恋する船幽霊・三

 澄んだ目がさとりを見ている。
「ずいぶんとあの船幽霊に肩入れしているようですね」
「そうでしょうか」
「飛倉の位置を動かしたことが、それです」
「あれはもともと、彼女のものだったのを、鬼が強奪したのです。位置を動かしたのは鬼であって、わたしはもとのとおりにしたにすぎません」
「それがひいきというものですよ」
 と言って、映姫は笑った。きまじめが服を着ているようなこの閻魔は、さとりを相手にするときだけ、奇妙なことに性格がやたらと軽くなる。
 ――それだけ気をゆるされている。
 と、あっさり納得できたら、これほど幸せなことはないだろう。残念ながらさとりはそこまで単純ではない。
 首筋に汗がにじんでいる。さとりはそれを残暑のせいにした。が、映姫は涼しい顔をしている。
 映姫の心は、たやすく読めそうで、なかなか読めない。映姫の心は極めて整理されている。京師のようだ、と思う。きれいに区画された京師の路である。ほんものを見たことはないが、きっとそんな感じだろう。だから、たとえば水蜜のように、複雑に絡まった糸に指を入れてほぐすようなめんどうが、映姫と対峙しているときは生じない。話す言葉は思考にある言葉そのものであり、そこからはずれることがないからである。それだけ嘘のない性格と言えるかもしれないが、短絡からはほど遠く、独特のきむずかしさがある、というのが映姫の精神のかたちだった。
 ようするにむやみに疲れる相手なのである。
「もう地底には来ないものだと思っていました」
 と、さとりは言った。映姫の訪問は、旧地獄の引き継ぎ作業が完了して以来、数百年ぶりになる。ただし書簡のやりとりはつづけていた。
「来るつもりはありませんでした」
「なら、なぜ」
「急にあなたが恋しくなったから、ではいけませんか」
「冗談はやめてください。閻魔のくせに」
 さとりは口をとがらせた。考えていることと話していることが同じであり、発生のタイミングも同じなので、二重になってさとりの頭に響く。
「稚拙そのものだったあなたの字が、最近すこしずつ上達してきた。何百年と変わらなかったのに、この数年のうちに変わろうとしている。読んでいる者としては、どうしたことか、と思うでしょう。調べてみると、ある妖怪の名がうかびあがってきたわけです」
「調べたんですか」
「調べました」
 ふふんと笑って映姫は紅茶を飲んだ。
 さとりは溜息を吐いた。
「あなたは――」
 さとりと映姫の声が重なった。
「変化を怖れている」
 と先に言ったのは映姫である。
「妹が変化したことがひとつ、その妹がふたたび変じ、もとのかたちにもどることがひとつ」
 さとりは眉をひそめた。
「前者は怖れではなく、かなしかっただけです。そして、わたしは、後者を怖れてはいない」
 と言った。
「そうかな。こいしがとじた目をひらけば、昔にもどるだけです。それを喜べない自分を想像し、そのときがいつか来ることを怖れている」
 映姫は間違ったことを言わない。この言葉も正しいのだろう。しかし、さとりは、はいそのとおりです、と認めるわけにはいかない。
「今のままでいい、と思わないでもないです。こいしは幸せそうですから。目をひらけば、昔さらされた悪意にまたさらされ、また傷ついて、せっかくの幸せもくずれるでしょう。こいしはそれを嫌って目をとじたのですから」
 でも、と、さとりはつづける。
「ひとの悪意を忘れたこいしは、ひとの好意も忘れて、自分のことさえ忘れようとしている。それではいったい、生きているのか死んでいるのか……どちらにせよ、あまりにかなしいじゃないですか、そんなことは――」
 すくなくとも覚り妖怪としてのこいしは、死んだも同然の状態にある。なにものでもない一個の怪異が虚しくただよい、あいまいに存在している。その存在をこの世界につなぎとめているのは、こいしを忘却しない者、すなわちさとりである。
「あなたが忘れたときこそ、彼女の死にどきでしょうね」
「不吉なこと言わないでください」
「存在証明をうしなった者は消えるだけです」
 映姫はさらりと言った。
 さとりは不快の塊になった。
 さとりの鋭い視線をうけても、映姫は平然としている。
「妖怪は妖怪らしく生きるべきです。覚りは覚りらしく生きるべきです。こいしは生き方を間違っている。あなたは姉として、その過誤を正さねばならない」
 きびしい口調でそう言ってから、口もとにほのかな笑いを浮かべた。
「恋に夢中になるのもかまいませんが、あなたは自身を変えようとしているのに、妹には変わらないことを望むのは、卑怯というものですよ。一緒に変わってゆけばよい。それが姉妹であるということでしょう」
「恋って……」
 ばからしい、と言おうとして、口をむすんだ。映姫の戯言はともかく、水蜜にかまけすぎて身内をおろそかにしつつあった自分に気づいたのである。
 さとりはまだ水蜜にこいしを紹介していない。こいしには放浪癖があり、めったに邸にいないこともあるが、さとりはなかば意識して、この妹の存在を水蜜に隠しつづけている。が、なんのためにそんなことをやっているのか。映姫にはすべて見透かされているようだった。
 さとりはしばらく目をつむり、黙考した。やがて目をひらくと、
「あなたは――」
 今度の声は重ならない。
「いつもわたしを腹立たせる」
 と言って、映姫を睨んだ。
 ちょうどそのころ、水蜜は二度目の溺死を体験しそうになっていた。

 旧地獄というだけあって、地底にはさまざまな地獄の施設が今ものこっている。その大半はすでに機能をうしなっているが、可動状態のまま放置されている施設も少なからずある。
 血の池地獄もそのひとつである。旧地獄の諸施設は書類上はすべて地霊殿の管理下に置かれているが、血の池地獄は地霊殿からさほど離れていない場所にある。
 文字どおり血のように赤い。
 ふだんけっして立ち寄らないこの場所に、足を踏み入れたのは、水蜜にもわからないことだった。じつは水蜜はなにものかを追いかけていたのだが、本人にその自覚はなかった。いつもはおとなしい寅丸が、めずらしくうるさい鳴き声をあげていることにも気づかなかった。
 夢幻に誘われるように、水蜜は地霊殿にむかう足を血の池地獄へと転じ、ふらふらと歩いてゆくと、ほとんど正体なく、真っ赤な池に落下した。
 水蜜は溺れた。
 自分の身に、なにが起こったのか、水蜜にはすぐに理解できなかった。
 混乱したままもがいていると、頭上にきらきらと光るものを見つけた。そこにむかって手を伸ばした。その手が草を掴んだ。体重をかけて、池から脱出した。
 ひとしきり咳きこんだ水蜜は、草の上にあおむけになって倒れた。
 まだ息が荒い。呼吸がさだまらない感じである。
 濡れた頬を寅丸が舐めた。
 ありがとう、と言って、水蜜は寅丸の頭を撫でてやった。
 ようやく息がととのってきたところで、死の恐怖が遅れてやってきた。体がふるえだした。
(死ぬかと思った)
 死んでからまた溺れ死ぬなど、笑い話にもならない。
「生きてるんだ」
「いや、死んでいます」
 答えたあと、だれに問われ、だれに答えたのか、水蜜はいぶかしんだ。
 声の主をさがしていると、いつのまにか、となりに知らない少女がすわっていた。
(どこかで見たことのあるような。……)
 水蜜はもどかしくなった。つばの大きな帽子をかぶっているせいで、顔に影がかかっているが、影からのぞく鼻と眉のかたちに見覚えがある。だれかに似ている気がしたが、それがだれであるのか、思い出せない。
 その少女の背後から、二本の線を繋ぐ球体が、そろりとあらわれた。
 ――第三の目。
 水蜜は跳ね起きた。
 よく見るとその目はとじられている。さとりの目は皮膚が赤かったが、こちらはぶきみなほど青い。死の色だと水蜜は思った。
「覚りの方でしょうか」
 と水蜜は訊いた。
「うん。やめたけど」
 かぼそい声だった。
 水蜜は首をかしげた。覚りをやめる、とは、どういうことだろうか。
「心を読むのをやめたの」
 水蜜の心の問いに答えるかたちになったが、本人はもう読むのをやめたと言っているから、偶然なのだろう。
「今はね、休業中」
「再開はいつごろになりますか」
「予定はないかなあ」
「そうですか」
 水蜜はすこしうつむき、考えこんだ。
 さとり以外の覚り妖怪がいたことを、水蜜は知らなかった。さとりの話にでてきたこともない。さとりとこの少女とは、どういう関係なのだろうか。あるいは種族が同じなだけで、なんの関係もないのだろうか。いろいろと疑問が生じたが、それに答える声は聞こえなかった。
「わたしは、村紗水蜜と言います。名前、聞かせてもらってもかまいませんか」
 と水蜜は言った。
「こいしだよ」
「こいしさん、ですか」
 どういう字で書くのだろうと思っていると、
「古明地の、こいし」
 と、つけたされた。
「古明地――こいし――」
 水蜜の胸の奥が、かすかにゆれた。
 姓が古明地ということは、さとりの身内に違いない。あらためて見ると、こいしの眉と鼻のかたちは、さとりにそっくりである。が、さとりはこいしのことを水蜜に教えなかった。水蜜も地霊殿でこいしの姿を見かけたことはない。もしかすると、こいしは今地霊殿に住んでいないのかもしれない。水蜜はそんなことを考えた。
 こいしはとじた目のまぶたをいじっている。
 ふしぎな子だと思った。さとりもふしぎさに満ちているが、それとは種類の違うふしぎさである。こいしはすぐ目の前にすわっていながら、そこにいるような、いないような、そんな感じである。存在感が希薄なのかもしれない。さとりのような力強さをまるで感じない。
「さとりさんのお身内の方ですか」
「いもうと」
 と言ったあと、こいしは顔についている両目で、水蜜の顔をのぞきこんだ。
「おねえちゃんのしりあい?」
「よくしてもらっています。地霊殿にも、何度か、おじゃましました」
「しらないや、いつ来てたの。わたしもまぜてほしかったな。おねえちゃんのけち」
 と、こいしは愚痴をこぼした。
 水蜜は髪を掻いた。
(すると、彼女は地霊殿にいる。それにしても、一度も見たことがないなんて)
 ますますわからない。さとりに紹介してもらえなかったことも、わからないことのひとつである。覚りであることを棄てた妹の存在を、知られたくなかったのだろうか。そのあたりをさとりに訊いてみたくなったが、さとりにその気があればとうに話していただろう。今まで隠してきたのは事情があるに違いなく、それをむりに話させるのも気がひける。
(やめた)
 水蜜は地霊殿行きを中止にした。どう考えても、今の自分はこいしのことで頭がいっぱいになっている。
 水蜜は立ちあがった。
「どこいくの?」
「家に帰ります」
「ふうん。じゃあ今度うちに来てね。わたしのいるときに」
 と言った瞬間、こいしの姿がふっと消えた。
 水蜜は、目と口を大きくあけたまま、しばらく呆然と立っていた。

 家に帰って事情を話すと、一輪にこっぴどく叱られた。
 一輪の怒りは当然のことで、水蜜は言い訳のしようもない。黙って一輪の長い説教をうけた。
「それにしても、さとりさんに妹がいたなんて、驚いた」
 一輪の説教が終わってから、水蜜は言った。
「妖怪ってやめようとしてやめられるものなのね」
 と一輪は違う驚きを口にした。そのあと、自分の言葉に違和感をもったのか、首をかしげた。こいしが今も妖怪であることには変わりない。が、覚りではなくなった。それなら今はなんの妖怪なのだろうか。
「覚りなんじゃあないの?」
「覚りはやめたんでしょう?」
「わたしだって船幽霊やめてるし」
「ああ」
 そう言えばそうか、と一輪は納得したように言った。水蜜だけでなく、一輪も雲山も、妖怪としての本分をすでに放棄している。
 多分に精神性の生き物である妖怪は、定義された生き方からはずれると、やがて人々からそれと認識されなくなり、忘れられ、存在の寄る辺をうしない、ついには融け去る運命にあると、かつて白蓮に教えられた。一輪たちは毘沙門天によって存在を護られているが、こいしはどうなのだろう。
 ひとつの疑問が解決すると、また違う疑問が湧いてくる。
 一輪はこいしを知らない。
 それでもこいしの在り方はどこか危ういように思われた。
 一輪がなにやら思考にのめりこみだしたので、水蜜は寅丸を抱きあげ、鼻をすりつけながら、
「ふしぎ、ふしぎ」
 と、くりかえしつぶやいた。
「なにがふしぎなの?」
「ひゃっ」
 突然、背後からあがった声に、水蜜は思わず寅丸を持つ手を離した。床に落ちた寅丸はみじかい悲鳴をあげた。一輪はさっと立ちあがり、戦闘態勢をとった。
 水蜜がうしろをふりかえると、なんとこいしがいた。
「こいし、さん……」
「えっ、この子が――」
 一輪は水蜜が言ったその名を聞いて構えをといた。が、心の緊張はとかなかった。とけない、と言ったほうが正しいだろう。
「おじゃまします」
 こいしは帽子をぬぎ、ぺこりと頭をさげた。
 つられて水蜜たちも頭をさげた。そのときこいしの足もとが目にはいった。こいしはくつを履いておらず、素足をさらしている。あとで確認すると、こいしのくつは土間に置かれていた。板の間にあがるときにぬいだのだろう。
 驚愕をおさめた水蜜たちは、この珍奇な客人を鄭重にもてなした。
 話しているうちに、こいしがぬえと旧知であることがわかった。最近はとんと顔をあわせていないという。以前、水蜜がぬえを地霊殿に誘ったとき、彼女がのってこなかったのは、単純に多くの妖怪がそうであるように、ぬえもまた地霊殿を嫌っているからだと思っていたが、別な理由があったのかもしれない。
 姉妹仲は悪いわけではないらしい。むしろ良好のようである。話題がさとりのことに及ぶとこいしは「おねえちゃん、おねえちゃん」と、愛しげに言うのだった。
 突然あらわれたこいしは、やはり突然いなくなった。
 なごやかに笑語していた水蜜は、話し相手がひとり減っていることに気づき、一輪の肩をたたいた。一輪もこいしが消えていることに気づいていなかった。
 戸はしまっている。土間にこいしのくつはない。家のなかをざっとみわたしたが、どこかに隠れているようすはない。
 水蜜は手をひらいたりとじたりして、指先の感覚をたしかめた。現実感がまったくなかった。体も心もふわふわと浮いているようだった。
 こいしはほんとうにこの家に来たのか、と疑う気持ちがにわかに湧いた。こいしがここにいたという実感がまるでのこっていない。
 ――夢か幻でも見ていたのか。
 水蜜と一輪は顔をみあわせ、しきりに首をひねった。

 水蜜がぬえをともなって地霊殿を訪ねたのは、それから十日あまりのちのことだった。
 さとりはふたりを自室に案内し、席につかせると、胸の動悸を鎮めるように深く呼吸をしてから、
「さすがに驚きました」
 と言った。
「さとりさんでも驚くことがあるんですね」
 水蜜は口をほころばせた。
「まさか、まさか、ふたたびその顔を見られるとは思わなかったわ」
 さとりはぬえのほうを見て言った。
「おう、わたしも全然思わなかった!」
 と言って、ぬえは鼻にしわをよせた。
「こいしは家にいるのかいないのか、わかりませんが、いちおう、おりんたちにさがさせています」
 と、さとりが言うと、ぬえは「ない、ない」と首と手をふった。
「見つかんないよ。本人が自分がどこにいんのかわかってないんだもん」
 と言った。
「それは、まあ……」
 さとりは溜息を吐き、
「だからって、ほうっておくわけにもいかないわ。せっかく、ひさしぶりにお友達が遊びにきてくれたのだし」
 と言った。さとりとしては、こいしを水蜜に紹介する以上に、ぬえに会わせたい、と思っている。
「友達じゃないし」
「あら、でも、こいしはそう言っていたわ」
 さとりはぬえのあまのじゃくを笑ったつもりだったが、ぬえは目をみひらいた。
「あいつがもう友達じゃないって言いだしたんだけど」
 ぬえは驚いたが、さとりはもっと驚いた。
「まさか」
 その驚きが目容にあらわれ、口からもれた。
 水蜜はふたりのやりとりを見ながら、妙な違和感をおぼえた。ぬえの足が地霊殿から遠ざかっていた理由は、すでにぬえから訊いていたのでそのことを驚きはしなかったが、ふたりが普通に会話していることがとてつもなく奇妙だった。
 さとりとの会話がはずむと、かえって口数が減る、という現象が起こる。さとりはひとの心を読むので、その心の声と対話するために、こちらが思ったことを口に出すより先に、さとりの相槌がくるのである。
 ぬえとさとりの会話にはそれがないようだった。
 水蜜が内心首をかしげていると、
「ああ、彼女ですか。読めないんですよ、彼女の心って。いえ、見えることは見えるのですが、意味不明で理解できないというか。ちんぷんかんぷんなもので」
 と、さとりが教えてくれた。
 ――ほら、こんなふうに、と水蜜は思った。思ってから、驚いた。
「えっ、読めないんですか?」
「ええ」
「喉渇いたなアって思ってもお茶淹れてくんないんだよ。わたしだけ」
 ぬえはティーカップを持ちあげた。
「言われなければわからないもの、あなたは」
「ふしぎだよね。まあ考えてることわかんないなら、そっちのがいいけどさ。正体不明でメシ食ってる身としては」
 と言って、ぬえはからからと笑った。
 水蜜からしてみると、ぬえの思考はわかりやすいほうである。根が単純なのか、怒っているときは怒った顔になるし、悲しいときは泣き顔になる。虫のいどころが悪い日は猫背ぎみになり、眉間からしわがとれることがない。なにか良いことがあると一日中にこにこと笑い、まわりにやさしくなる。
「態度や表情から気持ちを読みとるのは苦手です」
 さとりは苦笑した。
「ぬえの頭のなかって、どんな感じなんですか」
 水蜜はぬえの側頭部を指でつついた。手で乱暴に払われた。
「ねっとりとした青と赤がうずをまいてまじわろうとしている。鏡だけでつくられた迷途が出口も入口もなく無限にひろがっている。金属音のような鳴き声がひっきりなしに聞こえる。……そんな感じですね」
「わたしはそんなこと考えてないんだけどね」
 ぬえは茶請を口のなかにほうりこんだ。
「お、こりゃ、なかなかいける。二三個くすねてくか」
 水蜜はためしに、ぬえが今、頭のなかで思っているだろうことを、言ってみた。
「エスパーすんなし!」
 わけのわからない抗議をされたが、あたっていたということだろう。が、水蜜にわかることを、さとりはわからないらしい。
「わかりませんね。万華鏡のようにくるくると違う景色が展開されています。ああ、万華鏡というのは……ええと、どう説明したらいいかしら」
 言いながら、さとりは鈴を鳴らした。口で言うより、見せたほうがはやい。
 ほどなくして子犬がはいってきた。
「万華鏡を持ってきてちょうだい」
 と、さとりは言った。
 犬が万華鏡を持ってくると、さとりは水蜜にそれをわたし、筒の片側を指さして、
「ここに目をあてて、なかを覗いてみてください。それから筒を手のなかで回してください。おもしろいことが起こりますよ」
 と言った。
 水蜜は言われたとおりにした。
「わっ」
 と驚いた水蜜はすぐに目をはなした。
「おもしろいでしょう」
「はい」
「そしてぶきみでもある」
「ぬえが間違いなくあの鵺であるというのを、やっと信じられそうです」
 水蜜は口をあけて笑った。ぬえに頭をはたかれた。舌を噛みそうになった。
「信じてなかったのか!」
「同じ名前の別の妖怪ってくらいには信じてた」
「ひどいな!」
 ぬえをなだめながら、水蜜は万華鏡をさしだした。
「ぬえも見てみなよ」
「自分の頭のなか見たってなあ」
 そう言いつつ、ぬえは万華鏡を受け取って、覗き窓に目をあてた。
「うわ、きめえ」
 ぬえはちいさく叫ぶと、万華鏡をさとりにむかって投げた。
 その姿に伝説の大妖怪らしいぶきみさはかけらもなかいが、ころころと表情が変わるところは、たしかに万華鏡のようである。
 結局こいしは見つからなかった。不首尾のおりんをさとりがなぐさめた。それを見ていたぬえは水蜜の服の袖をひき、
「ほらな」
 と言った。
「あいつはね、見つけようと意識すると、かならずその意識のそとにいるのよ。さがしにいって、見つかるわけがない」
「意識のうちに入れるには……」
 と水蜜が訊くと、
「知らん。あいつのその日の気分しだいじゃないかな。入るときはかってに入ってくるよ」
 と、ぬえは言った。こちらでどうこうできるものではないらしい。
 ふたりは地霊殿を辞した。
 帰り道に水蜜はぬえに、
「残念だったね」
 と言った。
「残念。なにが残念」
「こいしさんに会いたかったんでしょう」
 と水蜜は言った。
「どうかな」
 ぬえは首筋を撫でた。
「あいつがムラサんちに来たの、ひょっとしてわたしに会うためかなって思ったんだけど……くそっ」
 と言って、ぬえは地を蹴った。土埃が足もとに散った。
「仲直りしにきたのかと思ったんだ。だから、いっぺん会っとこうと思って。こっちもちょっとは悪いとこあったし。でも違うな。あいつ、もう顔も見たくないってわたしに言ったの、たぶん忘れてるぞ」
 こいしは一方的に絶交を告げたことも、喧嘩したことさえ覚えていない違いない。さとりが現在のぬえとこいしの関係について無知だったのは、そのせいではないか。
 こうなるとぬえはおもしろくない。こいしの言葉に傷つき地霊殿から離れていた自分とは、いったいなんだったのか。これほどばからしいことはないのではないか。こいしはぬえに会えないことを寂しがっているのは、なおばかばかしい。
 ぬえは鼻息をあらくして、ずんずんと大股で歩きだした。不機嫌が全身にあらわれている。
「仲直りするなら手伝うよ」
 と水蜜はぬえの背に言った。
「むこうは仲違いしたと思ってないのにか」
「でも、ぬえがそう思っているなら、仲直りしたほうがいいと思うよ。喧嘩別れしたままなのは、つらいでしょう」
「ふん。……」
 ぬえが立ちどまったので、水蜜も足をとめた。
「さとりに会う口実がほしいだけだろ! おまえ!」
 ふりかえったぬえが怒声をあげた。
「ははは、否定はしない」
 会いたくなったら会いにゆけばよいのであるが、このころの水蜜は、そういう自分のすなおな感情に従うことに、なんとなく照れのようなものをおぼえはじめていた。寅丸を連れてゆくとさとりは喜んでくれるが、動機としてはそろそろ弱い。
(どうしたものかな)
 と水蜜は頭を悩ませた。幸せな悩みと言えるかもしれない。
 こうした感情の変化にさとりが気づいていないはずはないが、水蜜はそのあたりのことをまったく考えていなかった。

 さとりの耳はさざなみを聞いている。みぎわに寄せる波の音である。水蜜の記憶から抽出した、本来地霊殿のもたない音が、耳の裏を打っている。
 目をつむり、揺り椅子に揺られながら、さとりは水蜜の余韻にひたっていた。
 ときおり、火のついていない暖炉から外の風がはいってきて、まもなくおとずれる秋の涼やかな薫りをさとりに告げるのだが、それがまたよかった。
 部屋の入口から違う風がはいってきた。
 こいしがいた。
「ただいま」
「おかえり……」
 さとりは夢からひきもどされた。夢のここちよさに比べ、この現実のせつなさはなんであろう。ひさしぶりの妹との再会だというのに、そこにはなんの感動も喜びもない。
 こいしの目はまっすぐにさとりを見ている。
 さとりには、その目はなにかを映していながら、じつはなにも映していない目のように思われた。ひらいていながらとじているのと、なにも変わらない目に思われてならなかった。
 肘掛にのせているさとりの手に、こいしの手がおかれた。その手は体温にとぼしかった。
「この膝掛なあに。見たことないやつだ」
「貰い物よ」
「笑ってたね。なにかたのしいこと考えてたの?」
「海を見ていたわ」
「あの船幽霊のこと好きなの?」
「………」
 さとりは膝掛に目をおとした。こいしは今日のできごとを、どこかで見ていたのかもしれない。それにしては、水蜜にふれてぬえにふれないのは、どうしてだろう。
「さて、ね」
 ばか正直に答える必要はないと思ったさとりは、答えをはぐらかした。――ええ好きですよ、と軽薄に答えるのは、なにか遠慮がはたらいた。
「彼女は、心に海をもっているから、その海を見るのは好きよ」
 と、さとりは言った。
「海? 海ってあの黒くてしおっからいみずたまり? あんなの見てたのしいの?」
 こいしは首をかしげた。
 たしかにさとりの記憶にあった古い海の色もそれである。暗い色をしていた。はげしい波がうねっていた。見ていてたのしいどころか、不安しかおぼえなかった。が、水蜜の海は、そうした暗さを所有していない。それどころかまばゆいほどに明るい。
 さとりは首をふって、
「青いのよ。青く澄んでいて、とてもきれいなの」
 と言った。
「へんなの」
 と言ったこいしは、さとりとのおしゃべりに飽きたのか、それきり話しかけなくなった。こいしの興味はうつろいやすい。
 こいしの体が背景に融けて消えた。さとりの手にあったかすかな感触も消えた。
 またどこかへでかけたのか、まだ邸にいるのか、こうなってしまってはもはやだれにもわからない。おそらくこいし自身にもわからないだろう。
 さとりは椅子にすわりなおした。目をつむって、耳をそばだたせてみたが、さざなみはいっこうに聞こえてこない。さとりは目をひらき、溜息を吐いた。
(わたしはこいしを忘れようとしている)
 こいしを心の雑音として、しりぞけ、ここちよい波音に逃げようとしている。映姫はまさにそれを指摘したのである。映姫はさとりを卑怯だと言った。たしかにそのとおりだろう。こんなことは卑怯以外のなにものでもない。
 あの青くうつくしい海を、こいしとわかちあいたいと思ったことが、一度もないわけではない。が、その思いは諦めのなかで虚しく斃れた。こいしはだれの心も読まない。こいしにあの海は見えず、波の音は聞こえない。
 感動したものを心で共有する。覚り妖怪とはそういうものであり、さとりとこいしはそういう姉妹だった。が、今はそうではない。
 さとりの顔がゆがんだ。
 過去をふりかえると、さとりはいつも強烈な疼痛感におそわれた。それに耐えかねて過去を懐かしむことをやめてしまうと、今度は孤独な寂寥感に支配された。だれとも共有されることのない孤独な寂しさである。
 ほとんど無意識にさとりは虚空に手を伸ばした。体のどこかが渇いていた。水がほしくてたまらなかった。
 空気だけが指先に触れてくる。
 伸ばした手がなにも得ることなく落ちたとき、さとりは、はたと、――道傍の魚とはわたしのことか、と思い、うつろに笑った。

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