かささぎのきもち

 天体観測が趣味だという彼女から、星をみませんか、と誘われた。雨の降りやまない六月なかばのことである。雨天に星が見えるはずはないから、それはすぐにも実行されるものではなくて、梅雨があけて空もからりと晴れた時期になったら、という前提をおいて彼女は声をかけたのだろう。
 すくなくとも美波はアナスタシアの言葉をそう受けとめた。ところが、どうも、そうではないらしい。ひごろ温和な彼女にしてめずらしいほど美波を急かすのだ。その日の仕事が終わるや、アナスタシアはすばやく美波の手をとり、天体観測に連れてゆこうとした。
「えっ、いまから?」
 美波は驚いた。時間のことではない。いま、そとでは雨が降っている。
「そとではないです。なかで見ます。すこしまえに見つけたんです」
 興奮気味に言って、アナスタシアは美波の手を引いて小雨の下を走った。
 空の色は暗いが、れっきとした日中である。むろん星は見えない。ぶあつい雲のはるか天上にひろがっている星は、たとえ夜になっても地上からは見えないだろう。
 雨足は弱いが走ってしまっては傘がほとんど用を為さない。けっきょく服や髪のほうぼうが濡れる。美波はそれを気にしたがアナスタシアはまったく気にしていないようだった。
 ――なかで見るって……。
 野外でなく屋内から見るということだろうか。しかし、空が晴れていなければけっきょく星は見えない。
 目的地ははっきりとしているはずなのに、それがどこかわからないというのは、なんとなくいごこちがわるかった。が、アナスタシアの説明不足を嘆いてもどうしようもない。詳しい話を聞き出そうとしたところで、いまの彼女の耳にはとどかないだろう。美波の手を掴んでいながら、アナスタシアの心は美波の近くにはなく、いずこかに見る星にむかっている。
「планетарий――」
 細い雨にまぎれて、アナスタシアの澄んだ張りのある声がした。聞きとりづらかったのは雨音だけのせいではなく、聞きなれない語音であったためだろう。つまり彼女のもう一つの母語、ロシア語だ。ただし、てんで意味不明というわけでもない。美波は簡単なロシア語ならすこしわかる。アナスタシアの口からときおり熱をもって洩れ出るその言葉を美波は何度か聞いたことがあった。
「プラネタリウムに行くの?」
 近い音をさがせばそれになる。美波が言うと、アナスタシアはきゃっと肩をゆらして笑った。足をとめ、ふりかえって、両手で美波の手をにぎりしめると、
「そう、です。そう。言っていませんでしたね。イズヴィニーチェ、ごめんなさい」
 と言って頭をさげた。濡れた髪からしずくが散った。
 目的地を教えなかったのはべつにサプライズのつもりではなかったらしい。ただのうっかりだったようだ。
 そこからは走らずにゆっくりと歩いた。

 アナスタシアが見つけたのは、古い小さなプラネタリウムだった。
 かつては繁華街として栄えたが、土地の再開発のために、喧騒の片隅に追いやられ、いまはひとの往来もすくなくなった通りを歩きすすんでゆくと、そのプラネタリウムに辿り着いた。
 席はがらがらだった。アナスタシアがさきに進み、手招いたところに腰をおろした。
 美波は明るい天井を見あげた。むろん、星はまだ見えない。
 はじまるまでのあいだ、たあいない世間話をして時間をつぶした。
 アナスタシアは途中、すこしうつむきかげんになり、深く長く考えこんで、どうやらそれは、言葉をさがし、慎重に選んでいるようで、美波はそれを待っていたのだが、そのうちアナスタシアの目がふっと美波にむけられ、
「とても、すてきな、プログラムがあるんです。ミナミにも、見てほしいです。だからいっしょに、来てもらいました」
 彼女はそう言った。ロシア語をつかわず、自分の知っている言葉で、美波にもわかる言葉で、つたえようとした意図を、美波は感じた。それだけアナスタシアはそのプログラムが好きで、その気持ちを美波と分かち合いたいのだろう。
 女性の声でアナウンスがはいった。
 館内が暗くなった。
「あ、はじまるみたいね」
「ダー」
 みじかい返事はすでに興奮をふくんでいた。
 天井の宇宙がめまぐるしく回る。ひとまず季節を一巡するらしい。スタートは春におかれた。ナレーションが映し出される春の星にあわせて、その星までの距離や、星の質量、あるいは星にまつわる伝承を、あんがい詳細に説明してゆく。冬にいくまで時間がかかりそうだと美波は思った。
 ナレーションがとぎれる瞬間をみはからって、アナスタシアが補足をいれた。より理解できるように、そういう気づかいをしてくれたのだろう。しかし、プログラムがすすむにつれて、アナスタシアの舌は熱をおび、ロシア語が頻繁に出てくるようになった。それを日本語で言いなおすこともしだいにやらなくなって、美波はかえって理解が遠のいた。
 しかし、アナスタシアの情熱はつたわってくる。
 プラネタリウムを出たあとで、もう一度教えてもらおう、ついでにロシア語も。美波は人工の星を見ながらそう決めた。
 空が夏になった。
 この季節の星といえば、なんといっても夏の大三角形である。
 七夕伝説にある織姫と彦星、それにかささぎが、この三角形を形成している。
 ナレーターは天文学的な話をしなくなった。終始七夕の話をしていた。伝説そのものがとてもロマンティックであるし、情緒に重きをおいたナレーションも、すてきといえば、たしかにすてきなプログラムだと思った。
 夏の大三角形のあとも、しばらく夏の星が天にまたたいていた。天の川もかけられた。
「きれい……」
 と、美波はすなおな感動を口にした。じっさい、濃紺の夜空にながれる天の川はこの世ならぬうつくしさに思われた。
「ヴェーガとアルタイールは」
 アナスタシアが、ぼそりと、ちいさな声で言った。
 美波にむかって言っているのか、独り言なのか、にわかには判断できなかった。
「アルタイールとヴェーガは、デニェーブがいるから、繋がれるんです。年に一度、七月七日に、会えるんです。デニェーブが、ガラクーチカ天の川に橋を架けるから」
 独り言のようだった。そして、美波に言って聞かせているようでもあった。
「デニェーブは、橋を架けているとき、どんなことを思っているのでしょう。なにも考えてないのでしょうか。仕事を、してるだけ?」
 かささぎが橋を架けなければ、織姫と彦星は年に一度も会えない。七夕伝説は成立しなくなる。夏の大三角形で一際有名なベガとアルタイルは、デネブがいなければなにもできない。
 かささぎが悪心を起こせば七夕伝説はそこで終わる。ただの悲劇として幕を閉じる。ベガとアルタイルはそれをちょっとでも考えたことがあったのだろうか。疑わないのは彼らが優しい星だからなのか。
「悪心」
 と、アナスタシアはめずらしくはっきりと言った。日常つかわれないような言葉を、ロシア語でなく日本語で直接言った。
 秋の夜空を見あげながら、美波はふと、この四歳年下のパートナーの心を、急に遠く感じた。
 およそアナスタシアに似つかわしくない「悪心」は、ほんとうは違う言葉で言いたかったのかもしれない。たとえば、
「恋心」
 だとか――。美波は言った。
「かささぎが恋をしてしまったら、橋は架けられなくなってしまって、織姫と彦星は会えなくなるかもしれないね」
 ダー、といういつもの返事は聞こえてこなかった。
「сорокаはいやです」
 と、ちいさな、ほんとうにちいさな声でアナスタシアは言った。сорокаソロカはたぶん、かささぎのことだろう。
 美波は視線をおろしてアナスタシアのほうを見た。澄んだ瞳が美波をじっと見つめている。
 かささぎはいやだ、と言ったアナスタシアの瞳には、アルタイルとベガが映っているのだろう。そして、そのどちらかに美波をあてはめているのかもしれない。
 ふと、脳裡にうかんだ翠と蒼の優美なまなざしがあった。べつに恋い焦がれているわけではないが、憧れのひとではある。おなじ想いをアナスタシアにむけたことはない。彼女は仕事上のたいせつなパートナーではあるが、同時にかわいい妹みたいなものだという気分がぬけていない。なにせ、四歳も年下のこどもなのだから。
「わたしは、織姫で彦星でも、ちょっといやかな」
 ――だって、さびしいじゃない、一年にたった一度しか会えないなんて。そう言うとアナスタシアは口をつぐんでしまった。
 かささぎはそれを見ていることしかできません、と彼女は言いたかったかもしれない。

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