果たして彼は今日が結婚記念日であることを憶えているのだろうか。自分の伴侶が芸能界を引退して五年が経っていることに気づいているだろうか。あいかわらずプロデューサーとして忙しい日々を送っている彼は――
11時16分。
スマートフォンの画面はたしかにそう刻んでいる。
美波は溜息を吐くとテーブルに突っ伏した。
今日は早めに帰れると思います、と出勤前の彼は言った。確かに言った。言ったのだ。
その早めというのは具体的に何時くらいを指しているのか。これまでの傾向からして遅くとも10時くらいで、日付が変わる前には帰って来るだろうと思われた。それくらいの時間であれば(一般家庭からするとオヤ? と思われるかもしれないが)家で一緒に食事をとる流れになるのだ。げんに彼は先に食べていてくださいとは言わなかった。でも。
11時20分。
彼は帰って来ない。ああ、刻々と明日が近づいている。美波はまた溜息を吐く。
結婚記念日のことを憶えているかどうかはわからない。わからないけれど、結婚記念日に一緒に夕食をとれる、と美波は喜んだ。今朝はそうだった。
昨年のこの日の朝はどうだったっけ。記憶を巡らせてみたけれど思い出せない。もしかしたら一度も結婚記念日を祝ったことなんてないのかもしれない。それが普通の夫婦だったのだろうか。それから自分は毎年この日は、こんな沈んだ思考をしているのではないか。美波は過去を振り返ってみた。やっぱり思い出せない。自分にとって都合の悪い現実があって、つとめて忘却しているのかもしれない。
テーブルの上には冷め切った夕食。いつもよりちょっと豪華な料理。美波がんばりました。記念日だからね。でもまだすこしも手をつけられていない。先に食べてしまおうかと何度か思った。でもできなかった。彼はそう言わなかったじゃないか。彼は一緒に食べるつもりなのだから、ちゃんと待って、一緒に食べよう。そう自分に言い聞かせる。
スマホをいじる。写真フォルダを開く。
結婚式の写真。新婚旅行の写真。新居での生活の写真。結婚前の写真は1個もない。スキャンダルになるから、こっそり、ひっそり、付き合いを深めていた。
新婚旅行先は国内の温泉宿だった。視線を浴びるから国外のほうが、と周りに勧められたが、なんとなく近場のしゃれた旅館にある温泉にでも入って、ゆっくり過ごしたい、新婚夫婦の意見の一致があって、電車に揺られながら箱根に行ったのだった。人目は案外気にならなかった。
かつて蘭子から禍々しいとまで言われたぎこちない笑顔がそこかしこにある。自然にこぼれでただろう笑顔もすこしまざってる。どちらが「彼らしい」笑顔だろう。
どちらも美波にとっては愛しい笑顔に違いない。けれど、美波はこの時写真に映る彼のちょっと恐い笑顔を、憎々しげに見ることしかできなかった。
11時32分。
電話、してみようかな。帰り、何時くらいになります? そう聞いてみようかと思った。アドレス帳を開いて彼の名を見て首を振った。やめよう。急かすのはなんとなく自分が惨めになったような気分だから。
と思っていたら、向こうから電話がかかってきた。出ると開口一番、
「すみません」
聞き慣れた野太い声。
「予定外の仕事が入って押してしまって……これから帰ります。夕食のほうは――」
「私はまだですけど……一緒にとりますか? それなら温めなおします」
「あっ、それはよかった」
ほっとしたように彼は言った。意外にも嬉しそうな声で言われて、たったそれだけのことだけれど、美波は気が晴れた。今から帰るのでは到底今日中には間に合わないが、このさいそれでもかまわない。とりあえず一緒に食事をとれるなら、気合を入れて作った料理も報われる。
「はい、じゃあ待っていますね。夜道ですから気をつけて」
「はい、では」
11時51分。
彼が帰って来た。
花束を抱えて。
玄関で彼を迎えた美波は目と口を大きく開けたまましばらく身動きできなかった。早すぎる。ぎりぎり間に合ってしまった。いや、間に合って不都合があるわけではないが。それにしてもどうして。
「渋谷さんに叱られてしまいました。遅れるならもっと早くそれを連絡をしなさいと。花は彼女が選んでくれました」
彼は首筋を撫でた。昔から変わらない彼の癖だった。
当たり前だが花屋はとっくに店じまいをしていたのに、顔見知りであるのを頼みに、無理言って売ってもらったのである。電話はそこからかけていたから、帰宅が早かったのだ。
「すみません、今年こそはと思っていたのに、こんなことになってしまって」
「いえ、あの、……」
ああ、なんて言えばいいのだろう。言葉が見つからない。
差し出された花束を受け取った美波は、肩をふるわせながら、自己主張のすくないひかえめなその花の香りを味わった。
「嬉しい……」
ようやく言えたのは、せいぜいそんなことだった。
了