星の袂がひるがえった。片目でそれをとらえた水蜜は、
(聖を助けるのが、さきだ)
と、地底にむかいかけた気持ちを抑え、あわてて星の背を追った。
恩は白蓮にもさとりにもある。片方の恩に報い、もう片方の恩を忘却することに、抵抗がなくはない。が、初志をおろそかにしては、どちらの恩にも報いられない、ということを考えねばならない。身はひとつしかなく、勇気もひとつしかないのである。
ふたりが甲板に出ようとしたとき、船内に入ってきた一輪とはちあわせた。水蜜と星は一瞬驚いたが、一輪のほうはもっと驚いたらしい。
「びっくりした……。見あたらないと思ったら、こっちに来ていたのね。さがしていたのよ」
一輪はほっと溜息を吐いた。
一輪の背後に見知らぬ娘が立っている。
「そちらのかたは?」
と星が問うと、その娘はひょいと一輪のとなりに立ち、
「東風谷早苗です」
と名のった。大きな声だが品は悪くない。長い髪が光輝をはなっている。また強い霊威も感じた。敵という感じはしないが、
(なにものだろう)
水蜜に警戒心が生まれた。
一輪は早苗の肩に腕をまわし、親しげに笑いかけたあと、
「彼女は神社の巫女さんで、わたしたちを手伝ってくれることになったわ」
と言った。
水蜜と星は顔を見あわせた。船内にこもっているあいだに、船上ではなにやらおかしなことになっている。
八坂・洩矢という二神に仕える巫女であるという早苗は、その神の指示で、謎の飛行船を調査すべく乗り込んだところ、一輪に見つかり、一戦まじえたのち、大いに意気投合し、航海の目的に感動するところがあり、今回の一挙に協力したいと言って、下船せず、ともに魔界にむかうことになった。一輪はそう説明した。が、この説明には不足が多すぎる。けっきょく、甲板でなにがあったのか、よくはわからなかった。
霊威の正体は八坂と洩矢という二神だろう。水蜜たちが毘沙門天の加護を受けているように、早苗もその二神の加護を受けている。
早苗は微力を添えたいなどと遠慮した言い方をしない娘で、
「わたしにどーんと任せてください」
と胸を拳でたたいた。やはり大声で言った。
はい、おねがいします、と即答することはできない。この航海は帰還を考えたものではない。燃料すなわち法力もわずかで、封印を解くのにつかったあと、法力がどれほどのこるかは不明である。
もっとも、一輪や星は最初から帰る気持ちがうすく、魔界のどこかに居をかまえ、そこで布教を再開すればよいと思っているふしがある。白蓮が魔界に封印されているはいえ、魔界そのものが閉ざされた場所であるわけではなく、そこにも知性生物がおり、文明の繁栄がある。地上世界に失望した分、新天地を求める気がふたりには強いのだろう。
ところが、一輪は、この船から部外者の早苗をつまみださず、助力もよろこんでうけいれた。
なぜだろう、と水蜜は思った。事情をちゃんと知っているわけではない早苗の軽はずみは仕方ないにしても、一輪まで軽率なのは解せない。
東風谷早苗を護る神が、それほど頼れるということだろうか。今の聖輦船にできない旅の往復を、八坂と洩矢にはできるのかもしれない。が、一輪の説明不足が早苗に対してもなされているとも考えられる。そうであれば、早苗の認識の甘さを訂正させなければならない。
星が言った。
「この旅は、往だけがあり、復がありません。わたしたちは魔界にとどまることになります。復がないというのは、わたしたちの意志であり、またこの船の技術的な都合でもあります。つまり、わたしたちでは、あなたを幻想郷に帰すことはできませんが、それでも協力してくださるのですか」
星はなかば威圧する感じで語気に凄みをまぜたが、早苗は意に介さず、また胸を張って言った。
「帰りは自分で帰るからだいじょうぶです。神奈子さまと諏訪子様がとおる道に、道のないところはありませんから」
また耳なれない名がでてきた。訊いてみると、神奈子は八坂の神のことで、諏訪子は洩矢の神のことだった。人間のような名をつくり、そこに本来の名を姓としてかぶせているようである。
それにしても早苗は活発な娘である。言葉や表情、こまかな仕草まで、つねに陽気さでつつまれている。
(一輪と気が合うわけだ)
水蜜はひとつ得心した。
「そろそろ、魔界への扉を開く頃合です」
と星が言うと、
「さっそくですね。お手伝いします」
と早苗は言い、さあ、さあ、と星の背を両手で押してぐいぐい進んだ。星は泣きそうな目で水蜜に助けを求めた。水蜜はゆるゆると首をふった。どうにもならない。
ふたりのあとについて、甲板に出ようとしたとき、一輪が水蜜の耳に顔をよせて、
「あの娘は地霊殿と繋がりがあるわ。よかったわね」
と、ささやいた。
水蜜はあっけにとられた。
魔界のなかでも白蓮が封印されている法界とよばれる区画が、どこにあるのか、じつははっきりわかっていない。が、聖輦船が白蓮の気を見つけてくれるはずなので、一行は船の進むがままにまかせた。白蓮と船にあるはずの繋がりがすでに断たれているとすれば、別の方法をさがさなければならない。
今のところ聖輦船はなにごともなく進んでいる。
眼下に街が見えた。水蜜はなにげなくそれを見おろした。高層の建物が多く、道路にはおびただしい数の人とも妖ともわからない物体が往来している。市場もある。
水蜜はぶきみさを感じた。呼吸を感じない街だ、と思った。呼吸しない街は、どれほどにぎわっていても、死んだ街である。あれら人海はすべてからくり人形の群ではないかとさえ思われた。地底の都市は遠くから見てもその喧騒に満ちた活気がありありとわかったが、ここはそうではない。こんなところで暮らすくらいなら、あの落ちぶれた寺でひっそりと過ごすほうがましではないか。この地にとどまって布教するという、星や一輪がもっている展望に、水蜜は心がはずんでゆかない。
早苗の助力があれば帰還が可能であるとわかったことも、水蜜のなかに魔界への執着を生まなかった。布教する本拠地がどこそこでなければならぬ、ということがないのなら、魔界である必要もないのである。
「魔界の空気は合いませんか」
気がつくと星がとなりに立っていた。
「空気が合わなくても水が合えばかまいませんよ。川か沢はないかな。水を見たくなりました」
と水蜜は言った。海は期待していない。おそらくこの付近にはないのだろう。潮の薫りがまったくしない。魔界の天は赤いので、海も赤いかもしれない、と思った。はるか南の大陸に、赤い海があるとさとりに教えてもらったことがある。その海から見える天も赤いのだろうか。
「なるほど、水は大事ですね。さがしてみますか」
「いえ、あとで、いいです」
そう言いつつ、水蜜は街に降りてみたくなった。外から見ただけではわからないことはある。街に入ってみれば、ぞんがい気にいるかもしれない。地底の街は最初のほうこそあの活気に憧れたが、じっさいに触れてみるとうるさいだけの、水蜜にとって苦手な街になった。魔界の街にもそうした印象の逆転があるかもしれない。
「ナズーリン、遅いですね」
所用で船を離れてからずいぶん経っている。
「ナズーリンについては心配いりません。彼女はぬけめないので、ちゃんと間に合ってくれるでしょう」
と星は言った。
風が吹いた。
水蜜はその風に息苦しさを感じた。
「空気が変わった。まもなく、法界ですよ」
その声にはじかれるように水蜜は船橋に走った。かたちとしては、法界に背をむけたことになる。
背に自分のものではない足音が聞こえる。首をまわすと、星が船首にむかって走っていた。水蜜と星とでは役割が違う。だから、走る方向も違う。そのあたりまえのことを、水蜜は胸の高鳴りとともに感じた。いよいよだ、と思った。興奮していることがよくわかる。
船橋に飛び乗った水蜜は、船首にいる星の背をみつめながら、興奮を鎮めるように拳を握りしめた。一度かがんで、その拳を屋根にあて、法力の流れを船首の一点にゆくように換えた。この法力は船首に達すると、上昇し、星に宿る。
船首にいる星のうしろには一輪、雲山、早苗の姿もある。濃い影をのばしている。影がふえた。ナズーリンが星のそばに歩みよった。ふりかえった星の笑みが見えた。ナズーリンはきっちりと仕事を果たして間に合わせたようである。ただし、水蜜はその仕事の内容は知らない。
水蜜はひとり飛倉の上に立っている。
赤い天が黒く染まりつつあるのは、夜が降りようとしているためなのか、ただ法界の天が黒いのか。
星の袂がひるがえった。宝塔が掲げられた。宝塔に早苗の手が添えられた。
無数の光の筋が黒天にひろがった。
扉が開いた。かたちをもたない扉である。光のむこうから別の光があらわれた。その光から、長い髪がのぞかれた。たゆたう髪に、それから、眉、睫、鼻、唇、……。まばゆい光のなかにある、懐かしいおもざしが、しだいにはっきりとした輪郭をなぞってゆく。
水蜜は船橋から飛び降りた。
――聖がいる。
そんな声が、頭のなかでくりかえし鳴り響き、水蜜を急きたて、走らせた。
白蓮はすでに舳先に降り立っている。
水蜜はみなから遅れて歓喜の輪に入った。
みな、泣いている。ナズーリンでさえ、涙をうかべている。早苗は感受性が強いのだろうか、もらい泣きに大いに泣いている。これほどの大きな泣き声は泣き虫の星でさえあげていない。
胸から沸きあがる熱を、こらえきれないのは、水蜜も同じである。
やわらかくほそめられた目が、水蜜を見つめている。その目を直視することができなかった。うつむいた水蜜は、肩をふるわせ、とめどもなく涙を流した。
胸に抱きよせられた。やさしい手つきであった。まぎれもない白蓮の手であった。水蜜はその手をとり、力いっぱい握りしめた。このやさしい手に救い上げられた自分がかつていた。およそ千年まえのことである。それから五十年たらずで別離の不運にみまわれた。しかしながら、不運は、この瞬間にすべて洗い流されたと言ってよい。
「聖……」
嗚咽のあいまにそれだけが口からもれた。
ここまで千年かかった。そう言葉にすれば、それだけの短さでしかない。が、そこに至る想いは、万感であるに違いなかった。
空気を破る大声があがった。
「あのですね、お話があるのですが、いいですか」
目と鼻を赤くした早苗が、挙手をして言った。
白蓮はかすかに眉をうごかした。そういえば憶えのない顔がまじっている、と気づいた。このような娘が自分の弟子にいただろうか。
「あっ、わたしは守矢神社の東風谷早苗って言います。初対面ですので、べつに白蓮さんが忘れているわけじゃないです。だいじょうぶです」
と早苗は早口で言った。
「彼女は、道中、わたしたちを助けてくださったのです」
と星が補足した。
「ああ、それは……。ありがとうございます」
白蓮は早苗にむかって頭をさげた。礼物を贈りたいところだが、あいにく手もとにはなにもない。所属はわかっているのだから後日そこに届ければよいだろう。早苗は礼物のために助力したわけではなさそうなので、白蓮はそれについては言わなかった。言えば早苗の善意に傷がつく。
早苗は胸のまえで両手をふった。早苗は礼には興味がないし、目下においたひとつの事柄にしか意識がゆかない性格をしている。彼女は今言いたいことを言わずにはおられず、今やりたいことをやらずにはおられないのである。
「それで、お話なんですがね、船長さん地底に好きなひとがいるらしいんですが、告白もお別れのあいさつもしないで地底から出てきちゃったらしいんですよ」
「な、に――」
水蜜は白蓮にあずけていた体を起こし、一輪を睨んだ。早苗にそんなふざけたことを教えた者など一輪以外に考えられない。
「一輪、この子に、なにを言った」
「いや、なにって言われても……、困るわ……」
一輪は目をそらした。一輪が早苗に教えたのは、水蜜には地底に恩人がいて、それが地霊殿の主人ということと、散々世話になっておきながら、別れのあいさつもなく黙って地底を出てきたということである。好きなひとだの告白だのは早苗が思考を飛躍させた結果である。
「まあ、ムラサは好きなひとがいるのね」
まにうけた白蓮が口もとを手でおさえながら言った。
「いや、その」
いません、とは言えない。それは嘘になる。しかし、います、とも言えなかった。地底にのこした未練は、あくまで水蜜個人の事情であって、そのために白蓮や仲間をわずらわすのは、水蜜も本意ではない。報恩を忘れたわけではないが、今このとき考えることではないと思っていた。したがって、このことは、水蜜が口をとざせば、だれも口にしないことのはずだった。
はずなのだが、堂々とそれを口にする娘が、外部にいたのである。
「で、船長さんの好きなひとっていうのが、なんとわたしの知人なんですよ。すごい偶然ですよね。だから、わたし、ふたりの仲をとりもつことができると思うんですね。だから、ちょっと、船長さんを地底に連れていってもかまいませんか」
早苗はそんなことを言って、水蜜の腕を抱えこんだのだから、今すぐにも出発する気でいるらしい。
早苗の強引さに、みな驚き、困惑し、星が手を伸ばして、水蜜をとりかえそうとしたが、早苗はひょいとかわして、
「だって、このままなのはよくないじゃないですか」
と言うのである。
水蜜はむすっとした。
――そんなことはわかっている。
と水蜜は言いたい。水蜜とてさとりに会いたいのである。それを、時宜ではないからとあえて放念しようとしていることを、この場でひきずりださないでほしかった。
「よくないわね、ムラサ」
と言ったのは白蓮である。
「聖――」
水蜜は抗議の声をあげた。白蓮にまでそんなことを言われてはかなわない。
「さとりさんからうけた恩を忘れるつもりはありません。でも、今はそれを考えるより聖と聖の教えを布くことを考えるときなんです。さとりさんにも、そう言われて、わたしは心を決めて、地底を出たのに……」
水蜜の声が萎えていった。さとりに言われたからそうしたのだ、とは、なんとなさけない動機であることか。
水蜜は腕にむなしさをおぼえた。いつのまにか、早苗の手が離れている。
「さとりさん、というのね、ムラサが恋をしている方は」
微笑をたたえた白蓮は水蜜の髪をなでた。
「恋か、どうか、は」
水蜜はうつむいた。
白蓮はまた水蜜を抱きすくめた。水蜜の頭の上に白蓮の顎がのった。ぽん、ぽん、と背をたたきながら、
「お名前からすると、覚り妖怪かしら。これはたいへんな相手に恋をしたわね。覚りが地底にいるというのは、地上にいることに不都合が生じたからでしょうが、地底での暮らしぶりはどのようなものかしら。覚りは人間よりも妖怪に怖れられたと言われているし、地底に人間はおらず、妖怪の世界であることを思えば――、……ふむふむ、ムラサはそれに同情したのね。その同情がさきにあったせいで、自分の恋慕の気持ちを疑っている」
と、自分で見聞きしたかのように、よどみなく言った。
そのとおりだと認めるのはくやしいが、意地を張る気にもなれなかった。水蜜は、
「はい」
と喉を鳴らすように答えた。
「では、帰りましょう」
水蜜の体を離した白蓮は、あっさりとそう言った。
「玄天黄地が、わたしたちの暮らす世界です。祝賀と諸々の礼は、そこで盛大におこないましょう」
黒も玄も「くろ」という色を指すので、法界の空も玄天と言えなくはないが、この場合、玄は宗教的な意味あいが強く、玄は北方の色で、ようするに玄天とは、北方多聞天、すなわち毘沙門天が守護する天なのである。毘沙門天を信仰する彼女たちにとって、玄天の下こそが楽土であった。
白蓮のゆたかな声を聞いた水蜜は、ふしぎな感覚におちいった。
(さとりさんとは似ても似つかないな)
と思ったのである。さとりに初めて会ったとき、彼女が白蓮に似ていると思ったが、白蓮はさとりに似ていない。この感覚のずれは、どういうことだろう。
――恋の差、かな。
口のなかでつぶやいてみた。なにを言っているんだ、わたしは。つぶやきがおかしくてたまらなくなって、水蜜は気づかれないように苦笑した。
そのとき――。
「おや?」
遠くから、あるいは近くから、どこからか、叫び声が聞こえた。
聞いたのは水蜜だけではない。全員がその声のする方向をさがした。だれかの名を呼んでいるように聞こえる。近づいてくる。
「ムラサ――」
「わっ」
水蜜は衝撃を受けとめた。
悲鳴とともに水蜜に飛びついたのは、ぬえだった。
「え、ぬえ? え、なんで、こんなとこに」
「知らないよ! ここどこよ!」
泣きじゃくりながらぬえは水蜜を罵倒した。
「このバカムラサ! 黙ってどっか行こうとしやがって! こっそりついてったらこのざまよ! 責任とれ! バカ!」
「そりゃあ、あんまりだよ」
と言った水蜜の頭を、一輪がはたいた。
「いたっ」
「だから、ちゃんとあいさつしていけって言ったのに、あんた聞かないんだから」
呆れた果てた顔で言った。
「いや、だって、なんか、会ったら、地底出たくなくなるかもって、思ったから……」
「わたしまでまきこんで、不義理をさせるから、こうなるのよ」
水蜜は言いかえせなかった。一輪が正しい、と心では認めているのだろう。
そのやりとりを見ていた星が、
「これはいけませんね」
と白蓮に言った。
白蓮は微笑み、ちいさくうなずいた。
いつまでも魔界にとどまっているわけにはいかない、ということである。
まことに奇妙な寺が幻想郷に誕生した。
本尊も住持もその下に居並ぶ高弟もみな妖怪という奇妙さである。またこの寺は地鎮法(あるいは地鎮祭)を地神である洩矢諏訪子の好意を借りておこなったのだから、奇妙奇天烈というほかない。
幻想郷の成り立ちと、その外の世界の現状を知った白蓮は、ここに根を張ることに決めた。幻想郷の外では妖怪の存在が消えつつある。そして消えた妖怪はなんらかの理由でこの地に流れ着く。つまり、自分の教義を必要としている者たちは、現在はほとんど幻想郷にいるとわかったのである。
幻想郷は魔界よりもずっと地底に近い。地上と地底の交通路を守矢神社が整備したのである。とくに地霊殿へは直通の昇降機が設けられているので、早苗の案内があれば十数分で地霊殿に行ける。
その早苗に水蜜は、
「年内には地霊殿にうかがうと、さとりさんに伝えてくれませんか」
と頼んだ。
「年内ですか。いつごろになりますか」
「秋か、冬か、そんなところです。ここでの生活がおちつくまで、まだ時間がかかると思うので。でも一年もお待たせするつもりはないです」
「わかりました、それも伝えておきます」
早苗はこころよく諒承してくれた。
――秋か、冬か。
水蜜は早苗に言ったことを反芻した。
季節はすでに春の霞をまぬかれている。夏のあいだに命蓮寺の地位を不動のものにしたい。そう考えているのは水蜜だけではなく、星も白蓮も初めが肝要だという認識は共通しているようで、そのためには、
「親しむに越したことはありません」
と星は言い、幻想郷のためにさまざまな行事を起こした。聖輦船もその行事にとりいれられた。聖輦船は遊覧船として幻想郷の空を飛ぶようになった。
運航日には甲板がさまざまな笑顔であふれている。人間もいれば妖怪もいる。
船橋の上からそれをながめている水蜜は、なんとなく寂しくなった。さとりがいないので寂しいのだろう。
(このにぎやかさのなかに、あのひとの笑顔を加えたい)
と水蜜は思った。さとりは地霊殿から出ないと言われているが、自分が誘えばどうだろうか。地底での最後の冬に、水蜜がさしだした手を、さとりはとってくれた。水蜜は自分の恋情を疑っているが、さとりからの愛情は信じている。今度も水蜜の手をとってくれるのではないか。
水蜜は、新生活の慌ただしさが過ぎてゆくのを、華やかな空想のなかで待った。
暑気が盛んになったころに早苗がやって来た。
参道を掃いていた水蜜は、手をとめ、箒を立てた。
「暑いですねえ」
と言って早苗はつばの大きな帽子をとり、ぱたぱたと顔を扇いだ。
「先日、ここよりさらに熱い灼熱地獄跡に行ったんですよ」
「知っています。守矢神社はずいぶんと評判が悪いですね。なにか事件が起こると、守矢神社の仕業か、と噂されます」
「改革にはそういう悪評はつきものですからね」
早苗はあっけらかんとしている。その悪評をまともにうけるのは、人里に降りてくることが多い彼女だろうに、気にしているようすはない。よほど胆の据わった娘なのだろう。水蜜ら命蓮寺勢は守矢神社に悪い印象はもっていない。守矢神社の進める改革のおこぼれにあずかるかたちで、白蓮を救出できたのである。守矢の二神と早苗にも恩がある。
「さとりさんにお会いしまして、近況をちょくちょく話したんですね。船長さんの話題もあがって、それでわたし知っちゃったんですけど、おふたりの出会いは雪降る冬の日だったんですね」
ロマンチックですねえ、と早苗は言った。その話には誤解がある。
「いえ、雪のない日をえらんで訪問しました」
「あれ?」
早苗は首をかしげた。どうも早苗には、聞いた話に想像の翼をつけて羽ばたかせるくせがあるらしい。
「つぎに地霊殿へ行く予定はありますか」
「近いうちに神奈子さまのお使いで行きますよ。伝言ですか」
「秋にお会いしましょう、と」
と水蜜が言うと、
「あっ」
と早苗ははしゃいだ声をあげ、
「わかりました。そのときに、さとりさんから都合のよい日を訊いておきますね」
と、親切をみせた。
「それにはおよばないと思います」
と言いかけた水蜜は、のどもとでその言葉をとりさげ、おねがいします、と言った。
これまで水蜜は、さとりの都合を考えて地霊殿に行ったことなど一度もない。これは水蜜にかぎったことではなく、地霊殿を訪れたい者は、いつでも自由に訪れてもかまわない。あそこはもともとそういう邸で、ただし、さとりが嫌われているために、客がめったに来ないだけの話である。
守矢神社と地霊殿が業務上の繋がりをもったということは、ひとの往来が増えたと考えられる。さとりも忙しくしているかもしれない。以前と同じ調子でおしかけるわけにはいかないと思いなおした。
早苗が帰ったあと、水蜜は箒をもてあそびながら、いよいよか、と思った。
一年とかからずに、それもたやすく再会できることになった。白蓮との千年の別れを思えば転瞬のことだろう。が、それでも水蜜は、これからの一夏が途方もない長さであるように感じられた。一日の重みもかつてないほど感じたということでもある。
晩夏の夕に早苗が報告にあらわれた。
「十一月以降であれば、いつでもいいそうです。秋のあいだは忙しいようです」
「そうですか。……」
水蜜は肩をおとした。
「さとりさんから伝言がありますが、聞きますか?」
早苗は水蜜の落胆をなぐさめるように言った。
水蜜はすこし眉をひらいた。生でないにしても、さとりの声を聞けるのはうれしい。
「聞かせてください」
「ちょっとよくわかんないんですけどね」
と早苗はまず言ってから、
「寅丸と一緒に待っています、って――なんでしょうね。寅丸さん、あそこのペットのなっちゃったんですか?」
早苗の疑問に、水蜜は思わず唾をふきだした。
「さあ、聖からはなにも聞いていませんが……」
水蜜はとぼけてみせた。事情を話すとまたおかしな方向に飛躍されそうである。しかし、行方知れずとなっていた猫の寅丸が、さとりのかたわらにいることがわかって、水蜜はひそかに胸をなでおろした。
十一月になって、水蜜は早苗にともなわれて、地霊殿にむかった。さきにふれた昇降路を降りてゆくと、灼熱地獄跡があり、今そこには間欠泉地下センターという施設が置かれている。そこから地霊殿までは指呼の距離である。
地霊殿には幾度となく足をはこんだが、その管理下にある灼熱地獄に入るのはこれが初めてだった。それも裏口から入るようなかたちである。
水蜜はしきりに服の袖で汗をぬぐった。この灼熱を抜けると、さとりに会える。地底を出るまえ、その最後に、水蜜は路に積もる雪を踏みしめながら地霊殿を訪ねた。それから一年が経った。
また昇降路があった。
「今度はこれを昇ると、地霊殿の中庭に出ます」
と早苗が言った。
中庭についた。
涼しい風がながれている。
見知った風景が水蜜の視界にひろがっている。
「じゃあ、お邪魔虫は消えますね!」
と言った早苗は、風のようにすばやく去った。
「お邪魔虫って……」
「あら、わたしはお邪魔でしたか」
早苗の声ではない。早苗の声はとにかく大きい。が、この声はもっとちいさく、抑揚がない。声は背後から聞こえた。水蜜はふりかえった。さとりがいた。
「おひさしぶりです」
その声が懐かしい響きをもって水蜜の耳を打った。
「ほんとうに……」
ふるえた声で言った。心臓が高鳴っている。全身がしびれるような感覚がある。この感動は言葉ではとうてい言いあらわせない。
「なにも言わずに地底を去って、すみません」
水蜜は頭をさげた。
「わたしはかまいませんよ。でも、ぬえにまで黙っていたのは、失敗でしたね。そのあと彼女が仏門に入ったのには、驚きましたが」
「あいつなりに聖を尊敬しているみたいです。掃除も修行もまじめにやっています」
まじめからはほど遠いのがぬえの性格である。なにかに懸命にうちこむ姿は、いかにもぬえにそぐわない。が、そうなっている。
「聖白蓮とは、それほどの僧ということですね」
さとりはしみじみと言った。
「会ってみますか。いや、会ってくれませんか」
と水蜜は言った。会う、とは地霊殿ではなく、命蓮寺で会う、ということである。
「いずれ、と答えておきましょう。わたしの関心は今はそこにはない」
さとりは水蜜の胸を指でつき、
「わたしの関心はもっぱらここですよ。おきざりにしないでほしいものです」
と言った。
水蜜の頬がさっと赤くなった。その赤面をさとりは両手でつつんだ。
「こういうことは、ムードが大事だと守矢の巫女に言われましたが、なにぶん覚りなもので、こんな言い方しかできません。――さて、水蜜、告白もせずに地底を去るのははなはだよくない、と彼女に責められたそうですが、知ってのとおりわたしは覚りですから、じつはもうあなたの想いを聞き入れている、と言うとおかしいでしょうか、だから、わたしのほうからそれに対する返事をしたいと思いますが、告白というものが言葉によってなされるのであれば、わたしはまだ水蜜からなにも告げられていないわけですから、返事はいったん保留します。ただし、わたしは気がみじかいので三分しか待ちません」
さとりは一気に言うと、両手をさげ、胸もとから懐中時計をとりだした。
水蜜は完全に混乱している。その混乱を鎮めるのに三分ではとてもたりない。
「あと八秒」
さとりは無情な声をはなった。
水蜜は時計を持つさとりの手をおさえこんだ。
「待ってください。まだ一分も経ってない」
「わたしはせっかちなんです。はやくしてください」
「そんなこと言われても」
なにをどう告白しろというのか。水蜜はべつにさとりと添い遂げたいとか、体をかさねたいとか、そういうことは全然思っていない。ただ、一緒に時間をすごして、話をしたり、心を読んでもらって、さまざまな感動を共有したり、したいだけである。これまでどおりの関係をつづけたいのである。今日とて、なにかしっかりとした目的があったのではなく、たださとりに会いたいから会いにきたにすぎない。だいたい、寅丸と一緒に待っていると言っていたのに、その寅丸はどこにいるのか。
「お邪魔虫は退散していますよ。出歯亀はいくらかいるみたいですが」
さとりは冷えた目で周囲を見わたした。
水蜜は驚いて左右を見た。たしかにそこかしこから視線を感じるような気がする。
「言いますか、言いませんか」
と言われて、水蜜は観念した。
「言います。三分待ってください」
「じゃ、待ちましょう」
さとりは今度はほんとうに三分待った。三分後、さとりは時計を胸もとにもどした。
「これからも、仲よくしてくれると、うれしいです」
ひねりだしたせいいっぱいの言葉がこれであった。そういう告白をさとりは嘆きも蔑みもしなかった。
「喜んで」
とだけ言い、あいかわらず赤い水蜜の頬に顔を近づけた。
頬に唇がふれた。唇はすぐにはなれた。
「え――」
呆然とする水蜜の唇を、さとりは指でおさえ、自分の唇にも指をあて、
「ここ、は、あなたからしてほしいですね」
と言って笑った。
水蜜はさとりの両肩をつかんだ。頬から赤みが消えない。ということは、水蜜の頭は混乱したままである。
肩をつかんで、それからなにをするわけでもなかった。唇をむすんだまま、水蜜はずっとさとりを見つめた。顔をそむけたい心をかかえたまま、見つめつづけた。
三分待つ、とはさとりは言わなかった。
時計をしまいこんだのでもう時間は計れない。鼓動は早すぎてあてにならない。
長いのか短いのか、まったくわからない時の間隙があった。
やがてふたりの唇がふれあった。
了