虎のような猫を拾った。
どんなふうに虎に似ているのかと言えば、見た目である。ただし、水蜜は本物の虎を見たことがないので、正確には、壁に画かれた虎の絵に似た猫、になる。
気性はおとなしそうだった。そういうところは、獰猛と話に聞く虎には全然似ていなかった。
だから、
「寅丸って名前つけた」
「そう」
一輪の反応はうすかった。
水蜜の膝の上でごろごろとくつろぐ猫には目もくれず、一輪は雲山とともにせっせと色紙で折り鶴を折っている。一輪が請け負っている内職なのだが、どこに需要があるのか水蜜にはさっぱりわからない。とうの一輪も知らないと言っていた。
囲炉裏の火にうたれて赤く染まる一輪の顔は、機嫌がよいのか、わるいのか。とにかく無表情である。これは話をきりだす時機を誤ったかもしれないと水蜜は思ったが、もう遅い。そのまま進めるしかない。
「道端でふるえていたのよ」
「そう」
「外、雪降ってるし」
「そう」
「これからどんどん寒くなるわけで」
「そう」
「かわいそうだと思って」
「そう」
「飼ってもいいかな」
「そうねえ」
一輪は作業する手をいったんとめて、すこし考えこんだ。
「自分で世話できるなら」
「えっ、わたしが世話するの、なんで」
「あんた、なんで猫拾ってきたのよ」
呆れ顔をむけあったとき、囲炉裏の火がはじけた。
土間の隅に筵を敷いて猫用の寝床をつくった。
気にいってくれたようである。鳴き声に張りがあった。
夕飯の時間になったので、ためしに星の好物である菖蒲の根を与えた。猫は食べようとしなかった。一輪が別の餌を持ってきて筵のまえに置くと、猫はそれを食べた。
「あんがい、似てないね、きみは」
框に腰かけながら、水蜜は猫を見おろして言った。
「そんなもの食べるわけないでしょ」
「でも、寅丸だし」
「ムラサがかってにつけた名前じゃない」
「む……」
それはたしかに、そうなのだけれど。水蜜は口をとがらせた。
一輪も水蜜のとなりに腰をおろした。
ふたりで猫の食事風景をぼんやりながめる。
「飼うの、この猫」
「助けたい、とは思っている」
そのために連れて帰ったのである。が、飼っていいかと一輪に相談したものの、実のところ水蜜のなかで、猫を憐れみ助けることと、猫を飼育することが、どうにも結び付かないままでいる。だいいち生き物など飼ったことがない。飼い方もわからない。
そういう水蜜を一輪は笑いも叱りもしなかった。
一輪はいろいろなことを考えた。のんきに見えても地獄の猫だ、厳寒の下に放り出してもたくましく生きるのこるだろう、とか、猫はみんな猫屋敷に集まるものだから、そこで暖かい寝床とおいしいごはんを与えられて、無事に越冬するだろう、とか、だから助けが要るにしても水蜜の手でなければいけないことはない、とか、一輪は出かかった言葉を喉元で抑えた。それらは水蜜に対してまったく意味のない助言に違いなかった。
餌はもう与えてしまったのだ。野良にもどすことはできない。
水蜜はぶつぶつとなにごとか呟いている。彼女は考えごとを胸におしとどめておける型の性格ではない。飼うか、引き取り手を探すか、そういったことを思案しては、口に出し、首をふって否定する。
とりあえずのところは、
「他人任せはいや」
と水蜜は言った。
「わたしに世話丸投げしようとしたくせに」
「一輪は他人じゃないよ」
そう言って水蜜は猫を抱き上げた。
「やあ、全部食べたね。えらいぞ星さん」
あれ、と一輪はすこし目をみひらいた。
「とらまるじゃなかったっけ、その子」
「うん、寅丸」
「今、しょう、って呼んだよね」
「そうよ、星さん」
「ああ、そう」
一輪は追及するのをやめた。
猫の名はどうやら寅丸星らしい。姓名そっくりそのままつけるとは、御本尊として奉る気なのだろうか。思わず口に出た。
「まっさか!」
水蜜はおかしくてたまらないといった感じに笑った。
結局、猫は自分たちで飼うことになった。
――知らないことは、知っているひとに聞けばいい。
そういう単純な結論を出して、水蜜は布団にもぐった。
知らないこと、とは、もちろん猫の飼い方である。
「このあたりで猫の飼い方を知っているひと、というと……」
考えるまでもないことか、と水蜜はくすりと笑った。いったい動物を飼うなどという酔狂をしている者が、この旧地獄にはひとりしかいないのだ。とびきり悪名高い、そのただひとりだけだった。
地霊殿の古明地さとりである。
水蜜自身はさとりに悪感情をもっていない。水蜜はさとりに会ったことはなく、話したこともなく、また文書のやりとりもない。彼女を貶める評判だけは耳にかまびすしいが、地霊殿から出てくることのない彼女のほんとうのひととなりを、水蜜は知りようがなかった。
動物を愛する心があるのだから、そう悪いひとではないと思う。が、この妖怪は鬼さえその名を憚る地底の大物である。まさか、いきなり、門を叩くわけにはいかないだろう。
「じゃ、書簡でも出したら」
と一輪が言った。
「だれが送ってくれるの」
「さあ……」
と一輪は言ってから、
「あ、いたわ。取次みたいなの」
「えっ、だれ」
水蜜はびっくりして一輪のほうに首をまわした。顔が見えないのは夜の暗さのせいだけではない。一輪は雲山を枕にしている。一輪の顔は雲山にさえぎられている。
「猫よ、猫、火車の、ほら、たまに市街にほうに来ている」
そう言われて水蜜の脳裡にきらめくものがあった。その猫には水蜜も憶えがある。
「あのお腹の赤い――」
名はたしか、りん、そうだ、おりん、だったはずだ。
水蜜の胸がにわかにざわめいた。
おりんは気のよい化け猫だった。
水蜜はかるく事情を説明し、書簡をわたした。
書簡を懐におさめたおりんは、水蜜の足もとをぐるぐるとまわっている猫に目を落とすと、
「虎みたいだね」
と言った。
「寅丸っていいます」
「へえ、そりゃ似あわない」
おりんにも寅丸≠ヘおっとりとしたのんびり屋に見えるらしい。それでも、
「飼い方なんて、べつにこまかいこと、気にしなくていいと思うけどね。腐っても死んでも地獄の猫だからね」
と水蜜の気負いをなだめるようなことを言った。
鈴の鳴るような声だと水蜜は感じた。とにかく話していて気分がよい。
「うちなんか、ペットの世話はペットがしてる、いいかげんなモンさ、でもなんとでもなってるんだから」
「それはまた先進的ですね」
水蜜はなかば呆れ、なかば感心した。
「じゃ、ま、お手紙はわたしておくよ」
「ありがとうございます」
水蜜が礼を言うと、おりんはにこにこと笑い、
「おねえさん、いいにおいするからね。だから特別サービス。アポとっといたげる。そうだね、一日か二日か、それくらい経ったら、いつでも好きな日に来るといいよ。百聞は一見になんとかってやつだね。お友達も連れておいで。あと、この猫もね」
「ほんとうですか」
地霊殿の主人に会うというのは、尋常なことではない、と思っていただけに、それがあっさり果たされようとしていることに、水蜜は多少の戸惑いをおぼえた。おりんはそんな水蜜の心の揺れを感じたのか、
「うちのご主人さまは、おねえさんが想像してるほど、偉くも偉そうでもないよ。それにひとと話すの好きだしね。お客さんが来るなら歓迎してくれるさ」
そう言うや、ひらりと宙を舞い、長屋の屋根をかろやかに飛んでいった。
「地霊殿にはねえ、本物の虎もいるよオ」
水蜜がおりんの影を見失ったあたりで、遠くから、そんな声が聞こえてきた。
おりんの軽快な声は水蜜の耳にここちよく響いた。
「じゃあ、帰ろうか」
と水蜜は足もとに話しかけた。猫は一鳴きしてから、水蜜の体をかけのぼった。
(やれ、やれ)
水蜜は猫を抱きかかえて帰ることになった。
はらはらと雪が降っている。落ちた雪はまたたくまに路に溶けて消える。今日は雪がおとなしい。
冬になると地底には雪が降る。降らない日はないと言ってよい。頭上には岩の天蓋があり、雲はなく、地底における雪という気象がいかなる要因で起こるのか、水蜜は知らないが、冬は雪の降る季節だから雪が降っているのだと、ずいぶんと昔に地底を牛耳る鬼どもに教わったことがある。雪は現象ではなく情緒である、という理屈だった。
水蜜は歩きながらそのことを思い出していた。
およそ風情を愛で歌を吟じる心など一片も持っていないような、粗野粗暴の鬼どもがそんなことを言うのだから、水蜜にしてみるとこれほどおかしなことはなかった。当時は理不尽だとさえ感じた。理不尽な気象は鬼の理不尽さそのものであると水蜜には思われた。が、その憤りは虚しく霧散し、今は見る影もない。地底は鬼の帝国である。理不尽をうけいれ、慣れなければ、ここでの生活が立ちゆかない。それを知ったということだった。
地霊殿だけが鬼の支配をまぬかれ、だれの干渉もうけず、独立不羈の性格を維持している。
水蜜はおりんと話したことで、地霊殿についてすこしわかったような気がした。おそらく地霊殿は窮屈しないところだろう。のびのびとしたおりんの挙措から感じられることはそれである。おおらかなところは鬼に似ているが、おりんには鬼のような粗暴さや傲岸さはない。地霊殿内にある秩序が鬼のつくった秩序とはまったく異なるものであることは間違いない。
――得るものの多い訪問になる。
そう思った水蜜の足どりはしだいに軽くなった。
帰宅すると友人のぬえがあがりこんでいた。
「ようっ、おかえり」
ぬえは両手を差し出して、よこせ、よこせ、と言った。猫を抱きたいようである。水蜜はぬえに猫を抱かせた。
「おかえり」
と今度は一輪が言った。
「ただいま。地霊殿からお招きあずかったよ。お友達もどうぞ、って」
くつをぬぎながら水蜜は言った。
一輪は驚きつつ、いつごろになるのか訊いた。
「一日二日したら好きな日に」
水蜜は囲炉裏のまえに自分の冷えた体を座らせた。
「早い――」
一輪は呆れたように笑った。
ぬえは猫で遊んでいる。
「あんまりいじめないでよ」
と水蜜は言った。
「いじめてない、いじめてない。それより、なにさ、なんでまた、地霊殿なんかに行くのよ」
ぬえは苦いものを口にふくんだような言い方をした。
水蜜はいぶかりつつ、
「動物飼ったことないから、飼い方を教えてもらいにね。ぬえもどう」
と、なにげなくぬえを誘ってみた。
「だれが行くか!」
ぬえはきっぱりと断わった。
かなり強い声で言われたのが、水蜜にはちょっと意外だった。
(ぬえは地霊殿が嫌いなのかな)
水蜜は訊こうとした。が、やめた。訊くまでもないことだろうと思いなおし、その問いを心笑のなかにおさめた。
好きである者のほうがここではめずらしい。
地霊殿を嫌忌するぬえの感覚はいたって常識的である。
早朝、水蜜たちは家を出た。地霊殿へのみやげを買うために市へ行くのである。
鍵のない家屋だが、盗まれるようなものもないので、留守は置かなかった。猫も連れてゆくことにした。いつかのように水蜜が抱きかかえた。地霊殿に行かないと言ったぬえは、この買い物にはついてきた。
市は朝から賑わっている。
「さて、なににしようか」
「果物でいいじゃん」
と、ぬえが言った。そうやって買ったみやげのいくらかを、自分の腹におさめるつもりなのだろう。水蜜は首をふってぬえの提案を断わった。
「食べ物は、なにが当たるかわからない。それにあそこは動物が多いから、なおのことおみやげには持っていけない」
「ちぇ」
ぬえの舌打ちに、水蜜は肩をすくめた。
(仕方ない)
水蜜はぬえに掌を出させ、その上に銭を乗せた。
「なにか欲しいものがあるなら、いっこだけ、好きなの買っていいよ」
「やった」
ぬえは喜躍した。
「よし、行くぞ、寅丸。いいもん食べさしてやる」
「へんなもの食べさせないでよ。体によくないかもしれないから」
「わかってる、わかってる」
「ほんとうかなあ」
肩に猫を乗せたぬえは、水蜜のもとを離れ、やがて雑踏に消えた。
水蜜は一輪にむかって、
「なにがいいかな」
と、あらためて相談した。
「ひとつ、これは、というものがある、って雲山が」
と一輪は言った。
「へえ……」
水蜜は雲山を見た。雲山がうなずいたような気がした。
「しゃれた織物屋を見つけた、って言っているわ」
と一輪は言ったが、水蜜は雲山が声を出したことさえ気づかなかった。
雲山の声は一輪にしか聞きとれない。雲山は言葉を話せないわけでも声の質が特殊なわけでもなく、ただ異常なほど小声であるだけだという。雲山の声が騒音にまぎれたり、厚く隔てられたところか発せられても、一輪はその声を正確に拾えるらしい。一輪には異能がある。
雲山がふわふわと移動をはじめたので、水蜜と一輪はそれについていった。
「驚いた。いつのまに、雲山はそんな店に目をつけていたのかしら」
と水蜜は一輪の耳に顔を近づけてささやいた。
「さあ、ね」
一輪は目と口に苦笑をうかべた。一輪と雲山が離れることはめったにない。一輪が知らないということは、そのめったにないことがあったのだろう。
「一輪に贈るつもりだったのかもね。妬けるじゃない」
水蜜は一輪をからかった。
「ははは……。それはないって」
一輪は怒りもせず、笑っただけだった。
店についた。外装は地味だが内装はたしかにしゃれていた。
店主が見あたらないので、一輪が大声を発して店主を呼んだ。店主らしき妖怪が奥からあらわれた。しわくちゃの顔だった。手もしわだらけで、腰が曲がっている。目は厚くまぶたでおおわれてほとんど見えない。市の殷賑に似つかわしくない、どこか陰気な感じのする妖怪だった。
「地霊殿に行くことになったので、みやげをさがしています。多少、高価なものでもかまいません。主人の古明地さんにふさわしいものを、売ってください」
水蜜は自分でも意外なほど明朗な声で言った。
一輪がぎょっとして水蜜を見た。
店主のまぶたがかすかにもちあがった。
「いくら持っている」
しわがれた声だった。
水蜜は手持ちの銭貨をすべて店の台の上に置いた。
「あの覚りは偏屈で、南蛮物を好む」
しわまみれの妖怪がのっそりと動いた。
「生地はこれがよいだろう。触ってみるかね」
「はあ……」
水蜜は生地を触らせてもらった。物の良し悪しは水蜜にはわからない。風変わりな模様だ、と思った。濃藍の海があり、白い波がきらきらと輝いているようだった。それらは文様ではなくはっきりとした絵に見えた。
「これが南蛮風なんですか」
「南蛮風とはこうだろう、と想像して織った物だ。じっさいは知らぬ」
店主は笑った。
水蜜は眉をひそめた。自分とさとりを侮られているような気がした。
「おっと、そんな顔をするものではないな。ととのったつらがだいなしだ」
店主はまた笑った。
「これで膝掛をつくってやろう。地霊殿の主は、椅子に足をぶらさげて座り、暖炉のそばで、まどろむものだと聞く。膝掛がよい」
店主はかってに話を進めていった。
水蜜は一輪の意見を聞きたくなった。水蜜が一輪のほうを見ると、一輪は無言でうなずいた。それでかまわない、ということだろう。水蜜にしても感情の不快をわきにおけば、店主の話をしりぞける理由はなかった。雲山が勧めてくれた店でもある。
「お願いします」
と水蜜は言った。
「時間はかからぬ。今日にもできようが、いるときにいつでも受け取りにくればよい。銭はそのときにもらおう。それは持って帰れ」
店主は水蜜が置いた銭貨を指さした。
水蜜たちは店主に礼をして、店を出た。
「みやげというより貢物だな」
背後に笑声が聞こえた。
(いちいち神経に障る)
と水蜜は思った。この店は好きになれそうもない。
店を出てすぐにぬえと合流した。
手になにも持っていないところから、買った物はもう腹のなかにあるらしい。
「あそこは、なかなか、うまかった。また行くか。なあ、寅丸」
と、ぬえは上機嫌で言った。猫も機嫌がよさそうである。猫はぬえの肩から飛び跳ね、ふたたび水蜜の腕におさまった。
「あれ、手ぶらじゃん」
と、ぬえが気づいて言った。
「完成まで時間がかかるから、後日受け取りにこいって」
水蜜の言い方には嘘と棘がすこしばかりある。店主への不快感が水蜜にそういう言葉を選ばせたのだろう。
「ふーん」
もはや、みやげに興味のないぬえは、水蜜の言葉の裏にある感情のささくれを勘ぐらなかった。
水蜜たちは帰途についた。
その夜から、三日間、猛吹雪がつづいた。
雪がおさまったのを見て、水蜜は一輪と雲山、それに猫の寅丸を連れ、地霊殿に行くことにした。みやげの膝掛は一輪がひとりで受け取りにいった。店主の顔を見たくない水蜜は市門のまえで一輪を待った。
一輪が朱塗りの箱をかかえてもどってきた。
「そこに入っているの?」
と水蜜は訊いた。
「そう。――特別に箱の勘定はしないでやる、と言われたわ」
軽く息を切らしながら、一輪はおかしげに笑った。
水蜜は店主のしわくちゃの顔としわがれた声を思い出し、顔をゆがめた。いかにもあの店主が言いそうなことだ。雲山には悪いが、自分は二度とあの店に行くことはないだろう、と水蜜は思った。
「そんな顔しないの」
と一輪にたしなめられた。
「ああ、いけない」
と水蜜は頬をたたいた。
不快をひきずったまま地霊殿を訪ねては先方に対してあまりに礼を欠く。
水蜜はさっと気分をあらためた。
地霊殿は驚くほど大きな建物だった。地底でこれほどの規模のものは他にない。建築様式もこれまで見たことのない異質に飾られていた。壁は赤土色をしていて、門は鉄柵のようだった。
正門のまえに立って、それを見あげた水蜜は、
――あの覚りは偏屈で、南蛮物を好む。
という織物屋の主人の言葉を思い出した。これは南蛮風の建物なのだろうか。
水蜜だけでなく、一輪と雲山も地霊殿の威容に呆然とした。猫だけが、水蜜の腕のなかで、のんきに鳴いている。
しばらくそうやっていると、
「やあ、おいでなすったねえ」
という軽快な声があった。
門のむこうにおりんがいた。
「こんにちは……」
水蜜は気の抜けた頭をさげ、あいさつをした。
「ははっ、おもしろい顔してるや、おねえさんたち。こんなみてくれの家は、ちょっとめずらしいもんね。初めてここに来たやつは、みんなそんな顔になる」
あいかわらずおりんは颯爽としている。
門が開いた。
「さあ、さあ」
と、おりんは水蜜たちを邸内に招き入れた。
門を越えたとき、水蜜は視線の多さに気づいた。さとりが飼っている動物たちの視線であるとわかった。庭木の手入れをしている熊がいる。狐が芝を刈り揃えている。猫は無限と思われるほどあちこちから湧いてくる。それら動物たちの好奇の目が、しげしげと来客者を見ている。
扉が開かれると、暖かい風が水蜜の顔にあびせかかった。
「さ、入った、入った」
おりんに手をひかれて、邸内に入ると、いきなり広い空間があった。明かりのまばゆさに水蜜は目をすがめた。
土間がない。おりんは土足で先に進もうとする。くつはどうするのかと訊くと、
「そのままでいいよ。そこの敷物でくつの裏拭いてくれたら」
と言われた。それにしたがったものの、水蜜は気持ちがおちつかなくなった。
くつの代わりというわけではないが、水蜜と一輪は外套をぬいだ。汗をかくほど体が暑くなってきた。目に見える範囲に暖房装置はないようである。地霊殿は灼熱地獄の真上に建っていると聞いたことがある。熱の正体はそれだろう。
客間に案内された。
おりんは水蜜たちから外套をあずかり、衣桁に掛けた。
「さとりさまを呼んでくるから、そこにかけて待ってておくれ」
と、おりんは言った。
「足はのばしてね」
とつけくわえて、おりんは部屋を出ていった。
いやにやわらかそうな座席である。脚の短い机を挟んで四台ある。
足を床につけて座ってみると、じっさいに柔らかく、体が沈むような感覚があった。
水蜜はおおきく息を吐いた。ようやく人心地ついた感じだった。
「なにからなにまで凄いところね」
と水蜜は感嘆した。
「ほんとうに、凄い、としか言いようがない」
と一輪も驚きを口にした。
そして、自分たちは、これからこの地霊殿でもっとも凄いと思われる存在にまみえるのである。
猫を抱く腕に知らず力がはいった。
「おまたっせ」
おりんがもどってきた。
水蜜はそちらに目をうつした。
おりんの背後に小柄な影がある。おりんよりもずっと背は低い。
水蜜は意外に打たれた。この小柄な影は、おそろしいほど暗い。あるいは、おそろしいほど薄い。存在がきわめて希薄で、その姿は水蜜の視界にたしかにありながら、なかば暗闇に融け、所在を見失いそうだった。
――まさか。
と思った、その妖怪が、まさに古明地さとりだった。手に古びた冊子を持っている。
さとりはおりんのまえに歩み出ると、
「地霊殿をあずかる、古明地さとりです。ようこそいらっしゃいました。たいしたもてなしはできませんが、歓迎しましょう」
と抑揚のない声で言った。
水蜜は一輪に肩をたたかれ、はじかれるように席を立ち、順に名のっていった。もちろん雲山の名のりは一輪が代弁したのである。
さとりに促されて席にもどった。さとりは水蜜の正面に座った。
一輪が朱塗りの箱をさとりに差し出した。無感動に受け取ったさとりは、その箱をあけ、ふっとごくちいさな息を吐いた。笑いを吐いたように水蜜には見えたが、そこに乗せられた感情まではつかめない。
「よいものですね。ありがとうございます」
と言ったさとりは、箱のなかを見ただけですぐに蓋をし、おりんに箱をわたして、茶を持ってくるように言いつけ、退出させた。
(とらえどころのないひとだ)
水蜜は困惑しつづけている。全身から汗がふきだしてかなわない。さとりは目前にいるようで、いない。どれほど彼女のいずまい見て、声を聞いても、それが印象として頭に入ってこない。
突然、猫が水蜜の懐を飛び出て、走り、さとりの膝の上に乗った。
「あっ、こら、寅丸」
「かまいませんよ」
さとりは水蜜をやんわり制して、膝の上の猫を撫でた。
「すみません」
水蜜はあげかけた腰をおろし、座りなおした。
「この子を飼うのですね」
さとりは視線を左右にうごかした。
(自分は緊張しているな)
それがわかる。たいしたことのないさとりの問いにすぐに答えられない。となりにいる一輪はどうなのだろうか。そう思っていると、一輪が口をひらいた。一輪も水蜜と同じように緊張し、汗をふきだしていたが、話しぶりはしっかりとしていた。
「はい。ですが、わたしたちは猫を飼ったことがないので、どうすればいいのかさっぱりわからず、この上は古明地さんに縋るほかないと思い、やって参りました」
「では、わたしにゆずってください、と言ったら――」
さとりは含みのある笑みをうかべた。
「えっ」
一輪はひらいた口をとじられなかった。
水蜜は一輪とさとりを交互に見て、困惑を深めた。
「冗談ですよ。ゆずってもらったところで、どうせわたしは世話をしない」
と、さとりは言った。
水蜜と一輪はほっと息を吐いた。
「猫の飼い方を教わりたい、とのことですが、ここの猫はみな妖怪と怨霊を食べて成長します。体は頑丈に育ち、やがて自身も妖怪になり、ますます丈夫になる。猫を長生きさせたいのなら、怨霊を餌にすればいい。生きるだけならそれで充分です」
さとりはそこまで言って一度言葉を切り、
「けれど、あなた方は猫を妖怪にするつもりはないから、やはりちゃんと知っておく必要があるのでしょう」
と言って、古い冊子を水蜜に差し出した。ぱらぱらと捲ってみると、几帳面な文字がしたためられていた。絵もある。
「昔は自分で面倒をみていました。なにもわからず右往左往しました。これは、それにあたって、飼い方を考えたり調べたりして、書きとめたものですが、あなたにさしあげます。わたしはもういらないので」
さとりの厚意だった。
水蜜たちはふかぶかと頭をさげて礼を述べた。
頭をあげたとき、水蜜は初めて、さとりの姿をはっきりととらえた。
(こんなひとだったんだ)
目がきれいだと思った。この平凡な感想には、奇妙な感動がある。胸がふるえた。鋭くも鈍くもなく、明るくも暗くもなく、ただ静かであるが煩さのないふたつの目が青白い頬の上にある。
背はおりんよりだいぶん低く、手足は痩せ細っている。大物らしい威はたしかにあるが、他者を押さえ付けるような強さはない。全体的にしなやかというか、やわらかい感じがする。地霊殿の圧倒的な威容からこの人物像を描くのは困難だろう。
――彼女に嘘をついた者は、自ら地獄の炎に身を投げる。
そんな考えが水蜜の胸をよぎった。さとりはその名のとおり、ひとの心を読む覚り妖怪だが、たとえそうでなかったとしても彼女に欺騙は通じない、と水蜜は思った。それはすなわち(どういうわけか)水蜜は敬愛する聖白蓮に似たものを、さとりのなかに見たということだった。
さとりはふしぎそうな目で、水蜜をうかがった。
「ひじり、とは、どなたのことで――ああ、その髪の長い方でしょうか。わたしが彼女に似ている……さて、わからない。いったいどんな方なのですか」
と、さとりに訊かれたので、
「恩人です」
と水蜜は言い、白蓮の話をはじめた。途中、おりんが茶と茶請を運んできた。それを飲みながら、水蜜は白蓮ついて話し詰めに話した。水蜜の舌は熱をおびた。さとりはそれに耳をかたむけている。いや、心をかたむけている。心の目で、水蜜の心の話を聞いている。ときどきあいづちを打ち、こくりこくりと、ゆるやかに首を上下させている。
さとりはまるで音楽でも聞いているみたいに、心地よさそうに体をゆらすものだから、どうしたことかとおりんは首をかしげ、そのあとにっこりと笑った。
水蜜が白蓮の活躍をすべて話し終えると、さとりは、
「地上には、まだそういうひとがいる、いえ、かつていた、ということですか」
とすこし語尾をしめらせて言った。
「久しぶりに楽しい時を過ごせました。礼を言います」
その言葉に、水蜜は興奮を鎮めたように、また頭をさげた。
帰るとき、さとりは門のまえまで見送ってくれた。さとりはおだやかな笑貌をたもっている。それにつられてか、おりんもたいそう機嫌がよい。
「また来てよ」
と、おりんは言った。
「ぜひ――」
水蜜は明るい声で答えた。
帰り道、
「地底には、まだああいうひとがいる」
と水蜜は感動のおさまらない調子で一輪に言うと、大口をあけて笑った。口のなかに雪が入った。それを吐き出し、また笑った。
「そうね、鬼の評価も当てにならない」
一輪は同調してみせた。が、内心では、すっかりさとりにほだされた水蜜のうかれように、少々不安をおぼえた。
訪問は一度きりだと一輪は考えていたが、水蜜はこれから何度も地霊殿を訪れ、さとりと交流を深める気でいる。水蜜は放念しているかもしれないが、さとりは地底の支配者というべき鬼と対立する勢力の頭目なのである。そして水蜜が属しているのは、さとりではなく鬼の勢力ということになっている。
(厄介なことにならなければいいけれど……)
と一輪は思った。結果的にこのいやな予感は当たらなかった。一輪は水蜜がさとりに昵近することで鬼どもに目をつけられ、身が危うくなることを怖れたが、じっさいのところ水蜜の背後にさとりの存在を見た彼らは、気に食わぬといったふうに睨みつけるだけで、それ以上のことはできなかった。地底におけるさとりの名はそれほど強大だったのである。
水蜜は猫の寅丸を連れて、頻繁に地霊殿に通うようになった。