかにきもちがよかった。
 おばさんが麦茶を持って来てくれた。
「ありがとうございます」
 と響が言うと、
「こんな田舎だけど、たのしんでいってねえ」
 と、おばさんはほがらかに笑い、
「あしたはきゅうりを忘れないようにね。ちゃあんと冷蔵庫にいれてあるから」
 と謎のようなことを言った。
 おばさんが去ってから、響は未来に顔をよせた。
「きゅうりってなに?」
「沢に河童がでるのよ。だからきゅうりをお供えするの」
「河童! ほんとうに!?」
「うーんどうかな。わたしはみたことないけど、きゅうりはよくなくなるね」
 それがだれのしわざなのかは、さすがの未来も知らないらしい。ただ、河童ということにしてある、ということだった。
「あした、沢にいくんだよね。河童に会えるのかな」
「さあ、おばさんが言うにはひとみしりらしいから」
「そっかあ……」
 ちいさく溜息を吐いて、響は麦茶を飲みほした。

 翌日。――
 早朝から山にでかけた。山の麓にある沢にむかうためである。河童が住んでいると言われる沢は、木々におおわれ、陽光がそれによってさえぎられ、日中でもさほど気温があがらあない。
 朝の早い時間はむしろ冷えるくらいであるが、響は気にならなかった。かたわらには犬がいる。
 ごろごろと大きな石が敷き詰められた路ともいえない路がある。そこをとおってゆく。石がとぎれると、湿気でぬかるんだ土の道がある。それにときどき足をとられながら、前にすすんでゆく。犬は平然とついてくる。
「平気なもんだなあ」
 と感心していると、
「足もと、気をつけて」
 と響はなんども未来に言われた。未来は陸上で鍛えた足があるのか、たんにこの環境になれているのか、いたって健脚である。響を気づかいつつ、ときどき足をとめながら、まよいなく歩いた。響だけがおぼつかない足どりで目的地にむかっている。
 そのうち沢がみえた。それよりもさきに、沢にむかって突きだしている大きな岩が目にはいった。
 その岩の上にのぼって、リュックをおろし、ふたりは腰かけた。
 空は木々におおわれ、少々うす暗い。
 沢がながれている。かすかな水音がする。ここちよい音である。胸がすうっとやすらぐような感じがする。心のよどみが流れてゆく感覚である。この感覚に永遠に身をひたしていたいとさえ響は思った。
「きれいでしょう」
「うん、それにすずしい」
「下におりてみる? 金盥の水より冷たいよ」
「あ、いいね」
 そう言うや、ふたりは岩をおりて、沢の辺に歩いていった。
 足場になりそうな石をえらんで、そこにしゃがみ、手を沢の水にひたす。
「つめたっ」
 でも、きもちいい。響は両手で水をすくって、唇をそっとつけた。むろん飲むわけではない。やがて指のすきまから水がこぼれおちてゆくのを、なんともいえない感動とともにみつめた。
 スニーカーと靴下を脱いで、今度は足をひたしてみる。ズボンを膝丈までめくりあげて、沢の奥のほうへはいってゆく。
「そこのあたり、きゅうに深くなってるから、気をつけてね」
 未来が言った。
「うん」
 と言った響は、そこで立ちどまった。
 水が流れてゆく。響の両足からわかれて、また合流して、流れてゆく。この単純な自然の摂理が、すずやかでおだやかなせせらぎが、響にはむしょうにたのしかった。
 犬が響のあとについてきて、沢にはいった。ほとんど全身がはいっているが、足がつかないほどではない。
「寒くない?」
 と響が訊くと、そのことばが通じたのだろうか、ふるふると犬は首を振った。
 響はふりかえると、うしろにいる未来に、
「きゅうりをお供えしようよ。それであの岩から、河童がきゅうりを食べに来るのを、みていよう」
 と言って、にっこりと笑った。
 沢の中央付近に水面から突出している大きな石があり、表面は平で、そこにきゅうりのはいっている籠をおいた。
 ふたりはそれからリュックを置いてある岩のほうに登り、しばらく経過を観察した。
 あとで時計をみて気づいたことだが、二時間も飽きもせずにきゅうりをながめていたらしい。
 ただし、そのあいだに河童は出てこなかった。
 出てきたのは茶毛の猫だった。
 首輪はついていない。野良の猫だろう。
 猫は飛び石をひょいひょいと器用に飛んで、籠のまえまでゆくと、まんまるい猫の手でごろごろときゅうりをころがしはじめた。食べようとしているのか、食べられるものかしらべているのか。そんなことはわからない。さらにわからないのは、
「未来、猫ってきゅうり食べてもだいじょうぶ?」
「わかんない」
 と言った未来のことばを聞いたか聞かないかのうちに、響は岩をかけおりて、ばしゃばしゃと沢にはいってゆき、猫のほうに突進していった。ふしぎに猫はおどろきもせずに、じっとその場にいて、きゅうりを手でころがしていた。
 響は猫の両脇をつかんで抱きあげた。この期におよんでも猫はおとなしいものだった。
「きみが河童? 猫にみえるけど」
 にゃあ、と猫が鳴いた。
 河童の鳴き声など、むろん響は知らない。

 沢を出た響は猫を放した。猫は早足に草むらのなかに消えていった。
「かえろっか」
 と言ったのは未来で、
「河童もみられたことだし、うん」
 と言ったのが響である。
 帰るなりおばさんから、
「河童には会えたかい」
 と訊かれたので、響は、
「きゅうりを持っていこうとする子はいたけど、体は緑じゃなかったし、頭にお皿も載っていませんでした」
 と答えた。
「なんだい、それは――」
 おばさんはからからと笑った。響と未来もつられて笑った。
 沢で見かけたのとおなじ猫と思しき茶毛の猫が、おばさんの家の犬と橘の木の下でじゃれついているのをみたのは、その翌朝のことである。
「世間って狭いね」
 と響は苦笑した。 
 どうやらあの猫は夏になるとこの家からあの沢にきゅうりが供えられることを、最初から知っていたらしい。
 響と未来は、ひたいとひたいをこつりとあわせて、くつくつと笑った。
「うん、狭いね」
「水くさいよ。友達なら最初からおしえてくれたらよかった」
 と、かつて自分の拾った犬にむかって、響はそうぼやいた。

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