恋する船幽霊・四

 雪の降る季節である。
 その日、水蜜はひとつの決意とともに地霊殿にさとりを訪ねた。
「デートしませんか」
 と水蜜はさとりに言った。
 門で出迎えたさとりが苦笑した。
「いったい、そのような言葉をどこでおぼえたのですか」
 水蜜も笑った。笑いがすこし堅いのは、寒さのせいだろう。鼻先がつんとする。
「どこで、というと、まあ、本でおぼえました」
 水蜜は鼻をすすった。
「どうですか」
「かまいませんよ。どうせひまですからね」
 さとりはあっさりと言った。
「わたしの評判を知っているでしょうに、あなたはまるで気にしませんね」
「でも、さとりさんは断わらなかった」
 地霊殿の主人は自分の館からけっして出ないと言われている。むろん水蜜もそのことを知っていたが、水蜜にはひそかな自信があった。
「いいでしょう。たまには外に出るのも悪くない」
「では――」
 水蜜はさとりの手をとった。
 その手を握りかえしたさとりは、ふっとちいさな笑いをこぼした。
「聖輦船、ですか。なかなか立派な船ですね」
「実物はてんでぼろぼろですよ」
 さとりが見たのはあくまで水蜜が頭に思いうかべた聖輦船である。およそ千年まえの姿である。地底に封印され、鬼に奪われ、ほうぼうが破れた今の聖輦船ではない。
 水蜜はそれでもこの船をさとりに見せたいと思った。さとりがとりかえしてくれた船だからである。
「その船は空を飛びますか」
「今はまだ。いつか路ができれば、かならず飛びます」
 と水蜜は言った。
 その路とは自分でつくるものなのか、あるとき突然どこからかうまれてくるのか、そこまではまだ考えていない。が、なんの希望もなく生きていたころよりはずいぶんと気持ちは違った。聖輦船がある、という事実が水蜜に活力を与えた。千年、この船は水蜜から離れていた。今は違う。路さえあれば白蓮のもとへ行くことができる。あと一歩のところまできているのである。
「路ですか、……さすがに、わたしにもその路はつくれない」
 さとりがもうしわけなさそうに謝ったので、水蜜は首を振った。なにもかもさとりに頼りきっては生き方に工夫がなさすぎる。
「路の果てに空がある。空に未練のないわたしには、つくれない路なのでしょう」
「未練、ないですか」
「ありません。地霊殿がわたしの楽園です」
 はっきりとそう言ったさとりの目に嘘の色はないようだった。
 地底は地上を逐われた妖怪たちの楽園であると鬼は言った。さとりは地霊殿が自分の楽園であると言った。地底そのものを楽園であるとは言わなかった。じっさいそのとおりだろう。さとりに今ある平穏は地霊殿が与えたもので、鬼の構築した地底世界が与えたのではない。
 水蜜はたちどまった。さとりも足をとめた。
「魔界へ行き、聖を救ったら、妖怪の楽園をつくります。ほんとうの楽園です」
 と言った水蜜は、いどむような気持ちでさとりを見た。
「そのときには、祝電を送りましょう。送り方がわかれば、ですが」
 と、さとりは言って、水蜜の目をかわした。
 水蜜とさとりはふたたび歩きだした。
「あなたは地上に出る。わたしは地底にのこる。さて、そうなって、わたしたちはまた会えるのでしょうか」
「それは、かならず、とは、約束できません」
 水蜜はさとりの顔を見ないで言った。水蜜はおのれの薄情と無力を感じた。さとりに同情し、彼女を嫌忌する地底の妖怪どもにどれほど怒りを燃やしても、けっきょくなにもできないという現実がある。
 さとりは笑ったようだった。雪を踏む音がそれに重なった。
 雪はまばらに降り、まばらにつもっている。その雪を踏むと足音が変わる。踏まれて溶けた雪は、水になって土の下に沈んでゆく。
 ふたりは無言で歩いた。が、静寂というものはない。とりとめもない考えが水蜜の頭にうかんでは消えていった。当然それはさとりに聞こえているだろう。水蜜のまとまらない思考をさとりはどう思っているのか。覚りではない水蜜にはわからない。
 表面上の沈黙は長くつづかなかった。もともと水蜜は思っていることを腹にためておける性質ではない。
「わたしは……。わたしは、さとりさん、あなたを救いたい。あなたを否定する世界をゆるせない。わたしにそれはできない、と諦めているわたしがいます。わたしにはできなくても聖ならきっとあなたを救える。だから、わたしはあなたと一緒にこの地底を出たい。あなたのこの手をにぎったまま、船にお乗せして、そのまま飛び立ちたいんです。いや……わたしはたんに、さとりさんとはもう離れがたい気持ちがあって、わたしは地底を出なければいけないから、さとりさんにも来てほしい、なにも地霊殿を棄ててわたしを選んでくれと言っているのでなくて、いっそみんなで――けれど、あなたは、とても強いひとだから――」
 水蜜は整理されない気持ちを整理されない言葉で吐き出した。
 さとりはまた笑った。くすくすとなにやら愉快げな笑声をあげた。
「わたしもあなたとは離れがたい気持ちがあります。ですが、ずっと地底にいてほしい、行かないでほしい、と言っても、それは詮ないことでしょう。あなたはかならず聖白蓮のもとへ行くのですから。そしてわたしは地霊殿を棄てられない。地霊殿にいるペットたちだけではなくて、地霊殿そのものも、わたしにはもはや離れがたい」
 と、さとりは言った。
「あなたはご自身のことを薄情であり臆病であると思っているのでしょう。違うと否定することも、そうだと肯定することも、わたしにはできませんが、ただし」
 さとりはそこで一度言葉を切って、白い息を吐いた。
「ただし、あなたにはちゃんと勇気がある。その勇気はわたしのためではなく、聖白蓮のためにこそつかうべきだと思いますよ。あなたの心が清らかで優しいことは、彼女の徳にふれていたからでしょう。あなたが今ここにいて、わたしのために嘆いてくれるのも。わたしは聖白蓮に感謝すべきなのかもしれませんね」
 と言った。
 水蜜がさとりのほうに視線をむけると、彼女はやはり笑っていた。

「なるほど、ぼろぼろですね」
 と、さとりは言った。
「これが空を飛ぶ船になるのですか」
「そうです」
 水蜜は飛倉の屋根に飛び乗ると、膝を曲げて手を差し伸ばした。
「あら、船は見せてくれないの」
「それは、あとで」
 水蜜はうすく笑った。さとりの手首をつよく掴んでひきあげた。さとりの体はあっさりと宙に浮いた。怖ろしいほど軽い体だった。正面からその体を抱きとめた水蜜は、さとりを自分のとなりに座らせた。
「昔はよく、ここでこうやって、聖と一緒に星を見ていました」
 と言って水蜜は頭上を見あげた。むろん、地底には天も星もなく、頭上に見えるのは一面の岩とそこにこびりづくヒカリゴケのあわい光だけである。
 白蓮はさまざまな話を水蜜に聞かせてくれた。海に関わること、船に関わること、それに、仏、妖、人のこと。説話はいくつもあって、それらひとつひとつを水蜜は今もはっきりと覚えている。
「その話を、今あなたのかたわらにいるわたしに、聞かせてくれるでしょうか」
「聖ほど話すのはうまくありませんが……」
 そう言いながら水蜜はうなずき、白蓮から教わったいくつかの話を語ってみせた。話が毘沙門天に及ぶと、それまでしずかに聞いていたさとりが、ふと思い出したように、
「寅丸は元気ですか」
 と訊いた。水蜜が寅丸を連れてこないのはめずらしい。
「四日ほどまえにいなくなりました。逃げられたのかもしれない」
 水蜜は苦笑いをうかべた。
「尾はまだ分かれていませんでしたよね」
「ええ」
 寅丸は猫としては長すぎるほど長く生きている。なかば妖怪化していたことはたしかだろう。妖怪になった猫は人家を離れて山奥に入り、ときおり人里におりてきては人を襲うという。寅丸もそうした妖怪になったのだろうか。
「山奥も人里もここにはない。地底で猫又が隠れ住む場所といったら地霊殿です。さがさせましょうか?」
 と、さとりは言った。さとり自身はペットの増減について把握していないので、ペットの管理を担当しているペットにそれを確認することになる。
 水蜜はさとりの提案を断わらなかった。が、ふたりとも本気で寅丸が地霊殿にいると考えているわけではない。
 無事に生きてさえいてくれたら、どこにいてもかまわない、と思う反面、――寅丸はただの猫として生きて死にたかったのかもしれない、という考えがちらとよぎる。妖怪になった寅丸は、もはや水蜜が忘れないかぎりこの世に生きつづけるしかない。
「地底にいるあいだに見つかれば、連れていくつもりですが、もし地底を出たあとに見つかったら、そのときは寅丸のことを、お願いしてもいいですか」
「もちろん――。もっとも、世話をするのはわたしではありませんが」
 と、さとりが言ったとき、ふたりは同時にふきだした。
 笑いをおさめた水蜜は腰をあげ、またさとりに手をさしだした。その手にひかれてさとりも立った。
「船をお見せします」
 と水蜜は言った。
「倉が船になる。なにやら夢のようですね」
 さとりの声がうわずっている。興奮しているのだろうか。
「夢幻ではありません。わたしを海からすくいあげた聖が、わたしにくれた船です。だからわたしは、さとりさんと出会えた。これが夢だとしたら、どうしてわたしたちは出会えたのでしょうか」
 水蜜はおもむろにさとりの腰に腕をまわすと、そのまま抱きよせた。
「ちょっとびっくりするかもしれませんが、がまんしてくださいね」
 と水蜜が言うと、
「びっくりするのは好きですよ。めったにないことなので」
 と言って、さとりは水蜜の胸に頭をかたむけた。
「はは、それはさとりさんらしい」
 水蜜は二三度足を踏み鳴らした。木の音がはねかえってくる。深呼吸して、目をつむり、脳裡に船を思いうかべる。さとりから借りた本のなかにあった、船の艤装をとりいれる。マストを立てて、帆を掛ける。船尾にあった舵は船橋に移動する。その船橋とは飛倉そのものである。ここだけは変えられない。舵の形は車輪のように。櫂ははずさなかった。数を増やした。
「だいぶ、形が違いますね」
「生まれ変わるんです。新しい世界をもう一度つくるためには、みんな、新しくならなくちゃいけない。わたしも変わる。船も変わらなきゃいけない」
 なにより、この地底にいた時間を無意味なものにしたくはない、と水蜜は心のなかで言った。
 飛倉が青白い光におおわれはじめた。その光の上に水蜜とさとりは立っている。光のなかで、空飛ぶ穀倉は空飛ぶ船に形を変えてゆく。
 光が消えた。瞬間、ふたりの足もとから傾斜がなくなった。かわりに平面の甲板がひろがっていた。ただし、この平面にはあちこちに穴がある。
「これが聖輦船です」
 と言って、水蜜はさとりの体を解放した。
「こんな巨大なものが空を飛ぶなんて……とても信じられないわ」
 さとりはうわごとのようにつぶやいた。想像のなかの船と実物の船では存在感に差がある。その差に圧倒されたようだった。さとりは何度も感嘆の息を吐いた。
「空飛ぶ船は風が気持ちよさそうですね」
「上空は風が強すぎてかないません。船内にいたほうが快適ですよ」
「それは残念」
 さとりは笑いを噛み殺すように肩をゆらした。
 水蜜はふいに自分の目に湿ったものを感じた。目をこすると指が濡れた。なぜ、とは考えなかった。感傷の涙はすぐに乾いた。

 それからいくばくもなく、水蜜は地底を去った。

 さとりの周辺がにわかにあわただしくなった。
 水蜜が使った脱出路とは間欠泉であり、その間欠泉は灼熱地獄跡から噴き出したもので、自然にうまれたのではなく、さとりのペットであるおくうの仕業であった。が、おくうはべつに水蜜のためにそうしたわけではなく、偶然が重なったにすぎない。
 とにかく突如噴き出した間欠泉のために地上は混乱し、騒ぎをおさめようと人間たちが地霊殿に侵入し、さとりの監督不足を叱責すべく閻魔がやって来て、最後に無断でおくうに強大な力をさずけた神が菓子折を手に謝罪に訪れた。
 それが過ぎると地霊殿は静かになった。ペットたちの喧騒は以前と変わりなかったが、さとりはふしぎな静寂につつまれた。海の音がなくなったのだとさとりは思った。

 地上に出た水蜜たちは、昔住んでいた寺に行った。
 寺はみごとなほどにさびれていた。山門は崩れ塀は破れていた。おんぼろ具合は聖輦船といい勝負だろう。無惨なありさまに、さては廃寺になっていたのかと一瞬不安になったが、門をくぐってみると生活のにおいは消えていなかった。
「懐かしい、と言いたいところだけど、こうまでひどいと、さすがにちょっとがっかりするわね」
 と一輪は言った。記憶と一致しないのである。
「仕方ないよ。時間が経ちすぎている」
 と言った水蜜も落胆はかくせない。
 この寺はすでに忘却された寺なのだろう。多数の信者がいれば寺の修繕をおこなえたはずなのである。白蓮の教義が絶えているという事実を、仕方ないこととして認めるには、少々苦痛をともなった。
「一輪、あれ――」
 水蜜はとっさに一輪の袖をひいた。
 庫裏から小柄な影が出てくるのに気づいたのである。
「ああ、懐かしい。ナズーリンよ」
 一輪が声をかけると、その影はいぶかしげにこちらを見たあと、やがて驚きに目容を染め、小走りに走ってきた。
「や、や、亡霊があらわれたな」
「ひどい言い草ね、このネズミ」
 水蜜は溜息を吐いた。
「まさか生きていたとはね」
 ナズーリンはすこしも懐かしむそぶりをみせなかった。
「そういえばこういうやつだった」
 一輪も肩をすくめた。
「こちらにのこった門徒は、みな去っていったよ。帰ってきたのは地底に落とされたきみたちだけだな。やれ、めでたいことだ」
 ナズーリンはこれまたすこしもめでたそうではない口ぶりで言った。
「あなたはのこっているじゃない」
「わたしは門徒じゃない。毘沙門天の部下さ。召還命令がないかぎりここを離れる理由がない」
 ナズーリンはこともなげに言ったが、水蜜は彼女が星のもとを去らなかったことにほのかな感動をおぼえた。信仰の絶えた寺にいつづける理由もないはずなのである。須弥山に帰ろうと思えば、たとえ召還がかからなくても、ナズーリンはいつでもそうできただろう。それをしなかったのは、ナズーリンの星への愛情だと水蜜は思った。
「星さんに話がある」
 と水蜜は言った。
「いいだろう。しかし、会ってもがっかりしないでくれよ。きみたちにもいろいろあったろうが、彼女にもいろいろあったんだ」
 ナズーリンはそう言って目をふせると、
「千年は長すぎた」
 と、急にしんみりと言った。
 星は日中の大半を本堂でひとりで過ごしているらしい。
 水蜜たちはそこに案内された。
 この寺の本堂に毘沙門天の像は置かれていない。星が本尊としての役割をもっているので、仏像を置く必要がないのである。法会のときなどは蓮台に星が座し、経があげられる。それが昔あたりまえにあった光景だった。
「本堂で、ひとりでなにをしているの」
 と水蜜が訊くと、
「なにも」
「なにも、か」
 がっかりしないでくれ、と言われた意味がわかった。深い諦めのなかで生きている星が脳裡にうかんだ。その姿はかつてに自分に重なる。
(諦めていたのはわたしも同じだ)
 水蜜はかすかに湧きおこった悲観をしりぞけた。
「すこし待っていてもらおうか」
 ナズーリンが先に入り、仲間の帰還を報せにいった。
 数分待たされた。
 声が聞こえるが会話の内容まではわからない。
 戸がひらかれると、ナズーリンが顔を出した。
「入ってくれ」
 星は蓮台とむかいあって正座していた。大きな体がくるりと回転した。
 ナズーリンが星のうしろに座り、水蜜と一輪は星と対面して座った。
「まずは、おかえりなさい、と言わせてください」
 星の声はぞんがい明るかったが、頬はこけていて、全体的に骨張ってみえる。髪にも艶がなく、眉が青く翳っている。その下にある目もなにやら精彩に欠ける。
「一輪と雲山は変わりありませんね。元気なようでほっとしました。ぎゃくに、ムラサは変わりましたね。別人のようですよ。きれいな目をしている。怨の色が消えた目です」
 怨の色、と言われ、水蜜は頬を掻いた。が、痒いのは背中のほうである。千年のうちのほとんどは怨恨をかかえて過ごした。怨みが薄れると今度は諦めが心を支配した。一輪にはずいぶんと迷惑をかけた。水蜜のなかで変化があったとすれば最後の数十年というわずかな時間のなかでのことである。が、千年を経たのちの、その数十年が、水蜜を地上に押し出した。
「地底での千年は無意味ではなかったということでしょう。それにひきかえ、わたしは千年ものあいだなにもできず、ただ居竦まっているだけでした。おかげで寺はこのありさまです。聖がのこしたものをわたしは保つことができなかった」
 語りながら星は涙をながしはじめた。ふしぎと、水蜜はその涙から、悲哀でなく歓喜をみた。泣くほどに星のこけた頬は瑞々しくまるみをおびてゆくようだった。
「しかし、今日、ムラサたちが帰ってきたことで、わたしの千年にも意味が生じた。わたしがここにいることで船が途方にくれる不運にあわなかったのは、わたしにとっての幸運です。今、わたしたちには、目的がある。その目的の不可を可とするのは、わたしの持つ毘沙門天の宝塔と、ムラサ、あなたの持つ聖輦船の力しかない。わたしはムラサの動かす船を、正しい航路に進ませることができる」
 と言った星は、すっと立ちあがり、宝塔を掲げてみせた。瞬間、青い光が堂内をつつみこんだ。

 青空がひろがっている。
 雲海の上を聖輦船は走っている。
 水蜜の手は舵を握っておらず、数多ある櫂を握る手はひとつもなく、帆はうしろむきに風をはらんでいる。それでも船は前進している。水蜜が最初にそう指図すれば、そのように動く。そういう船なのである。
 船橋の天辺にのぼった水蜜は、舳先をじっと見つめながら、さわやかな風をうけていた。さとりにはああ言ったが、じっさいには体を薄くひきのばした雲山が船全体をおおっていて、風の力はそうとう弱い。聖輦船が飛ぶときはいつもそうだった。水蜜はいまさらそんなことを思い出したのだった。
 雲の上の春は澄んだ色をしている。
 幻想郷の春である。
 人々に忘れられた怪異が最後に流れ着く秘境であるという。
「幻想郷はさまざまな霊気で充ち、天地は渾然として、物事の境界が曖昧であると聞きます。異界との出入口が開きやすい環境と言えるでしょう。まずは幻想郷に行き、そこで魔界への門を開き、進入しましょう」
 と星が言ったので、聖救出の針路を幻想郷にとった。
 星の提案にしたがうことに不安はない。星が聖輦船を正しい航路に進ませると言った以上、水蜜はそれを信じるだけである。不信は失敗しかもたらさないとわかりきっている。
 そろそろ降りようか、と思ったとき、名を呼ばれた。呼び声は下のほうから聞こえた。水蜜は身をよじり、首だけ屋根の上から出した。
 下にいたのは星である。困り顔をあげている。
「どうしたんですか」
「いえ、足もとに穴が多くて、歩きづらいなと……」
 船を見まわっていて、何度かころびそうになったと星は言った。
「すみません。なにせ間欠泉のなかを通ってきたもので、もともとぼろぼろだったのが、さらにぼろぼろになってしまって」
 水蜜は軽い口調で言った。ここは放置するとまずいと判断した箇所は直したが、大部分はそのままにしている。のこりすくない法力をすべて修繕にまわしてしまうと、航行にさしさわりが出る。歩きづらさは慣れるか耐えるかしてもらうしかない。
「ムラサ、すこしお話につきあってもらってもよいですか」
「いいですよ」
 水蜜は屋根から飛び降りた。
「板が破れてしまいます」
 星は苦笑した。
「話っていうのは」
「ここではちょっと。とりあえず下に行きませんか」
 星は水蜜の背をたたいた。
「雲山に聞かれるとまずい話ですか」
「まずいというか、まあ、気まずい話です」
 雲山に聞かれた話はそのまま一輪に伝わる。そうなると不都合なのだろう。
「わかりました。じゃ、行きましょう」
 水蜜は星とともに船内に入った。
「地底では猫を飼っていた、と聞きましたが、……」
 星は水蜜に顔を近づけ、ささやくように言った。
 水蜜はすくなからず驚いた。水蜜は寅丸のことを星に話してはいない。ということは、一輪が星に教えたのだろう。驚いたのはそのことではない。たまたま自身の口から話す機会がなかっただけで、もともとかくしているつもりはなかった。それにしても、一輪から教わった水蜜の話を、星が水蜜に問うことで、一輪と気まずくなることがあるだろうか。水蜜が驚いたのはそこである。
「たしかに、飼っていましたよ」
 と水蜜は言った。
「その猫に、寅丸、と名をつけたのは、ほんとうでしょうか」
 星の口ぶりはどこか不安げであり、目はなぜか泣きそうだった。
「ええ、体の模様が虎に似ていたので、その名前を選びました。あと、性格が猫らしくなくて、おっとりとしているというか、のんびりとしているというか、でも気まぐれというのとは違って……」
「つまり、わたしに似ている」
「そうなりますね」
 水蜜はあっさり言った。
「それで、獣の虎ではなく十干の寅、つまりわたしと同じ寅丸としたわけですか」
 星はなにやら考えこみはじめた。
 水蜜は首をかしげた。
 やはりなにが一輪に知られると気まずいのかわからない。あるいは、このことを知った星が不快を得れば、水蜜は星に対して気まずくなっていたかもしれないが、星はおのれの名をかってに猫に与えられたところで、怒るようなひとではない。じっさい星からその手の不快感や怒りは見てとれない。
「一輪はとても強い女性です。精神が強く、気も強い」
 話が猫から移動した。
「彼女はたんに、地底での活動報告を、たあいない世間話に乗せて語っただけかもしれません」
 けれどわたしは、とその言葉はつづいた。
 星はもはや水蜜を見ていない。
「あなたたちが地底に封じられるとき、わたしもそれに立ち合いました。妖を調伏した毘沙門天の弟子、という肩書きで。地底に沈んでゆくムラサには怨の色があった。すべてを呑みこむ洪水のような烈しさがありました。その怨怒は聖を排斥した人間にではなく、わたしにむけられていた」
「そうです」
 地底に落とされてから、数年は、いかにして脱出し、星をやっつけてやろうか、ということばかりを考えていた。それは不可能だと諦めると、復讐心はまたたくまに冷めた。星のことも聖のこともなかば忘れていた時間が地底では圧倒的に長い。
 星への怨みは浄化されたというより風化しただけとも言える。ただし、この怨みはついに復活することがなかった。猫を拾ったことが要因のひとつにある、と言えば、たしかにそうである。寅丸という猫がいなければ、水蜜は今も地底で鬱屈した日々をおくっていたに違いない。星はそのことも一輪から聞かさているだろう。であれば、
「写経のことも一輪から聞きましたか」
 と水蜜は訊いた。
 星は照れたような困ったような顔で、
「ふしぎなことです」
 と言った。
「わたしは、わたしの知らないところで、ムラサと対話していたのですね」
 星は天井をふりあおいだ。
 星は長身である。
 こうなると水蜜には星の表情をうかがうことはできない。
 泣いているのかもしれない、と水蜜は思った。
(あれ?)
 水蜜は首をひねった。
「けっきょく、なにが気まずいんです?」
 一輪がこの場にいてもいなくても、なにも気まずくなりそうにない会話である。
 星は天井を見つめたまま言った。
「わたしは自分がムラサに怨まれているとずっと思っていました。帰ってきたムラサを見て、もう怨まれていないとわかりました。一輪から猫の話を聞いて考えたのは、寅丸はなぜ寅丸なのか、ということです。ふつう、怨みをいだいている相手の名を、これからそばにおこうとする者に与えないでしょう。つまり、その命名は怨がすでに消えていることをあらわしている。その怨は、猫を拾うよりまえに消えていたのか、猫をきっかけに消したのか、それを知りたかったのです」
 そういうことか、と水蜜は納得した。同時に、そんなことで、とも思った。星はずいぶんと深刻にものごとを考えていたようだが、その深刻さは水蜜の胸にさして響かなかった。
「それを教えてほしいと一輪に言っても、気まずくなりはしないでしょう」
 と水蜜は言った。
「そうでしょうか、きっと彼女は怒るでしょう。彼女の気性から言って、怨みがいつ消えたとか、なにが原因で消えたとかはしごくどうでもよいことで、ただし、それをいちいち気にするようなうしろむきな精神を、彼女はけっしてゆるさないと思うんです」
「んん。……」
 今度は水蜜が考えこんだ。一輪はその性格に豪放さをもっているが、他人の繊細をとやかく言うような狭量ではない。そんなことは寺の仲間たち全員が知っていることではないか。水蜜はそう思ったが、よくよく考えてみると、ひとくちに寺仲間といっても水蜜と星とでは一輪とのつきあいの長さに、ざっと千年の差がある。一輪への見方にも差違は当然生まれる。
 星には一輪がちょっと怖ろしい存在に映るらしい。
「まあ、説教くさいところはありますね」
 水蜜は部分的に共感してみせた。
「それにしても、猫と怨みの消えた消えないの前後が、そんなに気になるんですか」
「もし猫をつかって怨みを浄化しようとしたのであれば、ムラサは猫を愛することを気負ったり、迂遠な愛情表現をしなければならなかったのでは、と不安になり、そうだとすると、それはわたしのせいだと思い、どうしても気になり、こうしてひそかに打ち明けました」
 まさに杞憂です、と星は自嘲をうかべた。
「仲はよかったですよ。ふつうに、うん、ふつうに仲がよかった」
 と水蜜が言うと、くもりがちだった眉がさっとひらき、笑貌がひろがった。
 それを見て水蜜も笑ったが、内心ではぎゃくに暗い影をおとした。その影というのは迷いであり、
 ――寅丸をさがし、地霊殿に行き、寅丸とさとりさんに恩を返すべきではないか。
 そんな考えが水蜜の胸をすばやくとおりすぎていった。

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