恋する船幽霊

 虎のような猫を拾った。
 どんなふうに虎に似ているのかと言えば、見た目である。ただし、水蜜は本物の虎を見たことがないので、正確には、壁に画かれた虎の絵に似た猫、になる。
 気性はおとなしそうだった。そういうところは、獰猛と話に聞く虎には全然似ていなかった。
 だから、
「寅丸って名前つけた」
「そう」
 一輪の反応はうすかった。
 水蜜の膝の上でごろごろとくつろぐ猫には目もくれず、一輪は雲山とともにせっせと色紙で折り鶴を折っている。一輪が請け負っている内職なのだが、どこに需要があるのか水蜜にはさっぱりわからない。とうの一輪も知らないと言っていた。
 囲炉裏の火にうたれて赤く染まる一輪の顔は、機嫌がよいのか、わるいのか。とにかく無表情である。これは話をきりだす時機を誤ったかもしれないと水蜜は思ったが、もう遅い。そのまま進めるしかない。
「道端でふるえていたのよ」
「そう」
「外、雪降ってるし」
「そう」
「これからどんどん寒くなるわけで」
「そう」
「かわいそうだと思って」
「そう」
「飼ってもいいかな」
「そうねえ」
 一輪は作業する手をいったんとめて、すこし考えこんだ。
「自分で世話できるなら」
「えっ、わたしが世話するの、なんで」
「あんた、なんで猫拾ってきたのよ」
 呆れ顔をむけあったとき、囲炉裏の火がはじけた。
 土間の隅に筵を敷いて猫用の寝床をつくった。
 気にいってくれたようである。鳴き声に張りがあった。
 夕飯の時間になったので、ためしに星の好物である菖蒲の根を与えた。猫は食べようとしなかった。一輪が別の餌を持ってきて筵のまえに置くと、猫はそれを食べた。
「あんがい、似てないね、きみは」
 框に腰かけながら、水蜜は猫を見おろして言った。
「そんなもの食べるわけないでしょ」
「でも、寅丸だし」
「ムラサがかってにつけた名前じゃない」
「む……」
 それはたしかに、そうなのだけれど。水蜜は口をとがらせた。
 一輪も水蜜のとなりに腰をおろした。
 ふたりで猫の食事風景をぼんやりながめる。
「飼うの、この猫」
「助けたい、とは思っている」
 そのために連れて帰ったのである。が、飼っていいかと一輪に相談したものの、実のところ水蜜のなかで、猫を憐れみ助けることと、猫を飼育することが、どうにも結び付かないままでいる。だいいち生き物など飼ったことがない。飼い方もわからない。
 そういう水蜜を一輪は笑いも叱りもしなかった。
 一輪はいろいろなことを考えた。のんきに見えても地獄の猫だ、厳寒の下に放り出してもたくましく生きるのこるだろう、とか、猫はみんな猫屋敷に集まるものだから、そこで暖かい寝床とおいしいごはんを与えられて、無事に越冬するだろう、とか、だから助けが要るにしても水蜜の手でなければいけないことはない、とか、一輪は出かかった言葉を喉元で抑えた。それらは水蜜に対してまったく意味のない助言に違いなかった。
 餌はもう与えてしまったのだ。野良にもどすことはできない。
 水蜜はぶつぶつとなにごとか呟いている。彼女は考えごとを胸におしとどめておける型の性格ではない。飼うか、引き取り手を探すか、そういったことを思案しては、口に出し、首をふって否定する。
 とりあえずのところは、
「他人任せはいや」
 と水蜜は言った。
「わたしに世話丸投げしようとしたくせに」
「一輪は他人じゃないよ」
 そう言って水蜜は猫を抱き上げた。
「やあ、全部食べたね。えらいぞ星さん」
 あれ、と一輪はすこし目をみひらいた。
「とらまるじゃなかったっけ、その子」
「うん、寅丸」
「今、しょう、って呼んだよね」
「そうよ、星さん」
「ああ、そう」
 一輪は追及するのをやめた。
 猫の名はどうやら寅丸星らしい。姓名そっくりそのままつけるとは、御本尊として奉る気なのだろうか。思わず口に出た。
「まっさか!」
 水蜜はおかしくてたまらないといった感じに笑った。
 結局、猫は自分たちで飼うことになった。
 ――知らないことは、知っているひとに聞けばいい。
 そういう単純な結論を出して、水蜜は布団にもぐった。
 知らないこと、とは、もちろん猫の飼い方である。
「このあたりで猫の飼い方を知っているひと、というと……」
 考えるまでもないことか、と水蜜はくすりと笑った。いったい動物を飼うなどという酔狂をしている者が、この旧地獄にはひとりしかいないのだ。とびきり悪名高い、そのただひとりだけだった。
 地霊殿の古明地さとりである。
 水蜜自身はさとりに悪感情をもっていない。水蜜はさとりに会ったことはなく、話したこともなく、また文書のやりとりもない。彼女を貶める評判だけは耳にかまびすしいが、地霊殿から出てくることのない彼女のほんとうのひととなりを、水蜜は知りようがなかった。
 動物を愛する心があるのだから、そう悪いひとではないと思う。が、この妖怪は鬼さえその名を憚る地底の大物である。まさか、いきなり、門を叩くわけにはいかないだろう。
「じゃ、書簡でも出したら」
 と一輪が言った。
「だれが送ってくれるの」
「さあ……」
 と一輪は言ってから、
「あ、いたわ。取次みたいなの」
「えっ、だれ」
 水蜜はびっくりして一輪のほうに首をまわした。顔が見えないのは夜の暗さのせいだけではない。一輪は雲山を枕にしている。一輪の顔は雲山にさえぎられている。
「猫よ、猫、火車の、ほら、たまに市街にほうに来ている」
 そう言われて水蜜の脳裡にきらめくものがあった。その猫には水蜜も憶えがある。
「あのお腹の赤い――」
 名はたしか、りん、そうだ、おりん、だったはずだ。
 水蜜の胸がにわかにざわめいた。

 おりんは気のよい化け猫だった。
 水蜜はかるく事情を説明し、書簡をわたした。
 書簡を懐におさめたおりんは、水蜜の足もとをぐるぐるとまわっている猫に目を落とすと、
「虎みたいだね」
 と言った。
「寅丸っていいます」
「へえ、そりゃ似あわない」
 おりんにも寅丸≠ヘおっとりとしたのんびり屋に見えるらしい。それでも、
「飼い方なんて、べつにこまかいこと、気にしなくていいと思うけどね。腐っても死んでも地獄の猫だからね」
 と水蜜の気負いをなだめるようなことを言った。
 鈴の鳴るような声だと水蜜は感じた。とにかく話していて気分がよい。
「うちなんか、ペットの世話はペットがしてる、いいかげんなモンさ、でもなんとでもなってるんだから」
「それはまた先進的ですね」
 水蜜はなかば呆れ、なかば感心した。
「じゃ、ま、お手紙はわたしておくよ」
「ありがとうございます」
 水蜜が礼を言うと、おりんはにこにこと笑い、
「おねえさん、いいにおいするからね。だから特別サービス。アポとっといたげる。そうだね、一日か二日か、それくらい経ったら、いつでも好きな日に来るといいよ。百聞は一見になんとかってやつだね。お友達も連れておいで。あと、この猫もね」
「ほんとうですか」
 地霊殿の主人に会うというのは、尋常なことではない、と思っていただけに、それがあっさり果たされようとしていることに、水蜜は多少の戸惑いをおぼえた。おりんはそんな水蜜の心の揺れを感じたのか、
「うちのご主人さまは、おねえさんが想像してるほど、偉くも偉そうでもないよ。それにひとと話すの好きだしね。お客さんが来るなら歓迎してくれるさ」
 そう言うや、ひらりと宙を舞い、長屋の屋根をかろやかに飛んでいった。
「地霊殿にはねえ、本物の虎もいるよオ」
 水蜜がおりんの影を見失ったあたりで、遠くから、そんな声が聞こえてきた。
 おりんの軽快な声は水蜜の耳にここちよく響いた。
「じゃあ、帰ろうか」
 と水蜜は足もとに話しかけた。猫は一鳴きしてから、水蜜の体をかけのぼった。
(やれ、やれ)
 水蜜は猫を抱きかかえて帰ることになった。
 はらはらと雪が降っている。落ちた雪はまたたくまに路に溶けて消える。今日は雪がおとなしい。
 冬になると地底には雪が降る。降らない日はないと言ってよい。頭上には岩の天蓋があり、雲はなく、地底における雪という気象がいかなる要因で起こるのか、水蜜は知らないが、冬は雪の降る季節だから雪が降っているのだと、ずいぶんと昔に地底を牛耳る鬼どもに教わったことがある。雪は現象ではなく情緒である、という理屈だった。
 水蜜は歩きながらそのことを思い出していた。
 およそ風情を愛で歌を吟じる心など一片も持っていないような、粗野粗暴の鬼どもがそんなことを言うのだから、水蜜にしてみるとこれほどおかしなことはなかった。当時は理不尽だとさえ感じた。理不尽な気象は鬼の理不尽さそのものであると水蜜には思われた。が、その憤りは虚しく霧散し、今は見る影もない。地底は鬼の帝国である。理不尽をうけいれ、慣れなければ、ここでの生活が立ちゆかない。それを知ったということだった。
 地霊殿だけが鬼の支配をまぬかれ、だれの干渉もうけず、独立不羈の性格を維持している。
 水蜜はおりんと話したことで、地霊殿についてすこしわかったような気がした。おそらく地霊殿は窮屈しないところだろう。のびのびとしたおりんの挙措から感じられることはそれである。おおらかなところは鬼に似ているが、おりんには鬼のような粗暴さや傲岸さはない。地霊殿内にある秩序が鬼のつくった秩序とはまったく異なるものであることは間違いない。
 ――得るものの多い訪問になる。
 そう思った水蜜の足どりはしだいに軽くなった。
 帰宅すると友人のぬえがあがりこんでいた。
「ようっ、おかえり」
 ぬえは両手を差し出して、よこせ、よこせ、と言った。猫を抱きたいようである。水蜜はぬえに猫を抱かせた。
「おかえり」
 と今度は一輪が言った。
「ただいま。地霊殿からお招きあずかったよ。お友達もどうぞ、って」
 くつをぬぎながら水蜜は言った。
 一輪は驚きつつ、いつごろになるのか訊いた。
「一日二日したら好きな日に」
 水蜜は囲炉裏のまえに自分の冷えた体を座らせた。
「早い――」
 一輪は呆れたように笑った。
 ぬえは猫で遊んでいる。
「あんまりいじめないでよ」
 と水蜜は言った。
「いじめてない、いじめてない。それより、なにさ、なんでまた、地霊殿なんかに行くのよ」
 ぬえは苦いものを口にふくんだような言い方をした。
 水蜜はいぶかりつつ、
「動物飼ったことないから、飼い方を教えてもらいにね。ぬえもどう」
 と、なにげなくぬえを誘ってみた。
「だれが行くか!」
 ぬえはきっぱりと断わった。
 かなり強い声で言われたのが、水蜜にはちょっと意外だった。
(ぬえは地霊殿が嫌いなのかな)
 水蜜は訊こうとした。が、やめた。訊くまでもないことだろうと思いなおし、その問いを心笑のなかにおさめた。
 好きである者のほうがここではめずらしい。
 地霊殿を嫌忌するぬえの感覚はいたって常識的である。

 早朝、水蜜たちは家を出た。地霊殿へのみやげを買うために市へ行くのである。
 鍵のない家屋だが、盗まれるようなものもないので、留守は置かなかった。猫も連れてゆくことにした。いつかのように水蜜が抱きかかえた。地霊殿に行かないと言ったぬえは、この買い物にはついてきた。
 市は朝から賑わっている。
「さて、なににしようか」
「果物でいいじゃん」
 と、ぬえが言った。そうやって買ったみやげのいくらかを、自分の腹におさめるつもりなのだろう。水蜜は首をふってぬえの提案を断わった。
「食べ物は、なにが当たるかわからない。それにあそこは動物が多いから、なおのことおみやげには持っていけない」
「ちぇ」
 ぬえの舌打ちに、水蜜は肩をすくめた。
(仕方ない)
 水蜜はぬえに掌を出させ、その上に銭を乗せた。
「なにか欲しいものがあるなら、いっこだけ、好きなの買っていいよ」
「やった」
 ぬえは喜躍した。
「よし、行くぞ、寅丸。いいもん食べさしてやる」
「へんなもの食べさせないでよ。体によくないかもしれないから」
「わかってる、わかってる」
「ほんとうかなあ」
 肩に猫を乗せたぬえは、水蜜のもとを離れ、やがて雑踏に消えた。
 水蜜は一輪にむかって、
「なにがいいかな」
 と、あらためて相談した。
「ひとつ、これは、というものがある、って雲山が」
 と一輪は言った。
「へえ……」
 水蜜は雲山を見た。雲山がうなずいたような気がした。
「しゃれた織物屋を見つけた、って言っているわ」
 と一輪は言ったが、水蜜は雲山が声を出したことさえ気づかなかった。
 雲山の声は一輪にしか聞きとれない。雲山は言葉を話せないわけでも声の質が特殊なわけでもなく、ただ異常なほど小声であるだけだという。雲山の声が騒音にまぎれたり、厚く隔てられたところか発せられても、一輪はその声を正確に拾えるらしい。一輪には異能がある。
 雲山がふわふわと移動をはじめたので、水蜜と一輪はそれについていった。
「驚いた。いつのまに、雲山はそんな店に目をつけていたのかしら」
 と水蜜は一輪の耳に顔を近づけてささやいた。
「さあ、ね」
 一輪は目と口に苦笑をうかべた。一輪と雲山が離れることはめったにない。一輪が知らないということは、そのめったにないことがあったのだろう。
「一輪に贈るつもりだったのかもね。妬けるじゃない」
 水蜜は一輪をからかった。
「ははは……。それはないって」
 一輪は怒りもせず、笑っただけだった。
 店についた。外装は地味だが内装はたしかにしゃれていた。
 店主が見あたらないので、一輪が大声を発して店主を呼んだ。店主らしき妖怪が奥からあらわれた。しわくちゃの顔だった。手もしわだらけで、腰が曲がっている。目は厚くまぶたでおおわれてほとんど見えない。市の殷賑に似つかわしくない、どこか陰気な感じのする妖怪だった。
「地霊殿に行くことになったので、みやげをさがしています。多少、高価なものでもかまいません。主人の古明地さんにふさわしいものを、売ってください」
 水蜜は自分でも意外なほど明朗な声で言った。
 一輪がぎょっとして水蜜を見た。
 店主のまぶたがかすかにもちあがった。
「いくら持っている」
 しわがれた声だった。
 水蜜は手持ちの銭貨をすべて店の台の上に置いた。
「あの覚りは偏屈で、南蛮物を好む」
 しわまみれの妖怪がのっそりと動いた。
「生地はこれがよいだろう。触ってみるかね」
「はあ……」
 水蜜は生地を触らせてもらった。物の良し悪しは水蜜にはわからない。風変わりな模様だ、と思った。濃藍の海があり、白い波がきらきらと輝いているようだった。それらは文様ではなくはっきりとした絵に見えた。
「これが南蛮風なんですか」
「南蛮風とはこうだろう、と想像して織った物だ。じっさいは知らぬ」
 店主は笑った。
 水蜜は眉をひそめた。自分とさとりを侮られているような気がした。
「おっと、そんな顔をするものではないな。ととのったつらがだいなしだ」
 店主はまた笑った。
「これで膝掛をつくってやろう。地霊殿の主は、椅子に足をぶらさげて座り、暖炉のそばで、まどろむものだと聞く。膝掛がよい」
 店主はかってに話を進めていった。
 水蜜は一輪の意見を聞きたくなった。水蜜が一輪のほうを見ると、一輪は無言でうなずいた。それでかまわない、ということだろう。水蜜にしても感情の不快をわきにおけば、店主の話をしりぞける理由はなかった。雲山が勧めてくれた店でもある。
「お願いします」
 と水蜜は言った。
「時間はかからぬ。今日にもできようが、いるときにいつでも受け取りにくればよい。銭はそのときにもらおう。それは持って帰れ」
 店主は水蜜が置いた銭貨を指さした。
 水蜜たちは店主に礼をして、店を出た。
「みやげというより貢物だな」
 背後に笑声が聞こえた。
(いちいち神経に障る)
 と水蜜は思った。この店は好きになれそうもない。
 店を出てすぐにぬえと合流した。
 手になにも持っていないところから、買った物はもう腹のなかにあるらしい。
「あそこは、なかなか、うまかった。また行くか。なあ、寅丸」
 と、ぬえは上機嫌で言った。猫も機嫌がよさそうである。猫はぬえの肩から飛び跳ね、ふたたび水蜜の腕におさまった。
「あれ、手ぶらじゃん」
 と、ぬえが気づいて言った。
「完成まで時間がかかるから、後日受け取りにこいって」
 水蜜の言い方には嘘と棘がすこしばかりある。店主への不快感が水蜜にそういう言葉を選ばせたのだろう。
「ふーん」
 もはや、みやげに興味のないぬえは、水蜜の言葉の裏にある感情のささくれを勘ぐらなかった。
 水蜜たちは帰途についた。
 その夜から、三日間、猛吹雪がつづいた。
 雪がおさまったのを見て、水蜜は一輪と雲山、それに猫の寅丸を連れ、地霊殿に行くことにした。みやげの膝掛は一輪がひとりで受け取りにいった。店主の顔を見たくない水蜜は市門のまえで一輪を待った。
 一輪が朱塗りの箱をかかえてもどってきた。
「そこに入っているの?」
 と水蜜は訊いた。
「そう。――特別に箱の勘定はしないでやる、と言われたわ」
 軽く息を切らしながら、一輪はおかしげに笑った。
 水蜜は店主のしわくちゃの顔としわがれた声を思い出し、顔をゆがめた。いかにもあの店主が言いそうなことだ。雲山には悪いが、自分は二度とあの店に行くことはないだろう、と水蜜は思った。
「そんな顔しないの」
 と一輪にたしなめられた。
「ああ、いけない」
 と水蜜は頬をたたいた。
 不快をひきずったまま地霊殿を訪ねては先方に対してあまりに礼を欠く。
 水蜜はさっと気分をあらためた。

 地霊殿は驚くほど大きな建物だった。地底でこれほどの規模のものは他にない。建築様式もこれまで見たことのない異質に飾られていた。壁は赤土色をしていて、門は鉄柵のようだった。
 正門のまえに立って、それを見あげた水蜜は、
 ――あの覚りは偏屈で、南蛮物を好む。
 という織物屋の主人の言葉を思い出した。これは南蛮風の建物なのだろうか。
 水蜜だけでなく、一輪と雲山も地霊殿の威容に呆然とした。猫だけが、水蜜の腕のなかで、のんきに鳴いている。
 しばらくそうやっていると、
「やあ、おいでなすったねえ」
 という軽快な声があった。
 門のむこうにおりんがいた。
「こんにちは……」
 水蜜は気の抜けた頭をさげ、あいさつをした。
「ははっ、おもしろい顔してるや、おねえさんたち。こんなみてくれの家は、ちょっとめずらしいもんね。初めてここに来たやつは、みんなそんな顔になる」
 あいかわらずおりんは颯爽としている。
 門が開いた。
「さあ、さあ」
 と、おりんは水蜜たちを邸内に招き入れた。
 門を越えたとき、水蜜は視線の多さに気づいた。さとりが飼っている動物たちの視線であるとわかった。庭木の手入れをしている熊がいる。狐が芝を刈り揃えている。猫は無限と思われるほどあちこちから湧いてくる。それら動物たちの好奇の目が、しげしげと来客者を見ている。
 扉が開かれると、暖かい風が水蜜の顔にあびせかかった。
「さ、入った、入った」
 おりんに手をひかれて、邸内に入ると、いきなり広い空間があった。明かりのまばゆさに水蜜は目をすがめた。
 土間がない。おりんは土足で先に進もうとする。くつはどうするのかと訊くと、
「そのままでいいよ。そこの敷物でくつの裏拭いてくれたら」
 と言われた。それにしたがったものの、水蜜は気持ちがおちつかなくなった。
 くつの代わりというわけではないが、水蜜と一輪は外套をぬいだ。汗をかくほど体が暑くなってきた。目に見える範囲に暖房装置はないようである。地霊殿は灼熱地獄の真上に建っていると聞いたことがある。熱の正体はそれだろう。
 客間に案内された。
 おりんは水蜜たちから外套をあずかり、衣桁に掛けた。
「さとりさまを呼んでくるから、そこにかけて待ってておくれ」
 と、おりんは言った。
「足はのばしてね」
 とつけくわえて、おりんは部屋を出ていった。
 いやにやわらかそうな座席である。脚の短い机を挟んで四台ある。
 足を床につけて座ってみると、じっさいに柔らかく、体が沈むような感覚があった。
 水蜜はおおきく息を吐いた。ようやく人心地ついた感じだった。
「なにからなにまで凄いところね」
 と水蜜は感嘆した。
「ほんとうに、凄い、としか言いようがない」
 と一輪も驚きを口にした。
 そして、自分たちは、これからこの地霊殿でもっとも凄いと思われる存在にまみえるのである。
 猫を抱く腕に知らず力がはいった。
「おまたっせ」
 おりんがもどってきた。
 水蜜はそちらに目をうつした。
 おりんの背後に小柄な影がある。おりんよりもずっと背は低い。
 水蜜は意外に打たれた。この小柄な影は、おそろしいほど暗い。あるいは、おそろしいほど薄い。存在がきわめて希薄で、その姿は水蜜の視界にたしかにありながら、なかば暗闇に融け、所在を見失いそうだった。
 ――まさか。
 と思った、その妖怪が、まさに古明地さとりだった。手に古びた冊子を持っている。
 さとりはおりんのまえに歩み出ると、
「地霊殿をあずかる、古明地さとりです。ようこそいらっしゃいました。たいしたもてなしはできませんが、歓迎しましょう」
 と抑揚のない声で言った。
 水蜜は一輪に肩をたたかれ、はじかれるように席を立ち、順に名のっていった。もちろん雲山の名のりは一輪が代弁したのである。
 さとりに促されて席にもどった。さとりは水蜜の正面に座った。
 一輪が朱塗りの箱をさとりに差し出した。無感動に受け取ったさとりは、その箱をあけ、ふっとごくちいさな息を吐いた。笑いを吐いたように水蜜には見えたが、そこに乗せられた感情まではつかめない。
「よいものですね。ありがとうございます」
 と言ったさとりは、箱のなかを見ただけですぐに蓋をし、おりんに箱をわたして、茶を持ってくるように言いつけ、退出させた。
(とらえどころのないひとだ)
 水蜜は困惑しつづけている。全身から汗がふきだしてかなわない。さとりは目前にいるようで、いない。どれほど彼女のいずまい見て、声を聞いても、それが印象として頭に入ってこない。
 突然、猫が水蜜の懐を飛び出て、走り、さとりの膝の上に乗った。
「あっ、こら、寅丸」
「かまいませんよ」
 さとりは水蜜をやんわり制して、膝の上の猫を撫でた。
「すみません」
 水蜜はあげかけた腰をおろし、座りなおした。
「この子を飼うのですね」
 さとりは視線を左右にうごかした。
(自分は緊張しているな)
 それがわかる。たいしたことのないさとりの問いにすぐに答えられない。となりにいる一輪はどうなのだろうか。そう思っていると、一輪が口をひらいた。一輪も水蜜と同じように緊張し、汗をふきだしていたが、話しぶりはしっかりとしていた。
「はい。ですが、わたしたちは猫を飼ったことがないので、どうすればいいのかさっぱりわからず、この上は古明地さんに縋るほかないと思い、やって参りました」
「では、わたしにゆずってください、と言ったら――」
 さとりは含みのある笑みをうかべた。
「えっ」
 一輪はひらいた口をとじられなかった。
 水蜜は一輪とさとりを交互に見て、困惑を深めた。
「冗談ですよ。ゆずってもらったところで、どうせわたしは世話をしない」
 と、さとりは言った。
 水蜜と一輪はほっと息を吐いた。
「猫の飼い方を教わりたい、とのことですが、ここの猫はみな妖怪と怨霊を食べて成長します。体は頑丈に育ち、やがて自身も妖怪になり、ますます丈夫になる。猫を長生きさせたいのなら、怨霊を餌にすればいい。生きるだけならそれで充分です」
 さとりはそこまで言って一度言葉を切り、
「けれど、あなた方は猫を妖怪にするつもりはないから、やはりちゃんと知っておく必要があるのでしょう」
 と言って、古い冊子を水蜜に差し出した。ぱらぱらと捲ってみると、几帳面な文字がしたためられていた。絵もある。
「昔は自分で面倒をみていました。なにもわからず右往左往しました。これは、それにあたって、飼い方を考えたり調べたりして、書きとめたものですが、あなたにさしあげます。わたしはもういらないので」
 さとりの厚意だった。
 水蜜たちはふかぶかと頭をさげて礼を述べた。
 頭をあげたとき、水蜜は初めて、さとりの姿をはっきりととらえた。
(こんなひとだったんだ)
 目がきれいだと思った。この平凡な感想には、奇妙な感動がある。胸がふるえた。鋭くも鈍くもなく、明るくも暗くもなく、ただ静かであるが煩さのないふたつの目が青白い頬の上にある。
 背はおりんよりだいぶん低く、手足は痩せ細っている。大物らしい威はたしかにあるが、他者を押さえ付けるような強さはない。全体的にしなやかというか、やわらかい感じがする。地霊殿の圧倒的な威容からこの人物像を描くのは困難だろう。
 ――彼女に嘘をついた者は、自ら地獄の炎に身を投げる。
 そんな考えが水蜜の胸をよぎった。さとりはその名のとおり、ひとの心を読む覚り妖怪だが、たとえそうでなかったとしても彼女に欺騙は通じない、と水蜜は思った。それはすなわち(どういうわけか)水蜜は敬愛する聖白蓮に似たものを、さとりのなかに見たということだった。
 さとりはふしぎそうな目で、水蜜をうかがった。
「ひじり、とは、どなたのことで――ああ、その髪の長い方でしょうか。わたしが彼女に似ている……さて、わからない。いったいどんな方なのですか」
 と、さとりに訊かれたので、
「恩人です」
 と水蜜は言い、白蓮の話をはじめた。途中、おりんが茶と茶請を運んできた。それを飲みながら、水蜜は白蓮ついて話し詰めに話した。水蜜の舌は熱をおびた。さとりはそれに耳をかたむけている。いや、心をかたむけている。心の目で、水蜜の心の話を聞いている。ときどきあいづちを打ち、こくりこくりと、ゆるやかに首を上下させている。
 さとりはまるで音楽でも聞いているみたいに、心地よさそうに体をゆらすものだから、どうしたことかとおりんは首をかしげ、そのあとにっこりと笑った。
 水蜜が白蓮の活躍をすべて話し終えると、さとりは、
「地上には、まだそういうひとがいる、いえ、かつていた、ということですか」
 とすこし語尾をしめらせて言った。
「久しぶりに楽しい時を過ごせました。礼を言います」
 その言葉に、水蜜は興奮を鎮めたように、また頭をさげた。
 帰るとき、さとりは門のまえまで見送ってくれた。さとりはおだやかな笑貌をたもっている。それにつられてか、おりんもたいそう機嫌がよい。
「また来てよ」
 と、おりんは言った。
「ぜひ――」
 水蜜は明るい声で答えた。
 帰り道、
「地底には、まだああいうひとがいる」
 と水蜜は感動のおさまらない調子で一輪に言うと、大口をあけて笑った。口のなかに雪が入った。それを吐き出し、また笑った。
「そうね、鬼の評価も当てにならない」
 一輪は同調してみせた。が、内心では、すっかりさとりにほだされた水蜜のうかれように、少々不安をおぼえた。
 訪問は一度きりだと一輪は考えていたが、水蜜はこれから何度も地霊殿を訪れ、さとりと交流を深める気でいる。水蜜は放念しているかもしれないが、さとりは地底の支配者というべき鬼と対立する勢力の頭目なのである。そして水蜜が属しているのは、さとりではなく鬼の勢力ということになっている。
(厄介なことにならなければいいけれど……)
 と一輪は思った。結果的にこのいやな予感は当たらなかった。一輪は水蜜がさとりに昵近することで鬼どもに目をつけられ、身が危うくなることを怖れたが、じっさいのところ水蜜の背後にさとりの存在を見た彼らは、気に食わぬといったふうに睨みつけるだけで、それ以上のことはできなかった。地底におけるさとりの名はそれほど強大だったのである。
 水蜜は猫の寅丸を連れて、頻繁に地霊殿に通うようになった。

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 冬に雪が降る地底は、春は桃や桜が咲き、夏は雨にけぶり、秋には紅葉が散る。原理はわからないが四季の情緒はたしかにある。
 旧都では桜の花が盛んらしい。
 例年どおり花見会に招かれた水蜜は、これも例年どおりに断わろうとしたが、今年は一輪につよく説得され、しぶしぶ参加することにした。
 水蜜にしても一輪の考えにまったく無理解なわけではない。言い分ももっともなことだとわかる。水蜜が不参加を決めこんでも律儀な一輪は花見会に出るだろうし、そこで不在の連れについて難癖をつけられては彼女を困らせることになる、と考えなおしたのだった。ただし、地霊殿との交流をやめるつもりはない。一輪の懸念は杞憂に終わるだろうと楽観しているのは、自分の行動の正しさを信じているからである。
 水蜜はいつものように寅丸を抱きかかえて、一輪、雲山とともに、旧都の花見会に顔を出した。
 地底に太陽はない。そのために、花見の桜はつねに夜桜の趣がある。黒く染められた幕におびただしい数の灯がともされ、薄紅色の桜が、切り絵みたいに、くっきりとそこに、うかびあがっている。
 うつくしいとは感じないが、一個の創造物として、これはこれで立派なものだ、と水蜜は思った。
 若い桜の木の下に陣取って、水蜜は息を吐いた。つまらなそうな顔つきを一輪にたしなめられたが、つまらないのだからどうしようもない。
「花はよく咲いているけど、ここには華がないね」
 と水蜜は言った。地底の桜は地上のそれのうつくしさにはるかに及ばない。もはや記憶もおぼろげな、かつて自分が一輪や雲山らとともに暮らしていた寺の桜に、水蜜は思いを馳せた。色彩のない風景だった。
「じゃあ団子でも食べてなさい」
 と一輪は串団子を水蜜の口につっこんだ。
「色気より食い気よ、ムラサは」
「しっけいだなー……、あ、おいしい」
 花より団子。わりきれば、これはたのしいかもしれない。水蜜はせっせと団子を口にはこんだ。
「そうそう、その調子」
 と言いながら一輪は杯の中身を空けた。
 ぷうんとつよい匂いが水蜜の鼻孔をついた。
「あっ、一輪、お酒飲んでる」
 水蜜は杯をとりあげようとしたが、かわされた。
「お酒じゃなくてお湯よ。般若湯」
「言い方変えたって、お酒はお酒じゃない」
 水蜜は言葉をぶつけるように言った。
 一輪とはもう長いつきあいになるが、水蜜は彼女の平生からはちょっと考えられない不真面目な一面がそろりと姿をあらわすたびに、
 ――いったい彼女はだれなのだろう。
 とひそかに疑い、どう接すればよいのかわからなくなる。
 もとより一輪の性格は頑固ではなく、思考には柔軟性がある。それにしたって、酒肉を遠ざけるという白蓮の教えを、地底での生活に適応するためにたやすく棄てる一輪の身の在り方は、一輪の一輪らしからぬ怠惰として水蜜の目に映った。理屈ではない部分で納得できない。
「一輪はどうしてそうなの」
 口のうまくない水蜜はこんな訊き方しかできない。
「どうしてと言われたも」
 うーんと首をひねる。
「まあ、たぶん生まれつきね。昔のことはあんまり憶えてないけど」
「あかんぼうのときからそんななの?」
「そうそう。ああ、そうだったわ。だから、わたし、いつのまにか妖怪になっていたのね」
 と言った一輪は、なにか懐かしくなったのかしみじみと笑った。その笑顔は水蜜でなく雲山にむけられた。
 つきあいが長いといっても、むろん水蜜はこれまでのすべての時間を一輪と共有しているわけではない。
 水蜜の知らない一輪の時間には、妖怪ではなく人間であった歳月がある。生まれてからの十数年を、一輪は人間として人間の営みのなかですごしていたのだ。かつて水蜜がそうであったように。
 雲山と出会い、親しんでゆくうちに、彼女自身も妖怪になった。けっして人間を襲わないふたり組の妖怪は、それでも人間にとって驚異であることに違いなく、ゆく先々で攻撃をうけた。そうして白蓮のもとに流れ着いた。それを「いろいろあった」と笑い話にして語る一輪を、水蜜はひそかに尊敬していたし、また羨んでもいた。
 ――過去だけはどうにもならない。
 現在ある自己を変え、未来をうごかしたところで、際限なく人間を殺しつづけた過去は、いつまでも水蜜の背後にぴたりと張り付いて離れることがない。――過去は変えられないが、そこに付随する意味は変えられる、と水蜜を励ましたのは、だれであったろう。星か、白蓮か、一輪か。思い出せないのは、その言葉が水蜜の胸を淡くかすめてゆくだけの儚さしかもたなかったせいだろう。
 水蜜も一輪も元は人間の少女だった。
 だから、わたしとあなたは同じである、と一輪は軽々しく言い、水蜜は口をつぐんでなにも言えない。ふたりの感覚には、ずれがある。互いに意図してずらしている。同じであって同じではない。内実はまるで違う。それでも一輪はこう言うのだ。
「同じよ。わたしたちは、同じなのよ」
 水蜜は今も素直にうけとめることができないが、ねばりづよくそう言いつづけることで水蜜の救済をこころみた一輪の花のような笑顔は、花よりもうつくしい記憶として水蜜の心にのこっている。暗い海の底からひきあげてくれた、白蓮の手とは別な、もうひとつの手だった。
「あれから何百年経ったのかしら。妖怪は長生きだね、ほんとうに」
 そう呟いた水蜜は桜を見あげた。なにかが虚しかった。その虚しさを埋めるように一輪の手をさぐった。それより早く、一輪の手は水蜜の手を握った。
「七百年くらい?」
 酒で赤らんだ顔がゆったりとかたむいた。酔眼がこちらを見ている。
 水蜜はなにも言わず、杯をとりあげた。今度は簡単に奪えた。一気に飲み干す。
「このお湯まずい……」
 水蜜はしかめつらになった。
「飲みつづければ、おいしくなるわ」
 と言って、一輪は酒の入った甕のふちを指でたたいた。
「飲む?」
 柄杓でひと掬いして、水蜜の鼻先に当ててくる。いじわるくこういう笑い方をするときの一輪は、いつも以上に幼く見える。
「いい」
 杯をつきかえした水蜜は、ふと、地霊殿のことを頭に思いうかべた。あの大邸宅の庭に桜はあるのだろうか。たとえ桜でなくても、この時季にはさまざまな花がよく手入れされた庭にうつくしく咲いているはずである。最後にあそこを訪ねたのは半月ほどまえになるが、そのときはまだ庭にあざやかな彩りはなく、ほの暗さに沈んでいた。
 水蜜は、はっとした。
 ――この花見会には、最初から招かれず、参加していない妖怪がいる。
 それに気づいたとき、にわかに胸がざわつきはじめた。なにかが頭のなかで目まぐるしくまわっている。
「よし」
 水蜜はすっと立ちあがった。
「どうしたの。なに、よしって」
「地霊殿に行ってくる」
「えっ」
「寅丸を、おねがい」
 あっけにとられる一輪をおいて、水蜜はひとり地霊殿へ行くために、にぎやかな花見会から離れることにした。
 感情の高ぶりが水蜜の足を早めた。すぐにも旧都の喧騒から脱出し、地霊殿の静けさにつつまれたかった。
 地底には、地上から追放・封印された妖怪たちであふれかえっている。そこにひとつの秩序を築き、その秩序の頂点にすわった鬼は自分たちの帝国を、
「嫌われ者の妖怪たちの楽園」
 と標榜した。この楽園の戸籍名簿に地霊殿の妖怪はひとりも記されていない。地霊殿の主である覚りが鬼に嫌忌されているために、同じ地底妖怪にありながら地霊殿の妖怪だけは、鬼の言う楽園の頭数にいれられなかった。
 ――鬼に横道がないとは、どの口が言うことか。
 と水蜜は唾棄したくなった。
 昔、人間は、強大な力をもつ鬼どもの乱暴狼藉を阻むために、策略を用いてこれを討った。その策略は人間の智慧と勇気のきらめきであったが、鬼はそれを横道と罵り、おのれに横道はないと誇る。
 ――道理に合わない。
 この憤りには、当時鬼を征伐した武者たちへの称賛がなかばある。白蓮は彼女の思想に理解のない人間によって魔界に封じ込められたが、といって人間まるごとを恨む気持ちは水蜜にない。
 妖怪の卑劣さを憎み、人間の武勇を讃えたくなるのは、人間の血のせいだろうか。ふたたび地霊殿にむけて歩きだした水蜜は、道すがらそんなことを思った。が、今の自分に人間の血は一滴だって流れてはいないのである。
 地霊殿に着いた。
 水蜜は安堵する自分を感じた。
 ゆっくりと門が開く。足もとにさとりのペットの姿が数匹ある。門を開いたのは彼らだ。すっかり馴染みの顔ぶれだった。一言礼を言って、水蜜は通過した。
 きれいにととのえられた庭には、花が色彩ゆたかに咲いている。桜はここから見える範囲にはないようだった。
「桜の木は植えていません。梅ならありますが、花は散っていますね」
 邸の扉のまえにさとりがいた。わざわざ水蜜を出迎えてくれたのだった。いちはやく水蜜の来訪を報せた者がいたのだろう。
「さとりさん……」
「そういえば、今日は、旧都で花見会でしたか。おや、怒っていますね。めずらしく機嫌がよくない。ともかく、あがってください。ちょうど知人からよい茶葉をいただいたところなので」
 あたたかい声だった。
 邸内に手招くさとりの細い腕を見たとき、水蜜はなぜかむしょうに泣きたくなった。

 いつもの客室ではなく、さとりの私室に案内された。水蜜がこの部屋に入るのはこれが初めてになる。
 花や鳥などの模様が織り込まれた絨毯、書物がびっしりと並んだ棚、豪奢な寝台、それに仕事でつかわれているらしい紙束の積まれた机、縦長の窓の外には露台が設けられており、円い卓と背もたれのついた椅子が置かれていた。
「どうぞ、おかけになって」
 と言って、さとりは寝台を示した。ここにすわれ、ということだろう。露台に出るのだとばかり思っていた水蜜は、問うような目でさとりを見た。
「お茶は、話し詰めに話して口がかわいてから、持ってこさせましょう」
 と、さとりは言った。不得要領のまま水蜜は寝台にすわった。そのとなりにさとりが腰かけた。
「今にも泣きそうな顔をしていますね」
「そんな顔ですか」
 水蜜は平手で頬をたたいた。むりやり笑おうとした顔が歪んでいるのが、自分でもよくわかる。
「そんな顔です。そして、もう泣いている」
 と、さとりは言った。
「涙にもさまざまある」
 胸もとのあたりを浮遊する覚りの目が、じっとこちらを見ている。
 ――ふしぎな目だ。
 と水蜜は思う。さとりはこの赤い皮膚でおおわれた眼球でひとの心を読む。読むだけである。が、この目に見られていると、雁字搦めに絡まって整理のつかない感情が解きほぐされてゆくような気さえしてくる。
「ふしぎなひと」
 と、さとりは微笑した。
「あなたが、わたしたちのために怒ったり嘆いたりすることを、よけいなことだ、とは言いません。が、あなたには、沢をはねる魚のようにいつもはつらつとしていてほしいものです」
「魚のようにはつらつと、ですか」
 自分はその魚を殺す者だ、と水蜜はおのれを笑った。
「だれだって死魚を食べる者ですよ」
 さとりは水蜜の想念とはあえて違うことを言った。――わたしとあなたは同じだ、とかつて一輪が言った理屈を、さとりもまた言ったのだった。それから、
「ああ、でも、仏教徒は生臭を食べないのでしたっけ」
 そらとぼけたことを言った。
「ええ、そうです。そのとおりだ……」
 水蜜はかなしい気持ちでいっぱいになった。なぜ、こんなにかなしいのか、わからなかった。
 さとりの手が水蜜の頬にそっとふれた。
「さとりさん?」
「そのまま」
 胸もとの眼球が水蜜の鼻のあたりまで浮上してきた。覚りの目が水蜜をまっすぐにとらえている。そのまま、という言葉におとなしくしたがっていると、しだいに頭がぼんやりとしてきた。さとりは両目をふせている。読心をおこうなう第三の目だけが水蜜を見ている。さとりの唇がうごいた。声はしない。なにをしているのか問おうとして水蜜は自分の唇をうごかしたが、やはり声にならない。さとりの両目がひらいた。その目を見た瞬間、光の洪水に呑み込まれそうな錯覚におちいった。
 視界が真っ白になった。
 春風が水蜜の胸をとおりすぎていった。
「あっ」
 という自分の驚きの声は耳にとどいた。
 ――桜。
 突然、水蜜の脳裡は懐かしい記憶で彩られた。桜だ、これは地上の寺にいたころに見た桜に違いない。それがわかるのである。ほとんど忘れていたものを、どうしたことか今あざやかに思い出している。いちめんにひろがる桜、その下にいる住持、本尊、数多の門徒。……
「みごとな桜景色ですね。風が青く、雲が白い」
 と、さとりは言った。
 目の前にさとりがいる。
 水蜜は何度もまばたきをした。
「あなたは、なにを」
「ちょっとしたまじないです。すこしばかりひきだしをひっぱっただけです」
 さとりはあっさり言った。
 当人も忘れているような古い記憶をひきあげる術らしい。
 おちこんでいる水蜜を元気づけようとしたのだけはすぐにわかった。
「すみません」
 と水蜜は謝った。
「あれ、謝罪されるとは思いませんでした。いえ、感謝を期待していたわけではありませんが」
 さとりが意外そうに言うものだから、水蜜はなんとなくおかしみを感じた。
「そうですね、ありがとうございます」
 と言った水蜜の目頭が熱くなった。拳を握り、目をつむって堪えていたが、堪えきれずについに涙があふれた。水蜜は声をたてずに泣いた。さとりはそのあいだずっと水蜜のそばにあって、なにも言わなかった。水蜜にはその沈黙がありがたかった。
 しばらくすると、水蜜はほっと息を吐き、赤くなった目を笑みで染めて、またさとりに礼を言った。
「ようやくおちつきました。みっともないことです」
「しかし、さらにおちこんだ」
 さとりは自分のもくろみがうまくいかなかったことに口をとがらせた。
「そのつもりは、ないんですが……」
「励まそうと思ったのですが、かえって消沈させてしまったようです」
「そうかな。……」
 水蜜は首をかしげた。じっさい水蜜は元気になったつもりだった。が、さとりがそう言うのなら自分は消沈しているのだろう。
「かもしれません」
 と口にしてみると、たしかにさとりの言うとおりのような気がしてきた。さわやかな春の風がとおりぬけていった胸に、今あるのは、渺々たる寂寞である。鮮明によみがえった記憶の華やかさにふれることはできない。それがどうしたってかなしい、と水蜜は思った。
 ――そのかなしさをかかえて生きていくしかないのか。
 だとすれば、なんという虚しい生だろうか。
 ふいにちいさな笑い声が聞こえた。
 さとりが笑っていた。
「あなたは、やはり、魚ですね」
 と、さとりは言った。
「道傍の水溜まりをはねる魚です。あれこれと考えてのたうちまわり、そのうちに呼吸を忘れてしまった。呼吸をしていないのは死んでいるということで、けっきょく思考も死んでいる。なにかを考えているようでなにも考えてない」
「ぶざまですね」
 水蜜は自嘲するほかない。
「魚は水を泳ぐものですが、道傍の水溜まりでは、いかにも狭くて浅い」
 と、さとりは言った。
 あっと水蜜は口のなかで驚いた。
「海に帰れ、と、おっしゃるのですか」
 水蜜は眉をひそめた。
「ここ、ここ」
 さとりは水蜜の心臓のあたりを指でついた。
 水蜜は目線をさげた。
「あなたは心に海をもっている」
 と言い、
「海風の薫りと波の音をわたしに教えてくれた。耳目をそばだたせると、いつもそのここちよい音がした。でも今は聞こえない」
 さとりは寝台のへりに体重をかけていた水蜜の手首を掴んで自分のほうにひき、ぱっと離した。支えをうしなった水蜜の体がかたむいて寝台の上にたおれた。
「なにをするんです――」
 抗議と困惑を一緒くたにした声を水蜜は発した。起きあがろうとするまえに、さとりも寝台にねころがった。さとりは水蜜の体にぴたりとくっつき、胸の近くまで耳をよせると、そのままうごかなくなった。
「なんですか、もう」
「心臓の音がしますね」
「そりゃ、べつに死体じゃないですから……、よく誤解されるけど……」
「ふふ」
 さとりは水蜜にくっついたまま、歌でも歌うようにくすくすと笑った。長いことそれはつづいた。
(自分はからかわれているのかな)
 水蜜は感情のおきどころに困った。ひきはがすべきかどうか迷った。なんとなくそれはためらわれた。ただ単純にそうしたくないと思う自分がいた。なにか照れくさいような、離れがたいような、そんな気持ちだった。
 さっきから鼻にさとりのくせ毛がかかってむずがゆい。甘い匂いがする。かすかに響いてくるさとりの呼吸音が耳にここちよかった。その音に身をひたしているうちに、水蜜は急な睡魔に襲われた。
「眠いんですか」
「いえ」
 と言ったものの、眠気はしっかりと水蜜のまぶたにのりかかっている。ここままではほんとうに眠ってしまうかもしれない思った水蜜は、体を起こした。
「あら、残念」
 さして残念でもなさそうにさとりは言った。さとりも起きあがった。
「お茶にしましょうか」
「はい」
 水蜜は目をこすった。
 ごちそうになった茶は南蛮由来の変わったもので、おいしいとかまずいとかでなくて、おもしろい味だと思った。鼻と頭をすうっとぬけてゆくようなさわやかさがあった。
「おもしろい、と言うと、そういえば書庫におもしろいものを見つけたので、お貸しします。返却はいつでもけっこう」
「はあ……」
 さとりの突拍子もない提案というか親切に水蜜は生返事で答えた。
 その書物三巻を借りて水蜜は地霊殿を辞した。

 家にはだれもいなかった。一輪たちは明日の朝まで帰ってこないだろう。毎年そうである。迎えにゆこうか、とも思ったが、借りた書物を酒浸しにされてはかなわない。夕飯はとらず、すぐに寝た。
 早朝、雲山が一輪と寅丸を乗せて帰ってきた。眠っている。顔が赤い。だらしなく笑っている。宴会の夢でも見ているのかもしれない。
「ずいぶんとたのしかったみたいだね」
 と雲山に笑いかけて、水蜜は一輪のひたいを指ではじいた。
 眠りこける一輪の寝息を背にうけながら、水蜜は借りた書物のうちの一巻を手に取って、紐をといた。内容は読まず、最後のところまでひらいてゆく。奥書に、
 寅丸星
 という記名があった。その名を指でなぞると、胸に熱いものが宿るようだった。地上にのこっている星の書き写した経典が、はるばるこんなところまで流れてきた。水蜜のこの手に到るまで、いったいこの写本はどれほどの人々の手にふれ、読まれ、伝わってきたのだろうか。
 水蜜は口もとに笑みをうかべた。
 ――繋がっている。
 それがうれしくてたまらない。
 水蜜は写本を巻きなおすと、部屋の隅に置き、その上に布をかぶせてかくし、一輪が起きるのを待った。
 ほどなく一輪が目を覚ましので、朝食を用意して一緒に食べ、食後おもむろに写本の一巻を差し出した。
「なに、これ」
「おもしろいもの、と言ってさとりさんが貸してくれた」
 中身は教えないで、それだけを言った。
 写本をひろげてざっと目をとおしていった一輪は、やがて奥書にある見知った名に気づき、驚きのまじった歓声とともに高々と持ち上げた。
 あとにはなごやかな談笑があった。
「あいかわらず惚れ惚れとするくらいきれいな書ねえ……」
 一輪はうっとりとしている。
「うん」
 と水蜜はうなずいた。
 星は書体をくずすのがあまり好きではなく、この写経の書体も一字一画に均整がとれている。したがって星の字は単純に、見やすく、読みやすい。
「わたしの書は、その文字を知ってさえいれば、だれにでもすぐに読めるものでなくてはいけないのです」
 と星はよく言っていた。この経がいつごろ写されたものかはわからないが、星は今でもでもあの寅丸星に違いない。文字に呼吸があるとすれば、その息づかいはそのまま星の息づかいにほかならなかった。
 水蜜は満面を笑いで染め、猫の寅丸を抱きあげた。おとなしい猫である。体をひっくりかえされ、水蜜の足もとの写経と対面させられても、身じろぎひとつせず、鳴き声ひとつあげない。
「爪立てられたらどうするのよ」
 と一輪は水蜜を叱った。
「ははは、でも、おとなしいものだよ。魅入っている。寅丸にもこの書のよさがわかるみたい」
「興味がないだけじゃないの」
「どうかな。なあ、寅丸、どう、この書は。いい書でしょう」
 と水蜜は冗談半分に言った。同じ名の虎が書いた写経をつぶらな目に映した猫は、なにを見ているのか、水蜜の腕におさまったまま、じっとしてうごかない。
「紙と硯と墨と筆、あとはなにがいるっけ」
 と水蜜は猫を抱えたまま言った。
「筆写するの」
「昔やっていたことを、今やらないでいることもないと思う」
「それもそうね。――やりますか」
 一輪は手を拍った。
 水蜜はようやく晴れ晴れとした気分になった。写経を貸してくれたさとりに心のなかで感謝した。と同時に、ひとの心を読むという力のふしぎさをあらためて実感した。
 さとりは水蜜の記憶にある桜をみごとだと言ってくれた。あの桜は地底では水蜜と一輪と雲山しか知らないはずの風景である。親友のぬえでさえ見たことがない。が、さとりにはそれがわかる。知らないはずの風景を見て、もたないはずの感動をその記憶のもちぬしと共有するのである。
 水蜜はどこまでもさとりに好意的である。さとりのほうも水蜜を好いている。そのため、ふたりの関係には他にあるような険しさがなく、さとりが力を行使するときはつねにおだやかな雰囲気のなかで展開された。そういう意味では、水蜜はさとりと接触した地霊殿外部者としては破格の幸運にあった。さとりに敵意をむけられた末に精神を嬲られ破壊された者はすくなくない。
 市で道具を揃えた水蜜たちは、その日から写経に明け暮れた。夥しい量の紙と墨を消費し、今後の手本として手もとに置けそうなものが仕上がったのは、それから二月後のことだった。季節は夏にさしかかっていた。
 水蜜は、雨のない日を選んで、借りた経典三巻を携え、二月ぶりに地霊殿へ行った。
「今の季節はむし暑くてかないませんね」
 涼やかな笑顔が水蜜を出迎えてくれた。

 なまぬるい風が、ときおりそよりと吹いて、露台にまでのぼってくる。庭では寅丸がさとりのペットたちとじゃれあっている。それをながめている水蜜の横顔に、
「よい顔をしていますね。はつらつとしている。わたしの好きな顔です」
 と声をかけた。
 ふりむいた水蜜は、はにかみながら、
「そうでしょうか」
 と言った。が、ちかごろ、心にはずみが生じ、以前のような逼塞感が消えたのはたしかである。充実した二月を過ごしたと言える。
「すべて、さとりさんのおかげです」
 水蜜は、一度、席をはずし、ふかぶかと頭をさげた。
 さとりは苦笑した。水蜜の感謝はいかにもおおげさである。水蜜の心境を変えたのはさとりではない。さとりは、それをこころみて、失敗した。水蜜は書物によって復活したのであり、しかもただの書物ではなく、水蜜の同門の者が筆写した書である。あえて言えば水蜜は友情によって復活した。さとりはそのことを言い、さらに、
「わたしは、いつとも知れず書庫にまぎれこみ、埃をかぶっていた書物を、たまたま見つけたので、あなたに貸しただけですが……」
 と言った。
「つまり、さとりさんがいなければ、わたしはのたうちまわる魚のままだった、ということです」
 水蜜は間髪いれずに言った。この言葉の勢いに、さとりは思わず瞠目し、それからややあって、
「まあ、そうかもしれません」
 そう言うと、カップを持ちあげ、唇を濡らした。
「部屋を散らかすだけの収集癖も、たまには役に立つ」
 と独り言のように言った。
「さとりさんは、本を集めるのがお好きなんですね」
「読むために集めていたはずが、書棚に並べるために買い求めることが増えました。それをながめているだけで、けっこうたのしい時間が過ごせるものです。読まず、それきりものも増えた。スペースが足りず、床に積みあげているものも」
 自身に呆れはてた調子でさとりは言った。
 水蜜はくすりと笑った。書庫に立ち入ったことはないが、かなり悲惨な状態になっているのではあるまいか。想像するとおかしくてかなわない。それに困り呆れているさとりの顔も、やはりおかしみがあった。
「ひとつ、あつかましいお願いをしてもいいですか」
 と水蜜は言った。
 思考を別なところにとばしていたさとりは、その意識を水蜜の唇のあたりに寄せると、
「あつかましいだなんて、そんなこと。気にいりものは自室にうつしてあるので、書庫にある分は、どうぞ、お好きに――筆写が必要であれば、スペースと道具を用意させます。今は雨が多いから、持って帰って作業するのは難儀でしょう」
 と言った。
 水蜜はちいさく頭をさげ、カップの茶を飲んだ。
 地霊殿の書庫は雑然としている。書庫の清掃を任されているペットはいないのか、整理されていない書物があちこちに散乱していた。それをつらつらとながめた水蜜の胸に感動が灯った。書物の山は宝の山と言ってよい。
 水蜜はしばらく地霊殿に逗留することにした。さとりの厚意にめいっぱい甘えることにしたのである。寅丸に一輪宛の走り書きの紙をくくりつけて先に帰らせると、自分は書庫にこもって、ほとんどそこからうごかなくなった。日のあるうち、と表現するのもおかしいかもしれないが、とにかく昼間は読書と筆写に没頭した。夜、眠るときは、書庫のなかで座って眠ることも多い。それを二十日余つづけた。
 最初は水蜜のやりたいようにやらせていたさとりも、さすがに見かねて、ある朝、書庫の床に臥して眠っていた水蜜を起こすと、
「呆れた、と言うべきか、感心した、と言うべきか。……」
 と鼻をしわくちゃにしながら言った。
 水蜜は大熊に抱えられ、書庫から連れ出された。食堂まではこばれた。粥とスープをふるまわれた。
 れんげを持つ手のつたなさに、自分の衰弱ぶりを思い知らされる。溜息を吐いた水蜜は、
(これは、駄目だ)
 と、かぶりをふった。と同時に、
「ええ、駄目です。てんで駄目です」
 と、さとりに叱られた。
「あなたは、なんというか、ほんとうに極端ですね」
 と、さとりに言われ、水蜜は首をすくめた。
「ほど、というのがわからないんです。一輪はそういうの得意なんで、まねてみたりするんですが、さっぱりで……」
「でしょうねえ。あれはある種の天才ですから、手本にするには最悪の相手です」
 さとりは、水蜜の不器用を慰めるような、慰めないような、そんな言い方をした。
 水蜜はますます恐縮した。
「あなたの頑固ぶりも、やはり、ある種の得がたい才能に思われます」
「才能、ですか」
 褒められた気はしない。水蜜は肩をおとした。
 それを見たさとりは、眉をひそめ、
「ううん、どうもわたしは、ひとを励ますのがうまくない」
 と言って、同じように肩をおとした。
「わたしも写経してみようかしら」
 さとりが嘆息すると、
「ああ、それはいい、書はいいですよ」
 水蜜はあっさり愁眉をひらいて言った。さとりはいっそう眉の皺を濃くした。ついさっきまで、もどかしげに身をよじっていたような水蜜が、さとりのなにげない呟きをひろいあげてこの調子である。
 さとりは仏を信じる心をもたず、その教義にも興味はないが、目前にいる人物には大いに興味があり、またその性格も信じるに足ると思っている。
「なるほど、書はいい」
 と、さとりは言った。

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 澄んだ目がさとりを見ている。
「ずいぶんとあの船幽霊に肩入れしているようですね」
「そうでしょうか」
「飛倉の位置を動かしたことが、それです」
「あれはもともと、彼女のものだったのを、鬼が強奪したのです。位置を動かしたのは鬼であって、わたしはもとのとおりにしたにすぎません」
「それがひいきというものですよ」
 と言って、映姫は笑った。きまじめが服を着ているようなこの閻魔は、さとりを相手にするときだけ、奇妙なことに性格がやたらと軽くなる。
 ――それだけ気をゆるされている。
 と、あっさり納得できたら、これほど幸せなことはないだろう。残念ながらさとりはそこまで単純ではない。
 首筋に汗がにじんでいる。さとりはそれを残暑のせいにした。が、映姫は涼しい顔をしている。
 映姫の心は、たやすく読めそうで、なかなか読めない。映姫の心は極めて整理されている。京師のようだ、と思う。きれいに区画された京師の路である。ほんものを見たことはないが、きっとそんな感じだろう。だから、たとえば水蜜のように、複雑に絡まった糸に指を入れてほぐすようなめんどうが、映姫と対峙しているときは生じない。話す言葉は思考にある言葉そのものであり、そこからはずれることがないからである。それだけ嘘のない性格と言えるかもしれないが、短絡からはほど遠く、独特のきむずかしさがある、というのが映姫の精神のかたちだった。
 ようするにむやみに疲れる相手なのである。
「もう地底には来ないものだと思っていました」
 と、さとりは言った。映姫の訪問は、旧地獄の引き継ぎ作業が完了して以来、数百年ぶりになる。ただし書簡のやりとりはつづけていた。
「来るつもりはありませんでした」
「なら、なぜ」
「急にあなたが恋しくなったから、ではいけませんか」
「冗談はやめてください。閻魔のくせに」
 さとりは口をとがらせた。考えていることと話していることが同じであり、発生のタイミングも同じなので、二重になってさとりの頭に響く。
「稚拙そのものだったあなたの字が、最近すこしずつ上達してきた。何百年と変わらなかったのに、この数年のうちに変わろうとしている。読んでいる者としては、どうしたことか、と思うでしょう。調べてみると、ある妖怪の名がうかびあがってきたわけです」
「調べたんですか」
「調べました」
 ふふんと笑って映姫は紅茶を飲んだ。
 さとりは溜息を吐いた。
「あなたは――」
 さとりと映姫の声が重なった。
「変化を怖れている」
 と先に言ったのは映姫である。
「妹が変化したことがひとつ、その妹がふたたび変じ、もとのかたちにもどることがひとつ」
 さとりは眉をひそめた。
「前者は怖れではなく、かなしかっただけです。そして、わたしは、後者を怖れてはいない」
 と言った。
「そうかな。こいしがとじた目をひらけば、昔にもどるだけです。それを喜べない自分を想像し、そのときがいつか来ることを怖れている」
 映姫は間違ったことを言わない。この言葉も正しいのだろう。しかし、さとりは、はいそのとおりです、と認めるわけにはいかない。
「今のままでいい、と思わないでもないです。こいしは幸せそうですから。目をひらけば、昔さらされた悪意にまたさらされ、また傷ついて、せっかくの幸せもくずれるでしょう。こいしはそれを嫌って目をとじたのですから」
 でも、と、さとりはつづける。
「ひとの悪意を忘れたこいしは、ひとの好意も忘れて、自分のことさえ忘れようとしている。それではいったい、生きているのか死んでいるのか……どちらにせよ、あまりにかなしいじゃないですか、そんなことは――」
 すくなくとも覚り妖怪としてのこいしは、死んだも同然の状態にある。なにものでもない一個の怪異が虚しくただよい、あいまいに存在している。その存在をこの世界につなぎとめているのは、こいしを忘却しない者、すなわちさとりである。
「あなたが忘れたときこそ、彼女の死にどきでしょうね」
「不吉なこと言わないでください」
「存在証明をうしなった者は消えるだけです」
 映姫はさらりと言った。
 さとりは不快の塊になった。
 さとりの鋭い視線をうけても、映姫は平然としている。
「妖怪は妖怪らしく生きるべきです。覚りは覚りらしく生きるべきです。こいしは生き方を間違っている。あなたは姉として、その過誤を正さねばならない」
 きびしい口調でそう言ってから、口もとにほのかな笑いを浮かべた。
「恋に夢中になるのもかまいませんが、あなたは自身を変えようとしているのに、妹には変わらないことを望むのは、卑怯というものですよ。一緒に変わってゆけばよい。それが姉妹であるということでしょう」
「恋って……」
 ばからしい、と言おうとして、口をむすんだ。映姫の戯言はともかく、水蜜にかまけすぎて身内をおろそかにしつつあった自分に気づいたのである。
 さとりはまだ水蜜にこいしを紹介していない。こいしには放浪癖があり、めったに邸にいないこともあるが、さとりはなかば意識して、この妹の存在を水蜜に隠しつづけている。が、なんのためにそんなことをやっているのか。映姫にはすべて見透かされているようだった。
 さとりはしばらく目をつむり、黙考した。やがて目をひらくと、
「あなたは――」
 今度の声は重ならない。
「いつもわたしを腹立たせる」
 と言って、映姫を睨んだ。
 ちょうどそのころ、水蜜は二度目の溺死を体験しそうになっていた。

 旧地獄というだけあって、地底にはさまざまな地獄の施設が今ものこっている。その大半はすでに機能をうしなっているが、可動状態のまま放置されている施設も少なからずある。
 血の池地獄もそのひとつである。旧地獄の諸施設は書類上はすべて地霊殿の管理下に置かれているが、血の池地獄は地霊殿からさほど離れていない場所にある。
 文字どおり血のように赤い。
 ふだんけっして立ち寄らないこの場所に、足を踏み入れたのは、水蜜にもわからないことだった。じつは水蜜はなにものかを追いかけていたのだが、本人にその自覚はなかった。いつもはおとなしい寅丸が、めずらしくうるさい鳴き声をあげていることにも気づかなかった。
 夢幻に誘われるように、水蜜は地霊殿にむかう足を血の池地獄へと転じ、ふらふらと歩いてゆくと、ほとんど正体なく、真っ赤な池に落下した。
 水蜜は溺れた。
 自分の身に、なにが起こったのか、水蜜にはすぐに理解できなかった。
 混乱したままもがいていると、頭上にきらきらと光るものを見つけた。そこにむかって手を伸ばした。その手が草を掴んだ。体重をかけて、池から脱出した。
 ひとしきり咳きこんだ水蜜は、草の上にあおむけになって倒れた。
 まだ息が荒い。呼吸がさだまらない感じである。
 濡れた頬を寅丸が舐めた。
 ありがとう、と言って、水蜜は寅丸の頭を撫でてやった。
 ようやく息がととのってきたところで、死の恐怖が遅れてやってきた。体がふるえだした。
(死ぬかと思った)
 死んでからまた溺れ死ぬなど、笑い話にもならない。
「生きてるんだ」
「いや、死んでいます」
 答えたあと、だれに問われ、だれに答えたのか、水蜜はいぶかしんだ。
 声の主をさがしていると、いつのまにか、となりに知らない少女がすわっていた。
(どこかで見たことのあるような。……)
 水蜜はもどかしくなった。つばの大きな帽子をかぶっているせいで、顔に影がかかっているが、影からのぞく鼻と眉のかたちに見覚えがある。だれかに似ている気がしたが、それがだれであるのか、思い出せない。
 その少女の背後から、二本の線を繋ぐ球体が、そろりとあらわれた。
 ――第三の目。
 水蜜は跳ね起きた。
 よく見るとその目はとじられている。さとりの目は皮膚が赤かったが、こちらはぶきみなほど青い。死の色だと水蜜は思った。
「覚りの方でしょうか」
 と水蜜は訊いた。
「うん。やめたけど」
 かぼそい声だった。
 水蜜は首をかしげた。覚りをやめる、とは、どういうことだろうか。
「心を読むのをやめたの」
 水蜜の心の問いに答えるかたちになったが、本人はもう読むのをやめたと言っているから、偶然なのだろう。
「今はね、休業中」
「再開はいつごろになりますか」
「予定はないかなあ」
「そうですか」
 水蜜はすこしうつむき、考えこんだ。
 さとり以外の覚り妖怪がいたことを、水蜜は知らなかった。さとりの話にでてきたこともない。さとりとこの少女とは、どういう関係なのだろうか。あるいは種族が同じなだけで、なんの関係もないのだろうか。いろいろと疑問が生じたが、それに答える声は聞こえなかった。
「わたしは、村紗水蜜と言います。名前、聞かせてもらってもかまいませんか」
 と水蜜は言った。
「こいしだよ」
「こいしさん、ですか」
 どういう字で書くのだろうと思っていると、
「古明地の、こいし」
 と、つけたされた。
「古明地――こいし――」
 水蜜の胸の奥が、かすかにゆれた。
 姓が古明地ということは、さとりの身内に違いない。あらためて見ると、こいしの眉と鼻のかたちは、さとりにそっくりである。が、さとりはこいしのことを水蜜に教えなかった。水蜜も地霊殿でこいしの姿を見かけたことはない。もしかすると、こいしは今地霊殿に住んでいないのかもしれない。水蜜はそんなことを考えた。
 こいしはとじた目のまぶたをいじっている。
 ふしぎな子だと思った。さとりもふしぎさに満ちているが、それとは種類の違うふしぎさである。こいしはすぐ目の前にすわっていながら、そこにいるような、いないような、そんな感じである。存在感が希薄なのかもしれない。さとりのような力強さをまるで感じない。
「さとりさんのお身内の方ですか」
「いもうと」
 と言ったあと、こいしは顔についている両目で、水蜜の顔をのぞきこんだ。
「おねえちゃんのしりあい?」
「よくしてもらっています。地霊殿にも、何度か、おじゃましました」
「しらないや、いつ来てたの。わたしもまぜてほしかったな。おねえちゃんのけち」
 と、こいしは愚痴をこぼした。
 水蜜は髪を掻いた。
(すると、彼女は地霊殿にいる。それにしても、一度も見たことがないなんて)
 ますますわからない。さとりに紹介してもらえなかったことも、わからないことのひとつである。覚りであることを棄てた妹の存在を、知られたくなかったのだろうか。そのあたりをさとりに訊いてみたくなったが、さとりにその気があればとうに話していただろう。今まで隠してきたのは事情があるに違いなく、それをむりに話させるのも気がひける。
(やめた)
 水蜜は地霊殿行きを中止にした。どう考えても、今の自分はこいしのことで頭がいっぱいになっている。
 水蜜は立ちあがった。
「どこいくの?」
「家に帰ります」
「ふうん。じゃあ今度うちに来てね。わたしのいるときに」
 と言った瞬間、こいしの姿がふっと消えた。
 水蜜は、目と口を大きくあけたまま、しばらく呆然と立っていた。

 家に帰って事情を話すと、一輪にこっぴどく叱られた。
 一輪の怒りは当然のことで、水蜜は言い訳のしようもない。黙って一輪の長い説教をうけた。
「それにしても、さとりさんに妹がいたなんて、驚いた」
 一輪の説教が終わってから、水蜜は言った。
「妖怪ってやめようとしてやめられるものなのね」
 と一輪は違う驚きを口にした。そのあと、自分の言葉に違和感をもったのか、首をかしげた。こいしが今も妖怪であることには変わりない。が、覚りではなくなった。それなら今はなんの妖怪なのだろうか。
「覚りなんじゃあないの?」
「覚りはやめたんでしょう?」
「わたしだって船幽霊やめてるし」
「ああ」
 そう言えばそうか、と一輪は納得したように言った。水蜜だけでなく、一輪も雲山も、妖怪としての本分をすでに放棄している。
 多分に精神性の生き物である妖怪は、定義された生き方からはずれると、やがて人々からそれと認識されなくなり、忘れられ、存在の寄る辺をうしない、ついには融け去る運命にあると、かつて白蓮に教えられた。一輪たちは毘沙門天によって存在を護られているが、こいしはどうなのだろう。
 ひとつの疑問が解決すると、また違う疑問が湧いてくる。
 一輪はこいしを知らない。
 それでもこいしの在り方はどこか危ういように思われた。
 一輪がなにやら思考にのめりこみだしたので、水蜜は寅丸を抱きあげ、鼻をすりつけながら、
「ふしぎ、ふしぎ」
 と、くりかえしつぶやいた。
「なにがふしぎなの?」
「ひゃっ」
 突然、背後からあがった声に、水蜜は思わず寅丸を持つ手を離した。床に落ちた寅丸はみじかい悲鳴をあげた。一輪はさっと立ちあがり、戦闘態勢をとった。
 水蜜がうしろをふりかえると、なんとこいしがいた。
「こいし、さん……」
「えっ、この子が――」
 一輪は水蜜が言ったその名を聞いて構えをといた。が、心の緊張はとかなかった。とけない、と言ったほうが正しいだろう。
「おじゃまします」
 こいしは帽子をぬぎ、ぺこりと頭をさげた。
 つられて水蜜たちも頭をさげた。そのときこいしの足もとが目にはいった。こいしはくつを履いておらず、素足をさらしている。あとで確認すると、こいしのくつは土間に置かれていた。板の間にあがるときにぬいだのだろう。
 驚愕をおさめた水蜜たちは、この珍奇な客人を鄭重にもてなした。
 話しているうちに、こいしがぬえと旧知であることがわかった。最近はとんと顔をあわせていないという。以前、水蜜がぬえを地霊殿に誘ったとき、彼女がのってこなかったのは、単純に多くの妖怪がそうであるように、ぬえもまた地霊殿を嫌っているからだと思っていたが、別な理由があったのかもしれない。
 姉妹仲は悪いわけではないらしい。むしろ良好のようである。話題がさとりのことに及ぶとこいしは「おねえちゃん、おねえちゃん」と、愛しげに言うのだった。
 突然あらわれたこいしは、やはり突然いなくなった。
 なごやかに笑語していた水蜜は、話し相手がひとり減っていることに気づき、一輪の肩をたたいた。一輪もこいしが消えていることに気づいていなかった。
 戸はしまっている。土間にこいしのくつはない。家のなかをざっとみわたしたが、どこかに隠れているようすはない。
 水蜜は手をひらいたりとじたりして、指先の感覚をたしかめた。現実感がまったくなかった。体も心もふわふわと浮いているようだった。
 こいしはほんとうにこの家に来たのか、と疑う気持ちがにわかに湧いた。こいしがここにいたという実感がまるでのこっていない。
 ――夢か幻でも見ていたのか。
 水蜜と一輪は顔をみあわせ、しきりに首をひねった。

 水蜜がぬえをともなって地霊殿を訪ねたのは、それから十日あまりのちのことだった。
 さとりはふたりを自室に案内し、席につかせると、胸の動悸を鎮めるように深く呼吸をしてから、
「さすがに驚きました」
 と言った。
「さとりさんでも驚くことがあるんですね」
 水蜜は口をほころばせた。
「まさか、まさか、ふたたびその顔を見られるとは思わなかったわ」
 さとりはぬえのほうを見て言った。
「おう、わたしも全然思わなかった!」
 と言って、ぬえは鼻にしわをよせた。
「こいしは家にいるのかいないのか、わかりませんが、いちおう、おりんたちにさがさせています」
 と、さとりが言うと、ぬえは「ない、ない」と首と手をふった。
「見つかんないよ。本人が自分がどこにいんのかわかってないんだもん」
 と言った。
「それは、まあ……」
 さとりは溜息を吐き、
「だからって、ほうっておくわけにもいかないわ。せっかく、ひさしぶりにお友達が遊びにきてくれたのだし」
 と言った。さとりとしては、こいしを水蜜に紹介する以上に、ぬえに会わせたい、と思っている。
「友達じゃないし」
「あら、でも、こいしはそう言っていたわ」
 さとりはぬえのあまのじゃくを笑ったつもりだったが、ぬえは目をみひらいた。
「あいつがもう友達じゃないって言いだしたんだけど」
 ぬえは驚いたが、さとりはもっと驚いた。
「まさか」
 その驚きが目容にあらわれ、口からもれた。
 水蜜はふたりのやりとりを見ながら、妙な違和感をおぼえた。ぬえの足が地霊殿から遠ざかっていた理由は、すでにぬえから訊いていたのでそのことを驚きはしなかったが、ふたりが普通に会話していることがとてつもなく奇妙だった。
 さとりとの会話がはずむと、かえって口数が減る、という現象が起こる。さとりはひとの心を読むので、その心の声と対話するために、こちらが思ったことを口に出すより先に、さとりの相槌がくるのである。
 ぬえとさとりの会話にはそれがないようだった。
 水蜜が内心首をかしげていると、
「ああ、彼女ですか。読めないんですよ、彼女の心って。いえ、見えることは見えるのですが、意味不明で理解できないというか。ちんぷんかんぷんなもので」
 と、さとりが教えてくれた。
 ――ほら、こんなふうに、と水蜜は思った。思ってから、驚いた。
「えっ、読めないんですか?」
「ええ」
「喉渇いたなアって思ってもお茶淹れてくんないんだよ。わたしだけ」
 ぬえはティーカップを持ちあげた。
「言われなければわからないもの、あなたは」
「ふしぎだよね。まあ考えてることわかんないなら、そっちのがいいけどさ。正体不明でメシ食ってる身としては」
 と言って、ぬえはからからと笑った。
 水蜜からしてみると、ぬえの思考はわかりやすいほうである。根が単純なのか、怒っているときは怒った顔になるし、悲しいときは泣き顔になる。虫のいどころが悪い日は猫背ぎみになり、眉間からしわがとれることがない。なにか良いことがあると一日中にこにこと笑い、まわりにやさしくなる。
「態度や表情から気持ちを読みとるのは苦手です」
 さとりは苦笑した。
「ぬえの頭のなかって、どんな感じなんですか」
 水蜜はぬえの側頭部を指でつついた。手で乱暴に払われた。
「ねっとりとした青と赤がうずをまいてまじわろうとしている。鏡だけでつくられた迷途が出口も入口もなく無限にひろがっている。金属音のような鳴き声がひっきりなしに聞こえる。……そんな感じですね」
「わたしはそんなこと考えてないんだけどね」
 ぬえは茶請を口のなかにほうりこんだ。
「お、こりゃ、なかなかいける。二三個くすねてくか」
 水蜜はためしに、ぬえが今、頭のなかで思っているだろうことを、言ってみた。
「エスパーすんなし!」
 わけのわからない抗議をされたが、あたっていたということだろう。が、水蜜にわかることを、さとりはわからないらしい。
「わかりませんね。万華鏡のようにくるくると違う景色が展開されています。ああ、万華鏡というのは……ええと、どう説明したらいいかしら」
 言いながら、さとりは鈴を鳴らした。口で言うより、見せたほうがはやい。
 ほどなくして子犬がはいってきた。
「万華鏡を持ってきてちょうだい」
 と、さとりは言った。
 犬が万華鏡を持ってくると、さとりは水蜜にそれをわたし、筒の片側を指さして、
「ここに目をあてて、なかを覗いてみてください。それから筒を手のなかで回してください。おもしろいことが起こりますよ」
 と言った。
 水蜜は言われたとおりにした。
「わっ」
 と驚いた水蜜はすぐに目をはなした。
「おもしろいでしょう」
「はい」
「そしてぶきみでもある」
「ぬえが間違いなくあの鵺であるというのを、やっと信じられそうです」
 水蜜は口をあけて笑った。ぬえに頭をはたかれた。舌を噛みそうになった。
「信じてなかったのか!」
「同じ名前の別の妖怪ってくらいには信じてた」
「ひどいな!」
 ぬえをなだめながら、水蜜は万華鏡をさしだした。
「ぬえも見てみなよ」
「自分の頭のなか見たってなあ」
 そう言いつつ、ぬえは万華鏡を受け取って、覗き窓に目をあてた。
「うわ、きめえ」
 ぬえはちいさく叫ぶと、万華鏡をさとりにむかって投げた。
 その姿に伝説の大妖怪らしいぶきみさはかけらもなかいが、ころころと表情が変わるところは、たしかに万華鏡のようである。
 結局こいしは見つからなかった。不首尾のおりんをさとりがなぐさめた。それを見ていたぬえは水蜜の服の袖をひき、
「ほらな」
 と言った。
「あいつはね、見つけようと意識すると、かならずその意識のそとにいるのよ。さがしにいって、見つかるわけがない」
「意識のうちに入れるには……」
 と水蜜が訊くと、
「知らん。あいつのその日の気分しだいじゃないかな。入るときはかってに入ってくるよ」
 と、ぬえは言った。こちらでどうこうできるものではないらしい。
 ふたりは地霊殿を辞した。
 帰り道に水蜜はぬえに、
「残念だったね」
 と言った。
「残念。なにが残念」
「こいしさんに会いたかったんでしょう」
 と水蜜は言った。
「どうかな」
 ぬえは首筋を撫でた。
「あいつがムラサんちに来たの、ひょっとしてわたしに会うためかなって思ったんだけど……くそっ」
 と言って、ぬえは地を蹴った。土埃が足もとに散った。
「仲直りしにきたのかと思ったんだ。だから、いっぺん会っとこうと思って。こっちもちょっとは悪いとこあったし。でも違うな。あいつ、もう顔も見たくないってわたしに言ったの、たぶん忘れてるぞ」
 こいしは一方的に絶交を告げたことも、喧嘩したことさえ覚えていない違いない。さとりが現在のぬえとこいしの関係について無知だったのは、そのせいではないか。
 こうなるとぬえはおもしろくない。こいしの言葉に傷つき地霊殿から離れていた自分とは、いったいなんだったのか。これほどばからしいことはないのではないか。こいしはぬえに会えないことを寂しがっているのは、なおばかばかしい。
 ぬえは鼻息をあらくして、ずんずんと大股で歩きだした。不機嫌が全身にあらわれている。
「仲直りするなら手伝うよ」
 と水蜜はぬえの背に言った。
「むこうは仲違いしたと思ってないのにか」
「でも、ぬえがそう思っているなら、仲直りしたほうがいいと思うよ。喧嘩別れしたままなのは、つらいでしょう」
「ふん。……」
 ぬえが立ちどまったので、水蜜も足をとめた。
「さとりに会う口実がほしいだけだろ! おまえ!」
 ふりかえったぬえが怒声をあげた。
「ははは、否定はしない」
 会いたくなったら会いにゆけばよいのであるが、このころの水蜜は、そういう自分のすなおな感情に従うことに、なんとなく照れのようなものをおぼえはじめていた。寅丸を連れてゆくとさとりは喜んでくれるが、動機としてはそろそろ弱い。
(どうしたものかな)
 と水蜜は頭を悩ませた。幸せな悩みと言えるかもしれない。
 こうした感情の変化にさとりが気づいていないはずはないが、水蜜はそのあたりのことをまったく考えていなかった。

 さとりの耳はさざなみを聞いている。みぎわに寄せる波の音である。水蜜の記憶から抽出した、本来地霊殿のもたない音が、耳の裏を打っている。
 目をつむり、揺り椅子に揺られながら、さとりは水蜜の余韻にひたっていた。
 ときおり、火のついていない暖炉から外の風がはいってきて、まもなくおとずれる秋の涼やかな薫りをさとりに告げるのだが、それがまたよかった。
 部屋の入口から違う風がはいってきた。
 こいしがいた。
「ただいま」
「おかえり……」
 さとりは夢からひきもどされた。夢のここちよさに比べ、この現実のせつなさはなんであろう。ひさしぶりの妹との再会だというのに、そこにはなんの感動も喜びもない。
 こいしの目はまっすぐにさとりを見ている。
 さとりには、その目はなにかを映していながら、じつはなにも映していない目のように思われた。ひらいていながらとじているのと、なにも変わらない目に思われてならなかった。
 肘掛にのせているさとりの手に、こいしの手がおかれた。その手は体温にとぼしかった。
「この膝掛なあに。見たことないやつだ」
「貰い物よ」
「笑ってたね。なにかたのしいこと考えてたの?」
「海を見ていたわ」
「あの船幽霊のこと好きなの?」
「………」
 さとりは膝掛に目をおとした。こいしは今日のできごとを、どこかで見ていたのかもしれない。それにしては、水蜜にふれてぬえにふれないのは、どうしてだろう。
「さて、ね」
 ばか正直に答える必要はないと思ったさとりは、答えをはぐらかした。――ええ好きですよ、と軽薄に答えるのは、なにか遠慮がはたらいた。
「彼女は、心に海をもっているから、その海を見るのは好きよ」
 と、さとりは言った。
「海? 海ってあの黒くてしおっからいみずたまり? あんなの見てたのしいの?」
 こいしは首をかしげた。
 たしかにさとりの記憶にあった古い海の色もそれである。暗い色をしていた。はげしい波がうねっていた。見ていてたのしいどころか、不安しかおぼえなかった。が、水蜜の海は、そうした暗さを所有していない。それどころかまばゆいほどに明るい。
 さとりは首をふって、
「青いのよ。青く澄んでいて、とてもきれいなの」
 と言った。
「へんなの」
 と言ったこいしは、さとりとのおしゃべりに飽きたのか、それきり話しかけなくなった。こいしの興味はうつろいやすい。
 こいしの体が背景に融けて消えた。さとりの手にあったかすかな感触も消えた。
 またどこかへでかけたのか、まだ邸にいるのか、こうなってしまってはもはやだれにもわからない。おそらくこいし自身にもわからないだろう。
 さとりは椅子にすわりなおした。目をつむって、耳をそばだたせてみたが、さざなみはいっこうに聞こえてこない。さとりは目をひらき、溜息を吐いた。
(わたしはこいしを忘れようとしている)
 こいしを心の雑音として、しりぞけ、ここちよい波音に逃げようとしている。映姫はまさにそれを指摘したのである。映姫はさとりを卑怯だと言った。たしかにそのとおりだろう。こんなことは卑怯以外のなにものでもない。
 あの青くうつくしい海を、こいしとわかちあいたいと思ったことが、一度もないわけではない。が、その思いは諦めのなかで虚しく斃れた。こいしはだれの心も読まない。こいしにあの海は見えず、波の音は聞こえない。
 感動したものを心で共有する。覚り妖怪とはそういうものであり、さとりとこいしはそういう姉妹だった。が、今はそうではない。
 さとりの顔がゆがんだ。
 過去をふりかえると、さとりはいつも強烈な疼痛感におそわれた。それに耐えかねて過去を懐かしむことをやめてしまうと、今度は孤独な寂寥感に支配された。だれとも共有されることのない孤独な寂しさである。
 ほとんど無意識にさとりは虚空に手を伸ばした。体のどこかが渇いていた。水がほしくてたまらなかった。
 空気だけが指先に触れてくる。
 伸ばした手がなにも得ることなく落ちたとき、さとりは、はたと、――道傍の魚とはわたしのことか、と思い、うつろに笑った。

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 雪の降る季節である。
 その日、水蜜はひとつの決意とともに地霊殿にさとりを訪ねた。
「デートしませんか」
 と水蜜はさとりに言った。
 門で出迎えたさとりが苦笑した。
「いったい、そのような言葉をどこでおぼえたのですか」
 水蜜も笑った。笑いがすこし堅いのは、寒さのせいだろう。鼻先がつんとする。
「どこで、というと、まあ、本でおぼえました」
 水蜜は鼻をすすった。
「どうですか」
「かまいませんよ。どうせひまですからね」
 さとりはあっさりと言った。
「わたしの評判を知っているでしょうに、あなたはまるで気にしませんね」
「でも、さとりさんは断わらなかった」
 地霊殿の主人は自分の館からけっして出ないと言われている。むろん水蜜もそのことを知っていたが、水蜜にはひそかな自信があった。
「いいでしょう。たまには外に出るのも悪くない」
「では――」
 水蜜はさとりの手をとった。
 その手を握りかえしたさとりは、ふっとちいさな笑いをこぼした。
「聖輦船、ですか。なかなか立派な船ですね」
「実物はてんでぼろぼろですよ」
 さとりが見たのはあくまで水蜜が頭に思いうかべた聖輦船である。およそ千年まえの姿である。地底に封印され、鬼に奪われ、ほうぼうが破れた今の聖輦船ではない。
 水蜜はそれでもこの船をさとりに見せたいと思った。さとりがとりかえしてくれた船だからである。
「その船は空を飛びますか」
「今はまだ。いつか路ができれば、かならず飛びます」
 と水蜜は言った。
 その路とは自分でつくるものなのか、あるとき突然どこからかうまれてくるのか、そこまではまだ考えていない。が、なんの希望もなく生きていたころよりはずいぶんと気持ちは違った。聖輦船がある、という事実が水蜜に活力を与えた。千年、この船は水蜜から離れていた。今は違う。路さえあれば白蓮のもとへ行くことができる。あと一歩のところまできているのである。
「路ですか、……さすがに、わたしにもその路はつくれない」
 さとりがもうしわけなさそうに謝ったので、水蜜は首を振った。なにもかもさとりに頼りきっては生き方に工夫がなさすぎる。
「路の果てに空がある。空に未練のないわたしには、つくれない路なのでしょう」
「未練、ないですか」
「ありません。地霊殿がわたしの楽園です」
 はっきりとそう言ったさとりの目に嘘の色はないようだった。
 地底は地上を逐われた妖怪たちの楽園であると鬼は言った。さとりは地霊殿が自分の楽園であると言った。地底そのものを楽園であるとは言わなかった。じっさいそのとおりだろう。さとりに今ある平穏は地霊殿が与えたもので、鬼の構築した地底世界が与えたのではない。
 水蜜はたちどまった。さとりも足をとめた。
「魔界へ行き、聖を救ったら、妖怪の楽園をつくります。ほんとうの楽園です」
 と言った水蜜は、いどむような気持ちでさとりを見た。
「そのときには、祝電を送りましょう。送り方がわかれば、ですが」
 と、さとりは言って、水蜜の目をかわした。
 水蜜とさとりはふたたび歩きだした。
「あなたは地上に出る。わたしは地底にのこる。さて、そうなって、わたしたちはまた会えるのでしょうか」
「それは、かならず、とは、約束できません」
 水蜜はさとりの顔を見ないで言った。水蜜はおのれの薄情と無力を感じた。さとりに同情し、彼女を嫌忌する地底の妖怪どもにどれほど怒りを燃やしても、けっきょくなにもできないという現実がある。
 さとりは笑ったようだった。雪を踏む音がそれに重なった。
 雪はまばらに降り、まばらにつもっている。その雪を踏むと足音が変わる。踏まれて溶けた雪は、水になって土の下に沈んでゆく。
 ふたりは無言で歩いた。が、静寂というものはない。とりとめもない考えが水蜜の頭にうかんでは消えていった。当然それはさとりに聞こえているだろう。水蜜のまとまらない思考をさとりはどう思っているのか。覚りではない水蜜にはわからない。
 表面上の沈黙は長くつづかなかった。もともと水蜜は思っていることを腹にためておける性質ではない。
「わたしは……。わたしは、さとりさん、あなたを救いたい。あなたを否定する世界をゆるせない。わたしにそれはできない、と諦めているわたしがいます。わたしにはできなくても聖ならきっとあなたを救える。だから、わたしはあなたと一緒にこの地底を出たい。あなたのこの手をにぎったまま、船にお乗せして、そのまま飛び立ちたいんです。いや……わたしはたんに、さとりさんとはもう離れがたい気持ちがあって、わたしは地底を出なければいけないから、さとりさんにも来てほしい、なにも地霊殿を棄ててわたしを選んでくれと言っているのでなくて、いっそみんなで――けれど、あなたは、とても強いひとだから――」
 水蜜は整理されない気持ちを整理されない言葉で吐き出した。
 さとりはまた笑った。くすくすとなにやら愉快げな笑声をあげた。
「わたしもあなたとは離れがたい気持ちがあります。ですが、ずっと地底にいてほしい、行かないでほしい、と言っても、それは詮ないことでしょう。あなたはかならず聖白蓮のもとへ行くのですから。そしてわたしは地霊殿を棄てられない。地霊殿にいるペットたちだけではなくて、地霊殿そのものも、わたしにはもはや離れがたい」
 と、さとりは言った。
「あなたはご自身のことを薄情であり臆病であると思っているのでしょう。違うと否定することも、そうだと肯定することも、わたしにはできませんが、ただし」
 さとりはそこで一度言葉を切って、白い息を吐いた。
「ただし、あなたにはちゃんと勇気がある。その勇気はわたしのためではなく、聖白蓮のためにこそつかうべきだと思いますよ。あなたの心が清らかで優しいことは、彼女の徳にふれていたからでしょう。あなたが今ここにいて、わたしのために嘆いてくれるのも。わたしは聖白蓮に感謝すべきなのかもしれませんね」
 と言った。
 水蜜がさとりのほうに視線をむけると、彼女はやはり笑っていた。

「なるほど、ぼろぼろですね」
 と、さとりは言った。
「これが空を飛ぶ船になるのですか」
「そうです」
 水蜜は飛倉の屋根に飛び乗ると、膝を曲げて手を差し伸ばした。
「あら、船は見せてくれないの」
「それは、あとで」
 水蜜はうすく笑った。さとりの手首をつよく掴んでひきあげた。さとりの体はあっさりと宙に浮いた。怖ろしいほど軽い体だった。正面からその体を抱きとめた水蜜は、さとりを自分のとなりに座らせた。
「昔はよく、ここでこうやって、聖と一緒に星を見ていました」
 と言って水蜜は頭上を見あげた。むろん、地底には天も星もなく、頭上に見えるのは一面の岩とそこにこびりづくヒカリゴケのあわい光だけである。
 白蓮はさまざまな話を水蜜に聞かせてくれた。海に関わること、船に関わること、それに、仏、妖、人のこと。説話はいくつもあって、それらひとつひとつを水蜜は今もはっきりと覚えている。
「その話を、今あなたのかたわらにいるわたしに、聞かせてくれるでしょうか」
「聖ほど話すのはうまくありませんが……」
 そう言いながら水蜜はうなずき、白蓮から教わったいくつかの話を語ってみせた。話が毘沙門天に及ぶと、それまでしずかに聞いていたさとりが、ふと思い出したように、
「寅丸は元気ですか」
 と訊いた。水蜜が寅丸を連れてこないのはめずらしい。
「四日ほどまえにいなくなりました。逃げられたのかもしれない」
 水蜜は苦笑いをうかべた。
「尾はまだ分かれていませんでしたよね」
「ええ」
 寅丸は猫としては長すぎるほど長く生きている。なかば妖怪化していたことはたしかだろう。妖怪になった猫は人家を離れて山奥に入り、ときおり人里におりてきては人を襲うという。寅丸もそうした妖怪になったのだろうか。
「山奥も人里もここにはない。地底で猫又が隠れ住む場所といったら地霊殿です。さがさせましょうか?」
 と、さとりは言った。さとり自身はペットの増減について把握していないので、ペットの管理を担当しているペットにそれを確認することになる。
 水蜜はさとりの提案を断わらなかった。が、ふたりとも本気で寅丸が地霊殿にいると考えているわけではない。
 無事に生きてさえいてくれたら、どこにいてもかまわない、と思う反面、――寅丸はただの猫として生きて死にたかったのかもしれない、という考えがちらとよぎる。妖怪になった寅丸は、もはや水蜜が忘れないかぎりこの世に生きつづけるしかない。
「地底にいるあいだに見つかれば、連れていくつもりですが、もし地底を出たあとに見つかったら、そのときは寅丸のことを、お願いしてもいいですか」
「もちろん――。もっとも、世話をするのはわたしではありませんが」
 と、さとりが言ったとき、ふたりは同時にふきだした。
 笑いをおさめた水蜜は腰をあげ、またさとりに手をさしだした。その手にひかれてさとりも立った。
「船をお見せします」
 と水蜜は言った。
「倉が船になる。なにやら夢のようですね」
 さとりの声がうわずっている。興奮しているのだろうか。
「夢幻ではありません。わたしを海からすくいあげた聖が、わたしにくれた船です。だからわたしは、さとりさんと出会えた。これが夢だとしたら、どうしてわたしたちは出会えたのでしょうか」
 水蜜はおもむろにさとりの腰に腕をまわすと、そのまま抱きよせた。
「ちょっとびっくりするかもしれませんが、がまんしてくださいね」
 と水蜜が言うと、
「びっくりするのは好きですよ。めったにないことなので」
 と言って、さとりは水蜜の胸に頭をかたむけた。
「はは、それはさとりさんらしい」
 水蜜は二三度足を踏み鳴らした。木の音がはねかえってくる。深呼吸して、目をつむり、脳裡に船を思いうかべる。さとりから借りた本のなかにあった、船の艤装をとりいれる。マストを立てて、帆を掛ける。船尾にあった舵は船橋に移動する。その船橋とは飛倉そのものである。ここだけは変えられない。舵の形は車輪のように。櫂ははずさなかった。数を増やした。
「だいぶ、形が違いますね」
「生まれ変わるんです。新しい世界をもう一度つくるためには、みんな、新しくならなくちゃいけない。わたしも変わる。船も変わらなきゃいけない」
 なにより、この地底にいた時間を無意味なものにしたくはない、と水蜜は心のなかで言った。
 飛倉が青白い光におおわれはじめた。その光の上に水蜜とさとりは立っている。光のなかで、空飛ぶ穀倉は空飛ぶ船に形を変えてゆく。
 光が消えた。瞬間、ふたりの足もとから傾斜がなくなった。かわりに平面の甲板がひろがっていた。ただし、この平面にはあちこちに穴がある。
「これが聖輦船です」
 と言って、水蜜はさとりの体を解放した。
「こんな巨大なものが空を飛ぶなんて……とても信じられないわ」
 さとりはうわごとのようにつぶやいた。想像のなかの船と実物の船では存在感に差がある。その差に圧倒されたようだった。さとりは何度も感嘆の息を吐いた。
「空飛ぶ船は風が気持ちよさそうですね」
「上空は風が強すぎてかないません。船内にいたほうが快適ですよ」
「それは残念」
 さとりは笑いを噛み殺すように肩をゆらした。
 水蜜はふいに自分の目に湿ったものを感じた。目をこすると指が濡れた。なぜ、とは考えなかった。感傷の涙はすぐに乾いた。

 それからいくばくもなく、水蜜は地底を去った。

 さとりの周辺がにわかにあわただしくなった。
 水蜜が使った脱出路とは間欠泉であり、その間欠泉は灼熱地獄跡から噴き出したもので、自然にうまれたのではなく、さとりのペットであるおくうの仕業であった。が、おくうはべつに水蜜のためにそうしたわけではなく、偶然が重なったにすぎない。
 とにかく突如噴き出した間欠泉のために地上は混乱し、騒ぎをおさめようと人間たちが地霊殿に侵入し、さとりの監督不足を叱責すべく閻魔がやって来て、最後に無断でおくうに強大な力をさずけた神が菓子折を手に謝罪に訪れた。
 それが過ぎると地霊殿は静かになった。ペットたちの喧騒は以前と変わりなかったが、さとりはふしぎな静寂につつまれた。海の音がなくなったのだとさとりは思った。

 地上に出た水蜜たちは、昔住んでいた寺に行った。
 寺はみごとなほどにさびれていた。山門は崩れ塀は破れていた。おんぼろ具合は聖輦船といい勝負だろう。無惨なありさまに、さては廃寺になっていたのかと一瞬不安になったが、門をくぐってみると生活のにおいは消えていなかった。
「懐かしい、と言いたいところだけど、こうまでひどいと、さすがにちょっとがっかりするわね」
 と一輪は言った。記憶と一致しないのである。
「仕方ないよ。時間が経ちすぎている」
 と言った水蜜も落胆はかくせない。
 この寺はすでに忘却された寺なのだろう。多数の信者がいれば寺の修繕をおこなえたはずなのである。白蓮の教義が絶えているという事実を、仕方ないこととして認めるには、少々苦痛をともなった。
「一輪、あれ――」
 水蜜はとっさに一輪の袖をひいた。
 庫裏から小柄な影が出てくるのに気づいたのである。
「ああ、懐かしい。ナズーリンよ」
 一輪が声をかけると、その影はいぶかしげにこちらを見たあと、やがて驚きに目容を染め、小走りに走ってきた。
「や、や、亡霊があらわれたな」
「ひどい言い草ね、このネズミ」
 水蜜は溜息を吐いた。
「まさか生きていたとはね」
 ナズーリンはすこしも懐かしむそぶりをみせなかった。
「そういえばこういうやつだった」
 一輪も肩をすくめた。
「こちらにのこった門徒は、みな去っていったよ。帰ってきたのは地底に落とされたきみたちだけだな。やれ、めでたいことだ」
 ナズーリンはこれまたすこしもめでたそうではない口ぶりで言った。
「あなたはのこっているじゃない」
「わたしは門徒じゃない。毘沙門天の部下さ。召還命令がないかぎりここを離れる理由がない」
 ナズーリンはこともなげに言ったが、水蜜は彼女が星のもとを去らなかったことにほのかな感動をおぼえた。信仰の絶えた寺にいつづける理由もないはずなのである。須弥山に帰ろうと思えば、たとえ召還がかからなくても、ナズーリンはいつでもそうできただろう。それをしなかったのは、ナズーリンの星への愛情だと水蜜は思った。
「星さんに話がある」
 と水蜜は言った。
「いいだろう。しかし、会ってもがっかりしないでくれよ。きみたちにもいろいろあったろうが、彼女にもいろいろあったんだ」
 ナズーリンはそう言って目をふせると、
「千年は長すぎた」
 と、急にしんみりと言った。
 星は日中の大半を本堂でひとりで過ごしているらしい。
 水蜜たちはそこに案内された。
 この寺の本堂に毘沙門天の像は置かれていない。星が本尊としての役割をもっているので、仏像を置く必要がないのである。法会のときなどは蓮台に星が座し、経があげられる。それが昔あたりまえにあった光景だった。
「本堂で、ひとりでなにをしているの」
 と水蜜が訊くと、
「なにも」
「なにも、か」
 がっかりしないでくれ、と言われた意味がわかった。深い諦めのなかで生きている星が脳裡にうかんだ。その姿はかつてに自分に重なる。
(諦めていたのはわたしも同じだ)
 水蜜はかすかに湧きおこった悲観をしりぞけた。
「すこし待っていてもらおうか」
 ナズーリンが先に入り、仲間の帰還を報せにいった。
 数分待たされた。
 声が聞こえるが会話の内容まではわからない。
 戸がひらかれると、ナズーリンが顔を出した。
「入ってくれ」
 星は蓮台とむかいあって正座していた。大きな体がくるりと回転した。
 ナズーリンが星のうしろに座り、水蜜と一輪は星と対面して座った。
「まずは、おかえりなさい、と言わせてください」
 星の声はぞんがい明るかったが、頬はこけていて、全体的に骨張ってみえる。髪にも艶がなく、眉が青く翳っている。その下にある目もなにやら精彩に欠ける。
「一輪と雲山は変わりありませんね。元気なようでほっとしました。ぎゃくに、ムラサは変わりましたね。別人のようですよ。きれいな目をしている。怨の色が消えた目です」
 怨の色、と言われ、水蜜は頬を掻いた。が、痒いのは背中のほうである。千年のうちのほとんどは怨恨をかかえて過ごした。怨みが薄れると今度は諦めが心を支配した。一輪にはずいぶんと迷惑をかけた。水蜜のなかで変化があったとすれば最後の数十年というわずかな時間のなかでのことである。が、千年を経たのちの、その数十年が、水蜜を地上に押し出した。
「地底での千年は無意味ではなかったということでしょう。それにひきかえ、わたしは千年ものあいだなにもできず、ただ居竦まっているだけでした。おかげで寺はこのありさまです。聖がのこしたものをわたしは保つことができなかった」
 語りながら星は涙をながしはじめた。ふしぎと、水蜜はその涙から、悲哀でなく歓喜をみた。泣くほどに星のこけた頬は瑞々しくまるみをおびてゆくようだった。
「しかし、今日、ムラサたちが帰ってきたことで、わたしの千年にも意味が生じた。わたしがここにいることで船が途方にくれる不運にあわなかったのは、わたしにとっての幸運です。今、わたしたちには、目的がある。その目的の不可を可とするのは、わたしの持つ毘沙門天の宝塔と、ムラサ、あなたの持つ聖輦船の力しかない。わたしはムラサの動かす船を、正しい航路に進ませることができる」
 と言った星は、すっと立ちあがり、宝塔を掲げてみせた。瞬間、青い光が堂内をつつみこんだ。

 青空がひろがっている。
 雲海の上を聖輦船は走っている。
 水蜜の手は舵を握っておらず、数多ある櫂を握る手はひとつもなく、帆はうしろむきに風をはらんでいる。それでも船は前進している。水蜜が最初にそう指図すれば、そのように動く。そういう船なのである。
 船橋の天辺にのぼった水蜜は、舳先をじっと見つめながら、さわやかな風をうけていた。さとりにはああ言ったが、じっさいには体を薄くひきのばした雲山が船全体をおおっていて、風の力はそうとう弱い。聖輦船が飛ぶときはいつもそうだった。水蜜はいまさらそんなことを思い出したのだった。
 雲の上の春は澄んだ色をしている。
 幻想郷の春である。
 人々に忘れられた怪異が最後に流れ着く秘境であるという。
「幻想郷はさまざまな霊気で充ち、天地は渾然として、物事の境界が曖昧であると聞きます。異界との出入口が開きやすい環境と言えるでしょう。まずは幻想郷に行き、そこで魔界への門を開き、進入しましょう」
 と星が言ったので、聖救出の針路を幻想郷にとった。
 星の提案にしたがうことに不安はない。星が聖輦船を正しい航路に進ませると言った以上、水蜜はそれを信じるだけである。不信は失敗しかもたらさないとわかりきっている。
 そろそろ降りようか、と思ったとき、名を呼ばれた。呼び声は下のほうから聞こえた。水蜜は身をよじり、首だけ屋根の上から出した。
 下にいたのは星である。困り顔をあげている。
「どうしたんですか」
「いえ、足もとに穴が多くて、歩きづらいなと……」
 船を見まわっていて、何度かころびそうになったと星は言った。
「すみません。なにせ間欠泉のなかを通ってきたもので、もともとぼろぼろだったのが、さらにぼろぼろになってしまって」
 水蜜は軽い口調で言った。ここは放置するとまずいと判断した箇所は直したが、大部分はそのままにしている。のこりすくない法力をすべて修繕にまわしてしまうと、航行にさしさわりが出る。歩きづらさは慣れるか耐えるかしてもらうしかない。
「ムラサ、すこしお話につきあってもらってもよいですか」
「いいですよ」
 水蜜は屋根から飛び降りた。
「板が破れてしまいます」
 星は苦笑した。
「話っていうのは」
「ここではちょっと。とりあえず下に行きませんか」
 星は水蜜の背をたたいた。
「雲山に聞かれるとまずい話ですか」
「まずいというか、まあ、気まずい話です」
 雲山に聞かれた話はそのまま一輪に伝わる。そうなると不都合なのだろう。
「わかりました。じゃ、行きましょう」
 水蜜は星とともに船内に入った。
「地底では猫を飼っていた、と聞きましたが、……」
 星は水蜜に顔を近づけ、ささやくように言った。
 水蜜はすくなからず驚いた。水蜜は寅丸のことを星に話してはいない。ということは、一輪が星に教えたのだろう。驚いたのはそのことではない。たまたま自身の口から話す機会がなかっただけで、もともとかくしているつもりはなかった。それにしても、一輪から教わった水蜜の話を、星が水蜜に問うことで、一輪と気まずくなることがあるだろうか。水蜜が驚いたのはそこである。
「たしかに、飼っていましたよ」
 と水蜜は言った。
「その猫に、寅丸、と名をつけたのは、ほんとうでしょうか」
 星の口ぶりはどこか不安げであり、目はなぜか泣きそうだった。
「ええ、体の模様が虎に似ていたので、その名前を選びました。あと、性格が猫らしくなくて、おっとりとしているというか、のんびりとしているというか、でも気まぐれというのとは違って……」
「つまり、わたしに似ている」
「そうなりますね」
 水蜜はあっさり言った。
「それで、獣の虎ではなく十干の寅、つまりわたしと同じ寅丸としたわけですか」
 星はなにやら考えこみはじめた。
 水蜜は首をかしげた。
 やはりなにが一輪に知られると気まずいのかわからない。あるいは、このことを知った星が不快を得れば、水蜜は星に対して気まずくなっていたかもしれないが、星はおのれの名をかってに猫に与えられたところで、怒るようなひとではない。じっさい星からその手の不快感や怒りは見てとれない。
「一輪はとても強い女性です。精神が強く、気も強い」
 話が猫から移動した。
「彼女はたんに、地底での活動報告を、たあいない世間話に乗せて語っただけかもしれません」
 けれどわたしは、とその言葉はつづいた。
 星はもはや水蜜を見ていない。
「あなたたちが地底に封じられるとき、わたしもそれに立ち合いました。妖を調伏した毘沙門天の弟子、という肩書きで。地底に沈んでゆくムラサには怨の色があった。すべてを呑みこむ洪水のような烈しさがありました。その怨怒は聖を排斥した人間にではなく、わたしにむけられていた」
「そうです」
 地底に落とされてから、数年は、いかにして脱出し、星をやっつけてやろうか、ということばかりを考えていた。それは不可能だと諦めると、復讐心はまたたくまに冷めた。星のことも聖のこともなかば忘れていた時間が地底では圧倒的に長い。
 星への怨みは浄化されたというより風化しただけとも言える。ただし、この怨みはついに復活することがなかった。猫を拾ったことが要因のひとつにある、と言えば、たしかにそうである。寅丸という猫がいなければ、水蜜は今も地底で鬱屈した日々をおくっていたに違いない。星はそのことも一輪から聞かさているだろう。であれば、
「写経のことも一輪から聞きましたか」
 と水蜜は訊いた。
 星は照れたような困ったような顔で、
「ふしぎなことです」
 と言った。
「わたしは、わたしの知らないところで、ムラサと対話していたのですね」
 星は天井をふりあおいだ。
 星は長身である。
 こうなると水蜜には星の表情をうかがうことはできない。
 泣いているのかもしれない、と水蜜は思った。
(あれ?)
 水蜜は首をひねった。
「けっきょく、なにが気まずいんです?」
 一輪がこの場にいてもいなくても、なにも気まずくなりそうにない会話である。
 星は天井を見つめたまま言った。
「わたしは自分がムラサに怨まれているとずっと思っていました。帰ってきたムラサを見て、もう怨まれていないとわかりました。一輪から猫の話を聞いて考えたのは、寅丸はなぜ寅丸なのか、ということです。ふつう、怨みをいだいている相手の名を、これからそばにおこうとする者に与えないでしょう。つまり、その命名は怨がすでに消えていることをあらわしている。その怨は、猫を拾うよりまえに消えていたのか、猫をきっかけに消したのか、それを知りたかったのです」
 そういうことか、と水蜜は納得した。同時に、そんなことで、とも思った。星はずいぶんと深刻にものごとを考えていたようだが、その深刻さは水蜜の胸にさして響かなかった。
「それを教えてほしいと一輪に言っても、気まずくなりはしないでしょう」
 と水蜜は言った。
「そうでしょうか、きっと彼女は怒るでしょう。彼女の気性から言って、怨みがいつ消えたとか、なにが原因で消えたとかはしごくどうでもよいことで、ただし、それをいちいち気にするようなうしろむきな精神を、彼女はけっしてゆるさないと思うんです」
「んん。……」
 今度は水蜜が考えこんだ。一輪はその性格に豪放さをもっているが、他人の繊細をとやかく言うような狭量ではない。そんなことは寺の仲間たち全員が知っていることではないか。水蜜はそう思ったが、よくよく考えてみると、ひとくちに寺仲間といっても水蜜と星とでは一輪とのつきあいの長さに、ざっと千年の差がある。一輪への見方にも差違は当然生まれる。
 星には一輪がちょっと怖ろしい存在に映るらしい。
「まあ、説教くさいところはありますね」
 水蜜は部分的に共感してみせた。
「それにしても、猫と怨みの消えた消えないの前後が、そんなに気になるんですか」
「もし猫をつかって怨みを浄化しようとしたのであれば、ムラサは猫を愛することを気負ったり、迂遠な愛情表現をしなければならなかったのでは、と不安になり、そうだとすると、それはわたしのせいだと思い、どうしても気になり、こうしてひそかに打ち明けました」
 まさに杞憂です、と星は自嘲をうかべた。
「仲はよかったですよ。ふつうに、うん、ふつうに仲がよかった」
 と水蜜が言うと、くもりがちだった眉がさっとひらき、笑貌がひろがった。
 それを見て水蜜も笑ったが、内心ではぎゃくに暗い影をおとした。その影というのは迷いであり、
 ――寅丸をさがし、地霊殿に行き、寅丸とさとりさんに恩を返すべきではないか。  そんな考えが水蜜の胸をすばやくとおりすぎていった。

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 星の袂がひるがえった。片目でそれをとらえた水蜜は、
(聖を助けるのが、さきだ)
 と、地底にむかいかけた気持ちを抑え、あわてて星の背を追った。
 恩は白蓮にもさとりにもある。片方の恩に報い、もう片方の恩を忘却することに、抵抗がなくはない。が、初志をおろそかにしては、どちらの恩にも報いられない、ということを考えねばならない。身はひとつしかなく、勇気もひとつしかないのである。
 ふたりが甲板に出ようとしたとき、船内に入ってきた一輪とはちあわせた。水蜜と星は一瞬驚いたが、一輪のほうはもっと驚いたらしい。
「びっくりした……。見あたらないと思ったら、こっちに来ていたのね。さがしていたのよ」
 一輪はほっと溜息を吐いた。
 一輪の背後に見知らぬ娘が立っている。
「そちらのかたは?」
 と星が問うと、その娘はひょいと一輪のとなりに立ち、
「東風谷早苗です」
 と名のった。大きな声だが品は悪くない。長い髪が光輝をはなっている。また強い霊威も感じた。敵という感じはしないが、
(なにものだろう)
 水蜜に警戒心が生まれた。
 一輪は早苗の肩に腕をまわし、親しげに笑いかけたあと、
「彼女は神社の巫女さんで、わたしたちを手伝ってくれることになったわ」
 と言った。
 水蜜と星は顔を見あわせた。船内にこもっているあいだに、船上ではなにやらおかしなことになっている。
 八坂・洩矢という二神に仕える巫女であるという早苗は、その神の指示で、謎の飛行船を調査すべく乗り込んだところ、一輪に見つかり、一戦まじえたのち、大いに意気投合し、航海の目的に感動するところがあり、今回の一挙に協力したいと言って、下船せず、ともに魔界にむかうことになった。一輪はそう説明した。が、この説明には不足が多すぎる。けっきょく、甲板でなにがあったのか、よくはわからなかった。
 霊威の正体は八坂と洩矢という二神だろう。水蜜たちが毘沙門天の加護を受けているように、早苗もその二神の加護を受けている。
 早苗は微力を添えたいなどと遠慮した言い方をしない娘で、
「わたしにどーんと任せてください」
 と胸を拳でたたいた。やはり大声で言った。
 はい、おねがいします、と即答することはできない。この航海は帰還を考えたものではない。燃料すなわち法力もわずかで、封印を解くのにつかったあと、法力がどれほどのこるかは不明である。
 もっとも、一輪や星は最初から帰る気持ちがうすく、魔界のどこかに居をかまえ、そこで布教を再開すればよいと思っているふしがある。白蓮が魔界に封印されているはいえ、魔界そのものが閉ざされた場所であるわけではなく、そこにも知性生物がおり、文明の繁栄がある。地上世界に失望した分、新天地を求める気がふたりには強いのだろう。
 ところが、一輪は、この船から部外者の早苗をつまみださず、助力もよろこんでうけいれた。
 なぜだろう、と水蜜は思った。事情をちゃんと知っているわけではない早苗の軽はずみは仕方ないにしても、一輪まで軽率なのは解せない。
 東風谷早苗を護る神が、それほど頼れるということだろうか。今の聖輦船にできない旅の往復を、八坂と洩矢にはできるのかもしれない。が、一輪の説明不足が早苗に対してもなされているとも考えられる。そうであれば、早苗の認識の甘さを訂正させなければならない。
 星が言った。
「この旅は、往だけがあり、復がありません。わたしたちは魔界にとどまることになります。復がないというのは、わたしたちの意志であり、またこの船の技術的な都合でもあります。つまり、わたしたちでは、あなたを幻想郷に帰すことはできませんが、それでも協力してくださるのですか」
 星はなかば威圧する感じで語気に凄みをまぜたが、早苗は意に介さず、また胸を張って言った。
「帰りは自分で帰るからだいじょうぶです。神奈子さまと諏訪子様がとおる道に、道のないところはありませんから」
 また耳なれない名がでてきた。訊いてみると、神奈子は八坂の神のことで、諏訪子は洩矢の神のことだった。人間のような名をつくり、そこに本来の名を姓としてかぶせているようである。
 それにしても早苗は活発な娘である。言葉や表情、こまかな仕草まで、つねに陽気さでつつまれている。
(一輪と気が合うわけだ)
 水蜜はひとつ得心した。
「そろそろ、魔界への扉を開く頃合です」
 と星が言うと、
「さっそくですね。お手伝いします」
 と早苗は言い、さあ、さあ、と星の背を両手で押してぐいぐい進んだ。星は泣きそうな目で水蜜に助けを求めた。水蜜はゆるゆると首をふった。どうにもならない。
 ふたりのあとについて、甲板に出ようとしたとき、一輪が水蜜の耳に顔をよせて、
「あの娘は地霊殿と繋がりがあるわ。よかったわね」
 と、ささやいた。
 水蜜はあっけにとられた。

 魔界のなかでも白蓮が封印されている法界とよばれる区画が、どこにあるのか、じつははっきりわかっていない。が、聖輦船が白蓮の気を見つけてくれるはずなので、一行は船の進むがままにまかせた。白蓮と船にあるはずの繋がりがすでに断たれているとすれば、別の方法をさがさなければならない。
 今のところ聖輦船はなにごともなく進んでいる。
 眼下に街が見えた。水蜜はなにげなくそれを見おろした。高層の建物が多く、道路にはおびただしい数の人とも妖ともわからない物体が往来している。市場もある。
 水蜜はぶきみさを感じた。呼吸を感じない街だ、と思った。呼吸しない街は、どれほどにぎわっていても、死んだ街である。あれら人海はすべてからくり人形の群ではないかとさえ思われた。地底の都市は遠くから見てもその喧騒に満ちた活気がありありとわかったが、ここはそうではない。こんなところで暮らすくらいなら、あの落ちぶれた寺でひっそりと過ごすほうがましではないか。この地にとどまって布教するという、星や一輪がもっている展望に、水蜜は心がはずんでゆかない。
 早苗の助力があれば帰還が可能であるとわかったことも、水蜜のなかに魔界への執着を生まなかった。布教する本拠地がどこそこでなければならぬ、ということがないのなら、魔界である必要もないのである。
「魔界の空気は合いませんか」
 気がつくと星がとなりに立っていた。
「空気が合わなくても水が合えばかまいませんよ。川か沢はないかな。水を見たくなりました」
 と水蜜は言った。海は期待していない。おそらくこの付近にはないのだろう。潮の薫りがまったくしない。魔界の天は赤いので、海も赤いかもしれない、と思った。はるか南の大陸に、赤い海があるとさとりに教えてもらったことがある。その海から見える天も赤いのだろうか。
「なるほど、水は大事ですね。さがしてみますか」
「いえ、あとで、いいです」
 そう言いつつ、水蜜は街に降りてみたくなった。外から見ただけではわからないことはある。街に入ってみれば、ぞんがい気にいるかもしれない。地底の街は最初のほうこそあの活気に憧れたが、じっさいに触れてみるとうるさいだけの、水蜜にとって苦手な街になった。魔界の街にもそうした印象の逆転があるかもしれない。
「ナズーリン、遅いですね」
 所用で船を離れてからずいぶん経っている。
「ナズーリンについては心配いりません。彼女はぬけめないので、ちゃんと間に合ってくれるでしょう」
 と星は言った。
 風が吹いた。
 水蜜はその風に息苦しさを感じた。
「空気が変わった。まもなく、法界ですよ」
 その声にはじかれるように水蜜は船橋に走った。かたちとしては、法界に背をむけたことになる。
 背に自分のものではない足音が聞こえる。首をまわすと、星が船首にむかって走っていた。水蜜と星とでは役割が違う。だから、走る方向も違う。そのあたりまえのことを、水蜜は胸の高鳴りとともに感じた。いよいよだ、と思った。興奮していることがよくわかる。
 船橋に飛び乗った水蜜は、船首にいる星の背をみつめながら、興奮を鎮めるように拳を握りしめた。一度かがんで、その拳を屋根にあて、法力の流れを船首の一点にゆくように換えた。この法力は船首に達すると、上昇し、星に宿る。
 船首にいる星のうしろには一輪、雲山、早苗の姿もある。濃い影をのばしている。影がふえた。ナズーリンが星のそばに歩みよった。ふりかえった星の笑みが見えた。ナズーリンはきっちりと仕事を果たして間に合わせたようである。ただし、水蜜はその仕事の内容は知らない。
 水蜜はひとり飛倉の上に立っている。
 赤い天が黒く染まりつつあるのは、夜が降りようとしているためなのか、ただ法界の天が黒いのか。
 星の袂がひるがえった。宝塔が掲げられた。宝塔に早苗の手が添えられた。
 無数の光の筋が黒天にひろがった。
 扉が開いた。かたちをもたない扉である。光のむこうから別の光があらわれた。その光から、長い髪がのぞかれた。たゆたう髪に、それから、眉、睫、鼻、唇、……。まばゆい光のなかにある、懐かしいおもざしが、しだいにはっきりとした輪郭をなぞってゆく。
 水蜜は船橋から飛び降りた。
 ――聖がいる。
 そんな声が、頭のなかでくりかえし鳴り響き、水蜜を急きたて、走らせた。
 白蓮はすでに舳先に降り立っている。
 水蜜はみなから遅れて歓喜の輪に入った。
 みな、泣いている。ナズーリンでさえ、涙をうかべている。早苗は感受性が強いのだろうか、もらい泣きに大いに泣いている。これほどの大きな泣き声は泣き虫の星でさえあげていない。
 胸から沸きあがる熱を、こらえきれないのは、水蜜も同じである。
 やわらかくほそめられた目が、水蜜を見つめている。その目を直視することができなかった。うつむいた水蜜は、肩をふるわせ、とめどもなく涙を流した。
 胸に抱きよせられた。やさしい手つきであった。まぎれもない白蓮の手であった。水蜜はその手をとり、力いっぱい握りしめた。このやさしい手に救い上げられた自分がかつていた。およそ千年まえのことである。それから五十年たらずで別離の不運にみまわれた。しかしながら、不運は、この瞬間にすべて洗い流されたと言ってよい。
「聖……」
 嗚咽のあいまにそれだけが口からもれた。
 ここまで千年かかった。そう言葉にすれば、それだけの短さでしかない。が、そこに至る想いは、万感であるに違いなかった。

 空気を破る大声があがった。
「あのですね、お話があるのですが、いいですか」
 目と鼻を赤くした早苗が、挙手をして言った。
 白蓮はかすかに眉をうごかした。そういえば憶えのない顔がまじっている、と気づいた。このような娘が自分の弟子にいただろうか。
「あっ、わたしは守矢神社の東風谷早苗って言います。初対面ですので、べつに白蓮さんが忘れているわけじゃないです。だいじょうぶです」
 と早苗は早口で言った。
「彼女は、道中、わたしたちを助けてくださったのです」
 と星が補足した。
「ああ、それは……。ありがとうございます」
 白蓮は早苗にむかって頭をさげた。礼物を贈りたいところだが、あいにく手もとにはなにもない。所属はわかっているのだから後日そこに届ければよいだろう。早苗は礼物のために助力したわけではなさそうなので、白蓮はそれについては言わなかった。言えば早苗の善意に傷がつく。
 早苗は胸のまえで両手をふった。早苗は礼には興味がないし、目下においたひとつの事柄にしか意識がゆかない性格をしている。彼女は今言いたいことを言わずにはおられず、今やりたいことをやらずにはおられないのである。
「それで、お話なんですがね、船長さん地底に好きなひとがいるらしいんですが、告白もお別れのあいさつもしないで地底から出てきちゃったらしいんですよ」
「な、に――」
 水蜜は白蓮にあずけていた体を起こし、一輪を睨んだ。早苗にそんなふざけたことを教えた者など一輪以外に考えられない。
「一輪、この子に、なにを言った」
「いや、なにって言われても……、困るわ……」
 一輪は目をそらした。一輪が早苗に教えたのは、水蜜には地底に恩人がいて、それが地霊殿の主人ということと、散々世話になっておきながら、別れのあいさつもなく黙って地底を出てきたということである。好きなひとだの告白だのは早苗が思考を飛躍させた結果である。
「まあ、ムラサは好きなひとがいるのね」
 まにうけた白蓮が口もとを手でおさえながら言った。
「いや、その」
 いません、とは言えない。それは嘘になる。しかし、います、とも言えなかった。地底にのこした未練は、あくまで水蜜個人の事情であって、そのために白蓮や仲間をわずらわすのは、水蜜も本意ではない。報恩を忘れたわけではないが、今このとき考えることではないと思っていた。したがって、このことは、水蜜が口をとざせば、だれも口にしないことのはずだった。
 はずなのだが、堂々とそれを口にする娘が、外部にいたのである。
「で、船長さんの好きなひとっていうのが、なんとわたしの知人なんですよ。すごい偶然ですよね。だから、わたし、ふたりの仲をとりもつことができると思うんですね。だから、ちょっと、船長さんを地底に連れていってもかまいませんか」
 早苗はそんなことを言って、水蜜の腕を抱えこんだのだから、今すぐにも出発する気でいるらしい。
 早苗の強引さに、みな驚き、困惑し、星が手を伸ばして、水蜜をとりかえそうとしたが、早苗はひょいとかわして、
「だって、このままなのはよくないじゃないですか」
 と言うのである。
 水蜜はむすっとした。
 ――そんなことはわかっている。
 と水蜜は言いたい。水蜜とてさとりに会いたいのである。それを、時宜ではないからとあえて放念しようとしていることを、この場でひきずりださないでほしかった。
「よくないわね、ムラサ」
 と言ったのは白蓮である。
「聖――」
 水蜜は抗議の声をあげた。白蓮にまでそんなことを言われてはかなわない。
「さとりさんからうけた恩を忘れるつもりはありません。でも、今はそれを考えるより聖と聖の教えを布くことを考えるときなんです。さとりさんにも、そう言われて、わたしは心を決めて、地底を出たのに……」
 水蜜の声が萎えていった。さとりに言われたからそうしたのだ、とは、なんとなさけない動機であることか。
 水蜜は腕にむなしさをおぼえた。いつのまにか、早苗の手が離れている。
「さとりさん、というのね、ムラサが恋をしている方は」
 微笑をたたえた白蓮は水蜜の髪をなでた。
「恋か、どうか、は」
 水蜜はうつむいた。
 白蓮はまた水蜜を抱きすくめた。水蜜の頭の上に白蓮の顎がのった。ぽん、ぽん、と背をたたきながら、
「お名前からすると、覚り妖怪かしら。これはたいへんな相手に恋をしたわね。覚りが地底にいるというのは、地上にいることに不都合が生じたからでしょうが、地底での暮らしぶりはどのようなものかしら。覚りは人間よりも妖怪に怖れられたと言われているし、地底に人間はおらず、妖怪の世界であることを思えば――、……ふむふむ、ムラサはそれに同情したのね。その同情がさきにあったせいで、自分の恋慕の気持ちを疑っている」
 と、自分で見聞きしたかのように、よどみなく言った。
 そのとおりだと認めるのはくやしいが、意地を張る気にもなれなかった。水蜜は、
「はい」
 と喉を鳴らすように答えた。
「では、帰りましょう」
 水蜜の体を離した白蓮は、あっさりとそう言った。
「玄天黄地が、わたしたちの暮らす世界です。祝賀と諸々の礼は、そこで盛大におこないましょう」
 黒も玄も「くろ」という色を指すので、法界の空も玄天と言えなくはないが、この場合、玄は宗教的な意味あいが強く、玄は北方の色で、ようするに玄天とは、北方多聞天、すなわち毘沙門天が守護する天なのである。毘沙門天を信仰する彼女たちにとって、玄天の下こそが楽土であった。
 白蓮のゆたかな声を聞いた水蜜は、ふしぎな感覚におちいった。
(さとりさんとは似ても似つかないな)
 と思ったのである。さとりに初めて会ったとき、彼女が白蓮に似ていると思ったが、白蓮はさとりに似ていない。この感覚のずれは、どういうことだろう。
 ――恋の差、かな。
 口のなかでつぶやいてみた。なにを言っているんだ、わたしは。つぶやきがおかしくてたまらなくなって、水蜜は気づかれないように苦笑した。
 そのとき――。
「おや?」
 遠くから、あるいは近くから、どこからか、叫び声が聞こえた。
 聞いたのは水蜜だけではない。全員がその声のする方向をさがした。だれかの名を呼んでいるように聞こえる。近づいてくる。
「ムラサ――」
「わっ」
 水蜜は衝撃を受けとめた。
 悲鳴とともに水蜜に飛びついたのは、ぬえだった。
「え、ぬえ? え、なんで、こんなとこに」
「知らないよ! ここどこよ!」
 泣きじゃくりながらぬえは水蜜を罵倒した。
「このバカムラサ! 黙ってどっか行こうとしやがって! こっそりついてったらこのざまよ! 責任とれ! バカ!」
「そりゃあ、あんまりだよ」
 と言った水蜜の頭を、一輪がはたいた。
「いたっ」
「だから、ちゃんとあいさつしていけって言ったのに、あんた聞かないんだから」
 呆れた果てた顔で言った。
「いや、だって、なんか、会ったら、地底出たくなくなるかもって、思ったから……」
「わたしまでまきこんで、不義理をさせるから、こうなるのよ」
 水蜜は言いかえせなかった。一輪が正しい、と心では認めているのだろう。
 そのやりとりを見ていた星が、
「これはいけませんね」
 と白蓮に言った。
 白蓮は微笑み、ちいさくうなずいた。
 いつまでも魔界にとどまっているわけにはいかない、ということである。

 まことに奇妙な寺が幻想郷に誕生した。
 本尊も住持もその下に居並ぶ高弟もみな妖怪という奇妙さである。またこの寺は地鎮法(あるいは地鎮祭)を地神である洩矢諏訪子の好意を借りておこなったのだから、奇妙奇天烈というほかない。
 幻想郷の成り立ちと、その外の世界の現状を知った白蓮は、ここに根を張ることに決めた。幻想郷の外では妖怪の存在が消えつつある。そして消えた妖怪はなんらかの理由でこの地に流れ着く。つまり、自分の教義を必要としている者たちは、現在はほとんど幻想郷にいるとわかったのである。
 幻想郷は魔界よりもずっと地底に近い。地上と地底の交通路を守矢神社が整備したのである。とくに地霊殿へは直通の昇降機が設けられているので、早苗の案内があれば十数分で地霊殿に行ける。
 その早苗に水蜜は、
「年内には地霊殿にうかがうと、さとりさんに伝えてくれませんか」
 と頼んだ。
「年内ですか。いつごろになりますか」
「秋か、冬か、そんなところです。ここでの生活がおちつくまで、まだ時間がかかると思うので。でも一年もお待たせするつもりはないです」
「わかりました、それも伝えておきます」
 早苗はこころよく諒承してくれた。
 ――秋か、冬か。
 水蜜は早苗に言ったことを反芻した。
 季節はすでに春の霞をまぬかれている。夏のあいだに命蓮寺の地位を不動のものにしたい。そう考えているのは水蜜だけではなく、星も白蓮も初めが肝要だという認識は共通しているようで、そのためには、
「親しむに越したことはありません」
 と星は言い、幻想郷のためにさまざまな行事を起こした。聖輦船もその行事にとりいれられた。聖輦船は遊覧船として幻想郷の空を飛ぶようになった。
 運航日には甲板がさまざまな笑顔であふれている。人間もいれば妖怪もいる。
 船橋の上からそれをながめている水蜜は、なんとなく寂しくなった。さとりがいないので寂しいのだろう。
(このにぎやかさのなかに、あのひとの笑顔を加えたい)
 と水蜜は思った。さとりは地霊殿から出ないと言われているが、自分が誘えばどうだろうか。地底での最後の冬に、水蜜がさしだした手を、さとりはとってくれた。水蜜は自分の恋情を疑っているが、さとりからの愛情は信じている。今度も水蜜の手をとってくれるのではないか。
 水蜜は、新生活の慌ただしさが過ぎてゆくのを、華やかな空想のなかで待った。
 暑気が盛んになったころに早苗がやって来た。
 参道を掃いていた水蜜は、手をとめ、箒を立てた。
「暑いですねえ」
 と言って早苗はつばの大きな帽子をとり、ぱたぱたと顔を扇いだ。
「先日、ここよりさらに熱い灼熱地獄跡に行ったんですよ」
「知っています。守矢神社はずいぶんと評判が悪いですね。なにか事件が起こると、守矢神社の仕業か、と噂されます」
「改革にはそういう悪評はつきものですからね」
 早苗はあっけらかんとしている。その悪評をまともにうけるのは、人里に降りてくることが多い彼女だろうに、気にしているようすはない。よほど胆の据わった娘なのだろう。水蜜ら命蓮寺勢は守矢神社に悪い印象はもっていない。守矢神社の進める改革のおこぼれにあずかるかたちで、白蓮を救出できたのである。守矢の二神と早苗にも恩がある。
「さとりさんにお会いしまして、近況をちょくちょく話したんですね。船長さんの話題もあがって、それでわたし知っちゃったんですけど、おふたりの出会いは雪降る冬の日だったんですね」
 ロマンチックですねえ、と早苗は言った。その話には誤解がある。
「いえ、雪のない日をえらんで訪問しました」
「あれ?」
 早苗は首をかしげた。どうも早苗には、聞いた話に想像の翼をつけて羽ばたかせるくせがあるらしい。
「つぎに地霊殿へ行く予定はありますか」
「近いうちに神奈子さまのお使いで行きますよ。伝言ですか」
「秋にお会いしましょう、と」
 と水蜜が言うと、
「あっ」
 と早苗ははしゃいだ声をあげ、
「わかりました。そのときに、さとりさんから都合のよい日を訊いておきますね」
 と、親切をみせた。
「それにはおよばないと思います」
 と言いかけた水蜜は、のどもとでその言葉をとりさげ、おねがいします、と言った。
 これまで水蜜は、さとりの都合を考えて地霊殿に行ったことなど一度もない。これは水蜜にかぎったことではなく、地霊殿を訪れたい者は、いつでも自由に訪れてもかまわない。あそこはもともとそういう邸で、ただし、さとりが嫌われているために、客がめったに来ないだけの話である。
 守矢神社と地霊殿が業務上の繋がりをもったということは、ひとの往来が増えたと考えられる。さとりも忙しくしているかもしれない。以前と同じ調子でおしかけるわけにはいかないと思いなおした。
 早苗が帰ったあと、水蜜は箒をもてあそびながら、いよいよか、と思った。
 一年とかからずに、それもたやすく再会できることになった。白蓮との千年の別れを思えば転瞬のことだろう。が、それでも水蜜は、これからの一夏が途方もない長さであるように感じられた。一日の重みもかつてないほど感じたということでもある。
 晩夏の夕に早苗が報告にあらわれた。
「十一月以降であれば、いつでもいいそうです。秋のあいだは忙しいようです」
「そうですか。……」
 水蜜は肩をおとした。
「さとりさんから伝言がありますが、聞きますか?」
 早苗は水蜜の落胆をなぐさめるように言った。
 水蜜はすこし眉をひらいた。生でないにしても、さとりの声を聞けるのはうれしい。
「聞かせてください」
「ちょっとよくわかんないんですけどね」
 と早苗はまず言ってから、
「寅丸と一緒に待っています、って――なんでしょうね。寅丸さん、あそこのペットのなっちゃったんですか?」
 早苗の疑問に、水蜜は思わず唾をふきだした。
「さあ、聖からはなにも聞いていませんが……」
 水蜜はとぼけてみせた。事情を話すとまたおかしな方向に飛躍されそうである。しかし、行方知れずとなっていた猫の寅丸が、さとりのかたわらにいることがわかって、水蜜はひそかに胸をなでおろした。

 十一月になって、水蜜は早苗にともなわれて、地霊殿にむかった。さきにふれた昇降路を降りてゆくと、灼熱地獄跡があり、今そこには間欠泉地下センターという施設が置かれている。そこから地霊殿までは指呼の距離である。
 地霊殿には幾度となく足をはこんだが、その管理下にある灼熱地獄に入るのはこれが初めてだった。それも裏口から入るようなかたちである。
 水蜜はしきりに服の袖で汗をぬぐった。この灼熱を抜けると、さとりに会える。地底を出るまえ、その最後に、水蜜は路に積もる雪を踏みしめながら地霊殿を訪ねた。それから一年が経った。
 また昇降路があった。
「今度はこれを昇ると、地霊殿の中庭に出ます」
 と早苗が言った。
 中庭についた。
 涼しい風がながれている。
 見知った風景が水蜜の視界にひろがっている。
「じゃあ、お邪魔虫は消えますね!」
 と言った早苗は、風のようにすばやく去った。
「お邪魔虫って……」
「あら、わたしはお邪魔でしたか」
 早苗の声ではない。早苗の声はとにかく大きい。が、この声はもっとちいさく、抑揚がない。声は背後から聞こえた。水蜜はふりかえった。さとりがいた。
「おひさしぶりです」
 その声が懐かしい響きをもって水蜜の耳を打った。
「ほんとうに……」
 ふるえた声で言った。心臓が高鳴っている。全身がしびれるような感覚がある。この感動は言葉ではとうてい言いあらわせない。
「なにも言わずに地底を去って、すみません」
 水蜜は頭をさげた。
「わたしはかまいませんよ。でも、ぬえにまで黙っていたのは、失敗でしたね。そのあと彼女が仏門に入ったのには、驚きましたが」
「あいつなりに聖を尊敬しているみたいです。掃除も修行もまじめにやっています」
 まじめからはほど遠いのがぬえの性格である。なにかに懸命にうちこむ姿は、いかにもぬえにそぐわない。が、そうなっている。
「聖白蓮とは、それほどの僧ということですね」
 さとりはしみじみと言った。
「会ってみますか。いや、会ってくれませんか」
 と水蜜は言った。会う、とは地霊殿ではなく、命蓮寺で会う、ということである。
「いずれ、と答えておきましょう。わたしの関心は今はそこにはない」
 さとりは水蜜の胸を指でつき、
「わたしの関心はもっぱらここですよ。おきざりにしないでほしいものです」
 と言った。
 水蜜の頬がさっと赤くなった。その赤面をさとりは両手でつつんだ。
「こういうことは、ムードが大事だと守矢の巫女に言われましたが、なにぶん覚りなもので、こんな言い方しかできません。――さて、水蜜、告白もせずに地底を去るのははなはだよくない、と彼女に責められたそうですが、知ってのとおりわたしは覚りですから、じつはもうあなたの想いを聞き入れている、と言うとおかしいでしょうか、だから、わたしのほうからそれに対する返事をしたいと思いますが、告白というものが言葉によってなされるのであれば、わたしはまだ水蜜からなにも告げられていないわけですから、返事はいったん保留します。ただし、わたしは気がみじかいので三分しか待ちません」
 さとりは一気に言うと、両手をさげ、胸もとから懐中時計をとりだした。
 水蜜は完全に混乱している。その混乱を鎮めるのに三分ではとてもたりない。
「あと八秒」
 さとりは無情な声をはなった。
 水蜜は時計を持つさとりの手をおさえこんだ。
「待ってください。まだ一分も経ってない」
「わたしはせっかちなんです。はやくしてください」
「そんなこと言われても」
 なにをどう告白しろというのか。水蜜はべつにさとりと添い遂げたいとか、体をかさねたいとか、そういうことは全然思っていない。ただ、一緒に時間をすごして、話をしたり、心を読んでもらって、さまざまな感動を共有したり、したいだけである。これまでどおりの関係をつづけたいのである。今日とて、なにかしっかりとした目的があったのではなく、たださとりに会いたいから会いにきたにすぎない。だいたい、寅丸と一緒に待っていると言っていたのに、その寅丸はどこにいるのか。
「お邪魔虫は退散していますよ。出歯亀はいくらかいるみたいですが」
 さとりは冷えた目で周囲を見わたした。
 水蜜は驚いて左右を見た。たしかにそこかしこから視線を感じるような気がする。
「言いますか、言いませんか」
 と言われて、水蜜は観念した。
「言います。三分待ってください」
「じゃ、待ちましょう」
 さとりは今度はほんとうに三分待った。三分後、さとりは時計を胸もとにもどした。
「これからも、仲よくしてくれると、うれしいです」
 ひねりだしたせいいっぱいの言葉がこれであった。そういう告白をさとりは嘆きも蔑みもしなかった。
「喜んで」
 とだけ言い、あいかわらず赤い水蜜の頬に顔を近づけた。
 頬に唇がふれた。唇はすぐにはなれた。
「え――」
 呆然とする水蜜の唇を、さとりは指でおさえ、自分の唇にも指をあて、
「ここ、は、あなたからしてほしいですね」
 と言って笑った。
 水蜜はさとりの両肩をつかんだ。頬から赤みが消えない。ということは、水蜜の頭は混乱したままである。
 肩をつかんで、それからなにをするわけでもなかった。唇をむすんだまま、水蜜はずっとさとりを見つめた。顔をそむけたい心をかかえたまま、見つめつづけた。
 三分待つ、とはさとりは言わなかった。
 時計をしまいこんだのでもう時間は計れない。鼓動は早すぎてあてにならない。
 長いのか短いのか、まったくわからない時の間隙があった。
 やがてふたりの唇がふれあった。

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